板門店ツアー史(2/3)1980年代の南北交流と板門店 | 一松書院のブログ

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ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

1976年 ポプラ事件 

 私が初めて板門店ツアーに行ったのは、1976年3月だった。当時のガイドブックには次のような案内が記載されていた。

 大韓旅行社のバスは、統一路トンイルロ(国道1号)を北上して、途中、朝鮮戦争関連の記念碑に立ち寄り、汶山ムンサンの先の京義キョンウィ線の鉄道分断点をみながら臨津閣イムジンガクに到着。一般の韓国人が軍の許可なしで行けるのはここまで。ここからは北朝鮮を望むことはできないが、北朝鮮側に墓がある人々はここで墓参り(祭祀チェサ)をするしかなかった(現在の「望拝壇マンベダン」は1985年9月に設けられた)。

 

 ツアー客は、ここで旧京義線の鉄道橋を1車線の自動車橋にした「自由の橋」を渡り、10分ほどで米軍の前線基地キャンプ・キティホークに入る。米軍の将校クラブでビュッフェ式の食事(キムチ以外は全てアメリカから空輸した食材との説明あり)をしてブリーフィングを受ける。そこから軍用バスで非武装地帯の南方限界線を経て共同警備区域に入り、自由の家、休戦会談場を見学する。


1976年3月 筆者撮影

 

 そして丘の上の哨所(OP5)から帰らざる橋と北朝鮮側の建物を遠望してキャンプ・キティホークに戻る。この時は、休戦会談場の南側入り口手前にも北朝鮮人民軍の哨所があって、その前を通って休戦会談場に入った。人民軍兵士の目の前を通過する時にはさすがに緊張した。

 この板門店訪問時期は3月だったので、OP5から帰らざる橋とそのたもとのCP3はポプラ越しによく見えた。上掲地図のCP3の右上● 미루나무위치とあるところが、この半年後の重大事件の現場となった場所である。

1976年3月 筆者撮影

 

 夏になるとポプラの木は葉が生い茂って見通しが悪くなる

 そのため、この年の8月18日午前、米軍側が韓国人作業員を使って枝落とし作業を始めた。そこに北朝鮮人民軍側の警備兵が現れて作業の中止を要求した。米軍側は作業を継続させたところ北側警備兵が集団で米軍側警備兵を襲撃、斧と棍棒でボニファス大尉とバレット中尉の二人の米軍士官が殺害された。日本では「ポプラ事件」と呼ばれるが、韓国では「斧蛮行トッキマネン事件(도끼 만행 사건)」と呼んでいる。

 米・韓両国は直ちに「DEFCON 3(準戦時体制)」に入り、空と海に展開した米・韓両軍の軍事力を背景に、8月21日に米軍の工兵隊が韓国軍第一空挺特戦旅団の支援のもと、問題のポプラの木を切り倒した(ポール・バニヤン作戦)。この時、のちの大統領文在寅ムンジェインは、この時第一空挺旅団の上等兵で、この作戦に参加していた。

 上等兵になった頃に「板門店斧蛮行事件(ポプラ事件)」が起きた。対応策として、事件の発端となったポブラの木の伐採作戦を私の部隊が決行することになった。朝鮮戦争以来初めてデフコン(Defense Readiness Condition 防衛準備態勢)が「準戦時体制」に引き上げられた。北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起きればただちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポブラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。幸いに北朝鮮側はポプラの伐採をそ知らぬ振りで見送り、何も仕掛けてこなかった。作戦は無事に終了した。そのときに伐採されたポプラの木の破片を入れた国難克服記章が記念に一個ずつ配られた。

『運命 文在寅自伝』
岩波書店 2018

 この事件の現場一帯は「非武装地帯」である。共同警備区域でも護身用とされる拳銃以外の武器の持ち込みはできない。表向きは…。さらに、共同警備区域内は国連軍のMP(憲兵)が警備に当たることになっている。そのためポブラ伐採のために共同警備区域に入った第一空挺旅団の将兵は、M16ライフルや榴弾発射銃、対人爆薬などの武器を伐採用工具や作業器材の中に隠して持ち込み、カチュシャ(Korean Augmentation To the United States Army)すなわち米軍出向の韓国兵を装って共同警備区域に入って作戦を遂行した。

 

 この事件以降、板門店の共同警備区域は南北に分割され、会談場の中では「マイクの線」が境界線となり、会談場の外にはコンクリートの境界標識が設置され、南側にあった北朝鮮軍の哨所は全て撤去された。最前線のキャンプ・キティーホークは、ポプラ事件で殺されたボニファス大尉の名前を冠してキャンプ・ボニファスに変えられた。

 

1980年代の南北交流と板門店 

 ポプラ事件の後、1980年に板門店を訪問した駐韓米軍の将兵家族の動画が未公開大韓ニュースとして残されている。音声は入っていない。

 この動画では、休戦会談場のテーブルには、国連の旗と北朝鮮の国旗が置かれている。旗は双方がそれぞれ準備するのだが、一時は高さを競って天井まで届く旗になっていたというエピソードもある。南側には1966年に竣工した八角亭の「自由の家チャユエジップ」があり、北朝鮮側には1968年に完成した「板門閣パンムンガク」が建っている。さらに第3哨所(旧OP5)からは、ポプラ事件後に伐採されてY字のかたちで残っているポプラの幹の向こうに「帰らざる橋」が見える。

 

 このポプラのY字の幹は、その後1990年代には完全に除去され、現在は切り株の大きさのセメント製の礎石の上に記念碑が建てられている。

 1984年、漢江ハンガンの氾濫でソウルで大きな被害が出た時に、北朝鮮側が米などの援助物資の提供を申し出た。意外にも全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れ、これを契機に南北の離散家族の再会と芸術団の交流が実現した。1985年9月に、朝鮮戦争休戦後はじめて南北双方の民間人が板門店で軍事休戦ラインを越えて往来した。

 ブルーガイドブックス『韓国』の1985年11月30日改訂版では、「板門店ツアー」について次のような体験レポートが掲載されている。

板門店ツアー

<交通>土曜、日曜及び韓国とアメリカの祭日を除く毎日、定期観光バスがロッテホテルから午前中出発(出発時刻は前日に決定)。料金は昼食代込みで28ドル。所要約6時間。
 板門店観光の業務は、大韓旅行社(KTB ソウル市鍾路区寛勲洞198(722-1191)で取扱っている。予約が必要。出発48時間前までに、KTBあてに氏名、国籍、旅券番号、連絡先(ホテル名、ルームナンバーなど)を記入申請する。なお、軍事的その他のつごうで、変更、中止があるので必ず問い合わせること。
<ツアーコース>ホテルロッテ→独立門→汶山→自由の橋→アドバンス・キャンプ→板門店会議場所→八角亭→展望台(帰らざる橋展望)→ホテルロッテ

板門店——ソウルの北、直線距離で60kmたらずにある田園の小村。ここが38度線をはさんで北と南、また世界の東西陣営が会談をつづけている注視の場所である。この国際政治の巨大な力の接点を実際に眼で見るには、KTBのバスを利用するのが唯一の方法で、個人の資格で立入ることはできない。ここは普通の観光地ではなく、まだ戦争の緊張がとけやらぬきびしい場所。バスの中で念を押されるように、生命も保障はされない。ツアー中はガイドの注意を必ず守ること。個人的行動は厳禁。参加できるのは外国人のみ。
 市内を発ったバスは、独立門を通り、一路板門店へ向かう。国道1号線(汶山街道、統一路ともいう)は完全舗装のハイウェイだ。広々とした田園風景、右車窓に北漢山を見ながら約2時間のドライブは快適そのもの。汶山を過ぎてしばらくゆくと、臨津江にかかる”自由の橋”を渡る。バスの前後に国連軍のジープがついてエスコートしてくれる。バスガイドは韓、日、英語の3ヵ国語で、心得事項を説明するのにいとまがない。とくに撮影禁止の場所がいくつもあるので十分注意することが肝心。
 前線に近づくにつれ、緊張感が高まっていくのを肌で感じながら板門店に到着すると、停戦委員会のガイドがアドバイスや説明をしてくれる。休戦会議の行なわれる本会議場は、休戦ラインの真中につくられ、家の中央を南北分断ラインが通っている。会議場の中央にテーブルがあり、向かいあって代表団がすわる。そのテーブルの中央に敷かれたマイクロホンのコードが南北を分けているのだという説明を聞いて、ますます緊張が高まる。会議場前には八角亭が建ち、ラセン階段を登って周囲を見渡せる。国連側の建物はブルー、北側の建物はグリーンに塗り分けられている。
 休戦ラインの小高い丘の上には展望台があり、“帰らざる橋” “北側の宣伝村”などが見渡せる。橋のたもとに検問所が設けられ、四六時中監視の目が光っている。
ひと通り見学を終わって、昼食を国連軍将校用の食堂でとる。室内にはバーやみやげ物店があり、それまでの緊張をとくことができる。
 今までは”対決”の場であったが、平和的な話し合いの場に変りつつある現況に、近い将来“平和統一”という言葉が世界の新聞紙上で報道されることを祈りつつ帰途につくツアーでもある。

 このガイドブックは、改訂のタイミングが南北の離散家族の再会や芸術団南北交流の直後であったこともあり、それを踏まえた記事内容になっている。

 

 この時期に、1978年に見つかった第3トンネルの見学ツアーも始まった。北朝鮮が南に軍隊を進めるために掘ったとされるトンネルが1970年代に韓国軍によって発見された。韓国側はそのトンネルに向けて斜坑を掘って対処した。三番目のトンネルへの斜坑の入り口が板門店のすぐ近くにある。この場所は、国連軍の管轄ではなく韓国軍の管轄区域なので、韓国側で人の出入りをコントロールすることができた。都羅山トラサンに作った北朝鮮を遠望できる展望台と、この第3トンネルをセットにして一般韓国人向けのDMZツアーを組んでDMZ観光やVIPトラベルが売り出した。ただ、この第3トンネルは、急勾配の斜坑を徒歩で本坑まで降りて登り返すため、相当にきついコースだった。そのため、2002年5月には斜坑に線路を敷設してシャトル・トロッコが運行されるようになる。

 


(3/3) 1990年代以降の板門店へ続く