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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 現在の漢南洞ハンナムドンの大統領官邸は、2022年に外交部長官公邸を改修したもの。
 

 もともとの外交部長官公邸は、1968年に檀国大学の北側に建設された。当時の長官は崔圭夏チェギュハ。「ソウルの春」の時の大統領である。この公邸周辺には、その後国防部長官や参謀総長の公邸などが建てられた。大法院院長や国会議長の公邸もここにある。
 

 写真は1981年の檀国タングク大学全景。大学院・学生会館の向こう側がこの公邸地区になっている。

 

 

 1960年代末から1970年代にかけて、この漢南洞一帯には外国人向けの住宅が建設された。公邸の向かい側には漢南外人ハンナムウェイン住宅、漢江側にはUNビレッジとヒルトップ外人APT、南山中腹には南山外人APTが建てられた。

 

 

 さらに、1968年1月の北の武装工作員のソウル侵入が契機になって、南山のトンネル建設が計画され、1969年3月に着工、1970年8月に1号トンネルが開通した。また、1969年には第3漢江橋、現在の漢南大橋が開通した。この橋は京釜キョンブ高速道路の取り付け道路とつながっていて、漢南洞はソウルから南に下る交通の要衝ともなった。ただ、公邸街は漢南洞のメインストリートから一歩裏手にあり、入り口のゲートも漢南小学校の横にひっそりとあって、日頃はほとんど目立たない、そんなエリアだった。

 

 1979年12月12日に、全斗煥チョンドゥファン保安司令官が陸軍参謀総長鄭昇和チョンスンファを逮捕するため保安司令部の憲兵隊を向かわせ、公邸警備の海兵隊部隊との間で最初の銃撃戦が起きたのがこのエリアである。映画「ソウルの春」では、銃声を聞きつけた国防部長官が大通りに出てタクシーを捕まえて逃げ出す場面がある。国防部長官がタクシーに乗り込むのは漢南路のこのゲート前という設定である。

 

 

 

 ちなみに、 檀国大は1990年末に龍仁ヨンインに移転し、現在その跡地は漢南ザ・ヒルAPTになっている。南山外人アパートは1994年に2棟とも爆破撤去され、漢南外人住宅は民間に払い下げられてナインワン漢南APTになった。UNビレッジやヒルトップAPTも韓国人の富裕層の住宅になった。周辺の環境は大きく変わったが、公邸エリアはそのままだった。

 

 2022年に大統領に当選した尹錫悦ユンソギョルは、5月の就任に先立って3月に大統領執務室を、青瓦台チョンアデから三角地サムガクチの国防部のビルに移すと表明した。

 

 大統領官邸も、青瓦台から漢南洞の公邸エリアに移されることとなり、当初は陸軍参謀総長の公邸を大統領官邸に改修して使用することになっていた。しかし、就任1ヶ月前になって、急遽外務部長官公邸を大統領官邸に改修することが決定された。漢南洞の公邸エリアを事前視察した金建希キムゴニ夫人が、外務部長官公邸をみて「こっちがいい」と言ったので…という説もささやかれた。

『聯合ニュース』2022.04.24


 結局、尹錫悦大統領は、漢南洞官邸の改修工事が完了するまで約1ヶ月間、瑞草洞ソチョドンの私邸から三角地の大統領執務室に通勤した。

 

 2024年12月3日夜、尹錫悦大統領は突如非常戒厳令を宣布した。しかし、深夜の国会での解除要求決議案の可決を受けて翌日午前5時に非常戒厳令を解除した。その後、国会では尹錫悦大統領の弾劾訴追決議案が可決された。さらに、高位公職者犯罪捜査処(公捜処コンスチョ)の任意の事情聴取の求めに応じなかったとして、現職の大統領として初めての逮捕状が出された。その逮捕状の執行をめぐって、2024年から25年の年末年始、漢南洞公邸エリアの外郭警備にあたるソウル市警は、公邸エリアへのゲートを中心に厳戒態勢をとった。

 

 

 1月3日午前中に、公捜処コンスチョの検事と支援の警察部隊が公邸エリアに入り、大統領官邸で逮捕状を執行しようとしたが、大統領警護処とエリア内の警備を担当する首都防衛司令部55警備団が阻止線を引いて、結局午後1時30分に逮捕状執行を断念して公捜処コンスチョと警察部隊は公邸エリア外に出た。

 

 映画「ソウルの春」のような発砲を伴うような衝突が、また再び漢南洞で繰り返される…そんなことはないと思いつつも、やっぱりあの場面が思い起こされて…という人は少なくないと思う。あの映画が、大統領の身柄拘束をめぐってある種のブレーキの役割を果たしているのだろうと思う。

 

 

 このブログを書いている1月7日午後8時現在では、そのまま膠着状態が続いている。

 

 漢南洞の公邸ゲート前の状況は、ソウル市の交通情報用のCCTVからリアルタイムで見ることができる。ゲートの内側の状況はわからないが、現場の雰囲気をある程度は把握できる。

 

 

 

 2024年12月3日22時過ぎ、尹錫悦大統領が非常戒厳令の発令を宣言した。しかし、翌4日未明に急遽開かれた韓国の国会はこの非常戒厳令の無効を全会一致で議決。早朝午前4時27分に大統領が戒厳令を自ら取り消した。

 

 1982年まであった夜間通行禁止や、維新体制下での大統領緊急措置などと混同され、独裁体制下では「よくあった」「いつもそうだった」ように思われがちの非常戒厳令だが、朝鮮戦争休戦以降、6回発令され、5回目までは11日から70日で解除もしくは終了し、最後の6回目だけが1年3ヶ月という長期間にわたった。

 

 ちなみに、よく戒厳令と関連づけられる1982年まで実施されていた夜間通行禁止は戒厳令に関する措置ではない。日本の敗戦によって、北緯38度線以南の戦後処理を担当することになったアメリカ軍が1945年9月7日に京城と仁川に夜間通行禁止令を出したのが最初で、朝鮮戦争以後、そのまま全国に拡大された。1982年1月までは、韓国の大部分の地域で日常的に夜間は通行禁止だった。

 

 朝鮮戦争以後、韓国で宣布された非常戒厳令は以下の通り。

  1. 1960年4月19日〜1960年6月7日 4・19学生革命
  2. 1961年5月16日〜1961年5月27日 5・16軍事クーデター
  3. 1964年6月3日〜1964年7月29日 日韓会談反対デモ
  4. 1972年10月17日〜1972年12月13日 10月維新
  5. 1979年10月18日〜 1979年10月27日 釜山・馬山民主抗争
  6. 1979年10月27日〜1981年 1月24日 朴正煕大統領暗殺
  7. 2024年 12月3日〜 2024年 12月4日 尹錫悦大統領が宣布

  4・19学生革命

非常戒厳令:1960年4月19日〜6月7日

 

 1960年3月の大統領選挙で、当選した現職の李承晩大統領が、後継者のこともあって側近の李起鵬を副大統領に当選させたいとして露骨な不正選挙を展開した。李承晩と李起鵬は当選するにはしたのだが、この選挙の無効を訴える抗議デモが激化した。李承晩は、警察力を動員して反政府運動を封じ込めようとした。だが、馬山でデモに参加した高校生が目に催涙弾が直撃した遺体で発見されるなどして、反李承晩の機運が一気に強まった。ソウルでは、4月18日に抗議デモに立ち上がった高麗大生が李承晩派のヤクザ組織に襲撃される事件が起き、翌4月19日には、学生・市民による大規模な抗議デモ隊が大統領官邸の景武台(後の青瓦台)に向かった。

 

 大統領官邸にデモ隊が迫ってきた午後1時半頃、孝子洞で警察隊による実弾発砲が始まった。

 

 

 非常戒厳令が宣布されたのは、この警察隊の発砲で学生・市民に多数の死傷者が出た後のことである。この時には、警察の発砲による混乱を収拾するため非常戒厳令が発動された。国会は4月25日に非常戒厳令の解除決議をしたが、非常戒厳令は解除されないままだった。だが、4月28日に副大統領に当選した李起鵬は一家で心中し、李承晩は大統領職を辞して妻のフランチェスカ・ドナーとともに5月29日にハワイに脱出した。非常戒厳令は、その前日5月28日午前0時に解除された。

  5・16軍事クーデター

非常戒厳令:1961年 5月16日〜27日

 

 1961年5月16日未明、朴正煕少将をリーダーとする韓国軍の将兵がソウルの主要機関を掌握した。張都暎陸軍参謀総長を議長とする軍事革命委員会が立法・行政・司法のすべての権限を掌握した。軍事革命委員会は全国に非常戒厳令を宣布し、国会を解散した。

 

 5月18日に張勉首相が憲法の規定に基づいて非常戒厳令を追認するとともに内閣は総辞職し、民主党の張勉内閣から政権を移譲されたとする軍事革命委員会は、国家再建最高会議と名称を変更して軍による統治を続けた。

大韓ニュース 第314号 5.16

 

 この時の非常戒厳令は5月27日に解除され、警備戒厳令に切り替えられた。

 

 

 警備戒嚴令は、翌年12月に予定されていた国民投票を前にした12月6日に解除された。

 

  日韓会談反対デモ

非常戒厳令:1964年6月3日〜1964年 7月29日

 

 1964年6月、日韓の国交正常化交渉が進む中で、朴正煕政権の対日交渉が「屈辱外交」であるとして、大学生を中心とする日韓会談反対デモが激化した。このため、6月3日に非常戒厳令を宣布して、大学キャンパスから学生を締め出して街頭デモの沈静化を図った。

この戒厳令は、学生デモが広がって混乱を招いているとして、午後2時半に青瓦台において朴正煕大統領主催で開かれた緊急国家安保会議で非常戒厳令宣布が満場一致で決められ、午後5時、中央庁で開かれた臨時閣議を経て、総理以下全閣僚が署名したものに午後8時朴正煕大統領が署名したもの。朴正煕大統領は、憲法第75条4項に従って、戒厳令宣布の事実を夜10時半に丁一権国会議長に通告し、臨時国会を早急に招集するよう要請した。

大学をロックアウトする軍部隊 東亜日報DBより

 

 この時の国会は、1963年11月26日の国会議員選挙で選出された175名の議員で構成されており、朴正煕政権与党の民主共和党が110議席、野党の民政党40議席、民主党14議席などで、与党が過半数をはるかに超える議席を確保していた。国会では、民主共和党も早期解除が望ましいとしながらもこの非常戒厳令を容認した。

 

 そして2ヶ月弱でこの非常戒厳令は解除された。

 

  1972年10月維新

非常戒厳令:1972年 10月17日〜12月13日

 

 朴正煕大統領は、1972年10月17日午後7時に「特別宣言」を出し、

  1. 1972年10月17日午後7時をもって国会を解散して政党及び治政活動の中止など現行憲法の一部条項の効力を停止する
  2. 効力が停止された憲法条項の機能は、現行憲法の国務会議が緊急国務会議として実施する
  3. 緊急国務会議は、1972年10月27日までに祖国の平和統一を志向する憲法改正案を公告、これを公告日から1ヶ月以内に国民投票に付す
  4. 憲法改正が確定したら、遅くとも今年末までに憲法秩序を正常化する

とした。同時に、非常戒厳令が宣布された。憲法が停止され、国会が解散されたため、国会への通告はなされなかった。

 1971年10月に国連の「中国」代表権が中華人民共和国に移り、翌1972年2月にはニクソン米大統領の訪中があった。そうした国際情勢の変化を受けて、7月4日には南北朝鮮の間で「共同声明」が出された。この朴正煕の「特別宣言」は、北朝鮮との交渉が本格化した場合に、韓国内は一枚岩でなければならないという口実で、反政府勢力を押え込み、朴正煕の独裁体制を確立しようとしたのだった。

 

 

 国民投票を経て、いわゆる「維新憲法」が制定されると、12月13日に非常戒厳令は解除されたが、これ以降、強化された独裁体制のもとで、反政府勢力・民主化要求運動に対する弾圧が本格化することになった。

 

  釜山・馬山民主抗争

非常戒厳令:1979年10月18日〜27日

 

 1978年12月に行なわれた国会議員選挙は、与党民主共和党が金権・官権選挙を展開したにも関わらず野党新民党が支持率で与党を上回った。とはいっても、与党側に有利な選挙制度によって議席数では与党が上回り、さらに維新憲法で国会議員の1/3は大統領が任命することになっていたため、国会も朴正煕政権側が主導権を握っていた。

 

 その中でも、民主化要求の動きは次第に大きくなっていった。1979年8月にYH貿易の女性労働者による新民党党舎籠城を契機に、野党側は朴正煕政権への批判を強めた。与党側は国会で野党新民党の党首金泳三を国会から除名する決議案を可決した。野党の国会議員は全員が議員辞職して抵抗した。9月に入ると全国で大学生のデモが拡大し、特に金泳三の地元釜山と馬山では反政府デモが激化した。

 

 10月18日、朴正煕大統領は釜山に非常戒厳令を出した。さらに21日には馬山に衛戍令(軍隊に治安出動をさせるもの)を宣布した。

 

 

 この釜山・馬山の民主化要求のデモへの対応をめぐって、朴正煕大統領・車智澈警護室長と中央情報部の金載圭部長との間に対立があって、それが10月26日の金載圭による朴正煕・車智澈銃撃事件の発端になったとされている。映画「KCIA 南山の部長たち」では、このように描かれている。ただ、これはあくまでもフィクションとされているものだが…

 

 

  朴正煕大統領暗殺

非常戒厳令:1979年10月26日〜1981年1月24日 

 

 朴正煕大統領が撃たれて死亡したことがわかると、国務総理の崔圭夏が大統領権限代行となり、直ちに全国に非常戒厳令を宣布、陸軍参謀総長の鄭昇和が戒厳司令官に任命された。崔圭夏は、当時の「維新憲法」の規定に従って、統一主体国民会議による間接選挙で大統領に選出され、12月6日に大統領に就任した。その直後、12月12日に保安司令部の全斗煥司令官が鄭昇和戒厳司令官を逮捕するという「粛軍クーデター(12・12事態)」が起きた。これ以降、形式的には崔圭夏が統治のトップだったが、戒厳令下で軍を掌握していた全斗煥が実質的な統治者となっていた。

 

 非常戒厳令の早期解除と、維新体制の清算を求める声が高まり、学生の大規模な街頭デモが全国的な規模で展開された。学生デモは1980年3月から5月中旬にかけて全国に拡大し、5月15日のソウル駅前広場のデモで頂点に達した。

 

 粛軍クーデターの勢力を中心とする軍部は、5月17日正午に全軍指揮官会議を開いて、国会の解散、国家保衛非常機構の設置、非常戒厳令の全国拡大を決議した。中東を歴訪していた崔圭夏大統領は急遽帰国したが、全斗煥の新軍部の動きを追認するしかなかった。5月18日午前零時に非常戒厳令が韓国全土に拡大された。

 

 全羅南道光州では、地元出身の金大中が拘束されたこともあり、全斗煥の統治に対する抗議のデモが巻き起こった。全斗煥は、光州に戒厳軍を投入して、市民・学生の街頭デモを徹底的に圧殺し、多数の市民・学生を虐殺した「光州事件」を引き起こした。

 

 1980年8月16日、崔圭夏大統領が辞任した。統一主体国民会議は、陸軍を退役した全斗煥を大統領に選出し、9月1日に第11代大韓民国大統領に就任した。非常戒厳令は、翌1981年の1月24日に解除された。新たに改定された憲法に基づき、全斗煥は2月25日に第12代大統領に選出され、第五共和国がスタートした。

 

 1987年、民主化要求の声が最高潮に達した。この時のシュプレヒコールは、「護憲撤廃!独裁打倒!호헌 철폐! 독재 타도!」であった。

 

映画「1987 ある闘いの真実」(2917)

 

 この年4月13日に全斗煥大統領は第5共和国憲法を維持するという「4・13護憲措置」を出した。憲法に定めた大統領の間接選挙制を維持するというものであり、民衆が求めた「護憲撤廃」とは大統領の直接選挙による選出、「直選制」の実現であった。

 

 この1987年6月、独裁体制を維持してきた全斗煥ですら、もう非常戒厳令を出して民主化要求を圧殺することは無理だった。「直選制」を行なうという、いわゆる「民主化宣言」を出したのは大統領ではなく、与党民正党の代表盧泰愚であった。

 

 

  尹錫悦の非常戒厳令

2024年12月3日23時〜4日午前5時

戒厳司令部布告令(第1号)
 自由大韓民国の内部に暗躍している反国家勢力による大韓民国体制転覆の脅威から自由民主主義、国民の安全を守るため、2024年12月3日午後11時付で大韓民国全域に以下の事項を布告する。

  1. 国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる。
  2. 自由民主主義体制を否定し、転覆を企てる一切の行為を禁じ、偽ニュース、世論操作、虚偽扇動を禁じる。
  3. すべての言論と出版は戒厳令によって管理される。
  4. 社会混乱を助長するストライキ、サボタージユ(怠業)、集会行為を禁じる。
  5. 専攻医をはじめとして、ストライキ中や医療現場を離脱したすべての医療関係者は48時間以内に本業に復帰して忠実に勤務し、違反時には戒厳法によって処断する。
  6. 反国家勢力など体制転覆勢力を除く善良な一般国民は、日常生活での不便を最小化できるように措置する。

 以上の布告令違反者に対しては、大韓民国戒厳法第9条により令状なしに「逮捕、拘禁、押収捜索ができ、戒厳法第14条によって処断する。 

2024年12月3日 

戒厳司令官陸軍大将
朴安洙

 独裁時代最後の戒厳令の解除から44年近く経った2024年12月3日の尹錫悦大統領による非常戒厳令の宣布。その宣布に至るまでの情勢判断や宣布までのプロセス、そして非常戒厳令下での統治について、尹錫悦とその周辺の人々にどのような思惑と計画があったのか、全く見えてこない。

 

 少なくとも、朝鮮戦争以降の非常戒厳令については、強権的な独裁体制下においても、国会への通告、国会の解散や機能の停止など、それに軍部を掌握した上での強権的な軍による軍事力の誇示と実力行使があって、初めて非常戒厳令が機能していたことが明らかであった。

 

 今回の非常戒厳令の宣布は、当事者が何を考えていたのか…そして、ここまでの韓国現代史の中でどう位置付けたらいいのか…、説明し難い出来事なのではなかろうか。

  • 解放後の大学入試
  • 朝鮮戦争から5・16クーデター
  • 大学入学予備考査
  • 学力試験(1981~1993)
  • 修学能力試験(1994~)

 

 韓国での大学入試は、日本でも何かと話題になってきた。修学能力試験(スヌン:수능)の日には、朝のラッシュで受験生が遅刻しないように企業の出勤時間がずらされ、パトカーや白バイ、タクシー、それにボランティアのバイクや車が遅れそうな受験生を試験会場に送り届け、果ては飛行機の離発着まで中断する…ということで日本でも注目された。

 

 

 日本では、1979年に共通一次試験が始まり、1990年から大学入試センター試験に移行して私立大学での部分導入も徐々に広がった。しかし、韓国のように、全社会をあげて受験生をサポートすることはなかった。

 

 2006年1月22日付の朝日新聞の天声人語にこんな記事がある。


受験生の遅刻といえば、去年、列車を乗り違えた生徒を助けるため、東北新幹線が通過駅の宇都宮に止まった。JRには賛否の声が寄せられた。8割は「心温まる話」と好意的だった。残りは「甘すぎる」「不公平だ」。京都市では一昨年、茨城県から来た受験生が会場をまちがえ、涙ながらに交番へ駆け込んだ。見かねた警官がパトカーに乗せ、サイレンを鳴らして約20キロ先まで急送する。700件を超す反響が京都府警に届いた。やはり8対2で賛成が多かった
 韓国ならこんな論争は起きない。入試の日には受験生を遅刻させまいという熱気に包まれるからだ。
…中略…
 なかでも「修能」と呼ばれる統一試験が大変な騒ぎだという。遅刻者に備えてパトカーや救急車が駅前に待機する。離島の生徒を運ぶのは軍用ヘリだ。通勤ラッシュに巻き込まないよう、大人たちは出勤時間をずらす。

 2004〜5年の日本のセンター試験でのエピソードで、韓国の入試事情との違いにも言及しているのは、2004年あたりからの「韓流」の広がりも相まってのことだろう。

 

 韓国での受験当日の大騒ぎ、それに受験競争の厳しさは日本でもよく取り上げられるのだが、韓国の大学受験とはどんなものだったのか。入試形態や大学進学率の変遷も含めてまとめてみた。

 

  解放後の大学入試

 朝鮮が日本の植民地から解放された1945年以降、統計数値が探せた範囲で大学進学率をグラフ化するとこんな感じになる。

 

 1945年8月、日本の敗戦で朝鮮の植民地支配が終わった時、朝鮮にある大学は京城帝国大学だけだった。米軍政のもとで、旧京城帝大は1946年の8月22日にソウル国立大学として新たに開校された。同じ年、南朝鮮では、延禧ヨニ専門学校、普成ポソン専門学校、梨花イファ女子専門学校が、それぞれ延禧大学、高麗コリョ大学、梨花女子大学として認可され、仏教系の恵化ヘファ専門学校が東国トングック大学、儒教系の明倫ミョンニュン専門学校が成均館ソンギュングァン大学として設立認可を受けた。それ以外にもいくつかの学校が大学となった。

 1946年は、朝鮮総督府時代の教育制度からの過渡期で、学期末が8月、9月からが新学期とされた。それに合わせて、新しく大学になった学校の初めての入学試験が7月に実施された。

 

 

 1947年10月には、米軍政庁の文教部が、北緯38度線以南の大学について正規大学17校と昇格準備校3校を公表している。

▲正規大学
国立ソウル大学校、延禧大学校、高麗大学校、梨花女子大学校、世富蘭西セブランス医科大学、東国大学、成均館大学、聖神ソンシン大学、中央女子チュアンヨジャ大学、国立釜山プサン大学校、大邱テグ師範科大学、大邱農科大学、大邱医科大学、大邱大学、光州クァンジュ医科大学、清州チョンジュ商科大学、春川チュンチョン農業大学、
▲大学昇格準備校
旧京城薬学専門学校、旧京城女子医学専門学校、旧淑明スンミョン女子専門学校

『朝鮮日報』1947年10月17日

 1947年には「大学入学資格検定試験」が6月に行われた。だが、これは後に行われるようになる全受験生を対象とした大学入試の試験ではなく、日本統治下の中等教育が中途半端なままになった者に大学受験有資格を認定するための試験だった。大学の入学試験自体は各大学で個別に行われた。

 

 1948年7月、ソウル大学の志願者数は、入学定員980名に対して志願者数2730名。法科・文理・商科・工科などは倍率が6倍を越えている。

 

  募集 志願者 倍率
文理大 100 615 6.15
医大予科 120 170 1.40
法大 100 700 7.00
工大 50 307 6.00
商大 40 278 6.95
師大 100 327 4.27
農大 275 176 0.80
同獣医学部 25 45 1.86
芸大音楽 70 40 0.58
同美術 100 72 0.72

『京郷新聞』1948年7月1日

 

 1950年には、新学期を9月始まりから4月に戻すため、過渡的な措置として新学期を6月始まりとした。そのため、この年の大学入試は5月に実施され、全大学の募集人員は6,200名、この年の6年制の中等教育修了者は男女合わせて15,639名(『朝鮮日報』1950年4月9日)なので、大学の入学定員数を中等教育修了者数で割った大学進学率は39.6%ということになる。だが、この進学率は日本の植民地統治下で中等教育課程まで進めた生徒数自体が少なかったため高くなったもの。1950年、人口が約8,400万人の日本では大学生数は約32万人。しかし、人口が2,000万の韓国では大学新入生の募集が6,200人のみ。この当時、韓国で大学に進学できるのはごく少数のエリートに限られていた。

 

 この1950年の各大学の入試は二期に分けて行なわれ、ソウル大、高麗大、東国大、梨花女子大などは5月15日から、国学クックハック大(現在の国民クンミン大)や成均館大は5月22日から実施された。ところが、延禧大学(1957年に世富蘭西医科大学と統合して延世ヨンセ大となる)の入試だけは5月1日から行なわれ、600人の募集定員に対して5,000人以上が受験するという「狭き門」となった。延禧大学は、抜け駆け的に入試を実施して、青田刈りや二重志願者の囲い込みを狙ったのだろう。

 

  朝鮮戦争から5・16クーデター

 こうして1950年の新学期が6月に始まったが、6月25日未明に朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島全体が戦火に包まれた中でも各大学は独自に新入生の選抜を行って大学の運営を続けようとしていた。だが、戦争中の1952年4月8日に行われたソウル大学校の入試の受験者は、わずか300人ほどだった。(『朝鮮日報』1952年4月9日

 

 本格的な大学入試が復活したのは、朝鮮戦争が停戦した後の1954年3月の大学入試からだった。

 

 

 

 1956年からは延禧大学をはじめ一部の大学で、「無試ムシ」すなわち高校の内申書や面接試験で入試選考して入学させる制度が導入され、その割合が増えていった。

 

 1958年8月11日付の『京郷新聞』の記事には、

高等学校は解放後に新たにできて611校となり、師範学校が18校、大学は(解放後の)19校から56校と3倍にも増え、大学生数は7,879人から106,818人へと13倍にも増えた

とある。大学数も大学生数も増えたが、依然として大学生は韓国社会の超エリートであった。

 

 1960年、その大学生が先頭に立って牽引した反政府運動(4・19サーイルグ学生革命)によって李承晩イスンマン政権が倒れた。1961年の大学入試は、1月に各大学を前・後期の二期制で分けて大学別の入試が実施された。筆記試験の成績による「有試ユシ」と、内申・面接で選考する「無試」の二つの方式で行われた。「有試」と「無試」はほぼ半々の割合だった。『東亜日報』1961年1月6日

 

 1961年5月、朴正煕パクチョンヒ少将による軍事クーデターが起きた。軍部を中心とする国家再建最高会議は、新たに「大学入学資格考査チャギョッコサ」を導入し、この「資格考査」の成績と各大学での選考試験を合算して大学の合否が決められた。この「資格考査」は、解放直後の「大学入学資格検定試験」とは違って、全大学受験生を対象としてその試験成績が合否の判定に反映されるものであった。

 

 最初の「資格考査」は、1962年1月16日から3日間実施された。

 

 

 翌1963年にも「資格考査」が実施されたが、出願学科別だったことで試験の高得点者が不合格になる事態が起きたり、各大学の特性や自律性を活かせないとの批判も噴出した。そのため、1964年の大学入試では「資格考査」は中止され、各大学の個別選抜試験だけでの選考に戻された。

 

  大学入学予備考査

 1968年10月、朴正煕政権が次年度から「予備考査イェビコサ」を実施して、「予備考査」と各大学の「本考査ポンゴサ」で合否を判定すると発表した。1962〜63年に実施した「大学入学資格考査」を修正して再導入したものだ。

 

1970年度の大学入学予備試験が全国93の試験場で120,582人の受験生が試験を受けました。大学の第一関門を突破するため、午前9時から全力で受験する受験生たちの環境を整えるため、コン・ドンチョル文教部長官が試験の実施状況を視察しました。今回、文教部では、より正確で迅速な答案処理のため科学技術研究所の電子計算機を利用しました。これによって、受験生の得点集計や点数の転記が人の手を経ずに正確に行われ、合格判定に新たな役割を果たすようになりました。

 「予備考査」は、できるだけ均質な環境を受験生に提供するということで、韓国社会あげての配慮が求められるようになった。警察にも、受験生を会場まで送り届ける便宜をはかるように指示が出された。

 

 1977年頃から、筆記の「本考査」の試験科目が減らされて、合否判定で「予備考査」の得点の比重が上がり、1981年度の入試から各大学の「本考査」をやめて、「予備考査」の得点と高校の内申書で選考を行う方針が1979年に示された。

 

 

  学力試験(1981~1993)

 朴正煕大統領が暗殺され、粛軍クーデターで国政の実権を握った全斗煥チョンドゥファン少将は、1980年7月に「7・30教育改革」を断行した。大学入試の選抜は、大学別の「本考査」が廃止されて「予備考査」と高校の内申書によって行なうことになった。「本考査」がなくなったため「予備考査」は「予備」ではなくなり、「学力考査ハンニョッコサ」と名称が変わった。同時に、教育「正常化」という名目で、当時過熱していた塾や家庭教師などの課外授業を一切禁止した。また、大学では入学者数を増やして、卒業時に卒業者を絞り込む「卒業定員制」が実施された。

 

国家保衛非常対策委員会は、教育の正常化と過熱した課外の解消方策を発表しました。81年度から大学入試の本考査を廃止し、各種の課外授業を一切禁止するという内容の発表に対して、「課外授業のない社会」「勉学に励む大学」の実現に大きな期待が寄せられました。過熱した課外授業追放の影響は、すぐに塾街に及びました。中高生は8月1日から私設の塾に通うことができなくなったため、すでに受講を申し込んでいた生徒たちが受講料の返還を受けるため、塾街では各塾の窓口が払い戻しに追われました。教育正常化方策の主な骨子は、81年から小・中・高校の教科を統廃合し、82年から教科書の改編を進めて学習負担を軽減し、生徒たちに幅広い教育を実施して余裕ある学校生活を実現しようというものです。大学入学試験では、大学別の「本考査」をなくし、高校の内申成績と予備考査の成績だけで新入生を選抜するのを原則とし、過熱した課外授業を解消して高校の授業の正常化を図ります。81年度の大学入学の合否基準は、内申成績20%以上、予備考査成績50%以上とし、残りの30%は各大学が内申成績と予備考査成績を自律的に配点できるようにしました。また、来年度の新学期からは大学入学者数を増やし、現在の昼夜間制の区分をなくして全日制で授業を行ない、新入生を大学定員よりも多く入学させて入学を容易にする一方で、定められた人数だけを卒業させる卒業定員制を実施することで、過熱した入試競争を沈静化させ、大学での学びの雰囲気を醸成して大学の質を高めることを目指すものです。

1981年度の大学入学予備試験が11月20日、全国451の試験場で一斉に実施されました。この日の予備試験には昨年より約15%多い57万5000人余りが受験しました。7月の教育正常化改革措置により、すべての大学で本考査を実施せず、代わりに予備考査成績を80%水準まで反映させるため、予備考査の比重が大きくなったことで受験生たちはより一層慎重な姿勢で問題を解いていました。

 このように、大学の合否に占める「学力考査」の比重が高まると、「学力考査」実施の公正性や均質性を韓国社会全体で守るべきだとする雰囲気がさらに一層高まった。このため、警察や公務員、それに民間のボランティアや企業などが、こぞって受験生のサポートに乗り出した。

 

1982年度の大学入学学力テストが全国28地区466の試験場で一斉に実施されました。この日の朝、全国各地で警察が先頭に立って受験生たちが時間通りに試験場に着けるよう輸送作戦を繰り広げ、官用車や自家用車、タクシーなども積極的に協力しました。パトカーや白バイも受験生を乗せて、奉仕に精を出しました。この日、試験会場の外には高校の後輩や先輩が詰めかけ、試験場に入る自分の学校の生徒に温かいお茶を振舞って激励しました。受験生は朝8時30分までに試験場に入場し、9時から試験を受けましたが、今回の試験問題の出題傾向は、高校の学習内容から包括的に出題され、単純な暗記ものではなく、全体の流れや基礎的理解を土台に応用や適用力を求める問題が多かったです。

 

 一方、一回の試験の結果だけで合否が決まるため、どこの大学のどの学科に出願するかで、合否が大きく左右されることになった。よりランクの高い大学の競争率の低い学科を狙った駆け込み出願が多くなり、毎年締め切り間際の各大学の出願窓口が大混乱になった。「ヌンチ出願」といわれ、逐次発表される各大学の各学科の志願状況を見ながら最後の最後に倍率の低いところに願書を出そうとする。そのため、締め切り時間ギリギリに出願窓口の建物に無理矢理入る受験生やその親の姿が毎年のようにニュースになった。

 

  修学能力試験(1994~)

 1987年の民主化宣言以降、韓国社会では社会的・政治的な変化が起きた。大学入試制度にも再び大きな変化が起きた。1993年、「大学修学能力試験」が始まった。同時に大学別の筆記入学試験も復活した。

 

 「大学修学能力試験」への移行は、1991年に発表され、1993年8月に最初の試験が実施された。大韓テハンニュースの未公開版に1993年8月25日作成の動画が残されている。ソウルの第8地区の21試験場の瑞草ソチョ中学校の校門前の様子を撮影したもの。ソウルでも特に進学熱の高い江南カンナム地区の試験場で、受験生の母親が校門前に詰めかけている。プラカードを持って受験生を応援しているのは、1919 年の3・1運動にも生徒が参加した名門とされる京畿キョンギ女子高校の生徒たち。1988年に江南の開浦洞ケポドンに移転したこともあって、在校生の受験生が多い会場に後輩たちが応援に来ていたのであろう。遅れてタクシーで試験場にきた受験生を試験会場の中までテレビカメラが追いかけているのがすごい…。

 

 

 1997年からは、大学別の筆記科目試験が廃止され、「修学能力試験」の成績に加えて、大学別の論述や面接を点数化して加算して合否を判定する入試制度が始まった。この時に、高校の内申書の生活記録それに社会活動などを判定材料として、これに各大学が実施する論述や面接の結果を加えて合否を決める「随時スシ」募集が導入された。「随時」は、日本でいう「AO入試」「自己推薦」に該当する選抜方式である。「修学能力試験」の成績が重視される入試は「定時チョンシ」募集と呼ばれるようになった。当初は「定時」での入学定員の方が多かったが、次第に「随時」方式での入学者枠が増加し、2007年ではほぼ同率となり、それ以降「随時」募集での入学比率が高くなってきた。

 

 

 「随時」では「帰国生徒枠」があったり、「社会体験」「語学習得」が入試で評価されるため、それをねらった早期留学が一層盛んになった。小学生の子供を母親と一緒に国外留学させて、単身韓国に残って仕送りのために働く父親が「キロギアッパ」と呼ばれる社会現象になった。

 

 一方、デジタル技術の発達とともに、新しい形の不正が発覚したことがあった。2004年に光州クァンジュの修学能力試験会場で、携帯電話を使った集団不正行為が摘発されて大きな社会問題になった。

 

SBS 뉴스「어떻게 휴대폰으로 부정행위 했나」2004.11.20
写真は再現場面

 

 この事件以降、試験場への携帯電話機の持ち込みが全面禁止され、全試験場に携帯電波の遮断機の設置まで検討された。さすがに経費的に無理だということで実現しなかったが、試験場の監督官に金属探知機が配布された。試験場まで受験生を送っていった母親が、受験生に自分のコートを着せて試験場に送ったところ、そのポケットに母親の携帯電話が入っていて受験生が退室させられるといった悲劇も起きた。

 

 「修学能力試験」では、受験生の「公平な受験機会」を担保するということで、遅刻しそうな受験生をみんなで受験会場に送り届けるだけではなく、不正行為を防ぐためにも最大限の措置を講じるべきものとされている。ただ、「随時」が増えていることで、大学受験における「公平性」とは何か…という議論も起きているのだが。

 

 2025年に実施される予定の4年制大学の入学者選考では、「随時」が79.9%となっている。首都圏の大学では「随時」募集は65.4%に留まっている(『釜山日報』2024年5月6日)が、新入生確保に苦慮している地方大学では、「随時」によって入学定員を確保しようとする傾向が強まっている。

 


 

 最後に、韓国での大学進学率の高さがよく言われるが、日韓の比較のグラフをアップしておこう。

 

 

 日本では、芸能界やスポーツ選手で、高校卒業から「業界」に入る傾向が強く、そのため俳優やタレントで大学に入学するとそれだけで話題になるし、高校野球で活躍した選手が大学野球に行くのも話題になる。それに対して、韓国の俳優やタレントを検索するとほとんどが「大卒」だし、高卒からプロのスポーツ界に行く選手というのも日本より少ない。

 

 そのあたりを含め、「大学進学」には、数字だけでは読み取れない日韓の社会の違いがありそうだ。