まだ韓国と中華人民共和国との間に国交がなかった1992年2月。すでに民間レベルでは、朝鮮族の「母国訪問」を中心に、人的交流が活発になりつつあり、移動の交通手段も増えつつあった。そんな時期に開設された中国の天津と韓国の仁川を結ぶフェリーに乗ってみた。その時の記録。
韓国にとって中華人民共和国は、冷戦の反対陣営の社会主義国というだけでなく、朝鮮戦争の時に交戦した「敵国」であり、休戦協定の当事国でもあった。
転機が訪れたのは1983年5月。瀋陽から上海に向かっていた中国民航機がハイジャックされて韓国春川の空軍基地に着陸、それをきっかけに韓国と中国の間で政府間の直接接触が始まった。
その後、1986年のアジア大会、1988年のソウルオリンピックに中国は大選手団を送り込んできた。
1990年9月の北京でのアジア競技大会開催にあたっては、6月の天安門事件で西側各国が中国へ厳しい制裁措置を取るなかで、韓国は資材・資金の援助や車両提供など最大限の援助を行なった。その後、北京にKOTRA(大韓貿易振興公社)の事務所が開設された。あくまでも経済交流のための機関とされたが、実質的には韓国代表部で、所員は大使館員と同じような配置になっていた。後には韓国渡航のためのビザの発給業務も行なった。
そんな時期、1992年2月に天津から仁川行きのフェリーに乗船してみた。その体験記と当時の朝鮮族についてのレポートを掲載する。
天津—仁川間のフェリーは1991年12月24日に天津から第1便が出航。その後6往復したが、翌年1月31日から2月9日まで船体修理のため運休した。私が乗船した2月20日の便は、再会後の3往復目の往路(天津→仁川)の航海だった。
フェリーを運行しているのは韓・中合弁の津川航運有限公司、韓国側の企業は鬱陵島観光なども手がけている大亜観光。琉球海運の「ごーるでん・おきなわ」(6,870t)を買い取り、「天仁号」(定員631名)として就航させている。乗務員は韓国人が15名、中国人が48名と多いが、船長や航海士、機関長などは韓国側乗組員で、船内で通用する貨幣も韓国ウォンと米ドルのみ。中国の人民元はもちろん外貨券も通用しない。レストランの食事は韓国式の日替わりメニューが1種類だけで、値段が非常に高い。
行きと帰りでは運行スケジュールが異なり、天津から仁川への航海は17時発で翌々日の9時上陸、所要時間は40時間。一方、仁川からは昼の12時発で翌日の19時には天津港に到着。所要時間は31時間と9時間短い。ただ、天津から仁川に行く場合でも翌日の21時には仁川港外に到着しており、上陸は翌朝まで待たされるため時間がかかるのであって、実際の所要時間は30時間強である。ー昨年(1990)9月から就航している威海一仁川の威東フェリーは航行時間17時間から19時間で運航している、天津の方が所要時間は長いが、朝鮮族が多く暮らす東北部からのアクセスは天津の方が圧倒的に良い。
このような運行スケジュールが組まれている理由は、延辺朝鮮族自治州から天津・北京方面への唯一の長距離列車である図們一天津間の列車の天津到着が11時30分であり、その乗り継ぎを考慮したものと考えられる。ちなみに、延辺朝鮮族自治州側は、この列車の北京駅乗り入れを強く希望しているが未だ実現せず、天津駅発着となっている。
仁川港は、干満の差が極端に大きいため、港外に2つの水門を設けて港内の水位を一定に保っている。入港する船舶は水門のゲートで水位調節をしなければならない。従って、水門通過・入国手続きなどの時間調整で、仁川港外で一晩停船せざるを得ない。
料金は、最も安い普通室で160ドル(880元)で、威東フェリーの90ドル(500元弱)と比べるとかなり高額である。そうした事情もあってか、私が乗り合わせた219名の乗客のうち朝鮮族を含めた中国パスポートの乗客は44名のみ。香港人2名に日本人1名(私)を除く残り173人は韓国人で、その大半が韓国の文教部の外郭団体である教育振興財団が実施している研修旅行に参加した大学生のグループだった。ソウル大、成均館大、漠陽大など各大学の30名前後の学生グループに教職員が2〜3名、それに保安要員が1〜2名ついて10日前後の日程で大学別に中国各地を回ったという。
上述の威東フェリーは、乗船チケットの確保が難しいほど混んでいるのに比べ、こちらの津川フェリーの場合は最も乗客が多かったときでも300名程度とのことで、冬休みを利用した大学生の団体が主体だという。乗客に朝鮮族が少ないのは、就航して間もないこともあろうが、やはり料金の高さで敬遠されているのだろう。
中国のパスポート所持者だけは、乗船時にパスポートを乗務員に預ける。関係者の話では、中・韓に国交がないということで出国者のリストを作成するのだという。また彼らには「誓約書」の提出が義務づけられている。この「誓約書」とは、韓国に持ち込んだ物品を韓国国内で販売しないことを誓約させるもので、朝鮮族による中国産漢方薬材の持ち込みが急増したためにその抑制措置としてとられているものである。
今回の韓国入国に際しては、朝鮮族の通関の様子を見ることは出来なかったが、昨年冬の最も漢方薬材の持ち込みが激しかった時期には、威海からのフェリーが到着すると税関検査が真夜中までかかっていたという。韓国の税関は相当に厳しい姿勢で臨んでいたようで、泣きながら哀願する朝鮮族の荷物から漢方薬材を取り出しては床に投げ捨てて廃棄処分にしていたという。さすがに最近は漢方薬材の持ち込みは減少しているようで、乗船していた朝鮮族の荷物もさほど大きなものは目につかなかった。
大韓貿易投資振興公社(KOTRA)北京事務所は、昨年(1991)後半から、中国政府との合意に基づき中国国籍を持つ者を対象とするビザ発給を開始した。個人の申請は受け付けておらず、中国の国際旅行社・経貿部の二つの窓口から持ち込まれたものに一括発給している。昨年、KOTRAをはじめ、東京や香港の韓国公館で中国人に発給した韓国入国ビザは合わせて約4万5千件。中国側が韓国人に発給した中国入国ビザもほぼ同数だという。同時に、韓国と中国の間の直行海路・空路の開設も急速に進み中国・韓国間の往来は急増している。その中で中国側で急増しているのが「親族訪問」の名目で比較的簡単に旅券が取得できて(中国は海外渡航は自由化されていないので渡航目的が審査されて旅券が発給される)、韓国のビザも取りやすい朝鮮族である。
・朝鮮族の渡航増加の韓国国内事情
1987年の「民主化宣言」以降急激に拡大した労働争議を契機として、88オリンピック開催以降の韓国の賃金上昇は目ざましいものがある。現在(1991)の給与水準は、1987年当時の2倍以上といわれている(平均的サラリーマンで月額約2百万ウォン、ボーナス3カ月から6カ月)。しかし、物価の上昇も激しく、公共料金は低水準に押さえられてはいるものの感覚的には1987年当時に比して2倍から3倍の物価高水準だという。
当然人件費が高騰し、日常生活においては派遣家政婦(派出婦)・自家用車運転手の減少、食堂の出前(月給50万ー80万ウォン)・マーケットの配達の廃止、洗車場の機械化など、低賃金労働層で雇用が縮少しつつある一方で、韓国人の低賃金現業労働への韓国人の就業忌避が一層強まり、いわゆる3K職種での人手不足が顕著になっている。
日本と同様に、そうした業種・職種の人手不足を補うものとして、韓国にもすでに途上国から外国人労働者が入ってきており、街中でも一見して外国人労働者と思われるグループを見かけるようになった。韓国当局の外国人労働者に対する取り締まりは、現状では比較的緩やかだといわれる。朝鮮族の場合、言語・習慣でほとんど問題がなく、外観上の区別が出来ない中国籍の朝鮮族は雇用者側にとって雇いやすい労働力となっている。韓国当局は、昨年末に中国朝鮮族を炭坑労働者として使う方針を打ち出したとの話もあり(日本人プレス情報)、一方、朝鮮族側でも「研修労働」という名目で2万人の朝鮮族青年を韓国に送り込む計画などが公にされており、今後ますます朝鮮族が韓国の3K労働を支える労働力として韓国に入ってくることが予想される。
・階層に分かれている
中国から韓国に渡って来て労働に従事している人々は、いくつかの階層に分けることが出来る。
(1)教育水準が高くて「知識人」といわれる人々で、韓国において高賃金を得ることの可能な高等教育関係の職や企業の管理職についている階層。(2)特殊技能、特に中国料理の技術などを持っていて、韓国人ブルーカラーとほぼ同等の賃金を支給されている階層。(3)上述の韓国人が忌避している3Kなど単純労働に従事する階層。
(1)の範畴の人々は、韓中の人的交流が始まった早い時期から韓国に入り始め、現在、韓国の大学で中国語教育や中国関係分野の研究・教育にあたっている人々が中心である。中国でも一定の地位にあった人が韓国企業の顧問役で就職したケースもあると聞く。多くは韓国への永住を希望して、すでに韓国国籍を取得した人も多いという。ただ、全てがそうだということではない。
現在「朝鮮日報」に「韓中慢録」というコラムを掲載している「馬仲可」という人物がいる。彼は朝鮮族で「馬仲可」はペンネーム。元ハルピン工科大学の物理学の教授で、1986年春に米中の学術交流で渡米し、研究と同時に中国の体制を批判して反体制運動に加わった。中国への帰途韓国に立ち寄った1988年にそのまま滞在していたが、やがて天安門事件が起こって現在も韓国滞在を余儀なくされている。彼は現在翰林大学の客員教授に迎えられているが、専門の物理学ではなく、中国の現代政治を担当している。馬仲可氏の場合は、あくまでも中国人として中国の体制批判を続けており、韓国は仮りの住まいでしかないという。
(2)のケースはさほど多くないようだが、(3)の階層よりはよい待遇を受けている。例えばハイヤットホテルの中華レストランのコックとして採用された朝鮮族の場合、月額200万ウォンで、韓国人と同等の待遇。彼らの場合には職場に正式に雇用され、その職場の保証によって2カ月の親族訪問ビザを延長することが可能だという。
(3)のケースが最も多数を占めており、その大部分は韓国に永住するつもりはなく、韓国と中国の経済水準の違いを利用して中国での生活水準を引き上げるための資金稼ぎの場と割り切って考えている。これらの中国の朝鮮族が、「貧しい」「出稼ぎ」「漢方薬材持ち込み」といったイメージを韓国人に植え付けることになった。
親族訪問の名目で韓国に渡る朝鮮族が急増し始めた当初、大量の中国産漢方薬材を持ち込んで徳寿宮前や小公洞の地下街で露店を出して社会問題になった。しかしその後、漢方薬材の持ち込みが厳しく制限され、韓国内での売却が困難になった。そのため、朝鮮族の訪韓目的が「ポッタリチャンサ(運び屋)」から「出稼ぎ労働」に変わった。現在もソウル駅周辺の安宿に寝泊まりしながらソウル駅周辺の地下道などで漢方薬材の露店販売をしている朝鮮族も若干いるというが、中・韓間のフェリーでは、韓国入港に先だって「漢方薬材等を販売の目的で持ち込まない」という内容の誓約書の提出を義務づけており、仁川の税関では、商品として持ち込まれた疑いのあるものについては廃棄処分にしている。今後は中国からの「ポッタリチャンサ」は減少するものと見られる。
それに代わって最近目立っているのが、「出稼ぎ労働」である。一級ホテルのSホテルでは、5人の朝鮮族を掃除人・職員食堂の賄い婦などとして使っている。彼らのステータスでは、2カ月の親族訪問のビザを延長することは出来ないため、不法残留して1年程度お金を稼いで帰るという。雇用者側はあくまでも日当べースの臨時雇いであるとして、万が一当局による摘発があっても切り捨てが可能な雇用形態を取っている。母親の従姉妹の娘を訪問するという名目でビザを取って天津ー仁川のフェリーで1月上旬に韓国に来た瀋陽の朝鮮族夫婦の場合、給与は日当で受け取り、夫が月に60万ウォン、妻が50万ウォン、ボーナスはなし。保証金200万ウォン月10万ウォンの部屋を借りて、月に70万、一年で1千万ウォンを貯めて持ち帰る予定だという。オーバーステイであっても、入管に出頭して14万ウォン程度の罰金を支払えば処罰されることなく中国への帰国が可能だという。ただ、再度の入国はできなくなるが。
韓国人の知人の話では、建築現場や地下鉄工事現場では、すでに相当数の朝鮮族が働いているとのことであり、喫茶店・飲み屋のアガシ・アジュマとして、また一部では売春行為もあるとの噂もある。
「朝鮮族は中国国籍の外国人」という意識が朝鮮族にも韓国人の側にも希薄で、「我々の同胞」という括弧でくくっているために、在留資格外の就労という感覚がなく、雇用するにあたってもあまり抵抗感がないように見受けられる。
[北京への帰路]
(この当時、私は北京在住だったため空路で北京に戻った)
帰路はアシアナ航空の金浦空港から天津空港への便。韓・中間に国交がないことと、北京の首都空港は北朝鮮の高麗航空便が使っていることなどもあって、天津空港を使用している。使用機種はボーイング737-400。定員は159名、私が乗ったときの乗客は104名。うち56名が旅行社を通して予約したもので個人でチケットを購入したのは48名。旅行社を通じてチケットを購入した人々は全て韓国人だが、必ずしもバックツアーというわけではなく、ビジネスなどで中国を往来する人々がビザ取得などとのセットで旅行社を利用しているようだ。個人客48名も大半が韓国人で、朝鮮族を含む中国籍、及び中韓以外の外国人は5〜6人といったところ。多くがビジネスマンもしくは中国にツテを持っていると思われる韓国人乗客、中国語の学習に行く留学・就学生も多かった。ちなみに、私の隣の席の二人連れは、ソウルの漠陽大学の中文科を卒業して北京の経済三学院に留学するという。ソウルには中国の学校と提携して韓国人の中国留学を斡旋する業者がすでにいくつかできており、そこを通じて入学許可をもらいソウルの中国貿易代表部にビザ申請したという。留学ビザの期間は170日、彼らは現地でビザを延長して2年ほど北京で勉強するつもりだという。ビザはパスポートではなく、別紙にスタンプが押されたものだった。
韓国人の場合、中国の地方の学校への留学は比較的容易になったが、北京所在の学校には入るのが難しいといわれており、実際にソウルで手続きした上述の二人もそういわれたという。しかし、すでに語言学院に韓国人数名が在学しているほか、北京市内の学校に在学している韓国人学生がいるとのこと。ただし、北京大学など上位の大学・大学院への留学はまだないという。
ソウルから北京までは、ジェット機で直行すれば1時間40分の距離である。199O年の北京アジア大会の時に韓国選手団をソウルから北京に運んだKAL機は、直行ルートをこの時間で飛んでいる。韓・中間でチャーター便の定期運行が合意されたのはアジア大会が終わった後のこと。ただし、北朝鮮と中国の飛行管制区域の都合上、ほぼ上海の上空まで下りてそこから天津に向けて北上せざるを得ないため、金浦ー天津間で3時間20分もかかる。韓国側は、中国との航空交渉のたびに北京首都空港への乗り入れについても強く求めているが、中国側はこれを認めていない。一方韓国側は、対抗措置としてナショナルフラッグの大韓航空ではなく、2番手のアシアナ航空のチャーター便の運行しか認めていない。そのため、北京市内の各所に「KOREAN AIR」の巨大な看板があるにもかかわらず、国貿センター入口の大韓航空オフィスには覆いがかけられ休業状態である。
仁川港から韓国に入国する際には、韓国側の入国管理・税関の姿勢に厳しさが目立っていたが、天津空港では気が抜けるほど簡単に中国へ入国できた。
中国語留学に向かう韓国の若い世代やアシアナ機の場慣れた感じの韓国人ビジネスマンから、韓国からの中国に向けた関心の高さが感じられた。その一方で、中国側からの韓国へのアプローチでは、朝鮮族だけが突出していて中国全体としての関心の高さは感じられなかった。とはいえ、韓・中間の人的交流は、人数だけでなくルートの多様化も含めて想像以上に急激に拡大しており、この傾向は今後も加速度的に強まるものと思われる。
(1992年3月)
このレポートの半年後、1992年8月24日に韓国と中国との国交樹立が発表された。
そして、すぐに盧泰愚大統領が9月27日から4日間中国を公式訪問した。
대한뉴스 제 1925호-노태우 대통령 중국 방문
その1ヶ月後10月23日から28日まで、日本の天皇が中国を公式訪問した。
1992年【映像記録 news archive】
日本による中国侵略については、天皇が公式晩餐会で言及している(この動画の7分32秒から)。
1992年は、東アジア地域の国家関係が大きく変わるかもしれないという期待を抱かせた時期であった。




