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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 映画「シュリ(쉬리)」の デジタル・リマスター版が、初公開の1999年から25年経った2024年に日本でも公開された。

 

 懐かしくなって、昔の古いDVDを引っ張り出して観なおしてみた。

 

 そこで改めて気づいた。この映画では、チェ・ミンシクやキム・ユンジンが北朝鮮工作員を演じているが、彼ら同士の会話でも北朝鮮風の話し方をしない。工作員だから“工作”している間は仲間うちでもソウル風のしゃべりをするという設定かもしれないが、その後韓国で制作された北朝鮮がらみの映画では、いかにも“北朝鮮!”という台詞回しが随所に出てくる。ところが、「シュリ」では、冒頭の工作員の訓練の場面で北朝鮮風の活字の入った赤い垂れ幕がある程度。

 

「シュリ」で北朝鮮を感じさせる場面

 

 「シュリ」は1999年2月韓国公開だが、その年の5月にやはり北朝鮮工作員ものでコメディ映画「スパイ リ・チョルジン(간첩 리철진)」が公開されている。この映画には、北朝鮮での工作員訓練の回想場面があり、北朝鮮の国旗と肖像画が映し出される。ただ、台詞の方は[イ・チョルジン]を[リ・チョルジン]と発音している程度で、北朝鮮らしい台詞回しは出てこない。韓国のソウル標準語では、語頭のr音が脱落したりnに変わるが、平壌標準語ではそのまま語頭のr音を発音する。冷麺は、南ではネンミョンだが、北ではレンミョンになる。この南北の違いは、韓国でも早くから知られていた。
 

 

映画「JSA」と南北首脳会談 

 北朝鮮風の台詞回しということで言えば、その転機になったのは、翌2000年9月に公開された映画「共同警備区域 JSA」であろう。北朝鮮の人民軍の将兵を演じるソン・ガンホ、シン・ハギュンなどは、北朝鮮らしい語り口調でないと不自然だ。とはいえ、北朝鮮の兵士を韓国兵士と“友情を結ぶ” “普通の人間”として描けば、北朝鮮への「賞賛」「鼓舞」とみなされ、国家保安法違反で摘発されかねない。国家保安法違反は最高が死刑の重罪である。パク・チャヌク監督以下の製作陣は、相当な覚悟で映画作成にあたったという。

 

 ところが、映画公開の3ヶ月前の2000年6月、金大中キムデジュン大統領が平壌ピョンヤンを訪問して初の南北首脳会談が実現した。その模様は、平壌に先乗りした韓国のテレビ局が同時生中継し、金正日キムジョンイル国防委員長の肉声が韓国中に流れた。6月15日の午餐会の中継では、ワイングラスを片手に軽口を叩く金正日の姿を、ソウルのスタジオでアナウンサーと放送記者が解説を加えながら伝えた。

 

 

 それまでの金正日については、肉声がほとんど公表されない「不可解な指導者」とされていた。唯一知られていた肉声は、1992年4月25日の人民軍創建記念日に発せられた「英雄的朝鮮人民軍将兵に栄光あれ(영웅적조선인민군 장병들에게 영광이 있으라)」だけだった。

 

 

 そのギャップの大きさもあって、この2000年6月の金正日の平壌からの生映像は、多くの韓国人に衝撃を与え、北朝鮮に対するイメージが多様化するきっかけとなった。

 

 映画「共同警備区域 JSA」は、そうした中で公開されたことも、大きな反響を呼ぶことになった要因の一つだろう。北朝鮮風の台詞回しが国家保安法に引っかかることもなく、封切りから9週連続1位、観客数589万人を記録した。

 

 

韓国での北朝鮮イメージ 

 韓国では、国家保安法を根拠として、北朝鮮に関するあらゆる情報から一般の国民を切り離していた。情報機関や研究機関でさえも、北朝鮮に関する情報や資料へのアクセスは厳しい管理下に置かれていたし、民衆が北朝鮮の生身の人間をイメージすることもほとんどできないままだった。

 

 そんな中で1980年代に北朝鮮人の生の声が韓国のテレビで流れたことがあった。1985年の9月にオンエアされたMBCの平壌でのインタビュー映像である。前年、ソウルの漢江ハンガンが氾濫して水害が起きた。この時、北朝鮮から支援の申し出があり、意外にも全斗煥チョンドゥファン政権がこれを受け入れた。この想定外の出来事が発端となって、南北の離散家族再会と芸術団の南北交流が実現した。この時に、平壌に同行した韓国MBCの金敏浩キムミンホ記者がアポなしでインタビュー取材を敢行した。

 

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MBC:南朝鮮では子供達がこんなように学んでいると思わないかな?

南朝鮮ではアメリカのやつらのせいで子供たちは空き缶をぶら下げて食べ物をもらうためさまよっています。だから子供たちは私たちのような生活はできません。

MBC:ソウルにはビルもないですか?大きな建物。

ありません。

MBC:なんでないのかな?

アメリカのやつらが罰を与えているので、ありません。

MBC:南韓の子供たちはどんなだと思いますか?こんなふうに幸せに学校に通っていますか?

南韓って何ですか?

MBC:南朝鮮

南朝鮮の子供たちはお金がなくて学校に通えません。

MBC:教会に通わないですか?

見物ですか?

MBC:教会に通わないんですか?

 

 明洞をはじめソウル市内に物乞いがいたのは事実だが、このインタビューを目にした韓国人は北朝鮮の子供達の描写に大きなショックを受けた。「そんなに北朝鮮の人々は我々韓国の実情を知らされてないのか…」と。ただ、韓国における北朝鮮認識も、北朝鮮の韓国イメージと同じように実情とはズレたものだった。さすがに韓国の子供も「北朝鮮人にはツノが生えている」とは言わなくなっていたが…

 

 その後、1990年代に入っても韓国の一般庶民が北朝鮮について得られる情報は、統治者によるフィルターを通したものだけだった。ただ、韓国の関係当局に蓄積される北朝鮮情報は飛躍的に増えつつあった。その情報源の一つは、1980年代末から韓国渡航が急増していた中国の朝鮮族である。彼らは北朝鮮内部の状況を熟知していた。朝鮮族の場合、北朝鮮国内での移動に制限がなかったため、平壌以外の地方の状況にも詳しかった。二つ目は、1990年代に入ってから急激に増加した北朝鮮からの「脱北者」である。「脱北者」は、1990年代以前には「北朝鮮を思想的に見限って韓国になびいた人」ということで「帰順者」と呼ばれていたが、1990年代半ばからは、「韓国よりも貧しい北朝鮮を見捨てた人」ということで「脱北者」と呼ばれるようになった。「脱北者」は、韓国の情報機関から厳しい取り調べを受け、かなりの期間を監視下に置かれて暮らすことになるが、それらの聴取の過程で北朝鮮の統治体制や社会構成、それに言語の使い方やイントネーション、それに新造語などの情報も韓国側で把握するようになった。

 

 映画「工作 黒金星と呼ばれた男」(2018-08)は、1990年代の中国を足がかりにした南・北間の諜報活動を題材にしているが、この頃には、韓国の関係部署では南北の語彙や言葉遣い、イントネーションの違いなどを把握していた。

 そして、上述の2000年6月の南北首脳会談時の平壌からのライブ放送で、一般の韓国人にも北朝鮮への新たな関心が生まれた。そんな中で封切られた「共同警備区域 JSA」を観た人々は、北朝鮮風の言葉を使うソン・ガンホやシン・ハギュンの人民軍の軍服姿から、それぞれの北朝鮮イメージを持つようになったものと思われる。

 

北朝鮮女性応援団 

 2002年9月から10月に釜山プサンで開かれたアジア大会に北朝鮮が韓国との統一チームとして参加した。この時には、北朝鮮から280人余りの女性応援団が万景峰マンギョンボン号で釜山港にやってきた。また、2003年8月に大邱テグで開かれた夏季ユニバーシアードにも、北朝鮮の女性応援団300人が金海キメ空港から韓国に入った。さらに2005年9月の仁川インチョンアジア陸上選手権にも北朝鮮から女性応援団が派遣されてきた。

 

 

 大邱ユニバーシアードの時には、韓国内を移動中の北朝鮮応援団が、雨に濡れている金正日国防委員長の顔写真の入った横断幕を見つけ、バスを止めて横断幕を回収する騒ぎがあり、韓国のニュースでも大きく報じられた。

 

 

 このような南北交流の中で、韓国社会は北朝鮮らしい言葉遣いや行動パターンに慣れていった。

 

北朝鮮を扱う映画 

 こうした中で、2005年から2006年にかけて、北朝鮮風の台詞回しで韓国人が北朝鮮人を装う設定のコメディー映画や韓国人俳優が脱北者を演じる映画が立て続けに公開された。

 

 一つは、2005年6月公開の「肝っ玉家族(간큰 가족)」。余命宣告をされた北朝鮮出身の老人の遺産を手に入れるために家族全員で南北が統一されたという嘘をつくというストーリー。当然、セリフは韓国風と北朝鮮風を使い分ける。

 この映画のプロモーションでは、「主演の二人、カム・ウソンとキム・スロが国家保安法違反で緊急逮捕された」というニュース仕立てのパロディ動画を公開している。

 

ニュース速報です。 今日夕方7時頃、映画俳優カム·ウソン、キム·スロ氏が国家保安法違反の疑いで検察に緊急逮捕されました。 国家情報院の特別調査チームによると、カム氏とキム氏は2004年12月から2005年3月現在まで統一新聞製作の反国家団体に対する国民扇動など、国家保安法に違反した疑いがあり、緊急召喚調査を行うことになったとのことです。
Q:なぜこのようなことになったと思いますか?
Q:カム·ウソンさん、国家保安法違反を認めますか?
A:公人として物議を醸し、国民の皆様に心よりお詫び申し上げます。
Q:キム·スロさんも何か一言。
A:お騒がせして本当に申し訳ありません。 法廷ですべてお話します。
Q:今回のことがなぜ起きたと思いますか?
A:すみません。
今回の事件は、映画俳優が初めて国家保安法違反の疑いで検察に起訴されたという点で、映画界はもちろん国民にも大きな衝撃を与えています。 以上、YBNニュース速報でした。

 

 もう一本は2006年6月公開の「絹の靴(비단 구두)」。闇金融に借金ができた映画監督が、借金を帳消しにしてもらう代わりに金融業者の父親を北朝鮮の故郷に帰れたかのように芝居をして騙そうとする。ここでも北朝鮮の台詞回しで演じられ、北朝鮮の国旗はもとより様々な北朝鮮を模したセットが登場する。この映画でも「人民共和国旗インゴンギが国家保安法に抵触するのを知らんのか!」といったセリフが出てくる。

 

 

 ほぼ同じ時期に公開された「国境の南側(국경의 남쪽)」(2006-05)では、恋人を北朝鮮に残して脱北した北朝鮮の青年の葛藤と愛が描かれる。

 

 

 この映画では、実際に脱北してきたキム・チョルヨンが演出部の一員として演技指導をし、中・朝の国境を越える際の案内人役で映画にも出演している。

<국경의 남쪽>의 연출부 스탭 맡은 새터민 김철용

 

 この2005年〜06年あたりで、映画制作側でも北朝鮮らしい台詞回しが遠慮なくできるようになり、セットや大道具・小道具なども実際のものに近いものが使われ、それを観る観客の側もそれを北朝鮮のものとして受け止めるようになった。ここが、一つの転機であろう。

 

 ちなみに、イ・ヒョリが北朝鮮のチョ・ミョンエと共演したサムソンのAnycallエニコルのコマーシャル映像が出たのも2005年のことだった。撮影は4月上旬に上海で行われ6月から韓国のテレビでオンエアーされた。

 

 



 ここ数年、日本でも公開された「工作 黒金星と呼ばれた男」(2018-08 日本公開2019-07)、「モガディシュ 脱出までの14日間」(2021-07 日本公開2022-07)では、いかにも北朝鮮人らしい登場人物が北朝鮮らしい台詞回しで話すのが当たり前になっている。

 

 また、2019年12月から2020年2月まで韓国tvNでオンエアされ、日本でもNetflixで配信されて評判になったドラマ「愛の不時着(사랑의 불시착)」でも、ヒョンビンをはじめ北朝鮮側を演じる俳優たちが、毎回北朝鮮風の台詞回しで演じている。

 

 北朝鮮とは関係のない「パラサイト 半地下の家族」(2019-05 日本公開2020-01)にもこんな場面が出てくる。

 

 

 映画「シュリ」が制作された1999年から25年。この間、朝鮮半島の南北関係には紆余曲折があったが、こうして振り返ってみると、韓国における北朝鮮認識、それに映像での北朝鮮の描き方にも大きな変化があったのだと感慨深いものがある。

 まだ韓国と中華人民共和国との間に国交がなかった1992年2月。すでに民間レベルでは、朝鮮族の「母国訪問」を中心に、人的交流が活発になりつつあり、移動の交通手段も増えつつあった。そんな時期に開設された中国の天津と韓国の仁川インチョンを結ぶフェリーに乗ってみた。その時の記録。

 


天津から初めて仁川新港に着いたフェリーを伝える『京郷新聞』

 

 韓国にとって中華人民共和国は、冷戦の反対陣営の社会主義国というだけでなく、朝鮮戦争の時に交戦した「敵国」であり、休戦協定の当事国でもあった。

 

 転機が訪れたのは1983年5月。瀋陽から上海に向かっていた中国民航機がハイジャックされて韓国春川チュンチョンの空軍基地に着陸、それをきっかけに韓国と中国の間で政府間の直接接触が始まった。

その後、1986年のアジア大会、1988年のソウルオリンピックに中国は大選手団を送り込んできた。

 1990年9月の北京でのアジア競技大会開催にあたっては、6月の天安門事件で西側各国が中国へ厳しい制裁措置を取るなかで、韓国は資材・資金の援助や車両提供など最大限の援助を行なった。その後、北京にKOTRA(大韓貿易振興公社)の事務所が開設された。あくまでも経済交流のための機関とされたが、実質的には韓国代表部で、所員は大使館員と同じような配置になっていた。後には韓国渡航のためのビザの発給業務も行なった。
 

 そんな時期、1992年2月に天津から仁川行きのフェリーに乗船してみた。その体験記と当時の朝鮮族についてのレポートを掲載する。
 

 



 天津—仁川間のフェリーは1991年12月24日に天津から第1便が出航。その後6往復したが、翌年1月31日から2月9日まで船体修理のため運休した。私が乗船した2月20日の便は、再会後の3往復目の往路(天津→仁川)の航海だった。

 

 フェリーを運行しているのは韓・中合弁の津川航運有限公司、韓国側の企業は鬱陵島ウルルンド観光なども手がけている大亜テア観光。琉球海運の「ごーるでん・おきなわ」(6,870t)を買い取り、「天仁号」(定員631名)として就航させている。乗務員は韓国人が15名、中国人が48名と多いが、船長や航海士、機関長などは韓国側乗組員で、船内で通用する貨幣も韓国ウォンと米ドルのみ。中国の人民元はもちろん外貨券も通用しない。レストランの食事は韓国式の日替わりメニューが1種類だけで、値段が非常に高い。

 

 行きと帰りでは運行スケジュールが異なり、天津から仁川への航海は17時発で翌々日の9時上陸、所要時間は40時間。一方、仁川からは昼の12時発で翌日の19時には天津港に到着。所要時間は31時間と9時間短い。ただ、天津から仁川に行く場合でも翌日の21時には仁川港外に到着しており、上陸は翌朝まで待たされるため時間がかかるのであって、実際の所要時間は30時間強である。ー昨年(1990)9月から就航している威海一仁川の威東フェリーは航行時間17時間から19時間で運航している、天津の方が所要時間は長いが、朝鮮族が多く暮らす東北部からのアクセスは天津の方が圧倒的に良い。

 

 このような運行スケジュールが組まれている理由は、延辺朝鮮族自治州から天津・北京方面への唯一の長距離列車である図們一天津間の列車の天津到着が11時30分であり、その乗り継ぎを考慮したものと考えられる。ちなみに、延辺朝鮮族自治州側は、この列車の北京駅乗り入れを強く希望しているが未だ実現せず、天津駅発着となっている。

 

 仁川港は、干満の差が極端に大きいため、港外に2つの水門を設けて港内の水位を一定に保っている。入港する船舶は水門のゲートで水位調節をしなければならない。従って、水門通過・入国手続きなどの時間調整で、仁川港外で一晩停船せざるを得ない。

 

 料金は、最も安い普通室で160ドル(880元)で、威東フェリーの90ドル(500元弱)と比べるとかなり高額である。そうした事情もあってか、私が乗り合わせた219名の乗客のうち朝鮮族を含めた中国パスポートの乗客は44名のみ。香港人2名に日本人1名(私)を除く残り173人は韓国人で、その大半が韓国の文教部の外郭団体である教育振興財団が実施している研修旅行に参加した大学生のグループだった。ソウル大、成均館ソンギュングァン大、漠陽ハニャン大など各大学の30名前後の学生グループに教職員が2〜3名、それに保安要員が1〜2名ついて10日前後の日程で大学別に中国各地を回ったという。

 

 上述の威東フェリーは、乗船チケットの確保が難しいほど混んでいるのに比べ、こちらの津川フェリーの場合は最も乗客が多かったときでも300名程度とのことで、冬休みを利用した大学生の団体が主体だという。乗客に朝鮮族が少ないのは、就航して間もないこともあろうが、やはり料金の高さで敬遠されているのだろう。

 

 中国のパスポート所持者だけは、乗船時にパスポートを乗務員に預ける。関係者の話では、中・韓に国交がないということで出国者のリストを作成するのだという。また彼らには「誓約書」の提出が義務づけられている。この「誓約書」とは、韓国に持ち込んだ物品を韓国国内で販売しないことを誓約させるもので、朝鮮族による中国産漢方薬材の持ち込みが急増したためにその抑制措置としてとられているものである。

 

 今回の韓国入国に際しては、朝鮮族の通関の様子を見ることは出来なかったが、昨年冬の最も漢方薬材の持ち込みが激しかった時期には、威海からのフェリーが到着すると税関検査が真夜中までかかっていたという。韓国の税関は相当に厳しい姿勢で臨んでいたようで、泣きながら哀願する朝鮮族の荷物から漢方薬材を取り出しては床に投げ捨てて廃棄処分にしていたという。さすがに最近は漢方薬材の持ち込みは減少しているようで、乗船していた朝鮮族の荷物もさほど大きなものは目につかなかった。

 

 大韓貿易投資振興公社(KOTRA)北京事務所は、昨年(1991)後半から、中国政府との合意に基づき中国国籍を持つ者を対象とするビザ発給を開始した。個人の申請は受け付けておらず、中国の国際旅行社・経貿部の二つの窓口から持ち込まれたものに一括発給している。昨年、KOTRAをはじめ、東京や香港の韓国公館で中国人に発給した韓国入国ビザは合わせて約4万5千件。中国側が韓国人に発給した中国入国ビザもほぼ同数だという。同時に、韓国と中国の間の直行海路・空路の開設も急速に進み中国・韓国間の往来は急増している。その中で中国側で急増しているのが「親族訪問」の名目で比較的簡単に旅券が取得できて(中国は海外渡航は自由化されていないので渡航目的が審査されて旅券が発給される)、韓国のビザも取りやすい朝鮮族である。

 

・朝鮮族の渡航増加の韓国国内事情

 1987年の「民主化宣言」以降急激に拡大した労働争議を契機として、88オリンピック開催以降の韓国の賃金上昇は目ざましいものがある。現在(1991)の給与水準は、1987年当時の2倍以上といわれている(平均的サラリーマンで月額約2百万ウォン、ボーナス3カ月から6カ月)。しかし、物価の上昇も激しく、公共料金は低水準に押さえられてはいるものの感覚的には1987年当時に比して2倍から3倍の物価高水準だという。

 

 当然人件費が高騰し、日常生活においては派遣家政婦(派出婦パッチュルブ)・自家用車運転手チャガヨンウンジョンキサの減少、食堂の出前(月給50万ー80万ウォン)・マーケットの配達の廃止、洗車場の機械化など、低賃金労働層で雇用が縮少しつつある一方で、韓国人の低賃金現業労働への韓国人の就業忌避が一層強まり、いわゆる3K職種での人手不足が顕著になっている。

 

 日本と同様に、そうした業種・職種の人手不足を補うものとして、韓国にもすでに途上国から外国人労働者が入ってきており、街中でも一見して外国人労働者と思われるグループを見かけるようになった。韓国当局の外国人労働者に対する取り締まりは、現状では比較的緩やかだといわれる。朝鮮族の場合、言語・習慣でほとんど問題がなく、外観上の区別が出来ない中国籍の朝鮮族は雇用者側にとって雇いやすい労働力となっている。韓国当局は、昨年末に中国朝鮮族を炭坑労働者として使う方針を打ち出したとの話もあり(日本人プレス情報)、一方、朝鮮族側でも「研修労働」という名目で2万人の朝鮮族青年を韓国に送り込む計画などが公にされており、今後ますます朝鮮族が韓国の3K労働を支える労働力として韓国に入ってくることが予想される。

 

・階層に分かれている

 中国から韓国に渡って来て労働に従事している人々は、いくつかの階層に分けることが出来る。

(1)教育水準が高くて「知識人」といわれる人々で、韓国において高賃金を得ることの可能な高等教育関係の職や企業の管理職についている階層。(2)特殊技能、特に中国料理の技術などを持っていて、韓国人ブルーカラーとほぼ同等の賃金を支給されている階層。(3)上述の韓国人が忌避している3Kなど単純労働に従事する階層。


 (1)の範畴の人々は、韓中の人的交流が始まった早い時期から韓国に入り始め、現在、韓国の大学で中国語教育や中国関係分野の研究・教育にあたっている人々が中心である。中国でも一定の地位にあった人が韓国企業の顧問役で就職したケースもあると聞く。多くは韓国への永住を希望して、すでに韓国国籍を取得した人も多いという。ただ、全てがそうだということではない。

 現在「朝鮮日報」に「韓中慢録」というコラムを掲載している「馬仲可」という人物がいる。彼は朝鮮族で「馬仲可」はペンネーム。元ハルピン工科大学の物理学の教授で、1986年春に米中の学術交流で渡米し、研究と同時に中国の体制を批判して反体制運動に加わった。中国への帰途韓国に立ち寄った1988年にそのまま滞在していたが、やがて天安門事件が起こって現在も韓国滞在を余儀なくされている。彼は現在翰林ハルリム大学の客員教授に迎えられているが、専門の物理学ではなく、中国の現代政治を担当している。馬仲可氏の場合は、あくまでも中国人として中国の体制批判を続けており、韓国は仮りの住まいでしかないという。

 

 (2)のケースはさほど多くないようだが、(3)の階層よりはよい待遇を受けている。例えばハイヤットホテルの中華レストランのコックとして採用された朝鮮族の場合、月額200万ウォンで、韓国人と同等の待遇。彼らの場合には職場に正式に雇用され、その職場の保証によって2カ月の親族訪問ビザを延長することが可能だという。

 

 (3)のケースが最も多数を占めており、その大部分は韓国に永住するつもりはなく、韓国と中国の経済水準の違いを利用して中国での生活水準を引き上げるための資金稼ぎの場と割り切って考えている。これらの中国の朝鮮族が、「貧しい」「出稼ぎ」「漢方薬材持ち込み」といったイメージを韓国人に植え付けることになった。

 親族訪問の名目で韓国に渡る朝鮮族が急増し始めた当初、大量の中国産漢方薬材を持ち込んで徳寿宮トクスグン前や小公洞ソゴンドンの地下街で露店を出して社会問題になった。しかしその後、漢方薬材の持ち込みが厳しく制限され、韓国内での売却が困難になった。そのため、朝鮮族の訪韓目的が「ポッタリチャンサ(運び屋)」から「出稼ぎ労働」に変わった。現在もソウル駅周辺の安宿に寝泊まりしながらソウル駅周辺の地下道などで漢方薬材の露店販売をしている朝鮮族も若干いるというが、中・韓間のフェリーでは、韓国入港に先だって「漢方薬材等を販売の目的で持ち込まない」という内容の誓約書の提出を義務づけており、仁川の税関では、商品として持ち込まれた疑いのあるものについては廃棄処分にしている。今後は中国からの「ポッタリチャンサ」は減少するものと見られる。

 それに代わって最近目立っているのが、「出稼ぎ労働」である。一級ホテルのSホテルでは、5人の朝鮮族を掃除人・職員食堂の賄い婦などとして使っている。彼らのステータスでは、2カ月の親族訪問のビザを延長することは出来ないため、不法残留して1年程度お金を稼いで帰るという。雇用者側はあくまでも日当べースの臨時雇いであるとして、万が一当局による摘発があっても切り捨てが可能な雇用形態を取っている。母親の従姉妹の娘を訪問するという名目でビザを取って天津ー仁川のフェリーで1月上旬に韓国に来た瀋陽の朝鮮族夫婦の場合、給与は日当で受け取り、夫が月に60万ウォン、妻が50万ウォン、ボーナスはなし。保証金200万ウォン月10万ウォンの部屋を借りて、月に70万、一年で1千万ウォンを貯めて持ち帰る予定だという。オーバーステイであっても、入管に出頭して14万ウォン程度の罰金を支払えば処罰されることなく中国への帰国が可能だという。ただ、再度の入国はできなくなるが。

 韓国人の知人の話では、建築現場や地下鉄工事現場では、すでに相当数の朝鮮族が働いているとのことであり、喫茶店・飲み屋のアガシ・アジュマとして、また一部では売春行為もあるとの噂もある。

 「朝鮮族は中国国籍の外国人」という意識が朝鮮族にも韓国人の側にも希薄で、「我々の同胞」という括弧でくくっているために、在留資格外の就労という感覚がなく、雇用するにあたってもあまり抵抗感がないように見受けられる。

 

[北京への帰路]

 (この当時、私は北京在住だったため空路で北京に戻った)

 帰路はアシアナ航空の金浦空港から天津空港への便。韓・中間に国交がないことと、北京の首都空港は北朝鮮の高麗航空コリョハンゴン便が使っていることなどもあって、天津空港を使用している。使用機種はボーイング737-400。定員は159名、私が乗ったときの乗客は104名。うち56名が旅行社を通して予約したもので個人でチケットを購入したのは48名。旅行社を通じてチケットを購入した人々は全て韓国人だが、必ずしもバックツアーというわけではなく、ビジネスなどで中国を往来する人々がビザ取得などとのセットで旅行社を利用しているようだ。個人客48名も大半が韓国人で、朝鮮族を含む中国籍、及び中韓以外の外国人は5〜6人といったところ。多くがビジネスマンもしくは中国にツテを持っていると思われる韓国人乗客、中国語の学習に行く留学・就学生も多かった。ちなみに、私の隣の席の二人連れは、ソウルの漠陽大学の中文科を卒業して北京の経済三学院に留学するという。ソウルには中国の学校と提携して韓国人の中国留学を斡旋する業者がすでにいくつかできており、そこを通じて入学許可をもらいソウルの中国貿易代表部にビザ申請したという。留学ビザの期間は170日、彼らは現地でビザを延長して2年ほど北京で勉強するつもりだという。ビザはパスポートではなく、別紙にスタンプが押されたものだった。

 韓国人の場合、中国の地方の学校への留学は比較的容易になったが、北京所在の学校には入るのが難しいといわれており、実際にソウルで手続きした上述の二人もそういわれたという。しかし、すでに語言学院に韓国人数名が在学しているほか、北京市内の学校に在学している韓国人学生がいるとのこと。ただし、北京大学など上位の大学・大学院への留学はまだないという。

 ソウルから北京までは、ジェット機で直行すれば1時間40分の距離である。199O年の北京アジア大会の時に韓国選手団をソウルから北京に運んだKAL機は、直行ルートをこの時間で飛んでいる。韓・中間でチャーター便の定期運行が合意されたのはアジア大会が終わった後のこと。ただし、北朝鮮と中国の飛行管制区域の都合上、ほぼ上海の上空まで下りてそこから天津に向けて北上せざるを得ないため、金浦ー天津間で3時間20分もかかる。韓国側は、中国との航空交渉のたびに北京首都空港への乗り入れについても強く求めているが、中国側はこれを認めていない。一方韓国側は、対抗措置としてナショナルフラッグの大韓航空ではなく、2番手のアシアナ航空のチャーター便の運行しか認めていない。そのため、北京市内の各所に「KOREAN AIR」の巨大な看板があるにもかかわらず、国貿センター入口の大韓航空オフィスには覆いがかけられ休業状態である。

 仁川港から韓国に入国する際には、韓国側の入国管理・税関の姿勢に厳しさが目立っていたが、天津空港では気が抜けるほど簡単に中国へ入国できた。

 中国語留学に向かう韓国の若い世代やアシアナ機の場慣れた感じの韓国人ビジネスマンから、韓国からの中国に向けた関心の高さが感じられた。その一方で、中国側からの韓国へのアプローチでは、朝鮮族だけが突出していて中国全体としての関心の高さは感じられなかった。とはいえ、韓・中間の人的交流は、人数だけでなくルートの多様化も含めて想像以上に急激に拡大しており、この傾向は今後も加速度的に強まるものと思われる。

(1992年3月)

 



 このレポートの半年後、1992年8月24日に韓国と中国との国交樹立が発表された。

 そして、すぐに盧泰愚ノテウ大統領が9月27日から4日間中国を公式訪問した。
 대한뉴스 제 1925호-노태우 대통령 중국 방문

 

 その1ヶ月後10月23日から28日まで、日本の天皇が中国を公式訪問した。
 1992年【映像記録 news archive】
日本による中国侵略については、天皇が公式晩餐会で言及している(この動画の7分32秒から)。

 1992年は、東アジア地域の国家関係が大きく変わるかもしれないという期待を抱かせた時期であった。

 

  • 外交官の救出と帰国
  • レバノン情勢と1987年の韓国
  • 暴露された救出経緯

 

外交官の救出と帰国 

 1987年10月28日、韓国外交部から「都在承トジェスン書記官の救出を確認中」との発表があった。ベイルートの韓国大使館の書記官だった都在承は、1986年1月31日の朝、館用車で出勤する途中で武装した5人の男たちに誘拐された。2月3日に「闘争革命細胞」という組織名で犯行声明が出され、裏情報として1千万ドルの身代金要求があったとの話も流れた。しかし、しばらくするとぱったりと動きが止まってしまった。次第に生還は難しいのでは…という悲観的な憶測が広まっていった。ところが、誘拐されてから1年9ヶ月ぶりに、突如として都在承書記官の生存と救出のニュースが伝えられたのだ。

 

 忘れられかけていた都在承書記官の救出のニュースで韓国のテレビ・新聞は沸き立った。11月3日午後、都在承は金浦キンポ空港に降り立ち、家族と感激の再会を果たした。さらに、その足で青瓦台チョンワデに行って全斗煥チョンドゥファン大統領夫妻に謝意を表したことが大々的に報じられた。

 

ナレーション日本語訳↓↓↓ (手動でスクロール)

誘拐されて21ヶ月ぶりに自由の身となった駐ベイルート韓国大使館のト・ジェスン書記官が、待ち望んでいた祖国に戻り、両親、妻、そして3人の子供たちと再会し、喜びを分かち合いました。ト書記官は、この間応援してくださった国民と政府関係者に深く感謝の意を表しました。記者会見でト書記官は、「21ヶ月という長い間、耐え難く苦しい状況の中で、ただただ愛しい家族と懐かしい祖国に帰りたいという一心で、強い精神力をもって耐え抜いてきました」と述べました。

ト書記官は青瓦台を訪れ、全斗煥大統領夫妻に帰国の挨拶をしました。全斗煥大統領はト書記官の家族一人一人と握手を交わし、「悪夢から解放され、家族のもとと祖国に戻ることができ、心から祝福します。これまでご苦労様でした」とねぎらいました。

 

レバノン情勢と1987年の韓国 

 レバノンは、1967年に北朝鮮と経済交流を始めたが、1969年には韓国とも通商代表部のベイルート設置で合意し、1970年代は、韓国・北朝鮮と等距離の経済関係を維持していた。1981年2月になって、韓国と北朝鮮の双方と同時に外交関係を樹立した。

 

 この時すでにレバノンでは武装勢力間での内戦が激しくなっていた。ベイルートではアメリカやフランス、リビアの大使館にロケット砲が撃ち込まれ、イラクの大使館員が暗殺されるなどの不穏な情勢が続いていた。外国の主権を代表する大使館や外交官を守れない国家の政府は、統治能力を失ったことを意味する。だから、反政府組織は外国公館や外交官をターゲットにする。

 

 1980年代の初頭、韓国と北朝鮮は、それぞれに国際社会での認知度を高めようと躍起になっていた。特に、1981年秋に88オリンピックのソウル開催が決まると、韓国の在外公館が世界各地で各国指導者や有力者への働きかけを強めた。当然、北朝鮮はそれに対抗して外交攻勢をかけていた。それに国連への加盟をどのように実現するかという課題もあった。映画「モガディシュ」に描かれたように、内戦が激しくなった地域に北朝鮮と韓国が取り残されるのは、そうした事情も一因だった。

 1984年2月から8月までベイルート情勢が極度に悪化した時には、現地の在留韓国人はほとんどが国外に撤収したが、韓国大使館は一時キプロスに避難したものの、その後再びベイルートに戻っていた。

 

 そんな中で起きたベイルートでの韓国大使館館員の誘拐事件。韓国内では、北朝鮮側による拉致ではないかという説もまことしやかに流れた。結局、レバノン内部の武装組織の身代金目当ての誘拐だということになったが、具体的な交渉が進展しないまま時間だけが過ぎていった。そうこうする中で、レバノン情勢のさらなる悪化で誘拐事件発生から1年半後の1987年6月、ついにベイルートの韓国大使館は閉鎖された。都在承の誘拐案件はヨルダンの韓国大使館に引き継がれた。

 

 この時期、韓国国内では映画「1987 - ある闘いの真実」に描かれているように民主化要求デモが最高潮に達し、全斗煥政権とその与党側が「民主化宣言」を出して、次期大統領選挙を国民の直接投票で行なうという譲歩をせざるを得なくなっていた。国民の直接投票による大統領選挙は12月16日が投票日だった。

 

 韓国外交部が都在承書記官救出の第一報を流したのは10月28日、そして都在承書記官が金浦空港に帰国したのは11月3日、大統領選挙の選挙戦が本格化している最中の出来事だった。

 

暴露された救出経緯 

 こうした人質誘拐事件の場合、解決しても身代金の額や交渉に関係した人物や組織が明かされないのが普通だ。都在承書記官救出についても、韓国政府からは経緯の説明はなかった。

 

 ところが、この事件については、その後解決に至るまでの経緯が明らかになり、韓国映画「ランサム 非公式作戦」は、明らかになったその経緯をもとに脚色を加えてストーリーが作られた。

 

 事件から10年経った1998年1月号の『新東亜』に「全斗煥政権、都在承の身代金の半分を横取り」という記事が掲載された。

 

[発掘秘話]10年経って明かされる都在承拉致事件の内幕

全斗煥政権、都在承の身代金の半分を横取り

 

 匿名の筆者によるこの記事によって、都在承書記官救出の経緯が明らかになった。記事によれば、87年9月、全斗煥政権の意向をうけたサムソンの関係者からアメリカの情報機関OBの「あるアメリカ人」に、都在承救出の可能性の打診があった。そのアメリカ人は、レバノン現地の内情に精通したジュネーブ在住の富豪のネットワークで都在承の生存を確認し、身代金の支払いで救出ができそうだと韓国外交部に伝えた。韓国外交部は身代金の支払いに応じ、解放された都在承はヨルダンからジュネーブを経由して韓国に戻れた。関係者の名前は明かされなかったが、その経緯は具体的に書かれていた。同時に、この記事では救出の過程で犯人側から要求された身代金500万ドルのうち、後払いの250万ドルを韓国政府が現地に送金してこなかったため、仲介した富豪が立て替えたことが記されていた。そして、それを未だ韓国政府は支払っていないことも書かれていた。

 

 ちょうど野党の金大中キムデジュンが大統領選挙で勝利した中で掲載されたこの記事は、全斗煥政権時にジュネーブの仲介者が立て替えた身代金未払いについてのクレームでもあった。しかし、金大中政権も、その後の政権も250万ドルを仲介者に支払った形跡はない。 

 

 そのさらに15年後の2013年、元アメリカ国防総省副次官で国防長官顧問のリチャード・ローレスのインタビュー記事が12月号の『新東亜』に掲載された。

 

 

 前半部分では韓国歴代政権の「戦時作戦統制権」の問題が語られたが、後半部分では27年前の都在承書記官救出のプロセスが具体的な人名を挙げつつ詳細に語られた。このリチャード・ローレスこそが、1987年9月に韓国側から都在承救出について打診された元アメリカCIAのエージェントの「あるアメリカ人」だった。ジュネーブ在住のアルメニア人の画商ビクター・シャイトがリチャード・ローレスの依頼を受けて都在承救出のために奔走し、最終的に、自分の信用とレバノンでのネットワークを守るために韓国政府に代わって250万ドルを立て替えた。

 

 この記事が出た2013年には、韓国では全斗煥一族の不正蓄財を追求する「全斗煥追徴法」が成立し、全斗煥側に1672億ウォンの追徴金が課せられた。リチャード・ローレスもビクター・シャイトも全斗煥のこの裏金ニュースを知った。ローレスは、『新東亜』のインタビュー記事の最後にこう述べている。 

1987년에 전두환 정권은 수억 달러의 비자금을 가지고 있었다는 것 아니냐. 그런데 도 씨를 구출해준 친구의 돈 250만 달러를 떼어먹은 것 아니냐. 정말 너무한다.

1987年に全斗煥政権は数億ドルの裏金を持っていたというではないか。それなのに、都在承氏の救出に尽力した友人の250万ドルは踏み倒している。あんまりじゃないか。

 韓国政府が未払いの250万ドルは、解放交渉の最終段階で、韓国外交部と安企部との間で対立が起きて送金できなくなったという。どんなもめごとかは書かれていないが、この記事以降も韓国政府がビクター・シャイトに建て替え分の250万ドルを支払った形跡はない。

 


 

 映画「ランサム 非公式作戦」では、誘拐された韓国人外交官から秘密裏にソウルの外交部に連絡があり、外交部の外交官が救出に向かい、ベイルートに残っていた韓国人タクシードライバーと救出作戦を展開する。だが、このあたりは脚色されたもので、事実ではない。

 

 一年半以上消息がわからないままだった都在承書記官の救出の可能性を外交部が模索し始めたのは1987年9月。その年6月の「民主化宣言」で大統領の直接選挙が行われることになり、全斗煥政権の後継の大統領候補は苦戦が予想されていた中での依頼だった。そして依頼からほぼ1ヶ月半で救出が実現している。それまで1年半以上も手をこまねいていた事案であったにもかかわらず…。

 

 ここからは推測なのだが、全斗煥政権は後継の盧泰愚ノテウにバトンタッチするため、大統領選挙で与党側に有利な世論誘導に役立つ「成果」を7月以降各政府機関や組織に求めたのではなかろうか。その中で外交部は、誘拐されたままになっていた外交官都在承の救出の可能性を模索した。元CIAのリチャード・ローレスに依頼したところ、身代金さえ支払えば期待以上の速さで解決することがわかった。外交部はすぐに身代金を払って救出することにした。ところが、外交部とともに国外での情報収集や工作活動にあたっていた安企部は、都在承救出の件では蚊帳の外に置かれ、「政権への貢献」や「成果」を外交部に独り占めされそうになった。それで、外交部からの後払いの身代金250万ドルの送金に安企部から横槍が入ったとも考えられる。

 そうだとすると、この外交官救出のための身代金は、時の政権による選挙工作であり、全斗煥陣営が経費を負担すべきものであり、国家が支払うべきものではないということになる。後継の政権はそう判断したのかもしれない。ビクター・シャイトに250万ドルの立て替え分を支払っていないということとも辻褄があう。

 

 いずれにせよ、韓国側のどこかが負担すべき身代金の立て替え分が未払いになっていることで、リチャード・ローレスは都在承書記官救出の詳細を二度にわたって暴露することになった。身代金が全額支払われていたならば、救出作戦の詳細が歴史の闇の中に葬られていたかもしれない。思わぬことから現代史が詳細な文字記録として残され、映画でまで描かれることになったわけだ。

 

 ちなみに、この中東における外交官救出・生還のニュースが1987年の大統領選挙との関連で想起されることはほとんどない。映画「ランサム 非公式作戦」でも全く触れられていない。このあと、12月の大統領選挙直前に起きた大事件ですっかり影が薄くなったからだ。その事件とは、11月29日にバグダッドからアブダビを経由してソウルに向かっていた大韓航空機がインド洋上空で消息を絶った大韓航空機爆破事件である。「蜂谷真由美」名義の日本旅券を持つ容疑者の女が12月15日に金浦キムポ空港に護送された。

 

 

 この大韓航空機爆破事件と金浦空港でタラップから降ろされる金賢姫キムヒョンヒのインパクトは大きく、大統領選挙における投票行動への影響を語る際にはこればかりが取り上げられる。だが、都在承書記官の救出も、1987年12月の大統領選挙と関連づけて押さえておくべき出来事であろう。