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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 

 

1990年代 休戦委員会の停止 

 1990年代に入ると板門店の状況が大きく変わった。

 それまで休戦委員会の国連軍首席代表は、1953年に休戦協定に署名したアメリカ軍の将校が務めてきた。1991年3月、国連軍司令部は、主席代表に初めて韓国軍の少将を任命することとし、これを北朝鮮側に通告した。北朝鮮側は、韓国は休戦協定の署名国ではないとしてこの人事を認めなかった。ここから休戦委員会の開催に応じなくなった。

 

 さらに、この時期には、板門店の休戦体制にも波及を及ぼす世界情勢の大きな変動が立て続けに起きた。1991年9月、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが同時に国際連合の加盟国になった。そして1992年8月、朝鮮戦争で交戦した大韓民国と中華人民共和国とが外交関係を樹立した。さらに、東ヨーロッパの脱社会主義が進み、北朝鮮側に駐留していた中立国監視委員会のポーランドとチェコスロバキアが監視団から離脱した。

 

 1994年に、韓・米両国政府の合意に基づき、平時の作戦統制権が在韓米軍から韓国軍に移管された。これをきっかけに、板門店の南側共同警備区域の警備がアメリカ軍から韓国軍に移管されることになった。当然北朝鮮側はこれを認めない。北朝鮮は、休戦委員会からの撤収を通告した。これによって、休戦委員会は全く有名無実化した。その後、共同警備区域は、実質的に韓国軍と北朝鮮人民軍との共同警備区域になった。

 

 2000年9月に韓国で封切られた映画「共同警備区域 JSA」は、北朝鮮の人民軍兵士と韓国軍兵士が板門店の共同警備区域で対峙し、友情が芽生え、事件が起きる筋書きなのだが、このストーリーが描ける状況になったのは1994年以降のことである。

映画「JSA」ポスターより

 この板門店の警備の韓国軍移管と時を同じくして、漢江の北側の江辺道路から臨津江の川沿いを走る「自由路」が全線開通した。これによって、ソウルの都心から臨津閣・板門店方面への移動時間が短縮され、板門店ツアーやDMZツアーもこの「自由路」経由に変わった。

 1996年の板門店ツアーの動画が残っている。この時は、なぜか共同警備区域での動画撮影があまり規制されなかった。キャンプ・ボニファースを出るところから、休戦会談場内、外の八角亭「自由の家」からの会議場と板門閣、第3哨所から帰らざる橋方面が撮れている。南側の警備兵は、韓国軍兵士に置き換わっており、2000年公開の映画「JSA」に出てくるイ・ビョンホンと同じ軍服を着て半分建物に隠した姿勢で警備に当たっていた。


1996年9月板門店ツアー抜粋版

 

 共同警備区域の主体が韓国側に移譲されると、それまで国連軍司令部が大韓旅行社に限定して認めてきた板門店の見学ツアーに中央高速観光、板門店トラベルセンター、国際文化サービスクラブなどの参入を認めた。中央高速観光は元々軍との関係が密接な旅行社だった。

 1998年には、それまで国連軍の「自由の家」が建っていた跡地に韓国側が4階建ての新しい「自由の家」を完成させた。

 さらに、1998年には従来の臨津閣の横にあった「自由の橋」の上流側に新たな「統一大橋トンイルテギョ」を建設して「自由路」と連結した。この年の6月16日に、現代ヒョンデ財閥の鄭周永チョンジュヨンが北朝鮮に牛501頭を寄贈するため板門店を通過して北側にトラックで牛を運搬したが、その運搬のために現代建設が無償で新しい橋を建設したのである。この橋の開通によって、板門店ツアーもこの「統一大橋」経由にルートが変更された。

 ただ、車止めのバリケードが置かれて蛇行しないと通り抜けることができないとはいえ、片側2車線上下4車線の舗装された橋では、それまでの鉄道橋に板を敷いて上下交互通行をする片側1車線の橋を渡る緊張感がなくなったことも事実である。


 

2000年代 南北関係 

 2000年6月に、平壌ピョンヤン金大中キムデジュン大統領と金正日キムジョンイル国防委員長の南北首脳会談が実現した。

 その後、開城工業団地の建設や、南北の鉄道連結・道路の連結、それに金剛山への観光ツアーが始まるなどして、南北関係は融和が進んで行った。しかし、その一方で、板門店ツアーでは、南北の融和が進んだという雰囲気はほとんど感じられなかった。

 

 その中で、板門店とその関連施設の「韓国化」は着々と進められた。2002年までツアー客が食事をしていたキャンプ・ボニファスのアメリカ軍将校クラブは2003年に閉鎖になり、その横のブリーフィングルームもなくなった。2003年からは、旧ヘリポートの北側の駐車場横に韓国側が建てた売店とブリーフィング用の建物が使われるようになった。

2002年まで使われていたアメリカ軍将校クラブとブリーフィングルーム

2003年にバス駐車場横に新築された売店兼ブリーフィング用建物

 将校クラブでの食事提供がなくなったため、各旅行社は統一大橋の手前の集落に団体用の食堂を準備して、そこでプルコギの昼食を提供することになった。当初は、大人数の食事提供に慣れていないため食堂は混乱した。

 

 こうした板門店の韓国化にともなって、ツアー参加者への様々な規制が一段と厳しくなった。服装についての規制(ジーンズ・ノースリーブ・ミニスカート・サンダル・スニーカーなどはNG)はそれまでもあったのだが、チェックを担当する韓国兵によるダメ出しが多くなった。基準が明らかでなく理由の説明もない。ツアーを主催する旅行社のガイドや同行する写真屋のカメラマンが、予備の服や靴を準備してくれているので何とか切り抜けるのだが、軍人の判断は不合理であろうと矛盾していようと絶対なのだと何度も思い知らされた。

 

 また、写真や動画撮影の制限も厳しくなり、宣誓書の提出も厳格になった。保安上の必要性からというよりも、以前に比べて緩みがちな訪問者の緊張感を高めるためのように思われた。

 時には、エスコートの韓国兵がツアー客の前で実弾の装填をするとか、バスの前後に装甲車がつくとか、ツアー参加者の緊張感を高めるための演出もあった。

 

 他方、ツアーガイドは、休戦委員会が1991年からこの休戦会談場では開かれていないことには触れない。また、韓国が休戦協定に署名しなかったことや、韓国軍が共同警備区域での警備の前面に出たのが1994年以降ということにも全く言及しない。朝鮮戦争休戦以降、ここが韓国軍が北朝鮮の軍と対峙してきた場所だという印象を与える説明がなされた。

 

 2007年10月2日、盧武鉉ノムヒョン大統領が板門店の軍事境界線を越えて北朝鮮に行った。大統領として初の陸路からの北朝鮮訪問だった。

 この時も、板門店のツアー自体には大きな変化はなかった。ただ、2010年代に入って、服装の規制が徐々に緩和され、スニーカーやジーンズ生地の服でも問題なく入れる事例が増えた。その一方で、見学できる場所が少なくなり、一ヶ所の滞在時間も短くなり、共同警備区域内に滞在できる時間は年々短くなっていった。実際に緊張感のある時期に比べて訪問者が相当に増えて対応が難しくなってきたことも一因かもしれない。

 

 

文在寅/トランプと金正恩 

 2017年5月に、弾劾された大統領朴槿恵パククネの後任に文在寅が就任した。文在寅は、金大中・盧武鉉の対北政策を踏襲して、融和的な政策を打ち出した。

 

 そうした中で、2017年11月13日、北朝鮮軍兵士が休戦ラインを越えて韓国側の警備区域に入り、北側からの銃撃を受けて負傷した。韓国側からは動けなくなった北朝鮮兵を南側の安全領域まで移動させるために部隊(多分武装した「打撃隊」 映像の白黒反転は装備をカモフラージュするためだろう)が出動した。

 

 2018年4月27日、板門店で文在寅と金正恩が顔を合わせた。両首脳は、手をつないで軍事境界線を南から北へ、北から南へと越えてみせた。

 さらに、2019年6月30日には、トランプと金正恩が板門店で再会した。両者は、前年2018年の6月にシンガポールで初めて会談し、2019年2月にハノイでも会っていた。板門店では、軍事境界線をまたいで南北を行き来した。

 朝鮮半島情勢は、大きな転機を迎えたかに思われた。北朝鮮とアメリカの間での平和条約締結で、休戦状態のままだった朝鮮戦争が戦争の終結を迎えることになるとの期待が高まった。

 板門店では、北の人民軍兵士と南の韓国軍兵士が、それまで携帯していた拳銃の所持もやめて完全非武装で警備に当たることになった。また、板門店ツアーの見学コースにも、新たに南北首脳が面談した場所などが加えられた。

 2019年9月29日のMBCニュースデスクは、当時の板門店の様子と、その後の板門店観光の展望について、このように伝えている。

要約すると、このような内容だ。

 板門店は南北首脳会談、北米首脳会談を経て大きく雰囲気が変わったが、依然として韓国の一般市民が簡単に訪れることはできない。
 板門店を訪問する人の半数以上は国連軍司令部経由の外国人で、韓国人は国家情報院と統一部、国防部を通じてのみ行くことができる。それも先着順で、30〜40人規模の団体見学だけが許可される。身元照会のため申請後2ヶ月以上待たされるが、外国人観光客は2〜3日前にパスポート番号と名前、国籍を届けるだけで予約できる。
 政府は現在、DMZ開発計画の一環として、「安保見学」ではなく「平和体験」の場所として板門店の個人観光を推進しようとしているという。7週間以上かかっていた身元照会を1週間程度に短縮し、さらに板門店内で南北の観光客の自由往来も検討されている。

 ところが、ここで全世界的に新型コロナの感染が広がった。移動が制限され、板門店の観光ツアーも完全に休止された。また、北朝鮮は、板門店からのコロナウイルス流入を警戒して、板門店の警備兵も後方に退去させた。

 コロナの蔓延がピークを越えた2022年8月の休戦会談場では、北側が完全に放置状態になっていて雑草が生えている状況だった。

 アメリカ大統領トランプは、米・朝間の平和条約を結ぶことなく2021年1月に退任した。韓国大統領文在寅は2022年5月に退任し、尹錫悦が大統領に就任した。

 コロナで中断していた板門店ツアーは、2022年7月に再開され、週4回、1日に6回のペースで外国人観光客と韓国国内の見学者が板門店を訪問していた。

 1923年7月18日、この板門店ツアーに参加していた在韓米軍のトラヴィス・キング2等兵が北朝鮮側に越境してそのまま北朝鮮に入るという事態が発生した。板門店ツアーは全面的に停止された。

中央左寄りの黒い服の人物がトラヴィス・キング2等兵

 その後、北朝鮮はトラヴィス・キングを国外追放処分とし、9月27日に中国の丹東でアメリカ側に身柄を引き渡した。

 

 だが、その後も板門店の休戦会談場に入るツアーは中止されたままになっている(2024年10月現在)

外国人旅行者向け案内

韓国人向け申請サイト

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

1976年 ポプラ事件 

 私が初めて板門店ツアーに行ったのは、1976年3月だった。当時のガイドブックには次のような案内が記載されていた。

 大韓旅行社のバスは、統一路トンイルロ(国道1号)を北上して、途中、朝鮮戦争関連の記念碑に立ち寄り、汶山ムンサンの先の京義キョンウィ線の鉄道分断点をみながら臨津閣イムジンガクに到着。一般の韓国人が軍の許可なしで行けるのはここまで。ここからは北朝鮮を望むことはできないが、北朝鮮側に墓がある人々はここで墓参り(祭祀チェサ)をするしかなかった(現在の「望拝壇マンベダン」は1985年9月に設けられた)。

 

 ツアー客は、ここで旧京義線の鉄道橋を1車線の自動車橋にした「自由の橋」を渡り、10分ほどで米軍の前線基地キャンプ・キティホークに入る。米軍の将校クラブでビュッフェ式の食事(キムチ以外は全てアメリカから空輸した食材との説明あり)をしてブリーフィングを受ける。そこから軍用バスで非武装地帯の南方限界線を経て共同警備区域に入り、自由の家、休戦会談場を見学する。


1976年3月 筆者撮影

 

 そして丘の上の哨所(OP5)から帰らざる橋と北朝鮮側の建物を遠望してキャンプ・キティホークに戻る。この時は、休戦会談場の南側入り口手前にも北朝鮮人民軍の哨所があって、その前を通って休戦会談場に入った。人民軍兵士の目の前を通過する時にはさすがに緊張した。

 この板門店訪問時期は3月だったので、OP5から帰らざる橋とそのたもとのCP3はポプラ越しによく見えた。上掲地図のCP3の右上● 미루나무위치とあるところが、この半年後の重大事件の現場となった場所である。

1976年3月 筆者撮影

 

 夏になるとポプラの木は葉が生い茂って見通しが悪くなる

 そのため、この年の8月18日午前、米軍側が韓国人作業員を使って枝落とし作業を始めた。そこに北朝鮮人民軍側の警備兵が現れて作業の中止を要求した。米軍側は作業を継続させたところ北側警備兵が集団で米軍側警備兵を襲撃、斧と棍棒でボニファス大尉とバレット中尉の二人の米軍士官が殺害された。日本では「ポプラ事件」と呼ばれるが、韓国では「斧蛮行トッキマネン事件(도끼 만행 사건)」と呼んでいる。

 米・韓両国は直ちに「DEFCON 3(準戦時体制)」に入り、空と海に展開した米・韓両軍の軍事力を背景に、8月21日に米軍の工兵隊が韓国軍第一空挺特戦旅団の支援のもと、問題のポプラの木を切り倒した(ポール・バニヤン作戦)。この時、のちの大統領文在寅ムンジェインは、この時第一空挺旅団の上等兵で、この作戦に参加していた。

 上等兵になった頃に「板門店斧蛮行事件(ポプラ事件)」が起きた。対応策として、事件の発端となったポブラの木の伐採作戦を私の部隊が決行することになった。朝鮮戦争以来初めてデフコン(Defense Readiness Condition 防衛準備態勢)が「準戦時体制」に引き上げられた。北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起きればただちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポブラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。幸いに北朝鮮側はポプラの伐採をそ知らぬ振りで見送り、何も仕掛けてこなかった。作戦は無事に終了した。そのときに伐採されたポプラの木の破片を入れた国難克服記章が記念に一個ずつ配られた。

『運命 文在寅自伝』
岩波書店 2018

 この事件の現場一帯は「非武装地帯」である。共同警備区域でも護身用とされる拳銃以外の武器の持ち込みはできない。表向きは…。さらに、共同警備区域内は国連軍のMP(憲兵)が警備に当たることになっている。そのためポブラ伐採のために共同警備区域に入った第一空挺旅団の将兵は、M16ライフルや榴弾発射銃、対人爆薬などの武器を伐採用工具や作業器材の中に隠して持ち込み、カチュシャ(Korean Augmentation To the United States Army)すなわち米軍出向の韓国兵を装って共同警備区域に入って作戦を遂行した。

 

 この事件以降、板門店の共同警備区域は南北に分割され、会談場の中では「マイクの線」が境界線となり、会談場の外にはコンクリートの境界標識が設置され、南側にあった北朝鮮軍の哨所は全て撤去された。最前線のキャンプ・キティーホークは、ポプラ事件で殺されたボニファス大尉の名前を冠してキャンプ・ボニファスに変えられた。

 

1980年代の南北交流と板門店 

 ポプラ事件の後、1980年に板門店を訪問した駐韓米軍の将兵家族の動画が未公開大韓ニュースとして残されている。音声は入っていない。

 この動画では、休戦会談場のテーブルには、国連の旗と北朝鮮の国旗が置かれている。旗は双方がそれぞれ準備するのだが、一時は高さを競って天井まで届く旗になっていたというエピソードもある。南側には1966年に竣工した八角亭の「自由の家チャユエジップ」があり、北朝鮮側には1968年に完成した「板門閣パンムンガク」が建っている。さらに第3哨所(旧OP5)からは、ポプラ事件後に伐採されてY字のかたちで残っているポプラの幹の向こうに「帰らざる橋」が見える。

 

 このポプラのY字の幹は、その後1990年代には完全に除去され、現在は切り株の大きさのセメント製の礎石の上に記念碑が建てられている。

 1984年、漢江ハンガンの氾濫でソウルで大きな被害が出た時に、北朝鮮側が米などの援助物資の提供を申し出た。意外にも全斗煥チョンドゥファン政権はこれを受け入れ、これを契機に南北の離散家族の再会と芸術団の交流が実現した。1985年9月に、朝鮮戦争休戦後はじめて南北双方の民間人が板門店で軍事休戦ラインを越えて往来した。

 ブルーガイドブックス『韓国』の1985年11月30日改訂版では、「板門店ツアー」について次のような体験レポートが掲載されている。

板門店ツアー

<交通>土曜、日曜及び韓国とアメリカの祭日を除く毎日、定期観光バスがロッテホテルから午前中出発(出発時刻は前日に決定)。料金は昼食代込みで28ドル。所要約6時間。
 板門店観光の業務は、大韓旅行社(KTB ソウル市鍾路区寛勲洞198(722-1191)で取扱っている。予約が必要。出発48時間前までに、KTBあてに氏名、国籍、旅券番号、連絡先(ホテル名、ルームナンバーなど)を記入申請する。なお、軍事的その他のつごうで、変更、中止があるので必ず問い合わせること。
<ツアーコース>ホテルロッテ→独立門→汶山→自由の橋→アドバンス・キャンプ→板門店会議場所→八角亭→展望台(帰らざる橋展望)→ホテルロッテ

板門店——ソウルの北、直線距離で60kmたらずにある田園の小村。ここが38度線をはさんで北と南、また世界の東西陣営が会談をつづけている注視の場所である。この国際政治の巨大な力の接点を実際に眼で見るには、KTBのバスを利用するのが唯一の方法で、個人の資格で立入ることはできない。ここは普通の観光地ではなく、まだ戦争の緊張がとけやらぬきびしい場所。バスの中で念を押されるように、生命も保障はされない。ツアー中はガイドの注意を必ず守ること。個人的行動は厳禁。参加できるのは外国人のみ。
 市内を発ったバスは、独立門を通り、一路板門店へ向かう。国道1号線(汶山街道、統一路ともいう)は完全舗装のハイウェイだ。広々とした田園風景、右車窓に北漢山を見ながら約2時間のドライブは快適そのもの。汶山を過ぎてしばらくゆくと、臨津江にかかる”自由の橋”を渡る。バスの前後に国連軍のジープがついてエスコートしてくれる。バスガイドは韓、日、英語の3ヵ国語で、心得事項を説明するのにいとまがない。とくに撮影禁止の場所がいくつもあるので十分注意することが肝心。
 前線に近づくにつれ、緊張感が高まっていくのを肌で感じながら板門店に到着すると、停戦委員会のガイドがアドバイスや説明をしてくれる。休戦会議の行なわれる本会議場は、休戦ラインの真中につくられ、家の中央を南北分断ラインが通っている。会議場の中央にテーブルがあり、向かいあって代表団がすわる。そのテーブルの中央に敷かれたマイクロホンのコードが南北を分けているのだという説明を聞いて、ますます緊張が高まる。会議場前には八角亭が建ち、ラセン階段を登って周囲を見渡せる。国連側の建物はブルー、北側の建物はグリーンに塗り分けられている。
 休戦ラインの小高い丘の上には展望台があり、“帰らざる橋” “北側の宣伝村”などが見渡せる。橋のたもとに検問所が設けられ、四六時中監視の目が光っている。
ひと通り見学を終わって、昼食を国連軍将校用の食堂でとる。室内にはバーやみやげ物店があり、それまでの緊張をとくことができる。
 今までは”対決”の場であったが、平和的な話し合いの場に変りつつある現況に、近い将来“平和統一”という言葉が世界の新聞紙上で報道されることを祈りつつ帰途につくツアーでもある。

 このガイドブックは、改訂のタイミングが南北の離散家族の再会や芸術団南北交流の直後であったこともあり、それを踏まえた記事内容になっている。

 

 この時期に、1978年に見つかった第3トンネルの見学ツアーも始まった。北朝鮮が南に軍隊を進めるために掘ったとされるトンネルが1970年代に韓国軍によって発見された。韓国側はそのトンネルに向けて斜坑を掘って対処した。三番目のトンネルへの斜坑の入り口が板門店のすぐ近くにある。この場所は、国連軍の管轄ではなく韓国軍の管轄区域なので、韓国側で人の出入りをコントロールすることができた。都羅山トラサンに作った北朝鮮を遠望できる展望台と、この第3トンネルをセットにして一般韓国人向けのDMZツアーを組んでDMZ観光やVIPトラベルが売り出した。ただ、この第3トンネルは、急勾配の斜坑を徒歩で本坑まで降りて登り返すため、相当にきついコースだった。そのため、2002年5月には斜坑に線路を敷設してシャトル・トロッコが運行されるようになる。

 


(3/3) 1990年代以降の板門店へ続く

  • 目次
    (1/3) 休戦から「観光」のはじまり
  • 休戦協定の調印
  • 初期の板門店取材・見学
  • 4・19後の板門店
  • 日本からの訪問者
  • 韓国人の板門店見学

    (2/3) 1980年代の南北交流と板門店
  • 1976年 ポプラ事件
  • 1980年代の南北交流と板門店

    (3/3) 1990年代以降の板門店
  • 1990年代 休戦委員会の停止
  • 2000年代 南北関係
  • 文在寅/トランプと金正恩

 

休戦協定の調印 

 1953年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。統一までの戦争継続を願う李承晩イスンマン大統領は休戦の動きに強く反発し、結局休戦協定に署名することを拒んだ。ただし「休戦それ自体を妨げることはない」として戦闘の停止には同意した。

 1966年に韓国の国立映画製作所が作った広報映画「板門店パンムンジョム」にはこのようなナレーションが入っている。

1953年7月27日、数多くの尊い生命と惜しい財産を失わしめた戦争は、共産主義を憎悪する全国民の反対にもかかわらず・・・・・・・・・・・・・、双方の代表が休戦協定に署名したことで一段落した。

(傍点は筆者)

 すなわち、休戦協定の当事者は国連軍と、北朝鮮の人民軍・中国義勇軍であり、会談場の区域を共同警備する主体は国連軍と北朝鮮人民軍だった。韓国軍は戦闘は停止したが、休戦協定の当事者ではなかった。

 

 「国連軍」の実体はアメリカが主導する西側国連加盟国の多国籍軍。開戦直後の国連安保理事会でチャイナの議席が台湾の中華民国になっていることに異議を唱えるソ連が欠席していて拒否権を使わなかったため、アメリカ主体の多国籍軍が「国連」の名前を冠して国連旗を使うことになった。ただ、韓国は、1991年に南北朝鮮の同時加盟が実現するまで、国連の加盟国ではなかった。

休戦協定は1953年7月27日午前10時に国連軍のウィリアム・ハリソン・Jr米陸軍中将と中朝連合司令部の南日ナムイル人民軍大将が板門店で署名し、その後マーク・W・クラーク、金日成、彭徳懐がそれぞれ署名した。

 

初期の板門店取材・見学 

 休戦協定の調印後、場所をやや南側に移して会議場と共同警備区域が設定され、その会議場で米軍を主体とする国連軍側と北朝鮮の人民軍、中国軍との間で休戦委員会の会合が必要に応じて開かれた。国連軍は、宣伝工作に利用するため、この会合を韓国内外のマスコミに取材させ、自軍側の関係者にも見学させた。南側からは、国連軍司令部のパスをもらい軍事休戦委員会の発行するバッジをつけた人々が一日125人を上限として共同警備区域を訪れた。1959年には「観光地化した」との『毎日新聞』の報道もあった。

1963年6月14日軍事休戦委員会とその周辺の様子

 

4・19後の板門店 

 1960年の4・19学生革命で李承晩政権が倒れて張勉チャンミョン政権が誕生すると、翌1961年を「韓国訪問の年」と定め、積極的に外国人観光客を誘致する政策を打ち出した。1961年3月に、日本在住のアメリカ人が観光キャンペーンの最初の団体客ーとして訪韓、大韓テハン旅行社の斡旋でソウルの徳寿宮トクスグン昌徳宮チャンドックン慶州キョンジュ、それに国連軍が管理する板門店の休戦会談場を回った。この時の動画が残っているが、残念ながら板門店の場面はない… 

 こうした外国人向けの板門店観光は大韓旅行社がアレンジした。大韓旅行社は、日本の植民地統治下の時に置かれたジャパン・ツーリスト・ビューロー(のちに東亜交通公社)の朝鮮支社が解放後に公営旅行社となったもので、韓国政府が推進する観光政策の推進母体だった。

 

 同じ1961年、4・19一周年を契機として南北統一を目指す学生・市民団体が積極的に動き出し、5月13日に「南北学生会談歓迎及び統一促進決起大会」を開催した。この時に「가자 북으로! 오라 남으로! 板門店으로!(行こう北へ! 来れ南に! 板門店へ)」というスローガンが掲げられ、板門店が南北の接点として大きくクローズアップされた。

 こうした動きに危機感を強めていた保守反共勢力をバックに、朴正煕パックチョンヒ少将が5月16日に軍事クーデターを起こし、クーデター部隊が中央庁や国会議事堂、放送局などを制圧した。そして、国家再建最高会議の議長となった朴正煕が権力を掌握した。南北の唯一の接点である板門店で南北の学生会談を開くという試みは霧散した。

 

日本からの訪問者 

 1962年5月、ソウルでアジア映画祭が開かれた。日本からは大映社長でアジア映画制作者連盟会長の永田雅一が、各映画社の幹部や、池内淳子・松原智恵子など10人の女優を引き連れて参加した。10人の日本女優は着物姿で「大江戸日本橋」を踊り、韓国語でアリランを歌った。

 朴正煕軍事政権は、この映画祭を積極的にバックアップした。映画祭に参加した中華民国、香港、日本、フィリピン、マラヤ・シンガポールの映画関係者は5月14日に板門店の休戦会談場を見学した。この時の映像が残っている。

 まだ日韓の国交がなかったこの時期の日本人の韓国渡航は、政官界や報道関係者、それにスポーツイベントや文化交流事業などの参加者、韓国側にコネのある経済人などに限られていた。その中にも板門店に行った人々もいた。

 

 1960年10月から1961年4月まで読売新聞ソウル特派員だった日野啓三は、赴任中の板門店取材をもとに台城洞テソンドン(自由の村)を舞台にした小説「無人地帯」(『文學界』1972年5月号)を書いている。アジア映画祭参加者の板門店観光と同じ時期に、作家の今日出海も板門店を訪問して『朝日新聞』に「板門店にて(上・中・下)」を5月16〜18日に掲載している。また、膠着していた日韓会談を打開するため1962年12月に訪韓した自民党副総裁大野伴睦の一行も12月12日に板門店に行っている。

 この動画で、会議場内の北朝鮮の旗を持ち上げてるのは荒舩清十郎、会談場の外の場面では船田中、それに読売新聞の政治部記者渡邉恒雄、ソウル特派員嶋元兼郎も写ってる。

 

 大野伴睦の訪韓から1ヶ月も経たない1963年1月8日に力道山が文教部の招請で韓国を訪問した。

 表向きは文教部の招待だったが、実際には韓国中央情報部が接待したという。この訪韓の実現にはプロレスのコミッショナーだった大野伴睦が絡んでいたのかもしれない。朝鮮北部、咸鏡南道ハムギョンナムド洪原ホンウォン郡が故郷である力道山は、帰国直前の1月11日に板門店に行き、そこから北の方向に向かって叫んだとされる。

 滞在は4日間だった。最終日の朝、力道山たっての願いで南北分断の象徴、板門店へ向かった。車を降り、北へ、北へ歩き、いきなりコートを脱ぐ。上着を脱ぎ、シルクのシャツも脱いだ。そして厳寒のなか、上半身裸のまま、声を限りに叫んだ。

「オモニー(お母さん)、ヒョンニーム(お兄さん)と叫んだって、秘書から聞い

た。そりゃ、行きたかったんだろうね。生まれた北の故郷へ」


  鈴木琢磨「没後50年、力道山と朝鮮半島」『毎日新聞』2013.12.15

 

韓国人の板門店観光 

 外国人の板門店観光が話題になると、韓国国内の一般市民からも板門店見学の要望が出始めた。この1962年には、大韓旅行社が国連軍司令部との間で韓国一般市民の板門店観光についても交渉していることが報じられている。板門店の訪問見学は、韓国側の一存では決められなかった。

板門店の一般公開を推進
観光開拓のために大韓旅行社で
難点は事故対策
実現するかどうか…国連軍側の態度に

 休戦会談で広く有名になった板門店を、外国人だけでなく一般市民にも開放しようという動きが始まっている。観光の斡旋・案内を行っている大韓旅行会社が、外国人のための観光地として関心を集めている板門店を、一般の市民にも開放する計画で、関係当局との交渉を行っていることが28日に明らかになった。
 解放後、朝鮮戦争を経て17年間閉ざされたままの南北の唯一の接点となっている板門店は、外国人観光客、国連、軍関係者及び国内の上級公務員、新聞記者にのみ公開され、一般市民には扉を堅く閉ざしてきた。今回の大韓旅行社の公開推進は、一般市民が板門店見学を強く望んでいて観光を斡旋する旅行社業務に合致しているばかりでなく、板門店見学によって反共意識を堅固にする目的にもかなっている。
ただ、こうした計画は、在韓国連軍司令部側に決定権があって国連軍側との交渉が不可欠で、国連軍側の見解と理解が注目されるが、これには種々の問題があるようだ。
 板門店の一般公開の最大の問題は、万一事故が発生した場合の責任の所在で、国連側なのか韓国政府側なのかが問題になる。
 関係者によれば、一般観光客の中に不穏な思想を持つ者やスパイなどがいて越境した場合にはなすすべがなく、想定される事故・不祥事への対応策が難しく、事前に万全の態勢を整えることが急務だという。そのため、板門店見学申請者に対して厳格な身元調査が行われるが、申請者が多くなると対応が難しくなり、人数制限が必要になる。事前の体制さえ整えば公開の推進は可能であろうとして、交通部の観光関係者も「具体案ができれば検討することになる」と語っている。
写真=板門店で共産側記者の戯言に反駁する「国連」側の記者たち。

 『東亜日報』の1963年4月17日付の記事で、この時すでに一般の韓国人への板門店観光が始まっていたことがわかる。ただし、1日の訪問者数に厳しい上限がつけられ、米軍側の定めた書式で所轄警察署長の身元証明が必要とされた。個人での板門店訪問はほぼ不可能で、大韓旅行社経由の団体ならば可能性があるとされていた。

 

 1966年に制作された文化映画「板門店」には、旧京義線の鉄道橋を通って臨津江を渡って板門店に至るルートや休戦会談場の様子が出てくる。ここには団体の一般韓国人と思われる訪問者の姿も写っている。

「板門店」抜粋版(国立映画制作所 1966)

 


(2/3) 1980年代の南北交流と板門店へ続く