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人魚姫の泡言葉

映画・ドラマ・書物のレビュー、即興詩、日々の想い、芸能ネタ、歴史、時事、政治に関しての見解等々を書いちゃってます。後「人魚姫の泡言葉」ブログ名を覚えてる方が多いので戻しました。




フーバー回顧録

「この頃、大統領の名代のような立場で重慶にいたのがオーウェン・ラティモアであった。彼は、ホワイトハウスで、ルーズベルト大統領の行政担当補佐官をしていたロークリン・カリーに、次のように打電した。『私(ラティモア)は、暫定協定案に対する総統(蒋介石)の強い反発について、急ぎ大統領に知らせなければならないと感じている。日本との間の暫定協定はいかなるものであっても、アメリカを信じる中国の気持ちを裏切るころになるだろう。アメリカに捨てられたという感情を回復するのは難しい。過去の支援実績があっても、これからの支援を増大させても、アメリカへの信頼を持続させることはできないだろう。
総統はこのように憂慮している。』。ハル国務長官は、11月25日に、中国の外務大臣からアメリカを非難する文書がとどいたことを記録している。その文書には、中国を犠牲にして日本との宥和を図っていると記されていた。スチムソンとノックスも、ラティモアの教唆を受けた蒋介石からの抗議文を同じ日に受け取っていた」

「11月29日、東京から、日本のメディアはハルの提案は最後通牒であると非難しているとの報告が入った。もちろん、わが軍の指揮者も、ハル・ノートは最後通牒だと理解していた。そうでなければ、彼らはハル・ノートを出したっことに抗議すなかったはずだ。同様に、そうでなければ、マーシャルはの地域司令官に、『日本は交渉をやめるようだ』などとはしらせなかったはずだった」(『裏切られた自由』)






フーバーは、ルーズベルトが容共主義者であり、ルーズベルト政権の中枢が共産主義によって浸食されていることを承知していた。更にフーバーは、スターリン独裁下にあったソビエトの脅威に対して警鐘をならし続けました。その為にフーバーは前大統領であったにも拘わらず、一度も会うことがなかったのです。

共産主義への警戒

アメリカの連邦議会は、1919年にモスクワでコミンテルンが創設された当初から強い警戒心を抱いていました。コミンテルン関係の会合がアメリカの首都ワシントンDCで開催されえたことを受けて上院は直ちに特別委員会を設置して調査にあたります。アメリカ共産党もこの年に結成されました。翌1920年には、「外国からの脅威」を調査するために連邦議会に共和党のハミルトン・フィッシュを委員長とする特別委員会が設置されます。
 ソビエト連邦は1922年に正式に成立しましたが、アメリカの歴代大統領は国家承認を送ってきました。しかしながら、1933年、既に述べた通り、ルーズベルト政権の発足から8か月でソビエト連邦を国家承認してしまいます。これによりソビエトの国際社会におけるステータスが上がり、同時に共産主義者へのアメリカへの工作の道が一気に開けてしまったのです。
 前に採りあげたように、ルーズベルト政権下でアメリカ共産党は更に大組織になります。前大統領のフーバーはルーズベルトの背後に潜む共産主義的な動きに警戒を強めていきます。実はフーバーは、公には認めてませんが、次期大統領選(1936年)への出馬を考えていたようです。
 しかし1936年の共和党予備選で敗北してルーズベルトへの挑戦の道が消えると、彼は社会主義的なニューディール政策やその信奉者への批判の先頭に立ちました。フーバーはアメリカ全土で講演しその危険性を訴えたのです。こうして悪魔の使いルーズベルトや共産主義との本格的な闘いが始まるのです。














共和党はウェンデル・ウィルキーを大統領候補に選出する。

選挙はむしろ「アメリカは参戦しないことを約束する競争」公約合戦になっていた。

ルーズベルトはなんと11回も約束を繰り返し述べ、選挙運動が始まる前にも同様な約束を5回している。

対抗馬は8回、戦争しない約束。

ルーズベルト大統領は選挙運動の終盤になって民主党の平和支持者の票が強力であることを恐れて更に強いアピールを行った。

選挙日11月5日迫った10月30日の主張

「私は母であり、あるいは父であるあなたがたに話すにあたって、いま一つの保証を与える。
私は以前にもこれを述べたことがあるが、今度何度でも繰り返し言うつもりである。
『あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれる事もない』」
「われわれの外交政策の第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである。」

↑ ↑ ↑
日本政府がこれを知らぬ訳がない。裏でいやがらせ扇動してきても、絶対に自らは手を下せないことを知ってる筈である。
日本の軍人、政府要人たちは。

なのに、口実を与える真珠湾攻撃を日本陸軍の大反対を
押しまでも山本五十六は辞任をちらつかせながらも実行したのだろう。
天皇は8月31日、木戸に近衛の「意見書」に対して次のように感想を述べられた。

「憲法の改正を必要とするのであるならば、正規の手続きにより之を改正するに異存はないが、近衛が兎角議会を重んぜない様に思われるが、我国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平其他に2つの勢力が対立して居る、此の対立を議会に於いて為さしむるのは1つの行方で、我国では中々一つに統一ということは困難の様に思わる」

 天皇は、ここでは憲法の改正に異存はないとしながらも、歴史をひもときながら、近衛の議会軽視のやり方に疑問を呈したのです。

問題はそもそも帝国憲法にも内在していた。統治機構のなかに対立・分裂の萌芽が内包されていたのです。
天皇を頂点としつつも、議会、内閣総理大臣、各大臣、裁判所、軍(各統帥部)がそれぞれに独立した天皇の輔弼機関である以上、分裂する可能性を秘めていました。
にもかかわらず明治以降統一した権力ををもつ主権国家として機能してきたのは、明治維新を生き抜いてきた元老たちが諸権力をひとつにまとめ上げてきたからです。
しかし、元老たちがこの世を去り、ロンドン軍縮条約をめぐって統帥権干犯問題がおこり、5.15事件で政党内閣が終焉し、権力分裂は決定的となった。
このような情勢を背景に、近衛は統一した権力システムの構築を考えたといえます。

 他方、衆議院議員の鳩山一郎はこうした動きに一貫して危惧の念を抱いていた。
昭和15年10月、『鳩山一郎日記』では、「新体制の正体不明」「近衛に日本を引き廻されてはたえきれない」と述べている。また、巷に溢れだしたスローガン「贅沢は敵だ」はかってレーニンが使用していたスローガンだと聞いて懸念している。
「レーニンは先ずこのスローガンを宣伝して、次に『贅沢と貴族は敵だ』というスローガンを播ママかし、その次に『贅沢と貴族とクレムリンは敵だ』と宣伝した。現時の日本の状態は全くレーニンの初期時代に髣髴す」

さらに鳩山は、「企画院、内務省、商工省の中に共産主義的に官吏ありて困っている」との訴えや警告に対して近衛がまったく他人事のように無責任な態度をとり、総理大臣としての法的責任はもとより、道徳的、社会的責任を少しも考えていないとしている。
そして、このことについて、「嗚呼憐れむべし、悲しむべし、憎むべし」と記しています。陛下御一人に御心配をおかけして、近衛の政府は「人類の福祉と万邦の協和」の逆を行くとさえ述べています。

天皇は新体制運動についてのを随時おとりになり非常に警戒されてました。
 やはり共産主義者の件、そして「近衛幕府」あるいは「近衛党」の誕生を懸念されていのでしょう。近衛のヒトラー仮装も忘れません。まわりにも次第に強い不快感をしめされていきました。
だから近衛は大政翼賛会の発会式で準備されていた綱領を表明しなかったのです。
 いま、天皇と正面から衝突すれば近衛は負けてしまいます。ここで逆鱗にふれたら、ここまで進めてきた我が闘争の計画はすべて無に帰します。

 近衛は情勢を敏感に察知し、新体制運動の性格をコントロールして、新党づくりを大政翼賛会へとむかわせました。また大政翼賛会の性格も政治結社から単なる公事結社に変質させていくのです。

・・・
大政翼賛会興隆のために数々の困難を乗り越え苦労を買って出ていた有馬や後藤は悔しい思いをしたといいます。

けれども、この辞任は、実は彼らにとっては敗北ではなかったのです。
むしろ「ほど良いタイミング」であったのです。

このとき対米英戦へと向かう国内世論、国民心理は彼らの思惑通り十分に整えられていました。彼らの目的は達成されていたのです。
 風見も、有馬も、後藤もあとは舞台を降りて、日本対米英開戦と突っ込み戦争が本格化しそして敗戦となるのを、安全なところにいて眺めていればよかったのです。大政翼賛会からの名誉ある撤退、いったん休憩といったところです。
 近衛自身も対米戦が確実となった頃を見計らって舞台から降りる算段でした。すでにレールは敷かれ、最後の詰めが残っているばかりでした。
 この大政翼賛会自体は、東條首相の登場とそれにつづく大東亜戦争への突入により、近衛が仕掛けたごとく、あるいは近衛が予想したごとく、戦争体制をささえる行政補完組織として機能します。近衛が用意した東條にとっての「軍国主義」の道具のひとつであり、かつ東條を敗戦後に敗犯へと導くとてもわかりやすい証拠のひとつとなったのです。

・・・

真珠湾で空母を打ち漏らした山本連合艦隊司令長官は、ハワイ攻略に挑みたかったのですが、航空兵力の整備を待たなければなりませんでした。
 そこで、その間に、セイロン島攻略によりセイロン島攻略によりインド洋のイギリス東洋艦隊を誘い出し撃滅して西正面の態勢を整えようとしました。
 この時、ドイツも日本に対してインド洋でのイギリスの後方攪乱を要請しています。開戦時に大損害を被ったイギリス東洋艦隊はセイロン島に退避し、その後、本国艦隊から増援をうけ、戦艦5隻、空母3隻の大艦隊に復活していた為、ビルマ攻略を控えた日本軍には脅威となっていました。当然にインド洋作戦は陸軍の望むところです。
  日本海軍は、第一段作戦の最終章のインド洋作戦として、4月5日から6日にセイロン島沖で空母機動部隊によるイギリス東洋艦隊を再撃滅をめざし、空母1隻、重巡2隻そしてベンガル湾艦隊の多くをインド西岸やアフリカ東岸に取り逃がし撃滅はたっせられませんでした。
  他方、チャーチルは、4月7日および15日付のルーズベルト宛書簡で、「今、日本がセイロン島と東部インドから更に西部インドへ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油輸送ルートやソ連支援ルートが遮断される」とし、インドにおける海空軍の増強への支援と共に4月末までにアメリカ太平洋艦隊が日本の西進を止め東へ転じさせるべく牽制行動をとるよう切望しました。米英とともに、日本軍が西進し、インド、中東においてドイツと出会うことで枢軸側による世界制覇がなかば達成されることを恐れたのです。ですから、日本海軍は、すかさず、脇目もふらずにインド洋方面に積極展開すべきだったのです。
 チャーチルの書簡に対してルーズベルトは次のように返事をしてます。
「太平洋艦隊が今取り掛かっている手段は軍機密の要求上細部にわたってはお知らせしてありませんが、近くご承知になる時、効果的だと思いくだされば結構です。」

―――――
チャーチルからルーズベルト宛の書簡と符合する時期、日本では衆議院昭和17年4月18日の朝、犬吠埼より約千百キロの地点で、空母ホーネットからB-2516機が東京方面等にむかい空襲を敢行しました。アメリカは、太平洋の貴重な空母4隻を本作戦に投入したのです。
 この空襲で日本国民は無差別攻撃をうけ、死者は子供を含む87名、重傷者466名、本土上空での米軍機の第一発見者は、偶然にも内情視察のため水戸にむかって陸軍機で移動中の東條首相でした。東條は度肝をぬかれ、ただちに視察を中止し大慌てで記者に乗り東京に向かい、すぐに天皇へ報告に参内したのでした。
 ドゥーリトル空襲が海軍に与えた衝撃はとくに甚大で、山本連合艦隊司令長官のプライドは大きく傷つき、一方で空襲を防ぐにはミッドウェー島占領が必要だという説明に説得力が増してしまいました。ミッドウェー作戦については、海軍内においてさえ作戦発動時期等について議論がありペンディング状態であったのです。
 しかし、不幸にもドゥーリトル空襲を背景に疑義を呈する議論がいっきに収束してしまったのです。この時山本連合艦隊司令長官はドゥーリトル空襲にこめられた真の狙いにまったく思いをいたそうとはしませんでした。日本の「西進」を「東進」に転換させるというアメリカ側の意図は、乾坤一擲の空襲で実現したのです。日本の国家戦略「腹案」が吹っ飛んだのです。
 ちなみに、この5月、英ソ相互援助条約がむすばれ、対ソ支援ルートとしてインドが明確化されました。当時、英米の海上輸送を破壊するために潜水艦は、日本はインド洋や豪州近海に数隻を配備するのみでした。ドイツは大西洋を中心に最大375隻を配備して英米の船舶に猛攻撃ををかけてました。したがって日本海軍主力のすみやかな西進がますます必要とされる状況となっていたのです。

 ミッドウェー作戦の結果は、ご存知のとおり日本の大敗北。海軍の慢心もわざわいして、アメリカ海軍の待ち伏せにより主力空母4隻と艦載機を一挙に喪失しました。しかも罪なことに、海軍はこの壊滅的損害を陸軍側にながくしらせてなかったようです。

 ところがこのたと再び、インド洋作戦、すなわち「腹案」への回帰チャンスがめぐってくるのです。昭和17年6月21日、ついにドイツ軍がリビアのトブルクにあるイギリス要塞を陥落させエジプトへ突入しました。枢軸の画期的な勝機到来です。
 急遽6月26日に日本海軍は、再編した連合艦隊を投入するインド洋作戦を決定。陸軍参謀本部もセイロン島攻略を東條首相に進言しました。
 しかしながら、連合艦隊に引きずられた海軍は、「腹案」をはるかに逸脱して「米」豪遮断の準備を進めていました。「腹案」にそった「英」豪遮断ではありません。そして、のちに設定される絶対国防圏からラバウルに基地航空部隊を集中、さらにそこから千キロメートルも離れているガダルカナルに進出し、7月から航空基地の建設をはじめたのです。
 8月7日、このガダルカナルにアメリカ軍が突如上陸。日本は激烈な消耗戦を展開し、多くの搭乗員をふくむ陸海軍兵、航空機と船艇を失ったのです。まったく無意味な消耗戦。
 日本の国力から、その後この損失を回復することは不可能でした。ここに、インド洋作戦をはじめとする西進戦略はすべて崩壊、日本の戦争戦略は完全に破綻したのでした。
  永野修身軍令部総長や山本五十六連合艦隊司令長官ら海軍による意図的な戦争戦略からの逸脱が、2度の大きな勝機があったインド洋作戦をはじめ西進戦略を崩壊させ、わが国をそもそも意図せざる「太平洋戦争」という地獄へと転落させたのです。大東亜戦争を破壊し遂行不能におとしいれたのです。
 英霊たちの怨嗟の声が聞こえてきます。この時点で、祖国は戦争に敗れたといえます。日本がインド洋を遮断しなかったために、アメリカは大量の戦車と兵員を喜望峰回りでエジプトへ送ることが出来ました。ドイツ軍は前進をとめられ、結局、昭和18年5月にチュニジアの戦いで壊滅しました。ドイツ軍も日本海軍を怨みました。
 近衛は、アメリカを真珠湾攻撃によって本気で参戦させたら、たとえうまくいっとき南方の資源を手に入れてそののち西へ行ったとしても、日本は結局は巨大国家アメリカにやられてしまうと悟っていました。真珠湾攻撃という暴挙で、すでに敗北を見通していました。
 尾崎も風見も同じ見解でした。
 支那事変拡大、南部仏印進駐、真珠湾攻撃そしてミッドウェー作戦、ガダルカナル攻防と亡国への水先案内人であった米内光政、永野修身そして山本五十六は、近衛にとって敗戦に向けての実に頼もしい駒であったのです。


従来、共産主義者たちはこう考えていました。
「国民の国家から受ける重圧や犠牲負担には一定の限界があり、この限界を超えて国民に圧力を加えることは国民暴発につながる」と。