先日日本でも公開された映画「1987」、水拷問でソウル大生朴鍾哲君を殺してしまった治安本部が、遺体を解剖せずに火葬してしまおうとするのを、検察官がそれを認めず火葬許可の書類に捺印しないところから始まる。結局、朴鍾哲君の遺体は解剖されたものの死因は曖昧なまま遺体は「辟除火葬場」で火葬される(映画中の看板は「辟除」となっているが「碧蹄」であろう)。
この火葬場は京畿道高陽市徳陽区統一路にある。
경기도 고양시 벽제 화장장 서울시립승화원
この時期、韓国で火葬で葬るのは、1981年で13.7%、1991年で17.8%とまだまだ少数派であった。その後、ここ10数年で火葬が急激に増えて、一昨年段階で都市部では9割前後が火葬で葬送をするところまできている。
ところで、この火葬、近年韓国でも火葬場が不足するほど普及してきたが、日本の植民地支配下では、主として「内地人」が利用する施設であった。
以前、佐藤虎次郎について調べていたら、火葬場に関するこんな記載があった。
佐藤虎次郎は、1926年に死去した純宗皇帝の弔問に行った際、楽善斎からの帰路、宋学先に刺されて重傷を負った。斎藤総督と間違えられてテロにあったのである。その時の傷がもとでその2年後に死亡した。その遺体は阿峴里の火葬場で荼毘に付され、南山本願寺で葬儀が行われた。
京城では京城都市計画研究会を組織するなど名士であった佐藤虎次郎の葬列は、馬車の霊柩車と人力車を連ねて、吉野町から阿峴里をへて南山三丁目の本願寺に向かう大掛かりなものであったという。
この当時の京城には、火葬場はもう一つ新堂里にもあった。
どちらも京城で日本人(内地人)が多く住む地区の東と西の外れに置かれたものだった。
阿部辰之助『大陸之京城』という1918年(大正7)の内地人向けの手引書がある。韓国の中央図書館でその書物のデジタルデータが閲覧できる。朝鮮総督府図書館に所蔵されていたものである。この第八章 衛生一般 第二 衛生に

という記載がある。
さらに、死亡届の書式も記載されている。
「外地」に出て行く日本人が増大していく一方、「外地」で死去した人の遺体を内地に戻すことはできなかった。そのため、火葬場は「外地」に出て行こうとする日本人にとってはなくてはならない施設の一つであったといえる。
朝鮮でも、併合以前から朝鮮で活動していた内地人組織「居留民団」の事業の中で、火葬場の建設は、学校・幼稚園の設置、水道の設置などとともに優先度の高いものとして推進された。
京城では、1901年に居留民団が火葬場を設置したとされる(金白永「京城の都市衛生問題と上下水道の空間政治」『環日本海研究年報』 (17) 2010-03)。これが新堂里の火葬場ではないかと推測される。
併合後には京城府の施設として阿峴里と新堂里の火葬場が、主として日本人向けに運用され、その後朝鮮人の火葬も若干ではあるが増えていったのであろう。
ところが、1920年代も半ばになると、東の城外である新堂里や西の城外である阿峴里にも都市化の波が押し寄せ、こうした地域が都市開発・宅地開発の対象になり、急激に住民が増加していった。そして火葬場の近隣住民から、火葬場の移転要求の声が大きくなり始めていた。
そればかりでなく、この時期に内地でも火葬施設の燃料の重油転換や設計変更で高熱焼却炉が実現するなどの大きな動きがあって、京城府における新たな方式による新しい火葬場建設が具体化することとなった。
1929年6月に、京城府は高陽郡恩平郡弘済内面に火葬場を新設して「京城府弘済内面葬斎場」として運用を始めた。これにともない阿峴里と新堂里の火葬場はその後稼働を停止したものと思われる。京城府が編纂した『現行京城府例規類集』(1938.2)の「第五類衛生」にこの火葬場・葬斎場の運用規定や届出書式などが掲載されている。
いま、忘憂里墓地に葬られている浅川巧や斎藤音作は、弘済内面の火葬場で荼毘に付されたのであろう。
1945年の日本の敗戦で植民地支配から解放され、1948年に建国された大韓民国でも、この火葬場施設はそのまま使用されていた。しかし、上述のように韓国での火葬の割合は1990年までは20%にも満たず、1960年代は10%未満だった。
この火葬場は1970年9月に「京畿道高陽市徳陽区統一路」に移転した。
https://news.joins.com/article/1254164
稼働率が高くて手狭になったというより、施設の老朽化とともに弘済洞が都心の一部になったため、さらに郊外へと移転することになったのである。
韓国火葬率の推移↑
これが現在の「碧蹄火葬場 ソウル市立昇華院」である。










