- 目次
(1/3) 休戦から「観光」のはじまり - 休戦協定の調印
- 初期の板門店取材・見学
- 4・19後の板門店
- 日本からの訪問者
- 韓国人の板門店見学
(2/3) 1980年代の南北交流と板門店 - 1976年 ポプラ事件
- 1980年代の南北交流と板門店
(3/3) 1990年代以降の板門店 - 1990年代 休戦委員会の停止
- 2000年代 南北関係
- 文在寅/トランプと金正恩
休戦協定の調印
1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。統一までの戦争継続を願う李承晩大統領は休戦の動きに強く反発し、結局休戦協定に署名することを拒んだ。ただし「休戦それ自体を妨げることはない」として戦闘の停止には同意した。
1966年に韓国の国立映画製作所が作った広報映画「板門店」にはこのようなナレーションが入っている。
1953年7月27日、数多くの尊い生命と惜しい財産を失わしめた戦争は、共産主義を憎悪する全国民の反対にもかかわらず、双方の代表が休戦協定に署名したことで一段落した。
(傍点は筆者)
すなわち、休戦協定の当事者は国連軍と、北朝鮮の人民軍・中国義勇軍であり、会談場の区域を共同警備する主体は国連軍と北朝鮮人民軍だった。韓国軍は戦闘は停止したが、休戦協定の当事者ではなかった。
「国連軍」の実体はアメリカが主導する西側国連加盟国の多国籍軍。開戦直後の国連安保理事会でチャイナの議席が台湾の中華民国になっていることに異議を唱えるソ連が欠席していて拒否権を使わなかったため、アメリカ主体の多国籍軍が「国連」の名前を冠して国連旗を使うことになった。ただ、韓国は、1991年に南北朝鮮の同時加盟が実現するまで、国連の加盟国ではなかった。
休戦協定は1953年7月27日午前10時に国連軍のウィリアム・ハリソン・Jr米陸軍中将と中朝連合司令部の南日人民軍大将が板門店で署名し、その後マーク・W・クラーク、金日成、彭徳懐がそれぞれ署名した。
初期の板門店取材・見学
休戦協定の調印後、場所をやや南側に移して会議場と共同警備区域が設定され、その会議場で米軍を主体とする国連軍側と北朝鮮の人民軍、中国軍との間で休戦委員会の会合が必要に応じて開かれた。国連軍は、宣伝工作に利用するため、この会合を韓国内外のマスコミに取材させ、自軍側の関係者にも見学させた。南側からは、国連軍司令部のパスをもらい軍事休戦委員会の発行するバッジをつけた人々が一日125人を上限として共同警備区域を訪れた。1959年には「観光地化した」との『毎日新聞』の報道もあった。
1963年6月14日軍事休戦委員会とその周辺の様子
4・19後の板門店
1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れて張勉政権が誕生すると、翌1961年を「韓国訪問の年」と定め、積極的に外国人観光客を誘致する政策を打ち出した。1961年3月に、日本在住のアメリカ人が観光キャンペーンの最初の団体客ーとして訪韓、大韓旅行社の斡旋でソウルの徳寿宮、昌徳宮や慶州、それに国連軍が管理する板門店の休戦会談場を回った。この時の動画が残っているが、残念ながら板門店の場面はない…
こうした外国人向けの板門店観光は大韓旅行社がアレンジした。大韓旅行社は、日本の植民地統治下の時に置かれたジャパン・ツーリスト・ビューロー(のちに東亜交通公社)の朝鮮支社が解放後に公営旅行社となったもので、韓国政府が推進する観光政策の推進母体だった。
同じ1961年、4・19一周年を契機として南北統一を目指す学生・市民団体が積極的に動き出し、5月13日に「南北学生会談歓迎及び統一促進決起大会」を開催した。この時に「가자 북으로! 오라 남으로! 板門店으로!(行こう北へ! 来れ南に! 板門店へ)」というスローガンが掲げられ、板門店が南北の接点として大きくクローズアップされた。
こうした動きに危機感を強めていた保守反共勢力をバックに、朴正煕少将が5月16日に軍事クーデターを起こし、クーデター部隊が中央庁や国会議事堂、放送局などを制圧した。そして、国家再建最高会議の議長となった朴正煕が権力を掌握した。南北の唯一の接点である板門店で南北の学生会談を開くという試みは霧散した。
日本からの訪問者
1962年5月、ソウルでアジア映画祭が開かれた。日本からは大映社長でアジア映画制作者連盟会長の永田雅一が、各映画社の幹部や、池内淳子・松原智恵子など10人の女優を引き連れて参加した。10人の日本女優は着物姿で「大江戸日本橋」を踊り、韓国語でアリランを歌った。

朴正煕軍事政権は、この映画祭を積極的にバックアップした。映画祭に参加した中華民国、香港、日本、フィリピン、マラヤ・シンガポールの映画関係者は5月14日に板門店の休戦会談場を見学した。この時の映像が残っている。
まだ日韓の国交がなかったこの時期の日本人の韓国渡航は、政官界や報道関係者、それにスポーツイベントや文化交流事業などの参加者、韓国側にコネのある経済人などに限られていた。その中にも板門店に行った人々もいた。
1960年10月から1961年4月まで読売新聞ソウル特派員だった日野啓三は、赴任中の板門店取材をもとに台城洞(自由の村)を舞台にした小説「無人地帯」(『文學界』1972年5月号)を書いている。アジア映画祭参加者の板門店観光と同じ時期に、作家の今日出海も板門店を訪問して『朝日新聞』に「板門店にて(上・中・下)」を5月16〜18日に掲載している。また、膠着していた日韓会談を打開するため1962年12月に訪韓した自民党副総裁大野伴睦の一行も12月12日に板門店に行っている。
この動画で、会議場内の北朝鮮の旗を持ち上げてるのは荒舩清十郎、会談場の外の場面では船田中、それに読売新聞の政治部記者渡邉恒雄、ソウル特派員嶋元兼郎も写ってる。
大野伴睦の訪韓から1ヶ月も経たない1963年1月8日に力道山が文教部の招請で韓国を訪問した。

表向きは文教部の招待だったが、実際には韓国中央情報部が接待したという。この訪韓の実現にはプロレスのコミッショナーだった大野伴睦が絡んでいたのかもしれない。朝鮮北部、咸鏡南道洪原郡が故郷である力道山は、帰国直前の1月11日に板門店に行き、そこから北の方向に向かって叫んだとされる。
滞在は4日間だった。最終日の朝、力道山たっての願いで南北分断の象徴、板門店へ向かった。車を降り、北へ、北へ歩き、いきなりコートを脱ぐ。上着を脱ぎ、シルクのシャツも脱いだ。そして厳寒のなか、上半身裸のまま、声を限りに叫んだ。
「オモニー(お母さん)、ヒョンニーム(お兄さん)と叫んだって、秘書から聞い
た。そりゃ、行きたかったんだろうね。生まれた北の故郷へ」
鈴木琢磨「没後50年、力道山と朝鮮半島」『毎日新聞』2013.12.15
韓国人の板門店観光
外国人の板門店観光が話題になると、韓国国内の一般市民からも板門店見学の要望が出始めた。この1962年には、大韓旅行社が国連軍司令部との間で韓国一般市民の板門店観光についても交渉していることが報じられている。板門店の訪問見学は、韓国側の一存では決められなかった。
板門店の一般公開を推進
観光開拓のために大韓旅行社で
難点は事故対策
実現するかどうか…国連軍側の態度に
休戦会談で広く有名になった板門店を、外国人だけでなく一般市民にも開放しようという動きが始まっている。観光の斡旋・案内を行っている大韓旅行会社が、外国人のための観光地として関心を集めている板門店を、一般の市民にも開放する計画で、関係当局との交渉を行っていることが28日に明らかになった。
解放後、朝鮮戦争を経て17年間閉ざされたままの南北の唯一の接点となっている板門店は、外国人観光客、国連、軍関係者及び国内の上級公務員、新聞記者にのみ公開され、一般市民には扉を堅く閉ざしてきた。今回の大韓旅行社の公開推進は、一般市民が板門店見学を強く望んでいて観光を斡旋する旅行社業務に合致しているばかりでなく、板門店見学によって反共意識を堅固にする目的にもかなっている。
ただ、こうした計画は、在韓国連軍司令部側に決定権があって国連軍側との交渉が不可欠で、国連軍側の見解と理解が注目されるが、これには種々の問題があるようだ。
板門店の一般公開の最大の問題は、万一事故が発生した場合の責任の所在で、国連側なのか韓国政府側なのかが問題になる。
関係者によれば、一般観光客の中に不穏な思想を持つ者やスパイなどがいて越境した場合にはなすすべがなく、想定される事故・不祥事への対応策が難しく、事前に万全の態勢を整えることが急務だという。そのため、板門店見学申請者に対して厳格な身元調査が行われるが、申請者が多くなると対応が難しくなり、人数制限が必要になる。事前の体制さえ整えば公開の推進は可能であろうとして、交通部の観光関係者も「具体案ができれば検討することになる」と語っている。
写真=板門店で共産側記者の戯言に反駁する「国連」側の記者たち。
『東亜日報』の1963年4月17日付の記事で、この時すでに一般の韓国人への板門店観光が始まっていたことがわかる。ただし、1日の訪問者数に厳しい上限がつけられ、米軍側の定めた書式で所轄警察署長の身元証明が必要とされた。個人での板門店訪問はほぼ不可能で、大韓旅行社経由の団体ならば可能性があるとされていた。
1966年に制作された文化映画「板門店」には、旧京義線の鉄道橋を通って臨津江を渡って板門店に至るルートや休戦会談場の様子が出てくる。ここには団体の一般韓国人と思われる訪問者の姿も写っている。
「板門店」抜粋版(国立映画制作所 1966)




