1909年10月ハルビン駅の活動写真 | 一松書院のブログ

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◆NHKの放送・KBSの探訪

 1996年2月17日午後7時30分からNHKで「映像の世紀 JAPAN 第11集 世界が見た明治・大正・昭和」が放送された。その中に、ロシアのカメラマンが撮影した「連行される安重根」とされる映像があった。

 

 

 韓国のKBSは、このNHKの映像に関して、その後二つの番組を制作している。一つは、2009年10月24日に放送した「歴史スペシャル15回 安重根義挙100年 伊藤狙撃映像を探せ(역사스페셜 - 안중근 의거 100년, 이토 저격 영상을 찾아라)」、もう一つは、2015年1月13日放送の「

時事企画 解放70周年特集’銃撃の瞬間’を誰が隠したのか?([시사기획] 광복 70주년 특집-'저격의 순간' 누가 숨겼나?)」である。

 

 今残っている映像には、安重根アンジュングンによる銃撃の瞬間は写っていない。KBSの番組では、その部分もあったのではないか、それを探せないかという執念で取材・調査を行い、貴重な資料映像や多くのヒントを提示している。ただ、不明な点や資料解釈の誤りもみられる。ここでは、KBSの番組で使われた資料も参照しながら、新たに発掘した資料を加えて、このフィルムについてまとめてみよう。

 

・撮影者コプツォフ

・頼母木桂吉による映像買付け

・日本に届いたフィルム

・日本での上映

・フィルムの再発見

 

◆撮影者コプツォフ

 この映像を撮影したП.В. コプツォフ(П.В. Кобцов)は、ウクライナの東側ロストフで映画上映をやっていたが、その後極東のハルビンに移り、1905年1月にハルビンで最初の映画館を開いた(Д. Э. リークノフ「1900年から1945年までのハルビンにおけるロシアの映画撮影」『イズベスチヤ東方研究所紀要』1(21) (2013))。そのコプツォフが、1909年10月26日にハルビン駅で撮影することを思い立った動機について、後日この映像が日本で上映された際、来日して上映会場で講演したコプツォフ自身が次のように語ったとされる。

コゝフツオフが哈爾賓に來遊したのであるが、自分はコゝフツオフだけでは興味が少いから寫眞を撮らうとは思はなかった。然るに間もなく伊藤公爵の來遊と云ふことになった。公は親露主義の人でもあり、何か重大なる會見があるのだらうと思つて、實は興味を持ってその寫眞を撮らうと思い、高い足場を作ってプラツトオームで待った。汽車が着いたとき なんでもこの寫眞を完全に撮って露西亞人に見せてやろうと、他の事は考へずに撮影機のハンドルを廽はして…

(『京城新報』1910年2月13日掲載 国技館観覧記)

 コプツォフは、ロシアの財務大臣ココツェフと伊藤博文の二人が会談のために挨拶を交わし、二人が何やら話をしている場面を撮れば、ロシアの劇場で観客が呼べると考えた。従って、この二人が一緒のアングルを狙って撮ったものと思われる。カメラは三脚で固定し、映写機は手回しで撮影するものだった。

 

 伊藤博文の乗った列車は、午前9時前にハルビン駅に到着、伊藤博文の乗ってきた客車内にココツェフが乗り込んで30分ほど会談した。その後、列車から降りてロシアの儀仗兵を閲兵し、ハルビン駐在の各国外交団と言葉をかわして客車に戻るところでロシア儀仗兵の列をすり抜けて来た安重根に銃撃された。

 

赤ラインは一松書院による

 

 安重根はその場でロシア軍の憲兵に拘束され、撃たれた伊藤博文が担ぎ込まれた列車は、死亡した伊藤の遺体を乗せて午前11時40分に大連に向けて発車した。安重根は、ハルビンを管轄するロシアのポグラニーチナヤ(現在の綏芬河)管区裁判所の検事による取り調べを受けることになり連行された。

 

 映写技師コプツォフは、ココツェフと伊藤博文の出会いの映像を撮ろうと、ロシア軍の軍楽隊の前、伊藤博文の客車の降車口が見通せる場所にカメラを据えていた。満鉄公所の庄司鐘五郎が撮影した写真に映写機を廻すコプツォフの後ろ姿が写っている。

 

 そしてコプツォフは、伊藤博文が安重根に撃たれる場面に立ち会うことになった。ただ、その銃撃の瞬間に果たしてコプツォフは撮影機の手回しハンドルを廻していたのだろうか…。

 

頼母木たのもぎ桂吉による映像買付け

 コプツォフは、ロシアの警察部長の仲介で在ハルビンの日本総領事館にそのフィルムの買取りを持ちかけた。総領事館は東京の外務省に「該原版譲與方交渉シタル處同寫眞師ハ代償トシテー萬留ヲ要求シ來レリ」として、購入について問い合わせたが、東京の外務省は買取りは不要と回電した。活動写真の資料価値をさほど認識していなかったのかもしれないし、1万ルーブルは役所が資料として購入するには高すぎた。当時の日本円で1万〜1万2千円、現在の貨幣価値だと数千万円という金額になる。

 

 ところが、コプツォフの映像フィルムの存在を嗅ぎつけて「これは儲かる」と買付けに乗り出した人物がいた。頼母木たのもぎ桂吉である。

 

 頼母木桂吉は、1867年10月備後府中で生まれ、上京して第一高等学校を卒業し、新聞業界に入った。そこで頭角を表して報知新聞の経営に辣腕を振るった。夕刊の発行を始めたのも頼母木桂吉のアイデアだという。その後欧米のマスコミを視察し、帰国すると1909年にジャパン・プレス・エージェンシーを立ち上げた。日本語では「新聞代理店」とされるが、各新聞社に記事を売るニュース配信業に加え、現在の広告代理店の機能も兼ね備えた新業種だった。ゴシップなども積極的に扱って時事的な興行でも収益を上げた。頼母木桂吉は、後に立憲民政党の国会議員になり、広田弘毅内閣の逓信大臣、1939年には東京市長になったが、この映像買付けの時点では政界とは無縁だった。

 

 外務省内にも食い込んでいた頼母木桂吉は、ハルビンでの事件映像の存在を知るとすぐに大連の知人に、購入をコプツォフに打診するよう依頼した。当時、時事的な活動写真の撮影や上映が盛んになりつつあり、このフィルムに目をつけたのだろう。伊藤博文の国葬後、いち早く出版された後月山人『鳴呼伊藤公爵』(1909 弘仁堂)には、このような記述がある。

是より先き、東京銀座ジャパンプレスエゼンシー賴母木桂吉氏は、這は國民の渇望を癒すべく又活ける國民敎育の好資料たり。若し歐洲人の手に歸せば寧ろ國民の屈辱なりとし、評價の如何に係らず必ず期して手に入んと大連の知人に電報して其交渉を依頼せしが、十一月五日に至り、一萬五千圓位ならば譲渡を得べき見込みありと傳へ來り。

(中略)

遂に一萬五千圓にて賴毋木氏の手に歸すべく契約成り、現品は目下モスコーに保存しあれば、十二月一日東京に送荷すべき筈なり。

 11月18日付の『読売新聞』と『東京朝日新聞』が「伊藤公狙撃活動写真」という記事を掲載しているが、記事内容がほぼ同じなので、ジャパン・プレス・エージェンシーの情報を記事化したものであろう。銃撃現場の状況が1時間ほど映っていると書かれているが、実際に上映された映像はかなり短い。さらに、12月1日付の『東京朝日新聞』にジャパン・プレス・エージェンシーがフィルム原版の独占契約を結んだことが報じられた。それだけ価値の高いフィルムだというわけだ。これは、1万5千円の投資を回収して儲けを出すための頼母木桂吉側の宣伝戦略の一環ともみられる。

 

 実は、この時にコプツォフは、このフィルムのロシア国内での上映を計画していた。ジャパン・プレス・エージェンシーとの独占契約は、コプツォフ自身のフィルム使用まで制限するものではなかったのだろう。実際、コプツォフは、ヨーロッパロシアのバクーとカザンでこのハルビンで撮影したフィルムを上映しており、後述するようにハルビンの劇場でも上映している。カザンでの上映の詳細は別途「ハルビン駅映像と伊藤博文国葬映像」で述べる。

 
◆日本に届いたフィルム
 12月1日付の『東京朝日新聞』には「コプツエフ氏より原版を自身携帶の上本邦観光を兼ね時宜に依り撮影當時に於ける感想を國民一般の面前にて講話説明差支なき旨通報ありたり」とある。コプツォフ自ら来日して説明しようというのだから、いかにもサービス精神旺盛のように見える。だが、フィルムの映像状態や内容だけでは、高い観覧料を取るのが難しいという判断があったようにも思われる。
 
 フィルム原版は、1910年1月5日にウラジオストクからロシア東亜汽船のモンゴリア号で敦賀港に到着したコプツォフが持参した。翌日には新橋駅に到着した。
 
 実際に到着したフィルムは、一般公開に先立って警視庁が事前検閲を行った。その結果、「其原版が想像する如き悲慘なる状況毫もなき事を確め得國民敎育の一助たらしめんとの意より今囘許可するに至れるなり」(警視庁第二部長小濱松次郎のコメント 1910年2月1日付『東京日日新聞』)検閲での削除はなかったと報じられているが、逆に言えば、新聞の事前報道で喧伝されていたような決定的な場面や、銃撃直後に狼狽して醜態を晒す側近たちの場面はなかったということだ。
 
 実は、コプツォフのフィルム(複写版)が、コプツォフ来日後の1月11日からハルビンのボルトスムート劇場で公開されていた。その映画の内容は1月16日付の『満州日日新聞』に掲載されている。当然これは日本側の検閲を受けたフィルムではない。
藤公遭難活動寫眞 伊藤公遭難活動寫眞フヒルムが數日前漸く莫斯科より哈爾賓に着し十一日より同地新市街ボルトスムート劇塲に於て興行し居れるが遭難当時の天気快晴ならざりし爲めか寫眞判明ならず加ふるに遠距離より撮影したるもの故大切の現塲は殆んど見る事を得ず只漸く遭難當時一般の情況を窺うに足るのみなるは聊か遺憾ならされど兎に角近來の呼物故場内殆ど立錐の地もなき好況にて中に三四の韓人も見受けたりと
 この観覧記に「大切の現塲は殆んど見る事を得ず」とあり、実際のフィルムに写っていたものは、日本での前宣伝からするとかなり期待外れのものだったようだ。しかし、それでも伊藤博文の銃撃現場の活動写真ということで一見の価値はあるという程度だった。特に、このボルトスムート劇場には韓国人の観客も来ていたというのは興味深い。
 
 つまり、頼母木桂吉は原版を独占的に異例の高額で買い取ったものの、実際には「漸く遭難當時一般の情況を窺うに足るのみ」という映像だった。だからこそコプツォフ自ら来日して講演する必要があったのであろう。当時は、映像がうまく撮れなかった場合は、講釈師や弁士が「頑張る」ものだったという。
 
◆日本での上映
 1月中旬、2月2日に「伊藤公百日祭」が大々的に挙行されることが発表された。頼母木桂吉は、この百日祭に合わせたイベントとしてコプツォフの映画上映興行を行うことにした。
 
 頼母木桂吉は、浅草の亀淵幻燈店に複写版の作成を依頼し(田中純一郎『日本映画発達史』中央公論社 1980)、東京では国技館で2月1日から、そして2日遅れの2月3日から大阪の弁天座で上映することにした。国技館は7日間、弁天座は10日間上映された。

  
 
 国技館が保存している「備忘録」にこの時の記録が残っている(KBS「歴史スペシャル15回」2009.10.24日放送)。主催者は、頼母木桂吉ではなく西浦仁三郎と清水友三郎。西浦は美濃の豪農で第四六国立銀行の頭取をやった人物だが、野心家で大胆な出資や買い占めの後援などを行っていた人物。コプツォフのフィルム原版の買取にも出資したのであろう。ただ、1920年代には西浦仁三郎は破産して行方知れずになっている。清水友三郎も出資者なのだろうが、今のところ名前以外は不明。
 
 
 
 この東京国技館での上映会では、撮影者のコプツォフに加えて、当時政治講談で人気を博していた講釈師で政治家・ジャーナリストでもあった伊藤痴遊が登壇した。新聞広告では、コプツォフの肩書きは「露国軍団御用写真師」となっているが、実際は民間の「活動写真技師」だった。
 
 たいそうな前宣伝もあって、国技館の入りはよかった。ただ、2日目の上映に行った『読売新聞』の記者が観覧記を書いているが、相当な酷評である。
 
 まず、伊藤痴遊が登壇して伊藤博文について語った。
英國公使館に火を放けた攘夷黨の一人が、今日東洋の偉傑と云はるゝに至つたのは、時勢を見るに敏にして、十年丈、人よりも進んだ考へを持て居たからだ。何時迄も攘夷黨で居たら、今頃は、所謂昔の豪傑で無錢飮食をやつて警察へ引張られたかも知れぬ。
 伊藤博文は幕末維新のどさくさの中でうまく立ち回った人物で、一歩間違っていれば無銭飲食で捕まってたかもしれないとまで言っている。権力を集中させて専制的政治を行ったとして批判も多かった伊藤博文を無条件で持ち上げているわけではない。
 
 この映画会も「追悼」に名を借りた客寄せ興行的な側面も強かったように思われる。
 
 そして『読売新聞』の記者は、映画そのものについてはこう書いている。
列車は勢ひよくハルピンの停車場に這入てきた。彼の中に伊藤公が居るのだと思ふと、露國藏相コゝウゾフ卿と共に軍隊の檢閲を行ふ光景で、軍國軍隊が整然と竝んで居る前をハンケチをいぢり乍ら步いて來るのが伊藤だ相だ。遠方だから顏も何も見えない。中村滿鐵總裁、古谷秘書官。小山醫師等も皆な其處に居るのだろうが、判らない。パツト寫眞が變ると、蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る。是が當時、停車場內大騷ぎの光景だ。其れから柩を列車に運び入れる光景、安重根以外の犯人を囚人列車に護送の景を寫すが、何れも滿足の出來る樣には眼に入らない。
観衆からは、ヤジが飛んだという。
「殺した奴はドイツだ、はっきり顏を寫して見せろ!」と怒鳴つた者があつた是れに拍手した者もあつた
誇大広告的な前宣伝に煽られて、高い金を払った観客としては期待外れだったのだろう。ただ、当時とすれば、ニュースの活動写真とはそんなものであったのも事実で、一気にこの活動写真の評判が悪くなったわけではなかった。
 
 コプツォフが上映会での講演で語った内容については、2月13日付の『京城新報』(京城日報の前身)が書き残している。
三十分ほどして▲伊藤公はプラツトフオームに下り藏相と竝んで步いてこられると、哈爾賓市民の歡迎團は、思はず前の方へ出る。その角へ來て、三步ばかり步いて、公は市民の代表者などに握手して居ると▲爆竹のやうな音がした、停車場の外で支那人が鳴らしてゐるのだなと氣にも止めなかつたが、これが安重根の狙擊であつたので、その中に露國士官が手を上げて一人の洋服を着た男の腕を叩き付けると、其手に持つて居たブラウニング式の拳銃から七發目の彈丸が空の方へ飛び出した。公爵下車後、露國軍樂隊が盛に歡迎樂を奏して居るので、こんな騷動が始まつて居ても少しも分らず、丁度彈丸が飛び出した瞬間に、やつと人が走つて來て、活動寫眞撮影の後に居た樂隊を止めた時は、モウ人竝が崩れ始めて大混亂。寫眞を撮りながらも、後で漸く遭難のことを聞いて驚いた位です云々と
 「爆竹のやうな音がした」時点で、コプツォフが手回しの撮影機のハンドルを回していたかどうか…。『読売新聞』には、「パツト寫眞が變ると蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る」とあるので、「爆竹のやうな音がした、停車場の外で支那人が鳴らしてゐるのだなと氣にも止めなかつた」という瞬間はコプツォフが撮影機の手動ハンドルを回しておらず、その後「活動寫眞撮影の後に居た樂隊を止めた時はモウ人竝が崩れ始めて大混亂」あたりで慌てて撮り始めたという感じだ。
 
 一方、大阪の弁天座の上映については、ハワイの『日布時事』の2月23日付の紙面に観覧記が出ている。ハワイの日系新聞にまで記事が出ているのは、関心の高さともいえようが、むしろジャパン・プレス・エージェンシーの宣伝戦略の結果と見るべきなのだろう。弁天座の上映は東京国技館と重なっているのでコプツォフは講演できない。そのため、伊藤痴遊の門人で日露戦争で手柄を立てたという退役軍人の高橋萬次郎が軍服姿で壇上に上がり、伊藤博文が銃撃されるまでの顛末を述べてから映像の上映が行われた。複写版なので、映像の中身は『読売新聞』の観覧記に書かれたことと変わらない。
 
 さらに、この大阪弁天座の上映の後、2月23日からは京都南座で上映されている。ここではコプツォフが登壇して講演している。
 ただ、京都南座では、観覧料金が1等でも60銭にまで値下げされている。東京の国技館では、特等1円50銭、一等1円だった。さらに、『大阪朝日新聞京都付録』は、初日から「大盛況」と伝えてはいるものの、初日は入場料が半額という。さらに、2日目以降、盲唖院男子部や第2中学校の生徒たちの団体見物が行われている。ということは、東京・大阪で鳴物入りで上映したものの、京都ではさすがに入りが悪くなって一般客では埋まらなくなっていたので…と思わせる状態である。この京都南座での上映は、27日で終了した。
 
 その後、このフィルムは、日本全国興行権とともに「ヒーロー活動写真」に売却されたと報じられている。「ヒーロー活動写真」は、3月22日から国華座で3日間上映した。他の映画と抱き合わせで12番目の出し物としてこの映画が上映された。3月22日付の『大阪朝日新聞京都付録』にはこのような記事がある。
國華座は…(中略)…二十二日からは京都のヒーロー活動寫眞が露人の手により伊藤公遭難寫眞の日本全國興行権を譲り受けた手初めに三日間同座で同寫眞を撮し慈善興行をする
 最初の鳴物入りでの買い付け報道、上映観覧記の華々しい報道からすると、まさに「尻すぼみ」といった感が否めない。これ以降、日本国内でのこの活動写真フィルムに関する消息は途絶える。
 
◆コフィルムの再発見
 冒頭引用したNHKの「映像の世紀 JAPAN 第11集」で使用されたハルビン駅でコプツォフが撮影した伊藤博文銃撃時の映像は、テレビ朝日が所有する「ニュース映画発達史 躍進のあと」が出典とされる。この映像は、1941年に朝日新聞と朝日映画が制作した同名の映画フィルムが元ネタで、そのフィルムは神戸映画資料館に保存されていることをKBSの「歴史スペシャル15回」(2009年10月24日放送)が明らかにし、フィルムを映写機にかけた映像を番組内で放送している。
 

 

 この映像は、頼母木桂吉のジャパン・プレス・エージェンシーが買い付けたものではなく、日本での上映に先立ってハルビンで上映されたフィルムが原本ではないかと思われる。
 
 1935年、『朝日新聞』は、12月22日付の紙面で伊藤博文銃撃のフィルムがハルビンで発見されたと報じた。、
二五年前、明治の元勳伊藤公が哈爾濱驛頭で暗殺された實況活動寫眞千五百フイートが發見された。所持者はロシヤ新聞ザリアの編輯者ニコライ・コプツエフ氏・(哈爾濱特派員二一日發)
さらに、12月24日付紙面ではこのように伝えている。
既報、哈爾濱露字編輯人コプツエフ氏宅より發見された伊藤公哈爾濱驛頭における遭難の活動フイルムは、二十三日午後一時、日本人關係者を招待して哈爾濱警察廳檢閲室において映寫された。既に二十四年を經過し保管も宜しきを得ない憾みはあつたが、フイルムはロシア臨時首相ココフツエフ伯爵の驛頭における軍隊の檢閲に始まり、伊藤公一行の列車が徐々として哈爾濱驛構内に入り、下車間もなく畫面に突如として大混亂が映し出され、その當時の模様がまざまざと追想された。(哈爾濱特派員二十三日發)
 「ザリアの編輯者ニコライ・コプツエフ」とあるのは、撮影したП.В. コプツォフの息子かと思われる。この時発見されたフィルムは、1910年1月11日からハルビンのボルトスムート劇場で上映され、1月16日付の『満州日日新聞』に観覧記事が出た、あのフィルムではなかろうか。「下車間もなく畫面に突如として大混亂が映し出され」とあり、『読売新聞』の観覧記の「パツト寫眞が變ると蟻の巢を引くり返した樣にウジヨウジヨと版面一ぱい人が動いて居る」と一致する。やはりこのフィルムにも銃撃の瞬間の映像はなく、これによっても、銃撃直後に慌ててコプツォフが映写機を回し始めたものと推測される。
 
 1941年になって、朝日新聞と朝日映画が映画「ニュース映画発達史 躍進のあと」を制作した。この時に使われたのは、朝日新聞のハルビン特派員が「発見」を伝えたこの映像の一部であることは間違いない。この時出てきたフィルムの映像の全てが収録されているのではなく、状態の良い部分などごく一部を抜粋したのだろう。最初に出てくるはずの伊藤とココツェフが下車する場面や、安重根の発砲直後の「大混乱」の部分は使われていない。経年劣化のためかも知れないし、もともと映像状態が良くなかったためかも知れない。
 

 

  

 

 プラットホームの場面は、まず、左に伊藤が乗ってきた列車が映り込み、右にハルビン駅の駅舎が映る位置にカメラがある。しかし、停車中の列車の伊藤の乗車していた手前の客車のところは閑散としている。奥の機関車寄りよりのところに多くの人が集まっている。次の場面は、右の駅舎の位置からみて、ほぼ同じ場所にカメラが据えられいるように思える。ところが列車の姿はすでにない。これは、伊藤の遺体を載せた列車が11時40分の長春に向かって発車した後の映像かとも思われる。その前の映像も、事件発生後の映像ではないかと推測される。映像の分析は、また別の機会に改めて行ってみたい。
 
 事件の発生直後は、現場に立ち会ったこともあって、撮影したフォルムを高額で売却しようとしたものの、現像した結果は、撮影したコプツォフ自身も意外なほど映像状態がよくなかったというのが実情ではなかろうか。
 
 今ならば、何台ものカメラをセッティングし、移動しながらでも安定した撮影も可能だ。だから、「決定的瞬間がないはずがない」と思われがちだが、1台のカメラを手回しで撮影していた時代には限界がある。ということで、現在残っているП.В.コプツォフの映像には、「決定的な瞬間」は、残念ながら元々写ってはいなかったものと思われる。
 
 とはいえ、115年前のこの動画が極めて価値のある歴史記録であることは間違いない。もっと評価されていいものだろう。昨今のAIによるデジタル復元技術や着色技術を使えば、臨場感のある動画に修正できるのかもしれない。だが、チラつくフィルム映像の方が、より1909年10月26日のハルビン駅頭での出来事を生々しく感じられるような気がするのだが…。