洞・町内の名物(6)仁義洞 煙草工場 | 一松書院のブログ

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 1924年7月6日の『東亜日報』に仁義洞の名物として掲載されたのは煙草工場。

  『大京城府大観』(1936)で、宗廟に隣接する南東側の一角に「専賣支局 工塲」とあるのが、この記事に出てくる工場である。現在は、世運セウンスクエアーになっていて、時計・貴金属の卸売店などが入っている。道路の向かい側、東大門警察署の裏手は専売局の倉庫である。

(日本語訳—一松書院)

仁義洞 煙草工場

◇仁義洞の名物は専売局の分工場でしょう。以前、この建物は国家の軍人を養成する施設でしたが、今では人々の頭を腐らせる「ニコチン」製造所になりました。

◇こうした施設が朝鮮に一つだけというはずはありません。ソウルの中だけでも2〜3ヶ所あり、平壌・全州にもあります。いろんなところで作られる煙草の売り上げが毎年2千万円以上にもなるとのことですが、この多額のお金は貧しい朝鮮の人々が財布を叩いたものではありませんか。朝鮮人は大切なお金で高い毒を買って吸っています。なんと不幸な人々なのでしょうか。

◇大切なお金で高い毒を買って吸うのは好きでやることですからとやかくいうことではないですが、この工場で働いている職工たちが可哀想でほおっておけません。この仁義洞工場だけでも1000名近いのですが、その中で15〜6歳未満の子供たちが500名にもなるそうです。この幼い子供たちが1日に10時間働いてやっと5〜60銭の稼ぎにしかならないというのですから可哀想ではありませんか。他の子たちが字を習っている時に臭い煙草のにおいを嗅ぎながら一日中閉じ込められている可哀想な幼い国民!本当に可哀想で胸が痛くなる名物です。

 

 1907年発行の『京城案内記』に掲載されている「実測詳密京城市街全図」では、この宗廟の南東側にはこの時期に日本軍が駐屯していたと記されている。

 1907年当時、ここには日本軍の歩兵第59連隊が駐屯していた(赤マーク)。歩兵第59連隊は日露戦争で大連に上陸して戦闘に加わり、日露戦争後は京城の警備を名目にここに駐屯していた。第3大隊が後の煙草工場の場所に、その向かい側の倉庫の場所には第1大隊が駐屯していた。そしてその横には「親衛第1大隊」と記されている(緑マーク)。日章旗が描かれていない。これは、この後に解散させられてしまう大韓帝国の軍隊である。図左上の敦化門南西側にも親衛第2大隊とある。この地図には、これ以外にも、大韓帝国の軍隊として、光化門の南西側に侍衛第2大隊と昭義門(西小門)の南東側に侍衛第1大隊兵営が描かれている。

 1907年、ハーグ密使事件を口実に日本政府は第3次日韓協約を強要し、8月1日に大韓帝国軍を解体した。その前日、武装して蜂起した韓国侍衛軍将兵と、第51連隊、第59連隊、第60連隊など日本軍との間で衝突が起きた。南大門から西小門方面で激しい市街戦となり、日本軍4人戦死、韓国軍68名戦死、その他多数の負傷者が出た(京城居留民団『京城発達史』1912)。
 

 『東亜日報』の洞・町内名物記事の冒頭部分は、そうした史実も念頭に置いて書かれたものであろう。

 

 この『東亜日報』の記事では、「専売局煙草工場」となっているが、専売局の工場になるのは「朝鮮専売令」が施行された1921年4月1日以降のことであった。

 

 実は、日本政府は日露戦争開戦直後1904年6月の「対韓方針に関する決定」で、韓国で煙草の専売を行うことを打ち出していた。日本では、日露戦争の戦費を確保するため「煙草専売法」がちょうどこの時期に施行されている。

 しかし、併合後も朝鮮では専売制には移行せず、10年以上民間の複数の煙草会社が製造販売を行っていた。1921年に煙草の製造・販売が専売局に一本化され、民間の煙草製造工場を専売局が買い取った。その結果、京城府内の数カ所に煙草工場や専売局施設が散らばることになった。

『京城精密地図』(1933)の「専売局」表示

 

 当時の民間の煙草会社をみていこう。

●広江商会

 岡追助『京城繁昌記』(博文社 1915)では、1904年3月に朝鮮で開業した広江商会が、朝鮮最初の煙草製造業とされている。先代の広江澤次郎が1908年に病で倒れた後、慶應大学出身の養子の二代目澤次郎が会社を引き継いで朝鮮での煙草耕作を推進し、手広く販路を広げたとされる。新橋通(後の太平通1丁目)と長谷川町に工場を置いていた。1916年になって大和町3丁目に新しい工場が完成し、ここに移転した。

広江商会長谷川町分工場(『京城繁盛記』1915年)

 

 広江商会は、朝鮮から英米煙草トラストを駆逐し、朝鮮内で他の煙草メーカーと激しく競い合っていた。しかし、広江澤次郞は、中国方面への新たな展開を模索するとして、1916年4月に、大和町3丁目に建設中だった新工場を含め資産を東亜煙草会社に譲渡し、広江商会は専売化をまたずに朝鮮の煙草製造業界から手を引いた。多分、専売化を見越して転換をはかったものと思われる。

●東亜煙草会社

 1912年8月14日の『毎日申報』に、当時の京城の煙草業界に関する記事が出ている。

 ここでは京城の煙草製造会社として、「東亜」「広江商会」「東光社」「東西煙草」があげられている。広江商会についてはすでに述べた。東亜煙草会社は、1909年11月の創業。東部蓮花洞に煉瓦造りの製造所を設置したとある。蓮花洞は1914年に仁義洞と町名が変更になっており、この工場が1921年に専売局の工場になり、1924年の『東亜日報』に仁義洞の名物として掲載されているのである

 

京城市街全図』(1918〜19年頃か?)

 

  『朝鮮在住內地人實業家人名士典』第1編(1913)には、東亜煙草会社は、1904年に杉山孝平を組合長として組織された「官烟輸出組合」がその前身だったとされる。杉山孝平は、松方正義内閣のもとで政府と関わりが深く、三井系の大阪商船の専務をつとめていた。1910年4月の『東京朝日新聞』の記事よれば、日本の専売局が煙草原料を送ってこの東亜煙草会社に朝鮮での現地生産をさせていたとあり、半官半民といえる会社であった。

 

 この東亜煙草工場では、「朝鮮人の子女だけでも二千余名」が働いているとされている。

 翌年1月の『毎日申報』には、「各煙草商会職工総数」という記事があるのだが、ここでは、広江商会で男1210名、女216名、東亜煙草では男300名となっていて人数的には必ずしも一致しない。。

 

 この時期に「煙草職工 夜学校現状」という記事も出ている。兪吉濬など朝鮮有識者の建議で、前年から設けられた公立普通学校(朝鮮人児童を対象とする初等教育機関:義務教育ではない)の夜学部だけでなく、私立学校にも夜学部を設けて煙草工場の雇用主や篤志家の費用負担で煙草職工を通わせようとしていることが報じられている。

 それだけ、煙草工場では、児童労働が多かったということであろう。ただ、この夜学への就学が本当に実現したかどうかは疑わしい。『東亜日報』の洞内名物の記事内容を見ても、専売局の運営下においても未就学児童による低賃金長時間労働という環境は改善されていなかったと思われる。

 

 下の画像は、1916年に発行された絵葉書に載っている東亜煙草会社の工場内の写真である。

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

●朝鮮煙草会社

 1916年10月の『毎日申報』の煙草の輸出に関する記事には、すでに東亜煙草に吸収された広江商会の記載はなく、東亜煙草会社に次ぐ輸出実績を挙げている朝鮮煙草会社が登場している。

 朝鮮煙草会社は、1914年になって義州路に工場を置いて開業した朝鮮では後発の会社である。1904年に内地で施行された「煙草専売法」で、内地での製造ができなくなったため、専売法の適用外であった朝鮮に進出したものである。資金力も技術力もあったことから、創業直後から大きく業績を伸ばした。

岡追助『京城繁昌記』博文社 1915年

 場所は、西大門側で現在は警察庁庁舎のあるところ。

 この 『大京城府大観』(1936)の地図の建物は、その上の1915年の『京城繁昌記』の写真とはかなり形状が異なる。実は1928年に最初の工場は火災で全焼し、その後建て替えられた新工場が『大京城府大観』に描かれている。

 

●東光社

 東光社は、1911年12月28日に「美人」「東光」「天鶏」「京城」の「改良紙巻煙草」を売り出している。

 発売前日の27日に『毎日申報』に、発売当日の28日には『京城新報』(京城日報の前身)に全面広告を出している。

 この東光社の所在地をみるとわかるように、この東光社は「独立館」に製造所を置いていた。1896年 11月、華夷システムから国際法システムへの移行を求める徐載弼などの「独立協会」が、迎恩門を壊して独立門を立て、その横にあった慕華館を独立館とした、あの独立館である。その後「独立協会」は解体され、宋秉畯の「一進会」に受け継がれるかたちになった。独立館の敷地には新たに六角形の建物が建てられ、これを「国民演説台」と称した。

 

 1909年、京城の日本人組織の居留民団は、一進会からこの敷地を借りて在留日本人のための京城中学校を開校した。翌1910年に官立京城中学となり、併合後の11月に慶熙宮跡に新校舎が完成してそちらに移転した。

 その後、ここで東光社が煙草製造を始めた。1912年1月12日に宋秉畯がここを訪れて職工たちに訓示したとの『毎日申報』の記事があり、宋秉畯ら朝鮮人主導の煙草製造会社とみられる。

福崎毅一編『京仁通覧』1912

 

 上述のように、東光社は『京城新報』と『毎日申報』に全面広告を出しているが、その日本語と朝鮮語の内容がかなり違っている。

帝國の新領土たる朝鮮半島をして將來卓越なる煙草生産地たらしめ以て國宗の大富源を開發し尚且つ幾多の可憐の子弟婦女に適當の職業を與へ聖世の下善良の生活を得せしめんとするの微衷に外ならす

といった日本の支配に迎合する日本語の文章は、朝鮮語では全く抜け落ちている。

 東光社の煙草製品は絵葉書としても写真が残されている。

国際日本文化研究センター「朝鮮写真絵はがきデータベース」より

 

 この東光社以外にも、「韓興煙草合名会社」や「同志商会株式会社」などは、朝鮮人が設立した会社であった。また、「東西煙草商会」は、1915年の青柳綱太郎『京城案内』に、「工場主 イエス・コンスタンチス」として掲載されている。翌年1916年の11月8日の朝鮮総督府官報に白寅基の名前で商号が届出られているので、これも朝鮮人が経営する煙草会社になったと考えられる。

 


煙草専売への移行

 1921年、4月に「朝鮮専売令」が施行され、7月1日に朝鮮の煙草の製造と販売は、朝鮮総督府専売局に移された。

 これに伴って、内地資本の大手煙草会社であった東亜煙草と朝鮮煙草からは57人が専売局の判任官として任用された。さらに、朝鮮人経営の工場施設や設備なども含め、全ての施設・設備を専売局で買い取ることになっていた。しかし、その買収価格を巡っては、最大手の東亜煙草会社が鑑定価格にクレームをつけたと報じられている。

 

 結局、東亜煙草と朝鮮煙草の2社の工場を再編成するかたちで朝鮮専売局の煙草生産の一本化が進められた。朝鮮人の創立した煙草会社は東光社を含め全て消滅した。

 

 1921年当時の専売局の煙草はこのようになっていた。

 

 仁義洞の旧東亜煙草会社に専売局が移って、ここが本拠地となった。義州路の旧朝鮮煙草工場は専売工場、そして大和町3丁目に移って東亜煙草に譲渡された旧広江商会工場は専売局印刷工場となった。もう一つ永楽町1丁目に専売局の施設がある。これは工場ではなく、1926年の朝鮮総督府新庁舎建設に合わせて、それまで商品陳列館として使われていた建物を改修して専売局としたものである。1926年に専売局は旧東亜煙草会社の仁義洞からここ永楽町1丁目の庁舎に移転した。ここで、仁義洞は専売支局の分工場となった。

 

 『東亜日報』の洞・町内名物記事は、煙草が専売になってちょうど3年目。まだ仁義洞の煙草工場が専売本局の工場として稼働していた時の記事ということになる。

 

 

<<余禄>>

 ちなみに、植民地時代の絵葉書に、たばこ屋の写真が残っている。「日鮮語対話」というシリーズの絵葉書があったらしく、その「旅館にて」という会話の挿入写真として載っている。

 たばこ屋の店頭風景も興味深いが、この会話の方も面白い。