- 外交官の救出と帰国
- レバノン情勢と1987年の韓国
- 暴露された救出経緯
外交官の救出と帰国
1987年10月28日、韓国外交部から「都在承書記官の救出を確認中」との発表があった。ベイルートの韓国大使館の書記官だった都在承は、1986年1月31日の朝、館用車で出勤する途中で武装した5人の男たちに誘拐された。2月3日に「闘争革命細胞」という組織名で犯行声明が出され、裏情報として1千万ドルの身代金要求があったとの話も流れた。しかし、しばらくするとぱったりと動きが止まってしまった。次第に生還は難しいのでは…という悲観的な憶測が広まっていった。ところが、誘拐されてから1年9ヶ月ぶりに、突如として都在承書記官の生存と救出のニュースが伝えられたのだ。
忘れられかけていた都在承書記官の救出のニュースで韓国のテレビ・新聞は沸き立った。11月3日午後、都在承は金浦空港に降り立ち、家族と感激の再会を果たした。さらに、その足で青瓦台に行って全斗煥大統領夫妻に謝意を表したことが大々的に報じられた。
ナレーション日本語訳↓↓↓ (手動でスクロール)
誘拐されて21ヶ月ぶりに自由の身となった駐ベイルート韓国大使館のト・ジェスン書記官が、待ち望んでいた祖国に戻り、両親、妻、そして3人の子供たちと再会し、喜びを分かち合いました。ト書記官は、この間応援してくださった国民と政府関係者に深く感謝の意を表しました。記者会見でト書記官は、「21ヶ月という長い間、耐え難く苦しい状況の中で、ただただ愛しい家族と懐かしい祖国に帰りたいという一心で、強い精神力をもって耐え抜いてきました」と述べました。
ト書記官は青瓦台を訪れ、全斗煥大統領夫妻に帰国の挨拶をしました。全斗煥大統領はト書記官の家族一人一人と握手を交わし、「悪夢から解放され、家族のもとと祖国に戻ることができ、心から祝福します。これまでご苦労様でした」とねぎらいました。
レバノン情勢と1987年の韓国
レバノンは、1967年に北朝鮮と経済交流を始めたが、1969年には韓国とも通商代表部のベイルート設置で合意し、1970年代は、韓国・北朝鮮と等距離の経済関係を維持していた。1981年2月になって、韓国と北朝鮮の双方と同時に外交関係を樹立した。
この時すでにレバノンでは武装勢力間での内戦が激しくなっていた。ベイルートではアメリカやフランス、リビアの大使館にロケット砲が撃ち込まれ、イラクの大使館員が暗殺されるなどの不穏な情勢が続いていた。外国の主権を代表する大使館や外交官を守れない国家の政府は、統治能力を失ったことを意味する。だから、反政府組織は外国公館や外交官をターゲットにする。
1980年代の初頭、韓国と北朝鮮は、それぞれに国際社会での認知度を高めようと躍起になっていた。特に、1981年秋に88オリンピックのソウル開催が決まると、韓国の在外公館が世界各地で各国指導者や有力者への働きかけを強めた。当然、北朝鮮はそれに対抗して外交攻勢をかけていた。それに国連への加盟をどのように実現するかという課題もあった。映画「モガディシュ」に描かれたように、内戦が激しくなった地域に北朝鮮と韓国が取り残されるのは、そうした事情も一因だった。
1984年2月から8月までベイルート情勢が極度に悪化した時には、現地の在留韓国人はほとんどが国外に撤収したが、韓国大使館は一時キプロスに避難したものの、その後再びベイルートに戻っていた。
そんな中で起きたベイルートでの韓国大使館館員の誘拐事件。韓国内では、北朝鮮側による拉致ではないかという説もまことしやかに流れた。結局、レバノン内部の武装組織の身代金目当ての誘拐だということになったが、具体的な交渉が進展しないまま時間だけが過ぎていった。そうこうする中で、レバノン情勢のさらなる悪化で誘拐事件発生から1年半後の1987年6月、ついにベイルートの韓国大使館は閉鎖された。都在承の誘拐案件はヨルダンの韓国大使館に引き継がれた。
この時期、韓国国内では映画「1987 - ある闘いの真実」に描かれているように民主化要求デモが最高潮に達し、全斗煥政権とその与党側が「民主化宣言」を出して、次期大統領選挙を国民の直接投票で行なうという譲歩をせざるを得なくなっていた。国民の直接投票による大統領選挙は12月16日が投票日だった。
韓国外交部が都在承書記官救出の第一報を流したのは10月28日、そして都在承書記官が金浦空港に帰国したのは11月3日、大統領選挙の選挙戦が本格化している最中の出来事だった。
暴露された救出経緯
こうした人質誘拐事件の場合、解決しても身代金の額や交渉に関係した人物や組織が明かされないのが普通だ。都在承書記官救出についても、韓国政府からは経緯の説明はなかった。
ところが、この事件については、その後解決に至るまでの経緯が明らかになり、韓国映画「ランサム 非公式作戦」は、明らかになったその経緯をもとに脚色を加えてストーリーが作られた。
事件から10年経った1998年1月号の『新東亜』に「全斗煥政権、都在承の身代金の半分を横取り」という記事が掲載された。
[発掘秘話]10年経って明かされる都在承拉致事件の内幕
全斗煥政権、都在承の身代金の半分を横取り
匿名の筆者によるこの記事によって、都在承書記官救出の経緯が明らかになった。記事によれば、87年9月、全斗煥政権の意向をうけたサムソンの関係者からアメリカの情報機関OBの「あるアメリカ人」に、都在承救出の可能性の打診があった。そのアメリカ人は、レバノン現地の内情に精通したジュネーブ在住の富豪のネットワークで都在承の生存を確認し、身代金の支払いで救出ができそうだと韓国外交部に伝えた。韓国外交部は身代金の支払いに応じ、解放された都在承はヨルダンからジュネーブを経由して韓国に戻れた。関係者の名前は明かされなかったが、その経緯は具体的に書かれていた。同時に、この記事では救出の過程で犯人側から要求された身代金500万ドルのうち、後払いの250万ドルを韓国政府が現地に送金してこなかったため、仲介した富豪が立て替えたことが記されていた。そして、それを未だ韓国政府は支払っていないことも書かれていた。
ちょうど野党の金大中が大統領選挙で勝利した中で掲載されたこの記事は、全斗煥政権時にジュネーブの仲介者が立て替えた身代金未払いについてのクレームでもあった。しかし、金大中政権も、その後の政権も250万ドルを仲介者に支払った形跡はない。
そのさらに15年後の2013年、元アメリカ国防総省副次官で国防長官顧問のリチャード・ローレスのインタビュー記事が12月号の『新東亜』に掲載された。
前半部分では韓国歴代政権の「戦時作戦統制権」の問題が語られたが、後半部分では27年前の都在承書記官救出のプロセスが具体的な人名を挙げつつ詳細に語られた。このリチャード・ローレスこそが、1987年9月に韓国側から都在承救出について打診された元アメリカCIAのエージェントの「あるアメリカ人」だった。ジュネーブ在住のアルメニア人の画商ビクター・シャイトがリチャード・ローレスの依頼を受けて都在承救出のために奔走し、最終的に、自分の信用とレバノンでのネットワークを守るために韓国政府に代わって250万ドルを立て替えた。
この記事が出た2013年には、韓国では全斗煥一族の不正蓄財を追求する「全斗煥追徴法」が成立し、全斗煥側に1672億ウォンの追徴金が課せられた。リチャード・ローレスもビクター・シャイトも全斗煥のこの裏金ニュースを知った。ローレスは、『新東亜』のインタビュー記事の最後にこう述べている。
1987년에 전두환 정권은 수억 달러의 비자금을 가지고 있었다는 것 아니냐. 그런데 도 씨를 구출해준 친구의 돈 250만 달러를 떼어먹은 것 아니냐. 정말 너무한다.
1987年に全斗煥政権は数億ドルの裏金を持っていたというではないか。それなのに、都在承氏の救出に尽力した友人の250万ドルは踏み倒している。あんまりじゃないか。
韓国政府が未払いの250万ドルは、解放交渉の最終段階で、韓国外交部と安企部との間で対立が起きて送金できなくなったという。どんなもめごとかは書かれていないが、この記事以降も韓国政府がビクター・シャイトに建て替え分の250万ドルを支払った形跡はない。
映画「ランサム 非公式作戦」では、誘拐された韓国人外交官から秘密裏にソウルの外交部に連絡があり、外交部の外交官が救出に向かい、ベイルートに残っていた韓国人タクシードライバーと救出作戦を展開する。だが、このあたりは脚色されたもので、事実ではない。
一年半以上消息がわからないままだった都在承書記官の救出の可能性を外交部が模索し始めたのは1987年9月。その年6月の「民主化宣言」で大統領の直接選挙が行われることになり、全斗煥政権の後継の大統領候補は苦戦が予想されていた中での依頼だった。そして依頼からほぼ1ヶ月半で救出が実現している。それまで1年半以上も手をこまねいていた事案であったにもかかわらず…。
ここからは推測なのだが、全斗煥政権は後継の盧泰愚にバトンタッチするため、大統領選挙で与党側に有利な世論誘導に役立つ「成果」を7月以降各政府機関や組織に求めたのではなかろうか。その中で外交部は、誘拐されたままになっていた外交官都在承の救出の可能性を模索した。元CIAのリチャード・ローレスに依頼したところ、身代金さえ支払えば期待以上の速さで解決することがわかった。外交部はすぐに身代金を払って救出することにした。ところが、外交部とともに国外での情報収集や工作活動にあたっていた安企部は、都在承救出の件では蚊帳の外に置かれ、「政権への貢献」や「成果」を外交部に独り占めされそうになった。それで、外交部からの後払いの身代金250万ドルの送金に安企部から横槍が入ったとも考えられる。
そうだとすると、この外交官救出のための身代金は、時の政権による選挙工作であり、全斗煥陣営が経費を負担すべきものであり、国家が支払うべきものではないということになる。後継の政権はそう判断したのかもしれない。ビクター・シャイトに250万ドルの立て替え分を支払っていないということとも辻褄があう。
いずれにせよ、韓国側のどこかが負担すべき身代金の立て替え分が未払いになっていることで、リチャード・ローレスは都在承書記官救出の詳細を二度にわたって暴露することになった。身代金が全額支払われていたならば、救出作戦の詳細が歴史の闇の中に葬られていたかもしれない。思わぬことから現代史が詳細な文字記録として残され、映画でまで描かれることになったわけだ。
ちなみに、この中東における外交官救出・生還のニュースが1987年の大統領選挙との関連で想起されることはほとんどない。映画「ランサム 非公式作戦」でも全く触れられていない。このあと、12月の大統領選挙直前に起きた大事件ですっかり影が薄くなったからだ。その事件とは、11月29日にバグダッドからアブダビを経由してソウルに向かっていた大韓航空機がインド洋上空で消息を絶った大韓航空機爆破事件である。「蜂谷真由美」名義の日本旅券を持つ容疑者の女が12月15日に金浦空港に護送された。
この大韓航空機爆破事件と金浦空港でタラップから降ろされる金賢姫のインパクトは大きく、大統領選挙における投票行動への影響を語る際にはこればかりが取り上げられる。だが、都在承書記官の救出も、1987年12月の大統領選挙と関連づけて押さえておくべき出来事であろう。



