人魚姫の泡言葉

人魚姫の泡言葉

映画・ドラマ・書物のレビュー、即興詩、日々の想い、芸能ネタ、歴史、時事、政治に関しての見解等々を書いちゃってます。後「人魚姫の泡言葉」ブログ名を覚えてる方が多いので戻しました。



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ドラマ、映画、書物 から得た感動 知識 は時と共に色褪せていきます。記憶の彼方へといかぬように書きとどめ、又ふたたび思い浮べる事ができたら・・・と、このブログをお借りして残していきたいと思っております。


お断りとお詫び、web備忘録が目的ですので、コメント欄を設けておりません。ご理解のほど宜しくお願い致します。

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どうも変だ。
メディアが飛びつかない。

それは、数年前にもあったが各メディアは沈黙した。
テレビの力が弱くなったと言われる現在、テレビ局が扱わなければ世論にならない。

ネットでは大騒ぎで「小池、学歴詐称」というタイトルが散見出来る。

学歴詐称の罪としては存在しない。

詐欺罪や私文書偽造罪、公文書偽造罪に該当する可能性がある場合だけに罪が発生する。いわば犯罪性があるとする。

公人については学歴詐称があってはならないとすべき。

一票を投じるのに学歴は一つの目安になってる。これは否定できない事実である。

現に「カイロ大主席卒業」という鳴り物でメディアに登場し現在の彼女がある。大学は諦めて日本航空カイロ支店でアルバイトをする。
ハイジャック事件の時に「日航カイロ支店駐在員」と名乗り新聞記事にのる。
婚姻時代の姓で名乗る。





関西学院大学中退なら甲南女子高校卒となる。

この経歴で、彼女のキュートな顔をもってしてもテレビ局でもてはやされない。

これは歴然とした事実である。

日本のメディアは死んだ。 ジャニーズ問題も知っててとり上げなかった。

忖度である。

イギリスのBBCが大々的にとり上げて日本でも沈黙を通す事が困難になりテレビ局が恐々取り扱うとあとは雪崩をきったように連日の報道になった。


彼女の性格はどこから来たのか、生まれつきなのか、環境がそうさせたのか?

父親が政治色が濃い人で野望に満ちた人生を歩んでる。成功はしてない。
(小池勇二郎の経歴略-終戦後はペニシリンなどを扱う闇市で財を成し、石油を扱う貿易会社を複数経営したほか、関西経済同友会の幹事を歴任した。
その際にエジプト、サウジアラビア、クウェートなどのアラブ諸国の指導者層との人脈を形成
会社倒産後、カイロで日本料理店「なにわ」を新たに経営するなど日本とアラブ首長国連邦の友好に尽力した。)

大言壮語は百合子の父親にぴったりの言葉である。口から出る事は大きな事ばかりで信じる人も出てくる。実際に多くの政治家、企業家などと交友がある。

石油への夢を抱き大資本家になろうとした。まさにロックフェラーを目指した。発想は良いのだが企業家には向いてない。幾度となく事業に失敗してる。

アラビア圏のエジプトに注目したのも父親である。関西学院大学に入学させた娘を中途退学させてもエジプトに呼び寄せ、エジプトの政治家のツテにカイロ大学の門戸をくぐらせた。

後は、部屋をシェアしてた石井妙子氏が著してるようにアラビア語についていけない。喋れない、勉強を必死にした訳ではなく金回りが悪いのでバイトに日々の時間を費やした。
元々、勤勉家でもない。アラビア語はアラビア圏でない人が学ぶには7年ぐらい必死に勉学に励まないと大学の卒業は危ういという。(アラビア表記では一人称、三人称、複数、男性、女性、と文体が違う)

事業で成功しなかった父親だが、父親が成し遂げられなかった政治への欲望は彼女へと脈々と受け継がれハッタリ、巧妙に隠された大きな痣を隠しこぼれんばかりの笑顔を仕草をもって人々を魅了していった。

事業には成功しなかった父親だが、石原慎太郎の政界出馬では、関西経済から応援しテレビ局に入るキッカケ、チャンスを作ったのも父親(サダト大統領の夫人のアテンド)。
彼女は父親が敷いてくれた舞台、レールをきっかり上手に見事に70才超えるまで政治家として生き延びたきた。

それも絶大なる力、東京都知事という権力を持って。政治的センスは微塵もない。
ポピュリズムの怖さ、イメージ、美人を善しとする人間の性をこれみよがしに活用し生き延びてきた彼女である。










何も無い必要な物は全て押し入れで、動画で観たミニマリストの部屋でベットを
使用してる人は見た事がない。

床にふとんを敷いて起きて畳み押し入れへ。これに一言、口をはさむと直ぐに畳んではならない。布団は寝てる間に汗などを吸って湿気てるので外に出して風、日光を当てるのがいい。
他の人はそんな面倒な事してない。まして、干す場所ない、て声が聞こえてきそうだけど、ミニマリストは究極に必要な物だけを身の回りにおき徹底管理する生活がモットー、なれば布団も干さなければならない。

ぐーだらな生活しててベット上の布団がぐちゃぐちゃになってる連中とは違うからだ。

私は起きたら、直ぐにベットメイキングをする。天気を見て夏ならお布団を干す。
元々、発汗しないタイプなのだが、風を通すのは布団はもちろん、室内にも良いこと。

あと、究極に必要なものだけにするなら有る物にはこだわりを見せないとならない。

物がない、スッキリ感を出そうにもカーテンがだらしなく、目の肥えた人から見たらなんとも安っぽいのを吊るしてるんだろうと思う。

分からない人は、どこまでいっても分からないからほっとけばいい。

極力ものを減らして最小必要限な物に限る場合は、一点、一点が吟味されてる物であらなけらばならない。

この際に学習しておいてほしい。窓の縦より若干に長めにする。遮光とレース2枚使う時は遮光カーテンより数センチ短くレースカーテンをする。

これは基本中の基本。オーダー業者はそう指導するし教えてくれる。
これが一番、綺麗に見える王道なカーテンの長さなのです。



たとえば、窓に吊るされたカーテン。

2枚にして遮光にしないでも良い部屋なのか、それならそれで1枚で良いだろうが、カーテンがみっともなさ過ぎる。
吊るし物(オーダー製品ではない意味、1.5倍ヒダならほぼ既製品)でも良いが
カーテンのフックの位置が低すぎて上部に隙間が見える。

そ・し・て・驚きなのが、、
カーテンの長さ。 何処かの部屋のカーテンを臨時に取り付けたかと思えるほどの床に垂れた長さ。

こちらの窓は床までない掃き出し窓ではないので、床までの長さのカーテンは必要ない。
ちょくちょく窓なのに掃き出し用のカーテンを吊ってる家を見かける。

なんら家に頓着がないなら、それはそれでいいが拘りを見せて間違っていたら意味がない。

それから余計かもしれないが、やはりカーテンのタッグ(ひだ)は2倍がドレープがあって美しい。

※ 参考に2枚のカーテンの長さ 床までの位置など。








ぼくの帽子



母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。


母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあのときずいぶんくやしかった、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、

紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)をした。

そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。

けれど、とうとう駄目だった、

なにしろ深い谷で、それに草が

背たけぐらい伸びていたんですもの。


母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?

そのとき傍らに咲いていた車百合の花は

もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、

あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、

昔、つやつや光った、あの伊太利麦(イタリーむぎ)の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y.S という頭文字を

埋めるように、静かに、寂しく。


たまたま、西條八十の『帽子』詩のタイトルがそうだと思っていた。本当は『僕の帽子』なそうな。

ググるとヤフー知恵袋が出てきて

質問者が:
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ?
西條八十氏はこの作品で何を言いたかったのでしょうか?
この詩のテーマを教えて下さい。
もしかして、母親が亡くなっていて、墓前か遺影の前で
亡き母に語りかけているのでしょうか?

「僕が書いたY・S という頭文字」というのは
「八十/Y ・ 西條/S」ですよね?

ベストアンサーに選ばれた人の回答
テーマは「喪失感」です。
何を失ったのか?
帽子です。表面的には。

どういう状況で母に語りかけているのかは、読み手の自由です。
この詩を発表した時に、西條八十の母が健在だったかどうか調べるのは、必要かも知れません。
私のイメージでは、
幼い頃に母から買ってもらった帽子。
とても喜ぶ僕を見て、自分のことのように嬉しそうな母。
それは突然、帽子が飛ばされることで悲しみに変わる。
記憶の奥底にしまい込まれる思い出の喪失。

いつの間にか母の背たけを追い越し、今は小さくなった母の背を見つめる。
自分も子供の親となり、子供の悲しみは、親の悲しみということがわかるから、帽子のことを口に出せないでいる。
この微妙な距離感が、濃密な親子間の喪失。
ひょっとしたら、この時言えなかったことを今、墓前で語りかけているのかも知れません。

これがまあ無難な回答でしょうが、私は全然別なことを考えてました。
この帽子はまるで谷底で息づいているようではありませんか。
長い年月たった食器とか服は、魂が宿って妖怪になると言われています。
玄関の、はかなくなった靴をなかなか捨てられないのは、これといっしょだ。
帽子も谷底で生活している、と妄想してしまいました。

何を失ったのか?
失ったものへの思いが綴られてあるので喪失感と思ったのであろうが、私は読んでいて作者の優しい思いやりが伝わってきた。そう時は過ぎてないように思われる。もう、とうに車百合は枯れたんだろうとあるので。
常日頃から母との縁は良好であったろう。親しみを込めて「母さん」と枕言葉。思ってることをいかんなく話せたんだろう。
帽子はとても気にいっていた。帽子は山の深くの渓谷できりぎりすの宿になったりして冬の今日の日には僕の帽子に雪が積もってるかも。
自分が書いたイニシャルY・Sを埋めるように静かに寂しく。
深々とした深い谷に雪が降る、自分が書いた文字は雪に埋もれていく、寂しく、ここで寂しくを使っているので喪失感、失った何か、となるのかなぁ。
最後に寂しく、で結んだのは情景が目に浮かぶ。帽子が谷底で雪に埋もれていく様は寂しく映るものだ。
気にいってた取り戻せないあの帽子だけど、虫たちの宿にもなったりして冬は雪が積もり一人ぼっちになってるんだろう。と帽子に思いを馳せてる。
 これまで支那事変は、中国共産党が、蒋介石の国民党と日本を戦わせたという構図が語られてきました。
中国共産党をたびかさなる掃討戦で追い詰めていた蒋介石を、昭和11年12月西安事件で監禁して「抗日統一戦線」路線へと舵をきらせ、国民党と日本とを戦わせて双方の疲弊をはかったというものです。第二次上海事変勃発後には第二次国共合作が成立し、中国k共産党の狙いどおり、日本と国民党とは泥沼の戦いにはまり込みます。戦後、毛沢東は、国民軍を疲弊させた日本軍への感謝の気持ちを訪中した日本の政治家たちに述べています。
 しかし、風見の日記が物語るのは、日本側にも革命のために支那事変を利用する意図が、よりによって政府中枢にあったということです。当然、両者が通じていた可能性も浮上します。いや、通じていたにちがいありません。近衛や風見の周辺には中国共産党とふとく通じていた尾崎秀美らがいました。さらに風見と尾崎ととても強い絆結ばれていました。支那事変は中国共産党がしくんだ「国共合作」の成果だけではなく、「日本政府中枢と中国共産党の合作」の成果でもあったのです。





フーバー回顧録

「この頃、大統領の名代のような立場で重慶にいたのがオーウェン・ラティモアであった。彼は、ホワイトハウスで、ルーズベルト大統領の行政担当補佐官をしていたロークリン・カリーに、次のように打電した。『私(ラティモア)は、暫定協定案に対する総統(蒋介石)の強い反発について、急ぎ大統領に知らせなければならないと感じている。日本との間の暫定協定はいかなるものであっても、アメリカを信じる中国の気持ちを裏切るころになるだろう。アメリカに捨てられたという感情を回復するのは難しい。過去の支援実績があっても、これからの支援を増大させても、アメリカへの信頼を持続させることはできないだろう。
総統はこのように憂慮している。』。ハル国務長官は、11月25日に、中国の外務大臣からアメリカを非難する文書がとどいたことを記録している。その文書には、中国を犠牲にして日本との宥和を図っていると記されていた。スチムソンとノックスも、ラティモアの教唆を受けた蒋介石からの抗議文を同じ日に受け取っていた」

「11月29日、東京から、日本のメディアはハルの提案は最後通牒であると非難しているとの報告が入った。もちろん、わが軍の指揮者も、ハル・ノートは最後通牒だと理解していた。そうでなければ、彼らはハル・ノートを出したっことに抗議すなかったはずだ。同様に、そうでなければ、マーシャルはの地域司令官に、『日本は交渉をやめるようだ』などとはしらせなかったはずだった」(『裏切られた自由』)






フーバーは、ルーズベルトが容共主義者であり、ルーズベルト政権の中枢が共産主義によって浸食されていることを承知していた。更にフーバーは、スターリン独裁下にあったソビエトの脅威に対して警鐘をならし続けました。その為にフーバーは前大統領であったにも拘わらず、一度も会うことがなかったのです。

共産主義への警戒

アメリカの連邦議会は、1919年にモスクワでコミンテルンが創設された当初から強い警戒心を抱いていました。コミンテルン関係の会合がアメリカの首都ワシントンDCで開催されえたことを受けて上院は直ちに特別委員会を設置して調査にあたります。アメリカ共産党もこの年に結成されました。翌1920年には、「外国からの脅威」を調査するために連邦議会に共和党のハミルトン・フィッシュを委員長とする特別委員会が設置されます。
 ソビエト連邦は1922年に正式に成立しましたが、アメリカの歴代大統領は国家承認を送ってきました。しかしながら、1933年、既に述べた通り、ルーズベルト政権の発足から8か月でソビエト連邦を国家承認してしまいます。これによりソビエトの国際社会におけるステータスが上がり、同時に共産主義者へのアメリカへの工作の道が一気に開けてしまったのです。
 前に採りあげたように、ルーズベルト政権下でアメリカ共産党は更に大組織になります。前大統領のフーバーはルーズベルトの背後に潜む共産主義的な動きに警戒を強めていきます。実はフーバーは、公には認めてませんが、次期大統領選(1936年)への出馬を考えていたようです。
 しかし1936年の共和党予備選で敗北してルーズベルトへの挑戦の道が消えると、彼は社会主義的なニューディール政策やその信奉者への批判の先頭に立ちました。フーバーはアメリカ全土で講演しその危険性を訴えたのです。こうして悪魔の使いルーズベルトや共産主義との本格的な闘いが始まるのです。