私、どうやら何をしたのか、①を書き換えて④にして公開してしまった様子。

また忘れたけどざっくり書き直しました。とほほ。

 

網膜芽細胞腫は、「遺伝する疾患」と、文献などでよく目にすると思います。それは、この病気は遺伝子の「13番染色体」に異常が起きている、という発症に至るメカニズムが1980年代に明らかになった疾患だからです。片眼性、両眼性など、個々のケースで遺伝確率は異なる場合があります。これについては、万年理系教科が赤点だった超文系の私が分かる範囲で、後述できたらいいなぁと、うっすら考えています。

 

 

自分の病気が約1/2の確率で子どもに遺伝すると知ったのは、高校の頃だったと思います。その時は、結婚も出産もまだまだ先の話で身に迫る実感はなく、「それでは結婚するのはハードル高いかもなぁ」「子どもを生まない人生を選ぶのかなぁ」と考えつつ、漫然と保留にしていた感じでした。

 

社会人になり、20代前半で結婚した同級生らにちらほら子どもが生まれた頃、あるニュースをきっかけに、SNSに衝動的に書き付けた文章があります。

 



2012年7月、神戸の産婦人科クリニックが、不妊に悩む夫婦129組の体外受精卵全ての染色体で、遺伝子異常を調べる着床前診断を行い、うち19組が出産した、というニュース。

※当時は不妊や習慣流産による着床前診断は産婦人科学会が認めておらず、学会規定違反とされていました。

 

そのときの正直な気持ちなので、稚拙な文章ですが転載したいと思います。

 

 


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私は誰を仮想敵にして、夜中にこんなに長い文章を書いているのか分からないけど、そして、書いた時点でニュースの論点とはややずれていると気づいたけど、取りあえず、思ってたことを書いたらすっきりしたので寝ます。興味が有る人だけ読んでくれて、そうだなとか、違うなとか、考えてくれたら、それで地球がまた少し自転するんじゃないでしょうか。



 日本は着床前(妊娠前)の遺伝子検査の制限が厳しく、「重い遺伝病」に制限される一方、出生前診断(妊娠後の羊水検査など)は広く実施され、染色体異常が見つかれば中絶を選ぶ例も少なからずある。

 私は生後3ヶ月で先天性の両眼性網膜芽細胞腫(目にできる小児がん)と診断され、左眼摘出と放射線治療を受けました。


この病気は遺伝子の染色体異常が原因で、片眼性では5%、両眼性では50%の確率で遺伝します。が、日本では着床前診断が認められていない病気です。つまり、私が(奇特な男性と運命的に巡りあい)結婚して子どもを持つとすると、子どもには1/2の確率で遺伝するということ。実際子どもを産んでからそれを知り、早期発見で早期完治を目指している人もいます。



 それを知ったのは高校の頃だった思うけど、正直、だからどうこう、という結論は持っていません。が、類いまれなる私の(怠けることにかけては)優秀な遺伝子を残したいと思うこともあれば、別にそんなリスクを犯してまで産まんでも、欲しかったら養子でもいいのでは、と思うこともあります。ところが、日本の養子縁組は欧米に比べ何かと制約が多いというのも知られた話。



 確かに世の中は千差万別で、ある意味障害は個性だし、全くの健康体で生まれて恵まれた環境で育っても、不幸だと世を儚む人もいれば、逆境でも前向きに生きる人もいる。



 私も病気はないにこしたことはないし、車の免許取りたいとか、3D見てみたいとか不満に思うことは多々ある。それでも、親に産み育ててもらったことを感謝しているし、自分も含め、世の中の機微に一喜一憂するこのごちゃまぜの世界に産まれてきたことを面白いと思う。
 
 分かった時点で余命半年だったらしい。死んでもおかしくなかった。母と担当医に「生かされた」と思っている。



 でも、仮に私が受精卵時代に「先天性の病気があります」と分かったとして「選別」されなくても、それは両親の判断の問題で、受精卵私が「ちょ、待てよ」とは思わないよ。じゃあ、その線引きは意思の存在の有無か。そこに基準は作れるのか。



 結論を言えば、そんなの誰にも決められないんだから、本人達に選ばせればいい、と思う。ひっかかるのは、「命の選別」とか、「受精卵は命に当たるか」という議論。「重い遺伝病」の重さの基準は何?仮に産まれても100%死ぬ遺伝病だとしても、その基準を五体満足の人間が決めていること自体、命の選別でしょう。


選ぶのは親の権利だと思う。そもそも生死の軽重や魂の有無に線引きなんてできない。線を引く時点でこっち側にいる人間のエゴなんだから。



 自然界ではぜい弱な個体は淘汰されるのが必然だから、命の取捨選択はある意味では人間の本能的な行動なのかもしれない。でも、人間はすでに知能や医学といった武器を身につけているので、産まれてしまえば、延命治療を行う動物になっている。じゃあその「武器」で生かされる命は「自然」ではないのか?



 自分の意思で延命治療を拒むのは合法だけど、堕胎は殺人か?お腹の中の「本人」がそれを言えないなら、作った、あるいは作ろうとする2人の責任で決めるべき話だと思う。それを悔やむかよしとするか、正しいとするか軽蔑するかは、結局のところ個人のモラルや価値観の問題。



 障害がある人が、あるいは障害を持つ子の親が、「障害は個性だ」と言ったりする。それは後悔や苦労や自責や数々の大変なことを乗り越えて、本当に納得した上での発言としては真実だと思う。乱暴にいうと結果論。たどり着いた結果に価値があるのはそれを選び取った過程があるから。でも、それを美談にして世の中に伝聞させていること自体が、障害を際だたせている何よりの証拠でもある。



 「ホテルルワンダ」と一緒。虐殺された人々のニュースを見て、「『怖いね』といってディナーに戻るんだ」。大多数の無関係な人の本音は「いい話ね(私じゃなくてよかった)」だ。それはある意味当然の話。事故や災害と同じで、知識は経験には絶対に勝てない、絶対に。限りなく近付くことはできても。



 この年になって、友達が親になる度に、その子がすくすく育つ様子を心からうれしく思う。同時に、それがどれだけ奇跡的なことだということを吹聴してまわりたくもなる。そうやって自分の将来を考える機会が増えた時期のニュースだから、こんなに翻弄されたんだと思う。

 

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今読み返すと、間違っていたり、極論だったり、説教したいことはたくさんありますが、もしかしたら、同じ網膜芽細胞腫の患者さんで10代20代の子たちが見るかもしれないので、その時の素直な想いとして残しておきます。

 

 





【なう。の話】
長男の保育園が決まり、つまりは復職が決まり、なにかと物理的にも精神的にもばたばたしています。社会復帰できる気がしません!(笑)
1歳半になり、イヤイヤ期のはしりなのか、自己主張も増えて私とのガチバトルも増えてきた長男ですが、昨日お風呂に入りながら「明日から保育園だねー、友達できるかねー」と話しかけたら不意に泣けました。泣いてないけど。

生まれてからこれまで、離れたのは、数時間夫に預けて買い物や美容院に出掛けた時と、夜間は完全看護の病院に1ヶ月強入院したときの夜間(といっても同じ建物に寝泊まりしていたけど)のみ。

母子べったりではなくなるのが寂しいような、嬉しいような、という実に人並みな感慨です。