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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 ソウルの地下鉄6号線に孝昌公園前ヒョチャンコンウォンアップという駅がある。この駅から徒歩で7~8分北に上がると孝昌公園が広がっている。ソウル駅の南西側でソウル駅からも歩ける距離にある。もともとは22代王正祖の長男文孝世子ムンヒョセジャの墓所だったが、1940年に墓所を移して公園とされた。当時は、公園の南側一帯には朝鮮鉄道局の官舎があって日本人が大勢住んでいた。

 

 

 1945年、日本の植民地支配が終わると、この孝昌公園には抗日運動の闘士や韓国独立に関わった人々が葬られ、追慕の場となった。
 

 この孝昌公園には「三義士墓域」があって、李奉昌イボンチャン尹奉吉ユンボンギル白貞基ペクチョンギの3人の墓がある。向かって一番左は、安重根アンジュングンの墓域。旅順で処刑された後の埋葬地がいまだ不明で遺骨を移葬できていないため、仮の墓ということになっている。

 

 

 李奉昌は、抗日組織韓人愛国党のメンバーで、金九キムグから資金援助を受けて日本に渡り、1932年1月8日、代々木練兵場での陸軍観兵式からの帰路にあった天皇の馬車の車列に手榴弾を投げた。警視庁正門前で起きたので「桜田門事件」と呼ばれる。手榴弾は天皇の馬車のはるか前方で炸裂し、所期の目的を果たすことなく終わった。

 

 

李奉昌はその場で逮捕され、大逆罪で10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。

 

 

 この年、上海でも日本の要人を狙った襲撃事件が発生した。1932年4月29日の天長節(天皇誕生日)に上海の日本人街虹口公園で行われた祝賀式典会場で、尹奉吉が貴賓席に手榴弾を投げ込み、上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将ら二人が死亡、多数が重傷を負った。尹奉吉も金九の韓人愛国党のメンバーであった。のちの1945年9月、ミズーリ艦上で降伏文書に外務大臣として署名することになる重光葵は、この事件当時上海駐在公使として現場に居合わせて負傷し、右脚を切断した。尹奉吉は、軍法会議で死刑判決を受け、金沢の練兵場に押送されて銃殺刑に処せられた。

 

 翌1933年には、上海解放連盟を結成した元心昌ウォンシムチャン、白貞基、李康勲イガンフンらが在中華民国日本公使有吉明の暗殺を企図したとして逮捕される事件が起きた。3月17日、上海の高級料亭「六三亭」で催された宴会に出席する有吉を狙い、爆弾と拳銃で武装して襲撃を企てたが、事前に察知した日本の領事警察は、襲撃グループが待機場所にした中国料理店松江春に張り込んでいて、3名が逮捕された。

『時事写真-昭和八年、上海を中心として』より

 

 彼らは長崎に押送され、11月に無期懲役の刑を宣告されていた。白貞基は熊本刑務所で服役中の1936年に獄死した。

 

 日本人アナーキスト矢田部勇司も関係していたこの事件、在上海日本総領事が本国に送った報告(駐上海日本総領事石射猪太郎「有吉公使暗殺による不逞鮮人一味検挙に関する件」)には、事前に内部からの情報があったとあり、密告者がいたことをうかがわせる記述がある。その後外務省の「在外帝國公使館及公館員被害關係雜件」が発見され、回想録などで「沖」「玉埼オッキ」と言及されていた内通者が、日本人の沖であったとの記述があるとされる(成周鉉「研究者が見た義士・元心昌」)。

 

 

 1945年、植民地支配が終焉を迎えると、日本内地に埋葬されていた「三義士」の遺骨の奉還運動が起きた。

 

李奉昌義士の遺骨は殉国志士遺骨奉還会を東京で組織して、浦和刑務所の埋葬場から東京に運び安置し、尹奉吉義士の遺骨もすぐに奉還できるように進めている

 これには、大逆罪で服役していて釈放され、居留民団の団長になっていた朴烈パクヨルや、上記の六三亭事件で服役していて釈放された李康勲が中心になって関わっていた。

 

 金沢に仮埋葬されていた尹奉吉の遺骨は、1946年3月9日にやっと所在が確認されて棺に収められた。

『京郷新聞』1987年8月10日掲載 姜徳相が発見した写真

 

 1946年6月に三人の遺体は朝鮮に戻り、7月7日に国民葬が執り行われ孝昌園に埋葬された。

 


 大韓臨時政府で要職を歴任し、解放後、李承晩と大韓民国初代大統領の座を争った金九は1949年に暗殺された。 6月26日に暗殺された金九の国民葬は、7月5日に東大門のソウル運動場で大々的に執り行われ、その後孝昌公園に埋葬された。

 

フル動画は「動く現代史」で「김구」で検索すると閲覧できる

 

 しかし、李承晩イスンマンは政敵だった金九の業績全てを否定したため、金九を評価することはタブー視された。朴正煕政権以降はそれなりに再評価は進んだが、評価は一部にとどまっていた。1998年、金大中キムデジュン政権になると白凡ペクポム(金九の号)記念館建設委員会が発足し、大統領金大中が記念館の建設支援を約束した。記念館建設の募金運動が始まり2000年6月に起工式が行われ、2002年10月に大統領金大中夫妻も出席して白凡記念館が開館式が行われた。

 

左:1975年 右:2023年

 

1909年10月ハルビン駅の活動写真の番外編

 

 1909年10月26日にハルビン駅で伊藤博文が安重根アンジュングンによって銃撃される現場を撮影したコプツォフのフィルムが日本に到着したのは、頼母木たのもぎ桂吉が原版の独占契約を結んでから1ヶ月以上経過した翌年の1月5日、伊藤博文暗殺事件からは2ヶ月以上が経っていた。日本国内での一般向けの上映は、さらにそれから1ヶ月近く経ってからのことだった。

 

 1904〜5年の日露戦争以降、日本国内でも写真印刷技術が進み、新聞は数日遅れで写真が掲載できるようになり、写真ニュースの役割も担っていた絵葉書も原版入手から3日〜1週間程度で印刷・販売ができるようになっていた。活動写真も、撮影からかなりの短時間で上映できるようになっていた。さらに、国内はもとより、世界各地での出来事のフィルムが数週間で国外にも販売・配給が可能な体制へと移りつつあった。

 

 そうした中で、コプツォフが撮影した伊藤博文の暗殺映像の日本国内上映が、事件発生から3ヶ月後というのは、かなり時間がかかっている。その間の事情を調べてみたら、伊藤博文の国葬の活動写真に関しても興味深い事情がわかってきた。ここでまとめておこう。

 

◆コプツォフのロシア上映資料

 実は、コプツォフは自身が撮影したフィルムを日本に運ぶ前、1909年の11月から12月にかけて自分の撮ったフィルムをヨーロッパロシアのバクーとカザンで上映する準備をしていた。それが、コプツォフが自分で日本に運搬する12月末から1月初旬にかけて上映されたとの記録が残っている。

 

 この事実は、2015年1月に放送されたKBSの番組取材の中で資料とともに紹介された。1947年に著述され1996年に出版されたV.E.ヴィシュネフスキー『革命前のロシアのドキュメンタリー映画 1907-1916』の中に、コプツォフの映画「伊藤公爵の殺害」が、1910年1月4日にバクー(現在のアゼルバイジャンの首都)で、さらに1月19日にカザンで上映されたとの記述がある。

 

420. ハルビン駅での伊藤侯爵の暗殺と日本での葬儀(伊藤公の暗殺)
記録映画 300m P.V.コブツォフ  公開:1909年12月22日(バクー)  1910年1月6日(カザン)
 撮影(10月13日)P.V.コブツォフ、暗殺の全場面を記録した唯一の目撃者である映画撮影者であり、襲撃、暗殺、そしてその後の遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した。映画は全部で27の撮影シーンで構成されている。伊藤公のハルビン到着、駅での歓迎、伊藤公とロシア財務大臣ココツェフが儀仗兵を閲兵、伊藤公の悲劇的な暗殺、伊藤公の遺体を載せた列車の出発、共犯の疑いがかけられた朝鮮人たちの旅順への送致、伊藤公の遺体が日本の横須賀港に到着…

(日付表記はロシア暦:現行の西暦日付と-13日の差がある)

 KBS取材班は、カザンの資料館で見つけた1910年1月18日付の新聞『カザン・テレグラフ』に掲載された映画の広告と内容紹介を番組内で映像とともに紹介している。

 

KBS番組からのキャプチャー画像

 

 映画の内容を紹介した記事(下段画像)によれば、ハルビン駅で伊藤博文が安重根に撃たれた動画に加えて、その後伊藤博文の遺体が巡洋艦秋津洲あきつしまで横須賀港に到着する場面から、11月4日に日比谷公園で行われた国葬、その後の墓所での埋葬の様子も写っているとされている。さらに、この記事では、

伊藤公爵の棺の後ろにノギ将軍、トウゴウ、イトウ、カミムラなど
白い服を着た伊藤公爵の妻、ヤマガタ、オオヤマ、イノウエなどの元老

と、乃木希典、東郷平八郎、伊東祐亨、上村彦之丞、山縣有朋、大山巌、井上馨といった有力者の名前もロシア語で具体的に表記されている。

 

 KBSの取材チームは、モスクワのロシア国立映画写真資料文書館で、伊藤博文の国葬のフィルムを確認した。2015年1月13日放送の「時事企画 解放70周年特集’銃撃の瞬間’を誰が隠したか?」のナレーションではこのように紹介している。

 

軍人たちの行進、伊藤博文の遺家族、勲章を捧げ持つ将軍たち。取材チームがカザンで確認した内容と同じ。コブツォフが撮影した映像に間違いない。

 この映像は、NHKが1996年2月17日に放送した「映像の世紀 JAPAN 第11集」でも使われている。場面の順序は入れ替わっているが、これは同一の映像である。

 

 

 この映像を所蔵するロシア国立映画写真資料文書館のカードには次のように記載されている。


KBS番組からのキャプチャー画像

東京における伊藤公の葬儀

白黒 映画 第1部

撮影技師 П.В. コプツォフ

制作 ブラザース・パテー社

 ヴィシュネフスキーの著作には「(コプツォフが)遺体の送還や葬儀などのシーンを撮影した」とあり、この所蔵カードにも撮影技師 P.V.コプツォフ」とあることから、KBSの番組では、この伊藤博文の東京での国葬のフィルムは、コプツォフが日本に渡って撮影したものとしている。つまり、コプツォフは、ハルビンで安重根による伊藤博文銃撃映像を撮影し、その後の東京での伊藤博文の国葬までの一連のフィルムもコプツォフが日本で撮影したと断定したのである。ロシア国立映画写真資料文書館副館長R.M.モイセーエワも、このKBSの見解を追認して、コブツォフが撮影したフィルムの一部がパテ兄弟社の映画「伊藤侯爵の葬儀」に使用されたとしている(ロシアと韓国の対話フォーラム挨拶)。

 

 しかし、コプツォフが伊藤の遺体の横須賀到着から国葬までを日本で撮影したというのはどう考えても無理がある。伊藤博文の遺体が、巡洋艦秋津洲で横須賀に運ばれることが公表されたのは10月29日、遺体が横須賀に到着したのは11月1日早朝。スケジュールの公表以前にコプツォフがハルビンを出て日本に向かったとしても、11月1日に横須賀港でカメラを回すことは不可能だ。それに、この時期、頼母木桂吉のフォルム買付交渉も行われていて「十一月五日に至り一萬五千圓位ならば譲渡を得べき見込みありと傳へ來り」(後月山人『鳴呼伊藤公爵』)とある。つまり、コプツォフが日本で伊藤博文の国葬を撮影するのは時間的にも状況的にもあり得ない。

 

◆伊藤博文国葬の活動写真

 では、このロシアに現存する伊藤博文の国葬の映像はどのように撮られたものなのか。

 

 伊藤博文の国葬を撮った活動写真については、東京神田の梅屋庄吉のエム・パテ商会が撮影したものがあったことが知られている。日比谷公園の国葬会場での活動写真の撮影許可が出なかったため、国葬の前日に公園内の松本楼にカメラを隠しておいて、当日の朝、梅屋庄吉とカメラマンの男沢粛が燕尾服にシルクハットという格好で会場に潜入して撮影したという男沢粛の回想談が残っている(車田譲治 著『国父孫文と梅屋庄吉 : 中国に捧げたある日本人の生涯』六興出版 1975)。宮内省 の職員に制止されてフィルムを没収されそうになったが、未撮影のフィルムを渡して撮影フィルムを持ち出したという。この映画は11月27日から神保町の新聲館などで上映された。エム・パテのこの国葬の活動写真上映に関しては12月1日付の『都新聞』がこのように伝えている。

神田新聲舘の活動寫眞は去る二十七日より開演し史劇愛と罪と云ふ最長尺物の外數種日本演劇には人の親及び喜劇寫眞の間違の外に伊藤公爵の靈柩到着と國葬の實況電氣舞踊もありて相變らず每夜盛況なりと

 日比谷公園での伊藤博文の国葬会場の参列者には、洋装喪服のドレスコードがあって、和装の正装の人が入場できなかったというエピソードも伝えられている。ところが、ロシアに現存する伊藤博文の国葬の葬列の画像を見ると、沿道には洋装の喪服姿の女性もいるが、大半は和服姿の女性や男性、それに子供の姿も多い。明らかに、国葬会場内での映像ではなく、霊南坂の官邸から日比谷公園に向かう途中の道筋で撮影されたもの。となると、これはエム・パテの映像ではないということになる。

 

 

 今回、資料検索を繰り返す中で、男沢粛が撮ったものとは別のフィルムが撮影され上映されていたことが判明した。京都の横田永之助の横田商会が、伊藤博文の柩が横須賀に到着するところから国葬の日の日比谷の沿道の様子を撮ったフィルムを、いち早く11月10日から京都南座で上映していた。国葬から6日で活動写真を劇場で上映したというのは、当時としては驚異的なスピードである。

 

 1909年11月13日の『大阪朝日新聞京都付録』に次のような記事がある。

南座今囘の活動寫眞呼びものは伊藤公爵の國葬である、明治の元勳が國葬の大盛儀、東京で行はれしを座して京都に觀られるとは有難い御代である、橫須賀着柩の模樣は甚だ鮮明に出て靈柩通過の際は或る一種の靈氣に打たれるやうな氣がする、葬儀當日は雨天でもあつたし寫眞は少しく薄ボンヤリしてゐるが、日比谷のあたり儀仗の兵整列して百官靜かに付き隨ふ狀は、寫眞薄さがゆゑに殊に嚴肅を覺えて淚一入に多い

 横田永之助は、パリの万国博覧会に京都府出品委員の1人としてパリに派遣され、この時に世界の映像市場で最大のシェアを占めることになるパテ兄弟社と、フィルム提供について正式の契約を交わしていた。1909年に横田商会が撮影し、いち早く京都南座で上映した伊藤博文の国葬関連の映像も、パテ兄弟社の提供網で国外にも供給されたものと思われる。それが、ロシア国立映画写真資料文書館のカードに「制作:パテ兄弟社」と記載され、買い取って所有していたP.V.コプツォフの名前が撮影技師という肩書きとともに記録されて保管されていると推測すると、それなりに筋が通る。神田のエム・パテ社もパテ兄弟社のパテを冠してはいたが、こちらは無断借用したものだったという。ロシアに現存する伊藤博文の国葬のフィルムは、京都の横田商会が撮影・上映・販売したものであろう。

 

◆バクーとカザンでの上映

 コプツォフは、10月26日にハルビンで撮影したフィルムの売却交渉を頼母木桂吉と進める一方で、撮影当初からヨーロッパロシアでの上映を計画していたようだ。

コゝフツオフが哈爾賓に來遊したのであるが、自分はコゝフツオフだけでは興味が少いから寫眞を撮らうとは思はなかった然るに間もなく伊藤公爵の來遊と云ふことになった公は親露主義の人でもあり、何か重大なる會見があるのだらうと思つて、實は興味を持ってその寫眞を撮らうと思い高い足場を作ってプラツトオームで待った。汽車が着いたとき なんでもこの寫眞を完全に撮って露西亞人に見せてやろうと、他の事は考へずに撮影機のハンドルを廽はして…

(『京城新報』1910年2月13日掲載 国技館観覧記)

 その結果、バクーとカザンで、自分の撮影した10月26日のハルビンの映像を上映したが、『カザン・テレグラフ』の記事によれば、そこでは伊藤博文の遺体の横須賀到着から日比谷公園での国葬の映像も使われていたと思われる。伊藤の遺体の横須賀到着から国葬・埋葬の映像は、パテ兄弟社のルートで販売された横田商会の映像が使われたのではなかろうか。

 

 コプツォフは、ハルビンに来る前はヨーロッパロシアのロストフで活動写真を撮影・上映していた。ドン川東側のロストフはボルゴグラードからヴォルガ川沿いにカザンとつながっており、バクーとは軍用道路の道筋でつながっていた。

 

 バクーとカザンでの上映の下準備ができると、コプツォフ本人は、極東ロシアに戻り、1月3日にフィルムの原版を持ってウラジオストクからモンゴリア号に乗船して5日に敦賀に上陸した。ウラジオストクからの乗船の前に、ハルビンのボルトスムート劇場での上映の手はずを整えた。1910年1月4日にバクーで、1月11日からハルビンで、そして1月19日にカザンで上映された。バクーとカザンでは、横田商会が撮影した伊藤博文遺体到着から国葬までのフィルムと抱き合わせで上映された。ただ日本ではもちろん、ハルビンでも伊藤博文国葬のフィルムの上映は一切やっていない。日本やハルビンでの上映権は横田商会が持っていたためであろう。

 

 コプツォフ自身、ハルビンで撮影したフィルムだけでは観客は納得しないかもしれないと思っていたのだろう。それもあって、バクーとカザンでは横田商会の国葬フィルムと抱き合わせで上映し、それができない日本での上映には、自らが講演者として登壇するために日本にまでやってきて両国国技館での上映から京都南座での上映までほぼ2ヶ月間日本に滞在したものと考えられる。

 

◆エピローグ

 こうした経緯で、バクーとカザンで使われた伊藤博文の国葬のフィルムがロシア国立映画写真資料文書館に残されることになった。コプツォフがハルビンで撮影した伊藤博文銃撃現場の映像が残されていないのは不可解だが、頼母木桂吉との間で交わした契約条件

その條件はコプツエフ氏所有資産を擔保とし若し原版以外に一本たりとも同寫眞の頒布を見たる曉は同氏の抵當資産を没收する契約

(12月1日付『東京朝日新聞』)

この契約内容に沿って残さなかったとも考えられる。

 

 ただ、コプツォフ自身は、手元には自分が撮影したフィルムを残しており、それが1935年になってハルビンのニコライ・コプツォフのところから発見された。その一部が1941年に制作された映画「ニュース映画発達史 躍進のあと」に収録されて、今日まで伝わっている。

 

 1909年の安重根による伊藤博文の暗殺に関する貴重な活動写真のフィルムは、このような数奇な運命を辿って今日まで伝わってきているのである。

 


 

 ちなみに、伊藤博文の国葬から10年経った1919年3月、朝鮮の高宗コジョン皇帝(李太王)の葬儀が国葬として京城で行われた。しかしこの国葬では、活動写真の撮影が禁じられた。スチール写真は内地からも押しかけて盛んに絵葉書が出たのだが…。なぜ活動写真の撮影を禁止したのかはわからない。

 

 ところが7年後、1926年に純宗スンジョン皇帝(李王)が逝去して国葬を行なった時には、一転して朝鮮総督府が積極的に国葬の活動写真を撮って植民地統治のための懐柔の手段として利用している。

 

 

(抜粋版)

長いバージョンはこちら

 

 

 現代でも日本では「国葬」が極めて政略的で国民を惑わす手立てとして使われているし、その映像もその時代の統治層の思惑に左右されて利用されるということなのだろう。

 

◆NHKの放送・KBSの探訪

 1996年2月17日午後7時30分からNHKで「映像の世紀 JAPAN 第11集 世界が見た明治・大正・昭和」が放送された。その中に、ロシアのカメラマンが撮影した「連行される安重根」とされる映像があった。

 

 

 韓国のKBSは、このNHKの映像に関して、その後二つの番組を制作している。一つは、2009年10月24日に放送した「歴史スペシャル15回 安重根義挙100年 伊藤狙撃映像を探せ(역사스페셜 - 안중근 의거 100년, 이토 저격 영상을 찾아라)」、もう一つは、2015年1月13日放送の「

時事企画 解放70周年特集’銃撃の瞬間’を誰が隠したのか?([시사기획] 광복 70주년 특집-'저격의 순간' 누가 숨겼나?)」である。

 

 今残っている映像には、安重根アンジュングンによる銃撃の瞬間は写っていない。KBSの番組では、その部分もあったのではないか、それを探せないかという執念で取材・調査を行い、貴重な資料映像や多くのヒントを提示している。ただ、不明な点や資料解釈の誤りもみられる。ここでは、KBSの番組で使われた資料も参照しながら、新たに発掘した資料を加えて、このフィルムについてまとめてみよう。

 

・撮影者コプツォフ

・頼母木桂吉による映像買付け

・日本に届いたフィルム

・日本での上映

・フィルムの再発見

 

◆撮影者コプツォフ

 この映像を撮影したП.В. コプツォフ(П.В. Кобцов)は、ウクライナの東側ロストフで映画上映をやっていたが、その後極東のハルビンに移り、1905年1月にハルビンで最初の映画館を開いた(Д. Э. リークノフ「1900年から1945年までのハルビンにおけるロシアの映画撮影」『イズベスチヤ東方研究所紀要』1(21) (2013))。そのコプツォフが、1909年10月26日にハルビン駅で撮影することを思い立った動機について、後日この映像が日本で上映された際、来日して上映会場で講演したコプツォフ自身が次のように語ったとされる。

コゝフツオフが哈爾賓に來遊したのであるが、自分はコゝフツオフだけでは興味が少いから寫眞を撮らうとは思はなかった。然るに間もなく伊藤公爵の來遊と云ふことになった。公は親露主義の人でもあり、何か重大なる會見があるのだらうと思つて、實は興味を持ってその寫眞を撮らうと思い、高い足場を作ってプラツトオームで待った。汽車が着いたとき なんでもこの寫眞を完全に撮って露西亞人に見せてやろうと、他の事は考へずに撮影機のハンドルを廽はして…

(『京城新報』1910年2月13日掲載 国技館観覧記)

 コプツォフは、ロシアの財務大臣ココツェフと伊藤博文の二人が会談のために挨拶を交わし、二人が何やら話をしている場面を撮れば、ロシアの劇場で観客が呼べると考えた。従って、この二人が一緒のアングルを狙って撮ったものと思われる。カメラは三脚で固定し、映写機は手回しで撮影するものだった。

 

 伊藤博文の乗った列車は、午前9時前にハルビン駅に到着、伊藤博文の乗ってきた客車内にココツェフが乗り込んで30分ほど会談した。その後、列車から降りてロシアの儀仗兵を閲兵し、ハルビン駐在の各国外交団と言葉をかわして客車に戻るところでロシア儀仗兵の列をすり抜けて来た安重根に銃撃された。

 

赤ラインは一松書院による

 

 安重根はその場でロシア軍の憲兵に拘束され、撃たれた伊藤博文が担ぎ込まれた列車は、死亡した伊藤の遺体を乗せて午前11時40分に大連に向けて発車した。安重根は、ハルビンを管轄するロシアのポグラニーチナヤ(現在の綏芬河)管区裁判所の検事による取り調べを受けることになり連行された。

 

 映写技師コプツォフは、ココツェフと伊藤博文の出会いの映像を撮ろうと、ロシア軍の軍楽隊の前、伊藤博文の客車の降車口が見通せる場所にカメラを据えていた。満鉄公所の庄司鐘五郎が撮影した写真に映写機を廻すコプツォフの後ろ姿が写っている。

 

 そしてコプツォフは、伊藤博文が安重根に撃たれる場面に立ち会うことになった。ただ、その銃撃の瞬間に果たしてコプツォフは撮影機の手回しハンドルを廻していたのだろうか…。

 

頼母木たのもぎ桂吉による映像買付け

 コプツォフは、ロシアの警察部長の仲介で在ハルビンの日本総領事館にそのフィルムの買取りを持ちかけた。総領事館は東京の外務省に「該原版譲與方交渉シタル處同寫眞師ハ代償トシテー萬留ヲ要求シ來レリ」として、購入について問い合わせたが、東京の外務省は買取りは不要と回電した。活動写真の資料価値をさほど認識していなかったのかもしれないし、1万ルーブルは役所が資料として購入するには高すぎた。当時の日本円で1万〜1万2千円、現在の貨幣価値だと数千万円という金額になる。

 

 ところが、コプツォフの映像フィルムの存在を嗅ぎつけて「これは儲かる」と買付けに乗り出した人物がいた。頼母木たのもぎ桂吉である。

 

 頼母木桂吉は、1867年10月備後府中で生まれ、上京して第一高等学校を卒業し、新聞業界に入った。そこで頭角を表して報知新聞の経営に辣腕を振るった。夕刊の発行を始めたのも頼母木桂吉のアイデアだという。その後欧米のマスコミを視察し、帰国すると1909年にジャパン・プレス・エージェンシーを立ち上げた。日本語では「新聞代理店」とされるが、各新聞社に記事を売るニュース配信業に加え、現在の広告代理店の機能も兼ね備えた新業種だった。ゴシップなども積極的に扱って時事的な興行でも収益を上げた。頼母木桂吉は、後に立憲民政党の国会議員になり、広田弘毅内閣の逓信大臣、1939年には東京市長になったが、この映像買付けの時点では政界とは無縁だった。

 

 外務省内にも食い込んでいた頼母木桂吉は、ハルビンでの事件映像の存在を知るとすぐに大連の知人に、購入をコプツォフに打診するよう依頼した。当時、時事的な活動写真の撮影や上映が盛んになりつつあり、このフィルムに目をつけたのだろう。伊藤博文の国葬後、いち早く出版された後月山人『鳴呼伊藤公爵』(1909 弘仁堂)には、このような記述がある。

是より先き、東京銀座ジャパンプレスエゼンシー賴母木桂吉氏は、這は國民の渇望を癒すべく又活ける國民敎育の好資料たり。若し歐洲人の手に歸せば寧ろ國民の屈辱なりとし、評價の如何に係らず必ず期して手に入んと大連の知人に電報して其交渉を依頼せしが、十一月五日に至り、一萬五千圓位ならば譲渡を得べき見込みありと傳へ來り。

(中略)

遂に一萬五千圓にて賴毋木氏の手に歸すべく契約成り、現品は目下モスコーに保存しあれば、十二月一日東京に送荷すべき筈なり。

 11月18日付の『読売新聞』と『東京朝日新聞』が「伊藤公狙撃活動写真」という記事を掲載しているが、記事内容がほぼ同じなので、ジャパン・プレス・エージェンシーの情報を記事化したものであろう。銃撃現場の状況が1時間ほど映っていると書かれているが、実際に上映された映像はかなり短い。さらに、12月1日付の『東京朝日新聞』にジャパン・プレス・エージェンシーがフィルム原版の独占契約を結んだことが報じられた。それだけ価値の高いフィルムだというわけだ。これは、1万5千円の投資を回収して儲けを出すための頼母木桂吉側の宣伝戦略の一環ともみられる。

 

 実は、この時にコプツォフは、このフィルムのロシア国内での上映を計画していた。ジャパン・プレス・エージェンシーとの独占契約は、コプツォフ自身のフィルム使用まで制限するものではなかったのだろう。実際、コプツォフは、ヨーロッパロシアのバクーとカザンでこのハルビンで撮影したフィルムを上映しており、後述するようにハルビンの劇場でも上映している。カザンでの上映の詳細は別途「ハルビン駅映像と伊藤博文国葬映像」で述べる。

 
◆日本に届いたフィルム
 12月1日付の『東京朝日新聞』には「コプツエフ氏より原版を自身携帶の上本邦観光を兼ね時宜に依り撮影當時に於ける感想を國民一般の面前にて講話説明差支なき旨通報ありたり」とある。コプツォフ自ら来日して説明しようというのだから、いかにもサービス精神旺盛のように見える。だが、フィルムの映像状態や内容だけでは、高い観覧料を取るのが難しいという判断があったようにも思われる。
 
 フィルム原版は、1910年1月5日にウラジオストクからロシア東亜汽船のモンゴリア号で敦賀港に到着したコプツォフが持参した。翌日には新橋駅に到着した。
 
 実際に到着したフィルムは、一般公開に先立って警視庁が事前検閲を行った。その結果、「其原版が想像する如き悲慘なる状況毫もなき事を確め得國民敎育の一助たらしめんとの意より今囘許可するに至れるなり」(警視庁第二部長小濱松次郎のコメント 1910年2月1日付『東京日日新聞』)検閲での削除はなかったと報じられているが、逆に言えば、新聞の事前報道で喧伝されていたような決定的な場面や、銃撃直後に狼狽して醜態を晒す側近たちの場面はなかったということだ。
 
 実は、コプツォフのフィルム(複写版)が、コプツォフ来日後の1月11日からハルビンのボルトスムート劇場で公開されていた。その映画の内容は1月16日付の『満州日日新聞』に掲載されている。当然これは日本側の検閲を受けたフィルムではない。
藤公遭難活動寫眞 伊藤公遭難活動寫眞フヒルムが數日前漸く莫斯科より哈爾賓に着し十一日より同地新市街ボルトスムート劇塲に於て興行し居れるが遭難当時の天気快晴ならざりし爲めか寫眞判明ならず加ふるに遠距離より撮影したるもの故大切の現塲は殆んど見る事を得ず只漸く遭難當時一般の情況を窺うに足るのみなるは聊か遺憾ならされど兎に角近來の呼物故場内殆ど立錐の地もなき好況にて中に三四の韓人も見受けたりと
 この観覧記に「大切の現塲は殆んど見る事を得ず」とあり、実際のフィルムに写っていたものは、日本での前宣伝からするとかなり期待外れのものだったようだ。しかし、それでも伊藤博文の銃撃現場の活動写真ということで一見の価値はあるという程度だった。特に、このボルトスムート劇場には韓国人の観客も来ていたというのは興味深い。
 
 つまり、頼母木桂吉は原版を独占的に異例の高額で買い取ったものの、実際には「漸く遭難當時一般の情況を窺うに足るのみ」という映像だった。だからこそコプツォフ自ら来日して講演する必要があったのであろう。当時は、映像がうまく撮れなかった場合は、講釈師や弁士が「頑張る」ものだったという。
 
◆日本での上映
 1月中旬、2月2日に「伊藤公百日祭」が大々的に挙行されることが発表された。頼母木桂吉は、この百日祭に合わせたイベントとしてコプツォフの映画上映興行を行うことにした。
 
 頼母木桂吉は、浅草の亀淵幻燈店に複写版の作成を依頼し(田中純一郎『日本映画発達史』中央公論社 1980)、東京では国技館で2月1日から、そして2日遅れの2月3日から大阪の弁天座で上映することにした。国技館は7日間、弁天座は10日間上映された。

  
 
 国技館が保存している「備忘録」にこの時の記録が残っている(KBS「歴史スペシャル15回」2009.10.24日放送)。主催者は、頼母木桂吉ではなく西浦仁三郎と清水友三郎。西浦は美濃の豪農で第四六国立銀行の頭取をやった人物だが、野心家で大胆な出資や買い占めの後援などを行っていた人物。コプツォフのフィルム原版の買取にも出資したのであろう。ただ、1920年代には西浦仁三郎は破産して行方知れずになっている。清水友三郎も出資者なのだろうが、今のところ名前以外は不明。
 
 
 
 この東京国技館での上映会では、撮影者のコプツォフに加えて、当時政治講談で人気を博していた講釈師で政治家・ジャーナリストでもあった伊藤痴遊が登壇した。新聞広告では、コプツォフの肩書きは「露国軍団御用写真師」となっているが、実際は民間の「活動写真技師」だった。
 
 たいそうな前宣伝もあって、国技館の入りはよかった。ただ、2日目の上映に行った『読売新聞』の記者が観覧記を書いているが、相当な酷評である。
 
 まず、伊藤痴遊が登壇して伊藤博文について語った。
英國公使館に火を放けた攘夷黨の一人が、今日東洋の偉傑と云はるゝに至つたのは、時勢を見るに敏にして、十年丈、人よりも進んだ考へを持て居たからだ。何時迄も攘夷黨で居たら、今頃は、所謂昔の豪傑で無錢飮食をやつて警察へ引張られたかも知れぬ。
 伊藤博文は幕末維新のどさくさの中でうまく立ち回った人物で、一歩間違っていれば無銭飲食で捕まってたかもしれないとまで言っている。権力を集中させて専制的政治を行ったとして批判も多かった伊藤博文を無条件で持ち上げているわけではない。
 
 この映画会も「追悼」に名を借りた客寄せ興行的な側面も強かったように思われる。
 
 そして『読売新聞』の記者は、映画そのものについてはこう書いている。
列車は勢ひよくハルピンの停車場に這入てきた。彼の中に伊藤公が居るのだと思ふと、露國藏相コゝウゾフ卿と共に軍隊の檢閲を行ふ光景で、軍國軍隊が整然と竝んで居る前をハンケチをいぢり乍ら步いて來るのが伊藤だ相だ。遠方だから顏も何も見えない。中村滿鐵總裁、古谷秘書官。小山醫師等も皆な其處に居るのだろうが、判らない。パツト寫眞が變ると、蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る。是が當時、停車場內大騷ぎの光景だ。其れから柩を列車に運び入れる光景、安重根以外の犯人を囚人列車に護送の景を寫すが、何れも滿足の出來る樣には眼に入らない。
観衆からは、ヤジが飛んだという。
「殺した奴はドイツだ、はっきり顏を寫して見せろ!」と怒鳴つた者があつた是れに拍手した者もあつた
誇大広告的な前宣伝に煽られて、高い金を払った観客としては期待外れだったのだろう。ただ、当時とすれば、ニュースの活動写真とはそんなものであったのも事実で、一気にこの活動写真の評判が悪くなったわけではなかった。
 
 コプツォフが上映会での講演で語った内容については、2月13日付の『京城新報』(京城日報の前身)が書き残している。
三十分ほどして▲伊藤公はプラツトフオームに下り藏相と竝んで步いてこられると、哈爾賓市民の歡迎團は、思はず前の方へ出る。その角へ來て、三步ばかり步いて、公は市民の代表者などに握手して居ると▲爆竹のやうな音がした、停車場の外で支那人が鳴らしてゐるのだなと氣にも止めなかつたが、これが安重根の狙擊であつたので、その中に露國士官が手を上げて一人の洋服を着た男の腕を叩き付けると、其手に持つて居たブラウニング式の拳銃から七發目の彈丸が空の方へ飛び出した。公爵下車後、露國軍樂隊が盛に歡迎樂を奏して居るので、こんな騷動が始まつて居ても少しも分らず、丁度彈丸が飛び出した瞬間に、やつと人が走つて來て、活動寫眞撮影の後に居た樂隊を止めた時は、モウ人竝が崩れ始めて大混亂。寫眞を撮りながらも、後で漸く遭難のことを聞いて驚いた位です云々と
 「爆竹のやうな音がした」時点で、コプツォフが手回しの撮影機のハンドルを回していたかどうか…。『読売新聞』には、「パツト寫眞が變ると蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る」とあるので、「爆竹のやうな音がした、停車場の外で支那人が鳴らしてゐるのだなと氣にも止めなかつた」という瞬間はコプツォフが撮影機の手動ハンドルを回しておらず、その後「活動寫眞撮影の後に居た樂隊を止めた時はモウ人竝が崩れ始めて大混亂」あたりで慌てて撮り始めたという感じだ。
 
 一方、大阪の弁天座の上映については、ハワイの『日布時事』の2月23日付の紙面に観覧記が出ている。ハワイの日系新聞にまで記事が出ているのは、関心の高さともいえようが、むしろジャパン・プレス・エージェンシーの宣伝戦略の結果と見るべきなのだろう。弁天座の上映は東京国技館と重なっているのでコプツォフは講演できない。そのため、伊藤痴遊の門人で日露戦争で手柄を立てたという退役軍人の高橋萬次郎が軍服姿で壇上に上がり、伊藤博文が銃撃されるまでの顛末を述べてから映像の上映が行われた。複写版なので、映像の中身は『読売新聞』の観覧記に書かれたことと変わらない。
 
 さらに、この大阪弁天座の上映の後、2月23日からは京都南座で上映されている。ここではコプツォフが登壇して講演している。
 ただ、京都南座では、観覧料金が1等でも60銭にまで値下げされている。東京の国技館では、特等1円50銭、一等1円だった。さらに、『大阪朝日新聞京都付録』は、初日から「大盛況」と伝えてはいるものの、初日は入場料が半額という。さらに、2日目以降、盲唖院男子部や第2中学校の生徒たちの団体見物が行われている。ということは、東京・大阪で鳴物入りで上映したものの、京都ではさすがに入りが悪くなって一般客では埋まらなくなっていたので…と思わせる状態である。この京都南座での上映は、27日で終了した。
 
 その後、このフィルムは、日本全国興行権とともに「ヒーロー活動写真」に売却されたと報じられている。「ヒーロー活動写真」は、3月22日から国華座で3日間上映した。他の映画と抱き合わせで12番目の出し物としてこの映画が上映された。3月22日付の『大阪朝日新聞京都付録』にはこのような記事がある。
國華座は…(中略)…二十二日からは京都のヒーロー活動寫眞が露人の手により伊藤公遭難寫眞の日本全國興行権を譲り受けた手初めに三日間同座で同寫眞を撮し慈善興行をする
 最初の鳴物入りでの買い付け報道、上映観覧記の華々しい報道からすると、まさに「尻すぼみ」といった感が否めない。これ以降、日本国内でのこの活動写真フィルムに関する消息は途絶える。
 
◆コフィルムの再発見
 冒頭引用したNHKの「映像の世紀 JAPAN 第11集」で使用されたハルビン駅でコプツォフが撮影した伊藤博文銃撃時の映像は、テレビ朝日が所有する「ニュース映画発達史 躍進のあと」が出典とされる。この映像は、1941年に朝日新聞と朝日映画が制作した同名の映画フィルムが元ネタで、そのフィルムは神戸映画資料館に保存されていることをKBSの「歴史スペシャル15回」(2009年10月24日放送)が明らかにし、フィルムを映写機にかけた映像を番組内で放送している。
 

 

 この映像は、頼母木桂吉のジャパン・プレス・エージェンシーが買い付けたものではなく、日本での上映に先立ってハルビンで上映されたフィルムが原本ではないかと思われる。
 
 1935年、『朝日新聞』は、12月22日付の紙面で伊藤博文銃撃のフィルムがハルビンで発見されたと報じた。、
二五年前、明治の元勳伊藤公が哈爾濱驛頭で暗殺された實況活動寫眞千五百フイートが發見された。所持者はロシヤ新聞ザリアの編輯者ニコライ・コプツエフ氏・(哈爾濱特派員二一日發)
さらに、12月24日付紙面ではこのように伝えている。
既報、哈爾濱露字編輯人コプツエフ氏宅より發見された伊藤公哈爾濱驛頭における遭難の活動フイルムは、二十三日午後一時、日本人關係者を招待して哈爾濱警察廳檢閲室において映寫された。既に二十四年を經過し保管も宜しきを得ない憾みはあつたが、フイルムはロシア臨時首相ココフツエフ伯爵の驛頭における軍隊の檢閲に始まり、伊藤公一行の列車が徐々として哈爾濱驛構内に入り、下車間もなく畫面に突如として大混亂が映し出され、その當時の模様がまざまざと追想された。(哈爾濱特派員二十三日發)
 「ザリアの編輯者ニコライ・コプツエフ」とあるのは、撮影したП.В. コプツォフの息子かと思われる。この時発見されたフィルムは、1910年1月11日からハルビンのボルトスムート劇場で上映され、1月16日付の『満州日日新聞』に観覧記事が出た、あのフィルムではなかろうか。「下車間もなく畫面に突如として大混亂が映し出され」とあり、『読売新聞』の観覧記の「パツト寫眞が變ると蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る」と一致する。やはりこのフィルムにも銃撃の瞬間の映像はなく、これによっても、銃撃直後に慌ててコプツォフが映写機を回し始めたものと推測される。
 
 1941年になって、朝日新聞と朝日映画が映画「ニュース映画発達史 躍進のあと」を制作した。この時に使われたのは、朝日新聞のハルビン特派員が「発見」を伝えたこの映像の一部であることは間違いない。この時出てきたフィルムの映像の全てが収録されているのではなく、状態の良い部分などごく一部を抜粋したのだろう。最初に出てくるはずの伊藤とココツェフが下車する場面や、安重根の発砲直後の「大混乱」の部分は使われていない。経年劣化のためかも知れないし、もともと映像状態が良くなかったためかも知れない。
 

 

  

 

 プラットホームの場面は、まず、左に伊藤が乗ってきた列車が映り込み、右にハルビン駅の駅舎が映る位置にカメラがある。しかし、停車中の列車の伊藤の乗車していた手前の客車のところは閑散としている。奥の機関車寄りよりのところに多くの人が集まっている。次の場面は、右の駅舎の位置からみて、ほぼ同じ場所にカメラが据えられいるように思える。ところが列車の姿はすでにない。これは、伊藤の遺体を載せた列車が11時40分の長春に向かって発車した後の映像かとも思われる。その前の映像も、事件発生後の映像ではないかと推測される。映像の分析は、また別の機会に改めて行ってみたい。
 
 事件の発生直後は、現場に立ち会ったこともあって、撮影したフォルムを高額で売却しようとしたものの、現像した結果は、撮影したコプツォフ自身も意外なほど映像状態がよくなかったというのが実情ではなかろうか。
 
 今ならば、何台ものカメラをセッティングし、移動しながらでも安定した撮影も可能だ。だから、「決定的瞬間がないはずがない」と思われがちだが、1台のカメラを手回しで撮影していた時代には限界がある。ということで、現在残っているП.В.コプツォフの映像には、「決定的な瞬間」は、残念ながら元々写ってはいなかったものと思われる。
 
 とはいえ、115年前のこの動画が極めて価値のある歴史記録であることは間違いない。もっと評価されていいものだろう。昨今のAIによるデジタル復元技術や着色技術を使えば、臨場感のある動画に修正できるのかもしれない。だが、チラつくフィルム映像の方が、より1909年10月26日のハルビン駅頭での出来事を生々しく感じられるような気がするのだが…。