半分覚え書き&思い出話の長文です。
●「産みたくない」とは思わなかった
挙式前後の騒ぎが一段落し、出産に向けて落ち着いて考えることができるようになったのは、年末が差し迫った頃からでしょうか。
ありがたいことに、妊娠中は深刻なトラブルはなく、外に出る仕事が続いてお腹が張った時に仕事を抜けて受診させてもらったり、「業務命令だ」と3連休をもらったりと、職場の同僚や上司、さらには仕事先にもとても配慮してもらえて、恵まれた環境でした。
たびたび訪れた仕事先では、エレベーターが古くて遅い1台しかなく、えっちらおっちら階段を使っていることも多かったのですが、後期になると、出向く度に、仲のよかった係長がいつもエレベーターのボタンを押して待機していてくれました。後で聞いてみると、部下が妊娠中に倒れて運ばれたことがあったため、「あんなにぞっとしたことはなかった。次の妊婦(私)から目を離すな!」と課長にボディガードに命じられていたそうで(笑)本当に温かく見守ってもらっていたと思います。
今、思えば、やはり出産前に病気の遺伝を調べていてよかったと思います。疾患の遺伝を知っていたのは夫と私の母だけでしたが、「生まれてからしか治療ができない」ということは、「生まれるまでは考えてもどうにもできない」ということなので、日常生活ではなるべく気にせず、仕事で迷惑をかけないよう、そしてマタニティライフを楽しく過ごせるように、という気持ちでいたと思います。
検査前に堕胎の意思を問われた時、「遺伝していると分かったら産みたくなくなるのだろうか」と考えたこともありました。実際はそんなことは1度もなく、「あなたはこんなにも周りに望まれて、愛されて生まれてくるんだよ」という意識がより強くなった気がします。それは多分、一日一日、胎内で大きくなる長男と一心同体で過ごす中で固まっていった私の決意であり、家族や友人や同僚に恵まれていたから、そう思えたという面ももちろんあると思います。
誤解を恐れずに言えば、これは「たまたま私はそう思った」という結果論です。もしかしたら生まれる前に障害が分かった時、そう思えない人もいるかもしれません。NIPTや羊水検査でもたびたび議論になりますが、どんな決断であれ、他人に非難できることではないと思います。
障害を持ちながら明るく生きている人、障害のある家族と幸せに生きている家庭を私はいくつか知っていますが、彼らに苦労している瞬間があることも知っています。生まれた後、障害を理由にせず幸せに生きられているという結果と、子を授かったときに「健やかで無事に生まれますように」と願うことは次元の違う問題で、やはり結論が出せる問題ではないと思っています。
年末にかけ、日帰りで名古屋にライブに行ってみたり、式でお世話になった友人に会いに行ったり、年末年始はほぼ仕事の夫が、挙式に上司を呼んだ効果なのか(笑)珍しく休みで、両実家は遠いので思い切って露天風呂付きの温泉に行ってみたり。24wに4Dエコーを撮ってみましたが、長男は顔を隠し続けていて、はっきり写ったのは足の裏だけ、という無駄遣いもしてみました。
●里帰り出産に変更
2016年になり、初旬に予約が取れたので、再度上京し、一度がんセンターの遺伝子外来と眼科を受診しています。電話で遺伝子検査をして遺伝が分かっていることは相談していましたが、あらためて大学病院の検査結果を渡し、生まれたら産院で臍帯血をがんセンターまで送ること、などを一通り確認、という感じだったと思います。
眼科では、「新生児でも治療はできるので1日も早く眼底検査をすること」、「胎内で発症していることもあれば、生まれてからという場合もある」という話。「あまり多くはないが、胎内で腫瘍がかなり大きくなっていたら、エコーにも映る」と言われましたが、結局、そういったことはありませんでした。
関西生活もそこそこ長く愛着もあったため、疾患が遺伝していなかったら、里帰りせずに出産することを考えていましたが、やはり、出産後の速やかな治療を優先するため、検査結果告知後、悩んだ末に関東の実家の近くの産院で出産することに切り替えました。その判断はやはり正しく、里帰りを強く勧めてくれた遺伝子外来の看護師(実は学生時代の同級生で、15年ぶりに再会した)には本当に感謝しています。
普通の産院で産めるのか?と思うかもしれませんが、たとえば、他に明らかな疾患がない場合は当然出産まで普通の妊婦と変わりなく、主治医にも「普通に好きなところで生んでください」と雑に言われました。要は、臍帯血をクール宅急便(!)で送れるならどこでもいい、ということのようです。
関西で33wまで通っていた産院で、妊娠初期に網膜芽細胞芽の話をした時は、勤務医の女医さんに「ここでは何もできませんので、嫌なら他の病院に行ってください」と言われて結構な怒りを覚えました。それから院長を指名して受診し、紹介状や様々な相談に載ってもらいましたが、たとえばエコーの時に眼窩に異常がないか尋ねても「うん大丈夫、ここが目だね」くらいで、本当にしっかり見てもらえているのかなと心配になったことはありました。
里帰りに伴う転院を決めたのが26wの頃だと思います。そこから実家近くの大きな産院に電話をかけ、どうして急な転院をお願いするかも説明しましたが、そこでも、一通り話は聞いて、丁寧な対応ではあったものの、「臍帯血送るだけなのね、ならいいですよ」という雰囲気で、実際、出産後に、眼底検査のための最寄りの拠点病院への予約を急かして取ってもらった経緯があります。まぁ「いつ生まれるか分からない」というのは事実ですが、周産期に関わる医師や看護師ですら、この疾患の知識をほとんど持ち合わせていないことが多く、歯がゆい思いをしました。
28w/1414g 平均上限ほどですくすく重くなる
31w/2040g 「小さく産もうなんて思わんときや」と脅される。
33w/2200g 関西で最後の検診。
ちょうど30wに入った頃に仕事は繁忙期にあり、しかも引き継ぐにも引き継げないという種類のもので、なんとか産休に入れたのは34wでした。行く先々で「まだおったんか」「ここで産まんときよ」と驚かれ、頂いたたくさんのお守りや小さな小さな靴下や、可愛いガーゼやノンカフェインの紅茶やらを抱えて帰省し、転院先の産婦人科を受診したのは34w6dのことでした。(何があっても32wまでに一度来いと言われていたので受付でまず説教をくらった)
●出産
初産は遅れるという常套句を信じ、「新年度に入ったら生まれるかなぁ」とのんびりしていましたが、39wになって、羊水が平均より少なめ、と指摘を受けました。羊水が少ないとへその緒が圧迫されやすく、呼吸がしにくくなったりするということで、さっさと産ませるために内診と称しがんがんお腹を押す医師達。その甲斐?あってか、39w4dで微弱陣痛が始まりました。
経過観察のため入院し、NST(胎児心拍数モニタリング)を点けたまま微弱陣痛に耐えること1日半。結局、「だめだこりゃ、促進剤倍にしてー」を3回ほど繰り返し、年度末ぎりぎりに3084gで長男を出産しました。
産む数時間前まで、「これ以上時間かかったら緊急帝王切開かも」と言われ続け、そのため食事も抜かれていたので、「切るのは構わないが、私の回復が遅れると治療に影響するかも」と内心背筋が凍る思いでした。やはり心拍が落ち気味だったため、出産後は翌日までは念のためと保育器に入っていましたが、その影響は今のところ何もありません。
長くなったなぁ。ここまでお付き合いしてくれる人いるのかな。ただの思い出話にありがとうございます。