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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

1976年 ポプラ事件 

 私が初めて板門店ツアーに行ったのは、1976年3月だった。当時のガイドブックには次のような案内が記載されていた。

 大韓旅行社のバスは、統一路トンイルロ(国道1号)を北上して、途中、朝鮮戦争関連の記念碑に立ち寄り、汶山ムンサンの先の京義キョンウィ線の鉄道分断点をみながら臨津閣イムジンガクに到着。一般の韓国人が軍の許可なしで行けるのはここまで。ここからは北朝鮮を望むことはできないが、北朝鮮側に墓がある人々はここで墓参り(祭祀チェサ)をするしかなかった(現在の「望拝壇マンベダン」は1985年9月に設けられた)。

 

 ツアー客は、ここで旧京義線の鉄道橋を1車線の自動車橋にした「自由の橋」を渡り、10分ほどで米軍の前線基地キャンプ・キティホークに入る。米軍の将校クラブでビュッフェ式の食事(キムチ以外は全てアメリカから空輸した食材との説明あり)をしてブリーフィングを受ける。そこから軍用バスで非武装地帯の南方限界線を経て共同警備区域に入り、自由の家、休戦会談場を見学する。


1976年3月 筆者撮影

 

 そして丘の上の哨所(OP5)から帰らざる橋と北朝鮮側の建物を遠望してキャンプ・キティホークに戻る。この時は、休戦会談場の南側入り口手前にも北朝鮮人民軍の哨所があって、その前を通って休戦会談場に入った。人民軍兵士の目の前を通過する時にはさすがに緊張した。

 この板門店訪問時期は3月だったので、OP5から帰らざる橋とそのたもとのCP3はポプラ越しによく見えた。上掲地図のCP3の右上● 미루나무위치とあるところが、この半年後の重大事件の現場となった場所である。

1976年3月 筆者撮影

 

 夏になるとポプラの木は葉が生い茂って見通しが悪くなる

 そのため、この年の8月18日午前、米軍側が韓国人作業員を使って枝落とし作業を始めた。そこに北朝鮮人民軍側の警備兵が現れて作業の中止を要求した。米軍側は作業を継続させたところ北側警備兵が集団で米軍側警備兵を襲撃、斧と棍棒でボニファス大尉とバレット中尉の二人の米軍士官が殺害された。日本では「ポプラ事件」と呼ばれるが、韓国では「斧蛮行トッキマネン事件(도끼 만행 사건)」と呼んでいる。

 米・韓両国は直ちに「DEFCON 3(準戦時体制)」に入り、空と海に展開した米・韓両軍の軍事力を背景に、8月21日に米軍の工兵隊が韓国軍第一空挺特戦旅団の支援のもと、問題のポプラの木を切り倒した(ポール・バニヤン作戦)。この時、のちの大統領文在寅ムンジェインは、この時第一空挺旅団の上等兵で、この作戦に参加していた。

 上等兵になった頃に「板門店斧蛮行事件(ポプラ事件)」が起きた。対応策として、事件の発端となったポブラの木の伐採作戦を私の部隊が決行することになった。朝鮮戦争以来初めてデフコン(Defense Readiness Condition 防衛準備態勢)が「準戦時体制」に引き上げられた。北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起きればただちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポブラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。幸いに北朝鮮側はポプラの伐採をそ知らぬ振りで見送り、何も仕掛けてこなかった。作戦は無事に終了した。そのときに伐採されたポプラの木の破片を入れた国難克服記章が記念に一個ずつ配られた。

『運命 文在寅自伝』
岩波書店 2018

 この事件の現場一帯は「非武装地帯」である。共同警備区域でも護身用とされる拳銃以外の武器の持ち込みはできない。表向きは…。さらに、共同警備区域内は国連軍のMP(憲兵)が警備に当たることになっている。そのためポブラ伐採のために共同警備区域に入った第一空挺旅団の将兵は、M16ライフルや榴弾発射銃、対人爆薬などの武器を伐採用工具や作業器材の中に隠して持ち込み、カチュシャ(Korean Augmentation To the United States Army)すなわち米軍出向の韓国兵を装って共同警備区域に入って作戦を遂行した。

 

 この事件以降、板門店の共同警備区域は南北に分割され、会談場の中では「マイクの線」が境界線となり、会談場の外にはコンクリートの境界標識が設置され、南側にあった北朝鮮軍の哨所は全て撤去された。最前線のキャンプ・キティーホークは、ポプラ事件で殺されたボニファス大尉の名前を冠してキャンプ・ボニファスに変えられた。

 

1980年代の南北交流と板門店 

 ポプラ事件の後、1980年に板門店を訪問した駐韓米軍の将兵家族の動画が未公開大韓ニュースとして残されている。音声は入っていない。

 この動画では、休戦会談場のテーブルには、国連の旗と北朝鮮の国旗が置かれている。旗は双方がそれぞれ準備するのだが、一時は高さを競って天井まで届く旗になっていたというエピソードもある。南側には1966年に竣工した八角亭の「自由の家チャユエジップ」があり、北朝鮮側には1968年に完成した「板門閣パンムンガク」が建っている。さらに第3哨所(旧OP5)からは、ポプラ事件後に伐採されてY字のかたちで残っているポプラの幹の向こうに「帰らざる橋」が見える。

 

 このポプラのY字の幹は、その後1990年代には完全に除去され、現在は切り株の大きさのセメント製の礎石の上に記念碑が建てられている。

 1984年、漢江ハンガンの氾濫でソウルで大きな被害が出た時に、北朝鮮側が米などの援助物資の提供を申し出た。意外にも全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れ、これを契機に南北の離散家族の再会と芸術団の交流が実現した。1985年9月に、朝鮮戦争休戦後はじめて南北双方の民間人が板門店で軍事休戦ラインを越えて往来した。

 ブルーガイドブックス『韓国』の1985年11月30日改訂版では、「板門店ツアー」について次のような体験レポートが掲載されている。

板門店ツアー

<交通>土曜、日曜及び韓国とアメリカの祭日を除く毎日、定期観光バスがロッテホテルから午前中出発(出発時刻は前日に決定)。料金は昼食代込みで28ドル。所要約6時間。
 板門店観光の業務は、大韓旅行社(KTB ソウル市鍾路区寛勲洞198(722-1191)で取扱っている。予約が必要。出発48時間前までに、KTBあてに氏名、国籍、旅券番号、連絡先(ホテル名、ルームナンバーなど)を記入申請する。なお、軍事的その他のつごうで、変更、中止があるので必ず問い合わせること。
<ツアーコース>ホテルロッテ→独立門→汶山→自由の橋→アドバンス・キャンプ→板門店会議場所→八角亭→展望台(帰らざる橋展望)→ホテルロッテ

板門店——ソウルの北、直線距離で60kmたらずにある田園の小村。ここが38度線をはさんで北と南、また世界の東西陣営が会談をつづけている注視の場所である。この国際政治の巨大な力の接点を実際に眼で見るには、KTBのバスを利用するのが唯一の方法で、個人の資格で立入ることはできない。ここは普通の観光地ではなく、まだ戦争の緊張がとけやらぬきびしい場所。バスの中で念を押されるように、生命も保障はされない。ツアー中はガイドの注意を必ず守ること。個人的行動は厳禁。参加できるのは外国人のみ。
 市内を発ったバスは、独立門を通り、一路板門店へ向かう。国道1号線(汶山街道、統一路ともいう)は完全舗装のハイウェイだ。広々とした田園風景、右車窓に北漢山を見ながら約2時間のドライブは快適そのもの。汶山を過ぎてしばらくゆくと、臨津江にかかる”自由の橋”を渡る。バスの前後に国連軍のジープがついてエスコートしてくれる。バスガイドは韓、日、英語の3ヵ国語で、心得事項を説明するのにいとまがない。とくに撮影禁止の場所がいくつもあるので十分注意することが肝心。
 前線に近づくにつれ、緊張感が高まっていくのを肌で感じながら板門店に到着すると、停戦委員会のガイドがアドバイスや説明をしてくれる。休戦会議の行なわれる本会議場は、休戦ラインの真中につくられ、家の中央を南北分断ラインが通っている。会議場の中央にテーブルがあり、向かいあって代表団がすわる。そのテーブルの中央に敷かれたマイクロホンのコードが南北を分けているのだという説明を聞いて、ますます緊張が高まる。会議場前には八角亭が建ち、ラセン階段を登って周囲を見渡せる。国連側の建物はブルー、北側の建物はグリーンに塗り分けられている。
 休戦ラインの小高い丘の上には展望台があり、“帰らざる橋” “北側の宣伝村”などが見渡せる。橋のたもとに検問所が設けられ、四六時中監視の目が光っている。
ひと通り見学を終わって、昼食を国連軍将校用の食堂でとる。室内にはバーやみやげ物店があり、それまでの緊張をとくことができる。
 今までは”対決”の場であったが、平和的な話し合いの場に変りつつある現況に、近い将来“平和統一”という言葉が世界の新聞紙上で報道されることを祈りつつ帰途につくツアーでもある。

 このガイドブックは、改訂のタイミングが南北の離散家族の再会や芸術団南北交流の直後であったこともあり、それを踏まえた記事内容になっている。

 

 この時期に、1978年に見つかった第3トンネルの見学ツアーも始まった。北朝鮮が南に軍隊を進めるために掘ったとされるトンネルが1970年代に韓国軍によって発見された。韓国側はそのトンネルに向けて斜坑を掘って対処した。三番目のトンネルへの斜坑の入り口が板門店のすぐ近くにある。この場所は、国連軍の管轄ではなく韓国軍の管轄区域なので、韓国側で人の出入りをコントロールすることができた。都羅山トラサンに作った北朝鮮を遠望できる展望台と、この第3トンネルをセットにして一般韓国人向けのDMZツアーを組んでDMZ観光やVIPトラベルが売り出した。ただ、この第3トンネルは、急勾配の斜坑を徒歩で本坑まで降りて登り返すため、相当にきついコースだった。そのため、2002年5月には斜坑に線路を敷設してシャトル・トロッコが運行されるようになる。

 


(3/3) 1990年代以降の板門店へ続く

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

休戦協定の調印 

 1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。統一までの戦争継続を願う李承晩イスンマン大統領は休戦の動きに強く反発し、結局休戦協定に署名することを拒んだ。ただし「休戦それ自体を妨げることはない」として戦闘の停止には同意した。

 1966年に韓国の国立映画製作所が作った広報映画「板門店パンムンジョム」にはこのようなナレーションが入っている。

1953年7月27日、数多くの尊い生命と惜しい財産を失わしめた戦争は、共産主義を憎悪する全国民の反対にもかかわらず・・・・・・・・・・・・・、双方の代表が休戦協定に署名したことで一段落した。

(傍点は筆者)

 すなわち、休戦協定の当事者は国連軍と、北朝鮮の人民軍・中国義勇軍であり、会談場の区域を共同警備する主体は国連軍と北朝鮮人民軍だった。韓国軍は戦闘は停止したが、休戦協定の当事者ではなかった。

 

 「国連軍」の実体はアメリカが主導する西側国連加盟国の多国籍軍。開戦直後の国連安保理事会でチャイナの議席が台湾の中華民国になっていることに異議を唱えるソ連が欠席していて拒否権を使わなかったため、アメリカ主体の多国籍軍が「国連」の名前を冠して国連旗を使うことになった。ただ、韓国は、1991年に南北朝鮮の同時加盟が実現するまで、国連の加盟国ではなかった。

休戦協定は1953年7月27日午前10時に国連軍のウィリアム・ハリソン・Jr米陸軍中将と中朝連合司令部の南日ナムイル人民軍大将が板門店で署名し、その後マーク・W・クラーク、金日成、彭徳懐がそれぞれ署名した。

 

初期の板門店取材・見学 

 休戦協定の調印後、場所をやや南側に移して会議場と共同警備区域が設定され、その会議場で米軍を主体とする国連軍側と北朝鮮の人民軍、中国軍との間で休戦委員会の会合が必要に応じて開かれた。国連軍は、宣伝工作に利用するため、この会合を韓国内外のマスコミに取材させ、自軍側の関係者にも見学させた。南側からは、国連軍司令部のパスをもらい軍事休戦委員会の発行するバッジをつけた人々が一日125人を上限として共同警備区域を訪れた。1959年には「観光地化した」との『毎日新聞』の報道もあった。

1963年6月14日軍事休戦委員会とその周辺の様子

 

4・19後の板門店 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れて張勉チャンミョン政権が誕生すると、翌1961年を「韓国訪問の年」と定め、積極的に外国人観光客を誘致する政策を打ち出した。1961年3月に、日本在住のアメリカ人が観光キャンペーンの最初の団体客ーとして訪韓、大韓テハン旅行社の斡旋でソウルの徳寿宮トクスグン昌徳宮チャンドックン慶州キョンジュ、それに国連軍が管理する板門店の休戦会談場を回った。この時の動画が残っているが、残念ながら板門店の場面はない… 

 こうした外国人向けの板門店観光は大韓旅行社がアレンジした。大韓旅行社は、日本の植民地統治下の時に置かれたジャパン・ツーリスト・ビューロー(のちに東亜交通公社)の朝鮮支社が解放後に公営旅行社となったもので、韓国政府が推進する観光政策の推進母体だった。

 

 同じ1961年、4・19一周年を契機として南北統一を目指す学生・市民団体が積極的に動き出し、5月13日に「南北学生会談歓迎及び統一促進決起大会」を開催した。この時に「가자 북으로! 오라 남으로! 板門店으로!(行こう北へ! 来れ南に! 板門店へ)」というスローガンが掲げられ、板門店が南北の接点として大きくクローズアップされた。

 こうした動きに危機感を強めていた保守反共勢力をバックに、朴正煕パックチョンヒ少将が5月16日に軍事クーデターを起こし、クーデター部隊が中央庁や国会議事堂、放送局などを制圧した。そして、国家再建最高会議の議長となった朴正煕が権力を掌握した。南北の唯一の接点である板門店で南北の学生会談を開くという試みは霧散した。

 

日本からの訪問者 

 1962年5月、ソウルでアジア映画祭が開かれた。日本からは大映社長でアジア映画制作者連盟会長の永田雅一が、各映画社の幹部や、池内淳子・松原智恵子など10人の女優を引き連れて参加した。10人の日本女優は着物姿で「大江戸日本橋」を踊り、韓国語でアリランを歌った。

 朴正煕軍事政権は、この映画祭を積極的にバックアップした。映画祭に参加した中華民国、香港、日本、フィリピン、マラヤ・シンガポールの映画関係者は5月14日に板門店の休戦会談場を見学した。この時の映像が残っている。

 まだ日韓の国交がなかったこの時期の日本人の韓国渡航は、政官界や報道関係者、それにスポーツイベントや文化交流事業などの参加者、韓国側にコネのある経済人などに限られていた。その中にも板門店に行った人々もいた。

 

 1960年10月から1961年4月まで読売新聞ソウル特派員だった日野啓三は、赴任中の板門店取材をもとに台城洞テソンドン(自由の村)を舞台にした小説「無人地帯」(『文學界』1972年5月号)を書いている。アジア映画祭参加者の板門店観光と同じ時期に、作家の今日出海も板門店を訪問して『朝日新聞』に「板門店にて(上・中・下)」を5月16〜18日に掲載している。また、膠着していた日韓会談を打開するため1962年12月に訪韓した自民党副総裁大野伴睦の一行も12月12日に板門店に行っている。

 この動画で、会議場内の北朝鮮の旗を持ち上げてるのは荒舩清十郎、会談場の外の場面では船田中、それに読売新聞の政治部記者渡邉恒雄、ソウル特派員嶋元兼郎も写ってる。

 

 大野伴睦の訪韓から1ヶ月も経たない1963年1月8日に力道山が文教部の招請で韓国を訪問した。

 表向きは文教部の招待だったが、実際には韓国中央情報部が接待したという。この訪韓の実現にはプロレスのコミッショナーだった大野伴睦が絡んでいたのかもしれない。朝鮮北部、咸鏡南道ハムギョンナムド洪原ホンウォン郡が故郷である力道山は、帰国直前の1月11日に板門店に行き、そこから北の方向に向かって叫んだとされる。

 滞在は4日間だった。最終日の朝、力道山たっての願いで南北分断の象徴、板門店へ向かった。車を降り、北へ、北へ歩き、いきなりコートを脱ぐ。上着を脱ぎ、シルクのシャツも脱いだ。そして厳寒のなか、上半身裸のまま、声を限りに叫んだ。

「オモニー(お母さん)、ヒョンニーム(お兄さん)と叫んだって、秘書から聞い

た。そりゃ、行きたかったんだろうね。生まれた北の故郷へ」


  鈴木琢磨「没後50年、力道山と朝鮮半島」『毎日新聞』2013.12.15

 

韓国人の板門店観光 

 外国人の板門店観光が話題になると、韓国国内の一般市民からも板門店見学の要望が出始めた。この1962年には、大韓旅行社が国連軍司令部との間で韓国一般市民の板門店観光についても交渉していることが報じられている。板門店の訪問見学は、韓国側の一存では決められなかった。

板門店の一般公開を推進
観光開拓のために大韓旅行社で
難点は事故対策
実現するかどうか…国連軍側の態度に

 休戦会談で広く有名になった板門店を、外国人だけでなく一般市民にも開放しようという動きが始まっている。観光の斡旋・案内を行っている大韓旅行会社が、外国人のための観光地として関心を集めている板門店を、一般の市民にも開放する計画で、関係当局との交渉を行っていることが28日に明らかになった。
 解放後、朝鮮戦争を経て17年間閉ざされたままの南北の唯一の接点となっている板門店は、外国人観光客、国連、軍関係者及び国内の上級公務員、新聞記者にのみ公開され、一般市民には扉を堅く閉ざしてきた。今回の大韓旅行社の公開推進は、一般市民が板門店見学を強く望んでいて観光を斡旋する旅行社業務に合致しているばかりでなく、板門店見学によって反共意識を堅固にする目的にもかなっている。
ただ、こうした計画は、在韓国連軍司令部側に決定権があって国連軍側との交渉が不可欠で、国連軍側の見解と理解が注目されるが、これには種々の問題があるようだ。
 板門店の一般公開の最大の問題は、万一事故が発生した場合の責任の所在で、国連側なのか韓国政府側なのかが問題になる。
 関係者によれば、一般観光客の中に不穏な思想を持つ者やスパイなどがいて越境した場合にはなすすべがなく、想定される事故・不祥事への対応策が難しく、事前に万全の態勢を整えることが急務だという。そのため、板門店見学申請者に対して厳格な身元調査が行われるが、申請者が多くなると対応が難しくなり、人数制限が必要になる。事前の体制さえ整えば公開の推進は可能であろうとして、交通部の観光関係者も「具体案ができれば検討することになる」と語っている。
写真=板門店で共産側記者の戯言に反駁する「国連」側の記者たち。

 『東亜日報』の1963年4月17日付の記事で、この時すでに一般の韓国人への板門店観光が始まっていたことがわかる。ただし、1日の訪問者数に厳しい上限がつけられ、米軍側の定めた書式で所轄警察署長の身元証明が必要とされた。個人での板門店訪問はほぼ不可能で、大韓旅行社経由の団体ならば可能性があるとされていた。

 

 1966年に制作された文化映画「板門店」には、旧京義線の鉄道橋を通って臨津江を渡って板門店に至るルートや休戦会談場の様子が出てくる。ここには団体の一般韓国人と思われる訪問者の姿も写っている。

「板門店」抜粋版(国立映画制作所 1966)

 


(2/3) 1980年代の南北交流と板門店へ続く

 映画「シュリ(쉬리)」の デジタル・リマスター版が、初公開の1999年から25年経った2024年に日本でも公開された。

 

 懐かしくなって、昔の古いDVDを引っ張り出して観なおしてみた。

 

 そこで改めて気づいた。この映画では、チェ・ミンシクやキム・ユンジンが北朝鮮工作員を演じているが、彼ら同士の会話でも北朝鮮風の話し方をしない。工作員だから“工作”している間は仲間うちでもソウル風のしゃべりをするという設定かもしれないが、その後韓国で制作された北朝鮮がらみの映画では、いかにも“北朝鮮!”という台詞回しが随所に出てくる。ところが、「シュリ」では、冒頭の工作員の訓練の場面で北朝鮮風の活字の入った赤い垂れ幕がある程度。

 

「シュリ」で北朝鮮を感じさせる場面

 

 「シュリ」は1999年2月韓国公開だが、その年の5月にやはり北朝鮮工作員ものでコメディ映画「スパイ リ・チョルジン(간첩 리철진)」が公開されている。この映画には、北朝鮮での工作員訓練の回想場面があり、北朝鮮の国旗と肖像画が映し出される。ただ、台詞の方は[イ・チョルジン]を[リ・チョルジン]と発音している程度で、北朝鮮らしい台詞回しは出てこない。韓国のソウル標準語では、語頭のr音が脱落したりnに変わるが、平壌標準語ではそのまま語頭のr音を発音する。冷麺は、南ではネンミョンだが、北ではレンミョンになる。この南北の違いは、韓国でも早くから知られていた。
 

 

映画「JSA」と南北首脳会談 

 北朝鮮風の台詞回しということで言えば、その転機になったのは、翌2000年9月に公開された映画「共同警備区域 JSA」であろう。北朝鮮の人民軍の将兵を演じるソン・ガンホ、シン・ハギュンなどは、北朝鮮らしい語り口調でないと不自然だ。とはいえ、北朝鮮の兵士を韓国兵士と“友情を結ぶ” “普通の人間”として描けば、北朝鮮への「賞賛」「鼓舞」とみなされ、国家保安法違反で摘発されかねない。国家保安法違反は最高が死刑の重罪である。パク・チャヌク監督以下の製作陣は、相当な覚悟で映画作成にあたったという。

 

 ところが、映画公開の3ヶ月前の2000年6月、金大中キムデジュン大統領が平壌ピョンヤンを訪問して初の南北首脳会談が実現した。その模様は、平壌に先乗りした韓国のテレビ局が同時生中継し、金正日キムジョンイル国防委員長の肉声が韓国中に流れた。6月15日の午餐会の中継では、ワイングラスを片手に軽口を叩く金正日の姿を、ソウルのスタジオでアナウンサーと放送記者が解説を加えながら伝えた。

 

 

 それまでの金正日については、肉声がほとんど公表されない「不可解な指導者」とされていた。唯一知られていた肉声は、1992年4月25日の人民軍創建記念日に発せられた「英雄的朝鮮人民軍将兵に栄光あれ(영웅적조선인민군 장병들에게 영광이 있으라)」だけだった。

 

 

 そのギャップの大きさもあって、この2000年6月の金正日の平壌からの生映像は、多くの韓国人に衝撃を与え、北朝鮮に対するイメージが多様化するきっかけとなった。

 

 映画「共同警備区域 JSA」は、そうした中で公開されたことも、大きな反響を呼ぶことになった要因の一つだろう。北朝鮮風の台詞回しが国家保安法に引っかかることもなく、封切りから9週連続1位、観客数589万人を記録した。

 

 

韓国での北朝鮮イメージ 

 韓国では、国家保安法を根拠として、北朝鮮に関するあらゆる情報から一般の国民を切り離していた。情報機関や研究機関でさえも、北朝鮮に関する情報や資料へのアクセスは厳しい管理下に置かれていたし、民衆が北朝鮮の生身の人間をイメージすることもほとんどできないままだった。

 

 そんな中で1980年代に北朝鮮人の生の声が韓国のテレビで流れたことがあった。1985年の9月にオンエアされたMBCの平壌でのインタビュー映像である。前年、ソウルの漢江ハンガンが氾濫して水害が起きた。この時、北朝鮮から支援の申し出があり、意外にも全斗煥チョンドゥファン政権がこれを受け入れた。この想定外の出来事が発端となって、南北の離散家族再会と芸術団の南北交流が実現した。この時に、平壌に同行した韓国MBCの金敏浩キムミンホ記者がアポなしでインタビュー取材を敢行した。

 

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MBC:南朝鮮では子供達がこんなように学んでいると思わないかな?

南朝鮮ではアメリカのやつらのせいで子供たちは空き缶をぶら下げて食べ物をもらうためさまよっています。だから子供たちは私たちのような生活はできません。

MBC:ソウルにはビルもないですか?大きな建物。

ありません。

MBC:なんでないのかな?

アメリカのやつらが罰を与えているので、ありません。

MBC:南韓の子供たちはどんなだと思いますか?こんなふうに幸せに学校に通っていますか?

南韓って何ですか?

MBC:南朝鮮

南朝鮮の子供たちはお金がなくて学校に通えません。

MBC:教会に通わないですか?

見物ですか?

MBC:教会に通わないんですか?

 

 明洞をはじめソウル市内に物乞いがいたのは事実だが、このインタビューを目にした韓国人は北朝鮮の子供達の描写に大きなショックを受けた。「そんなに北朝鮮の人々は我々韓国の実情を知らされてないのか…」と。ただ、韓国における北朝鮮認識も、北朝鮮の韓国イメージと同じように実情とはズレたものだった。さすがに韓国の子供も「北朝鮮人にはツノが生えている」とは言わなくなっていたが…

 

 その後、1990年代に入っても韓国の一般庶民が北朝鮮について得られる情報は、統治者によるフィルターを通したものだけだった。ただ、韓国の関係当局に蓄積される北朝鮮情報は飛躍的に増えつつあった。その情報源の一つは、1980年代末から韓国渡航が急増していた中国の朝鮮族である。彼らは北朝鮮内部の状況を熟知していた。朝鮮族の場合、北朝鮮国内での移動に制限がなかったため、平壌以外の地方の状況にも詳しかった。二つ目は、1990年代に入ってから急激に増加した北朝鮮からの「脱北者」である。「脱北者」は、1990年代以前には「北朝鮮を思想的に見限って韓国になびいた人」ということで「帰順者」と呼ばれていたが、1990年代半ばからは、「韓国よりも貧しい北朝鮮を見捨てた人」ということで「脱北者」と呼ばれるようになった。「脱北者」は、韓国の情報機関から厳しい取り調べを受け、かなりの期間を監視下に置かれて暮らすことになるが、それらの聴取の過程で北朝鮮の統治体制や社会構成、それに言語の使い方やイントネーション、それに新造語などの情報も韓国側で把握するようになった。

 

 映画「工作 黒金星と呼ばれた男」(2018-08)は、1990年代の中国を足がかりにした南・北間の諜報活動を題材にしているが、この頃には、韓国の関係部署では南北の語彙や言葉遣い、イントネーションの違いなどを把握していた。

 そして、上述の2000年6月の南北首脳会談時の平壌からのライブ放送で、一般の韓国人にも北朝鮮への新たな関心が生まれた。そんな中で封切られた「共同警備区域 JSA」を観た人々は、北朝鮮風の言葉を使うソン・ガンホやシン・ハギュンの人民軍の軍服姿から、それぞれの北朝鮮イメージを持つようになったものと思われる。

 

北朝鮮女性応援団 

 2002年9月から10月に釜山プサンで開かれたアジア大会に北朝鮮が韓国との統一チームとして参加した。この時には、北朝鮮から280人余りの女性応援団が万景峰マンギョンボン号で釜山港にやってきた。また、2003年8月に大邱テグで開かれた夏季ユニバーシアードにも、北朝鮮の女性応援団300人が金海キメ空港から韓国に入った。さらに2005年9月の仁川インチョンアジア陸上選手権にも北朝鮮から女性応援団が派遣されてきた。

 

 

 大邱ユニバーシアードの時には、韓国内を移動中の北朝鮮応援団が、雨に濡れている金正日国防委員長の顔写真の入った横断幕を見つけ、バスを止めて横断幕を回収する騒ぎがあり、韓国のニュースでも大きく報じられた。

 

 

 このような南北交流の中で、韓国社会は北朝鮮らしい言葉遣いや行動パターンに慣れていった。

 

北朝鮮を扱う映画 

 こうした中で、2005年から2006年にかけて、北朝鮮風の台詞回しで韓国人が北朝鮮人を装う設定のコメディー映画や韓国人俳優が脱北者を演じる映画が立て続けに公開された。

 

 一つは、2005年6月公開の「肝っ玉家族(간큰 가족)」。余命宣告をされた北朝鮮出身の老人の遺産を手に入れるために家族全員で南北が統一されたという嘘をつくというストーリー。当然、セリフは韓国風と北朝鮮風を使い分ける。

 この映画のプロモーションでは、「主演の二人、カム・ウソンとキム・スロが国家保安法違反で緊急逮捕された」というニュース仕立てのパロディ動画を公開している。

 

ニュース速報です。 今日夕方7時頃、映画俳優カム·ウソン、キム·スロ氏が国家保安法違反の疑いで検察に緊急逮捕されました。 国家情報院の特別調査チームによると、カム氏とキム氏は2004年12月から2005年3月現在まで統一新聞製作の反国家団体に対する国民扇動など、国家保安法に違反した疑いがあり、緊急召喚調査を行うことになったとのことです。
Q:なぜこのようなことになったと思いますか?
Q:カム·ウソンさん、国家保安法違反を認めますか?
A:公人として物議を醸し、国民の皆様に心よりお詫び申し上げます。
Q:キム·スロさんも何か一言。
A:お騒がせして本当に申し訳ありません。 法廷ですべてお話します。
Q:今回のことがなぜ起きたと思いますか?
A:すみません。
今回の事件は、映画俳優が初めて国家保安法違反の疑いで検察に起訴されたという点で、映画界はもちろん国民にも大きな衝撃を与えています。 以上、YBNニュース速報でした。

 

 もう一本は2006年6月公開の「絹の靴(비단 구두)」。闇金融に借金ができた映画監督が、借金を帳消しにしてもらう代わりに金融業者の父親を北朝鮮の故郷に帰れたかのように芝居をして騙そうとする。ここでも北朝鮮の台詞回しで演じられ、北朝鮮の国旗はもとより様々な北朝鮮を模したセットが登場する。この映画でも「人民共和国旗インゴンギが国家保安法に抵触するのを知らんのか!」といったセリフが出てくる。

 

 

 ほぼ同じ時期に公開された「国境の南側(국경의 남쪽)」(2006-05)では、恋人を北朝鮮に残して脱北した北朝鮮の青年の葛藤と愛が描かれる。

 

 

 この映画では、実際に脱北してきたキム・チョルヨンが演出部の一員として演技指導をし、中・朝の国境を越える際の案内人役で映画にも出演している。

<국경의 남쪽>의 연출부 스탭 맡은 새터민 김철용

 

 この2005年〜06年あたりで、映画制作側でも北朝鮮らしい台詞回しが遠慮なくできるようになり、セットや大道具・小道具なども実際のものに近いものが使われ、それを観る観客の側もそれを北朝鮮のものとして受け止めるようになった。ここが、一つの転機であろう。

 

 ちなみに、イ・ヒョリが北朝鮮のチョ・ミョンエと共演したサムソンのAnycallエニコルのコマーシャル映像が出たのも2005年のことだった。撮影は4月上旬に上海で行われ6月から韓国のテレビでオンエアーされた。

 

 



 ここ数年、日本でも公開された「工作 黒金星と呼ばれた男」(2018-08 日本公開2019-07)、「モガディシュ 脱出までの14日間」(2021-07 日本公開2022-07)では、いかにも北朝鮮人らしい登場人物が北朝鮮らしい台詞回しで話すのが当たり前になっている。

 

 また、2019年12月から2020年2月まで韓国tvNでオンエアされ、日本でもNetflixで配信されて評判になったドラマ「愛の不時着(사랑의 불시착)」でも、ヒョンビンをはじめ北朝鮮側を演じる俳優たちが、毎回北朝鮮風の台詞回しで演じている。

 

 北朝鮮とは関係のない「パラサイト 半地下の家族」(2019-05 日本公開2020-01)にもこんな場面が出てくる。

 

 

 映画「シュリ」が制作された1999年から25年。この間、朝鮮半島の南北関係には紆余曲折があったが、こうして振り返ってみると、韓国における北朝鮮認識、それに映像での北朝鮮の描き方にも大きな変化があったのだと感慨深いものがある。