一松書院のブログ -16ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1979年12月13日の朝、つまり全斗煥らが12・12クーデターを起こした翌日。朝刊各紙の一面や社会面には、前夜に首都ソウルで漢江ハンガンの橋が遮断され市内に軍隊が展開するという事件が起きたことが大々的に報じられた。

 

 『東亜日報』の社会面の記事(右上)はこんな内容だった。(手動でスクロール)

漢江の南北遮断5時間 漢江の橋、車両通行禁止に
会社帰りの市民が歩いて橋を渡る
路肩の車の中で徹夜も
帰宅できなかった人は旅館の相部屋で


 12日午後7時、ソウル龍山ヨンサン漢南洞ハンナムドン鄭承和チョンスンファ参謀総長公館に出動した軍の捜査機関員と、公館の警備兵との間で起きた衝突で、この一帯をはじめ、ソウル市内の11の漢江橋の交通が遮断され、江北から江南へ退勤する多くの市民が足止めされ、橋を歩いて渡る事態になった。 また、橋の上や道路の左右に車を止めたまま、車の中で仮眠したり、徒歩で帰宅して13日未明になって車を取りに戻るなど、明け方まで交通混雑をもたらした。
 この日の夜8時頃から漢南高架道路北端と檀国タングク大学校の間、奨忠洞チャンチュンドンから国立劇場の間、薬水洞ヤクスドンロータリーから漢南洞の間の道路が軍と警察によって遮断され、夜11時頃にはソウル市内の南北をつなぐすべての橋梁の車両通行が禁止された。
 このため、すべての車両が足止めされ、夜間通行禁止の0時が迫る中で、橋の左右の江辺カンビョン道路などには数千台の民間車両が停まったままで、人々は車から降りて歩いて橋を渡ったり、車の中で夜を明かすことになった。
 漢江の南北をつなぐ橋は、車両通行の禁止から5時間後の13日未明4時、通行禁止の解除とともに車両通行が再開された。
 橋の上と両側で足止めされていた数千台の一般車両は、通行禁止時間中にもUターンが許されており、明け方4時の通行再開と同時に一斉に動き始め、普段見られないような慌ただしい夜明けとなった。
 この日、漢江橋の車両通行が突然禁止されると、帰宅できなかった永同ヨンドン蚕室チャムシル永登浦ヨンドゥンポ金浦キンポなどの地域の住民は、徒歩で橋を渡って1〜2時間かけて家に戻ったり、橋の近くの旅館などにも宿泊した。この夜、マスコミ各社には「橋の通行が遮断されているが、何かあったのか」といった問い合わせ電話が明け方まで相次いだ。

 

 外国の新聞・通信社もこの事態を大きく報じた。『読売新聞』もソウルの島元特派員発でニュースを伝えた。

読売新聞1979年12月13日夕刊

【ソウル十三日! 島元特派員】
 鄭戒厳司令官逮捕という衝撃的な事件のあと、一夜明けた十三日のソウル市内には、戦闘服、自動小銃で武装した兵士の姿が増え、特に中央政庁舎などのある中心部では、緊迫した空気がみなぎっている。だが、十二日夜には一晩中戦車がごう音をあげて走り回っていたのに、十三日は一応は静かな表情を取り戻している。
 ソウルのど真ん中太平路の中央政庁舎の周囲は、前日まで警備を担当していた首都警備司令部部隊とは違う部隊が配置されている。戦車二十台、装甲車八台と、その数も増強され、無反動砲を装備したジープが庁舎の表裏双方の出入り口に配置されて、一層いかめしい印象を与えている。
 一般の市民はいたって平静で、商店や会社も平常通りの営業を行っている。ただ、十二日午後八時に、ソウルのビジネズ街と居住区をわける漢江の十二の橋が突然通行禁止になったため、市民は自動車を放置して徒歩で帰宅したり、あわてて旅館にかけこんだり、車内で一夜を明かす人も多かった。橋の通行止めは十三日午前五時に解除されたが、市民たちはようやく朝のラジオ放送で通行禁止の理由を知り、納得するとともに「またか」との深刻な表情をも隠していない。職場では少しでも情報を得ようと、ニュースの時間のたびにラジオの周囲に人が集まるが、放送は国防相談活を繰り返し流すだけで事件の詳細についてはまったく報じていない。
米軍人外出控えよ
【ソウル十三日=島元特派員】
 グライスティーン駐米大使は、十三日午前、ソウルの米軍放送を通じて、外人学校を十三日は休校にしたことを伝えるとともに、アメリカ人は不用な外出をしないよう呼びかけた。ウィッカム駐韓米軍司令官も同放送で、米軍人とその軍属に対し、外出をひかえるよう呼びかけた。

 

 一夜明けた13日に伝えられた国防部長官の声明で明らかになったのは、陸軍参謀総長で戒厳司令官だった陸軍大将鄭昇和が拘束され、李熺性イヒソンがその後任に任命されたことだけ。12月12日の夜に一体何が起きていたのか、一般市民は知りようがなかったし、この事件に関与した当事者の多くもまた、この時点では前夜起きた出来事の全貌を把握していたわけではなかった。

 

 その後、1987年の「民主化宣言」があり1993年には「文民政権」の金泳三キムヨンサム大統領が誕生し、紆余曲折を経ながらもこの12・12の「真相究明」と「責任追求」が行われるようになった。その過程で明らかになった事件の経緯を再構成して、テレビ各局がドキュメンタリー番組を作り、ドラマ化されて「コリアゲート」(1996 SBS)や「第5共和国」(2005 MBC)などが放映されてきた。

 

 2023年11月に韓国で公開された映画「ソウルの春」も、この12・12事件を素材にして脚本が書かれている。再現劇ではないので、登場人物は微妙に仮名になっているし、場面描写やセリフには当然ながらかなりの脚色が加えられている。実際にはなかった場面も挿入されている。この映画は、韓国で1,300万人以上の観客を動員し、韓国人の4人に1人が観たとされる。今年の5月からは韓国のNetflixでも公開されており、2024年8月23日日本でも公開。

 

映画「ソウルの春」(3)

 1995年にKBSは解放50周年の記念番組として「映像実録」をシリーズで放送した。

 10月4日の放送は「1979年-1980年」で、この中に12・12クーデターに関する部分がある。クーデターまでの推移や、当時の映像が盛り込まれており、映画「ソウルの春」の全体像をつかむのにも役立つ。


 0分00秒から8分30秒までのナレーションと字幕を日本語に翻訳してみた。

 (翻訳は動画を見ながら手動でスクロールできるはず…)

 

0分00秒から8分30秒

[10月16日 釜山・馬山、学生・市民のデモ]

 絶頂に達した維新末期の弾圧に対抗して、学生たちは大規模デモに立ち上がった。
 10月16日、釜山プサンで始まった釜山大プサンデ生約5000人の街頭デモは、東和大トンファデ生や市民まで加わって翌日まで続き、釜山大学に休校令が下された。
 午後8時頃、釜山市庁前に集結した学生と市民約3000人は、「維新撤廃、独裁打倒」などを叫びながら警察と対峙した。
 午前1時まで続いたデモで、警察車両約20台と南浦ナムポ忠武チュンムの派出所などが壊され、デモは馬山マサン地域にまで広がった。
[10月18日 釜山に戒厳令宣布]

 18日、釜山地域に戒厳令を宣布した政府は、20日、馬山と昌原チャンウォン一帯にも衛戍令を宣布し、軍隊を進駐させた。
 戒厳軍はデモ参加者500人余りを連行し、60人余りを軍事裁判にかけるなど強硬措置を取った。
 しかし、こうした措置にもかかわらず、高まる維新撤廃の要求は止むことがなかった。「釜馬プマ事態」のこのような雰囲気は、ソウルにまで拡散しかねない勢いだった。

[10月26日 挿橋川防潮堤竣工式]
 1979年10月26日、韓国の歴史の流れを変えた運命の日を迎えた。この日の午前11時、朴正熙パクチョンヒ大統領は、挿橋川サプギョチョン防潮堤の竣工式に出席した。これが朴正熙大統領の最後の公式行事になるとは誰も思ってもいなかった。

[朴正煕大統領 逝去]
 この日の夕刻、宮井洞クンジョンドンでの夕食会で、朴大統領は金載圭キムジェギュに撃たれて死亡した。
 18年の間、変わることなく国を支配してきた大統領の死亡のニュースに、国民は衝撃を受け国の将来を案じることになった。
 翌朝の午前4時を期して、崔圭夏チェギュハ大統領権限代行は全国に非常戒厳令を宣布した。
 朴大統領の狙撃の直後、犯人として逮捕された金載圭中央情報部長と彼が大統領を撃った理由に国民の関心が集まるなかで、28日、合同捜査本部がこの事件について公式発表を行った。
[10月28日 全斗煥合同捜査本部長発表]

 「金載圭が密かに計画した上での犯行だったことが捜査の結果明らかになった。合同捜査本部の捜査によると、金載圭は普段から大統領に建議する政策について大統領が不信感を持ち、自分のすべての報告について…」
 10・26事件についての発表をきっかけに、当時の全斗煥チョンドゥファン保安司令官に注目が集まり始めた。
[11月3日 故朴正煕大統領国葬]

 「あたかも泰山が崩れ落ち、川が裂けたかのごときこの衝撃、この悲痛は何に例えることができようか。この秋、落ち葉を片付けたあとにも枝ごとに黄金の果実がたわわに実っている」
 18年5ヶ月、強力なリーダーシップでこの国を統治してきた朴大統領は、多くの宿題を残したまま歴史の中に消え去った。経済発展を成し遂げた朴大統領の業績は評価されたが、国民の心を忘れなかった統治者の苦難を、歴史はもはや許さなかった。朴大統領は陸英修ユギョンス女史の隣に葬られた。そして維新時代は、大統領夫婦が二人とも銃撃によって死亡するという不幸な過去として、私たちの記憶の中に残された。
[12月4日 大統領殺害事件の初公判]

 朴大統領狙撃事件の犯人の金載圭と金桂元キムゲウォン朴興柱パクフンジュらに対する軍事裁判は、翌年まで続いた金載圭をはじめ4人全員に死刑が言い渡された。そして80年5月、金桂元を除く全員の死刑が執行された。
[12月6日 第10代崔圭夏大統領選出]

 12月6日、統一主体国民会議で崔圭夏大統領権限代行が第10代大統領に選出された。10・26から5・17まで、崔圭夏大統領はその後、韓国の現代史を左右した激動の現場を目の当たりにすることになった。

[12月8日 緊急措置第9号解除]
 「大統領緊急措置第9号を1979年12月8日付で解除する」
4年7ヵ月ぶりに緊急措置第9号の解除で68人の緊急措置違反者が釈放され、金大中キムデジュン氏の自宅軟禁が解除された。韓国社会は、長年の抑圧が解け、民主化の機運がさらに高まるように思えた。
 しかし、12月12日夜に発生した「12・12事態」は、国の運命を再び変えた。

[12月12日 鄭昇和戒厳司令官逮捕]

 国民は再び号外を見ながらこの事態の意味するところを把握しようと神経を尖らせた。12・12事態は、当時、軍の最高権力者だった鄭昇和チョンスンファ戒厳司令官に対する全斗煥保安司令官のクーデターだった。漢江ハンガンの11の橋が通行を規制された中、ソウル市内での銃撃戦でクーデター勢力側が勝利して終わった。その結果、鄭昇和戒厳司令官は解任され、その後任に李熺性イヒソン中将が任命された。

[12月14日 国軍保安司令部]

 その後クーデター勢力は首都警備司令官、特戦司令官など軍の要職を広範囲に掌握することになった。この時から5・17まで、韓国は駐韓米大使グライスティン(William H. Gleysteen Jr.)の表現どおり、崔圭夏を首班とする形式的な政府と、全斗煥を中心とする実質的な権力が共存する二重権力状態に置かれることになった。

[あの時のあの人 シム・スボン]

 

 

映画「ソウルの春」(2)

 1970年の『朝鮮日報』に汝矣島ヨイド示範シボムアパートの間取図が出ていた。40.8坪から15.2坪までの4タイプ。40.8坪といえば135㎡の豪邸である。

 

 1960年代後半に、ソウル市長の金玄玉キムヒョノクが汝矣島の開発に着手し、この示範アパートは1971年10月に完成した。

 

 

 その後、汝矣島には1970年代に国会議事堂ができ、金融機関がビルを建て、放送局も移転してきてソウルの副都心となった。だが、示範アパートができた当時は、まだ広大な空き地が広がり、交通も不便な僻地だった。当初は入居希望者が集まらなくて苦労したという。

 

 ところで、この示範アパートの広いタイプの間取りを見ると、「가사실カサシル(家事室)」「가정부실カジョンブシル(家政婦室)というのがある。

この部屋の用途について記事には、

食堂兼キッチンの横には家事室があって「식모방シンモバン」として使うこともできる。

とある。

 

 「식모シンモ」は漢字では「食母」と書き、他人の家に寄宿してその対価として各種の家事労働を行う10~20代くらいの若い女性を指した。1910年代の頃の「행랑살이ヘンナンサリ(行廊暮らし)」から始まるとも言われている。「行廊」とは、朝鮮家屋の出入り口の両側にある使用人の部屋をさす。家事を手伝うことでここに住まわせてもらったということから来ている。

 

 

 「住まわせる」ことが「食母」を置く条件になるので、アパートにもこのような部屋が間取りの中に組み込まれていたのだ。

 

 この「食母」は、農村部で生活できなくなった若い女性が都市部の住宅で住み込みで家事をやって食い繋ぐものだった。1960〜70年代に韓国社会の産業化が進展して若い女性が劣悪な労働条件であっても工場労働者の「女工ヨゴン」やバスの車掌「案内嬢アンネヤン」などで給与が出るようになるとそっちに移っていき、やがて「식모」はいなくなっていった。そして、1980年代には、「派出婦パッチュルブ」が富裕層の家の家事労働を代行するようになった。

 

 1970年9月に完成した東部二村洞の漢江マンションの32坪タイプにも「식모방シンモバン」があった。

1969年の平面図(살구나무 아랫집(故ソウル市立大パク・チョルス教授)のTwitterより)

 

 韓国の住宅は物入れの場所が少ないので、1980年代には「食母房」を改造し、棚を作って物入れにしたりクローゼットにしたりしていた。

 

 この漢江マンションも来年には取り壊して新しい高層マンションに建て替わる。見取り図上で「식모방」が確認できるアパート・マンションもあと数年で全て無くなりそうだ。