八海老人日記
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吉井勇作詞物語小唄三題・「源氏物語」(末摘花)「竹取物語」(かぐや姫)「伊勢物語」(業平)

長年、小唄の道を歩いて来て歌人・劇作家・吉井勇(明治19年~昭和35年)の小唄に出会ったのはそんなに古いことではない。本々吉井勇は、小野金次郎、土屋腱、平山芦江などのような小唄の作詞家ではなく、出自は東京芝生まれ、明治維新で功労のあった吉井伯爵家の次男。二十歳の頃、胸膜炎を患い鎌倉の別荘で治療中短歌に励み、「明星」に次々と歌作を発表、北原白秋と共に新進歌人として注目された。


 吉井勇は、若い頃から文学的才能に恵まれていたが、遊ぶ方も相当のものだったらしく、文壇の一部から、「遊蕩文学」と攻撃されたこともあった。吉井勇の最初の妻・徳子は、歌人・柳原白蓮の姪であるが、昭和8年、近藤恭子(白洲正子の姉・有閑マダム)と共に、所謂不良華族事件(自由恋愛、乱交,賭博などの手引きを行い、この時検挙、召喚された著名人は、久米正雄、川口松太郎など15名にのぼった)を引き起こし、

吉井勇と離婚する。吉井勇は、その後、四国の田舎に隠棲するが、昭和12年に東京浅草の料亭「都」の美人ママと再婚。再び元気を取り戻す。吉井勇52歳であった。戦後は、谷崎潤一郎、川田順、新村出らと親交を結び、昭和35年、肺がんのため京都で死去。亨年75歳


 吉井勇が小唄の作詞を手掛けるようになったのは、昭和31年8月、日本コロンビアが、吉井勇を専属作詞家として起用し.現代小唄による小唄十二ケ月のLPレコード盤の発売を企画したことによる。この辺の詳細については、昨年5月13日のブログ「伊勢物語」を参照。小唄作詞家としての吉井勇については、木村菊太郎著「昭和小唄」にもあまり多くの頁が割かれていない。しかし、私、八海老人の感じたことは、吉井勇の小唄歌詞で唄う時は、どれも、出汁や香辛料の効いた素敵な料理を戴く時に似た感じがするように思われるのである。

 


第七話 武蔵野の怪談その二「実説番町皿屋敷」

 そもそも「番町皿屋敷」という話は、江戸時代から今日に至るまで、講談、浄瑠璃、歌舞伎、落語など、幅広い分野で題材とされてきているが、元になった史実、何時誰が演じ始めたかということについてはあまり定かでない。「新武蔵野物語」の著者・白石実三氏は、実説として今から五百年ほど前に遡る「播州皿屋敷実録」という資料を紹介しているが、この内容は、姫路藩に起きたお家乗っ取りの内紛を記述したもので、主人の陰謀を知った召使のお菊が藩に密告し、それがばれて主人に手打ちにされ、主人はお菊の亡霊に取りつかれて狂死するという話でどこまで真実か分らない。


 お菊の似たような話は、方々にあるが、江戸に発生した「番町皿屋敷」は、1758年(宝暦8年、九代将軍・家重の代)、江戸の講釈師・馬場文耕が演じたのが始まりとされている。この梗概も「播州皿屋敷実録」が下敷きになっていると筆者は勝手に推定する。その根拠は、「播州」→「番町」、「更屋敷」→「皿屋敷」と語呂がよく似ているからである。


 江戸時代、八万騎といわれた旗本の内、将軍を直接警護する役目を持つのが大番組で、一番から六番まであった。それが江戸城から西、新宿通りから南の地域に住んでいたので、その辺一帯を番町と呼び、一番町から六番町までの地名は今でも残っている。


 旗本・青山主膳が大番組に任ぜられ、公儀から拝領した土地が五番町で、更屋敷と呼ばれていた土地だった。ここはかつて二代将軍・秀忠の長女・千姫が、二人目の夫・本多忠刻の死後、剃髪して千寿院となり隠棲するまで住んでいた所で、千姫が立ち退いてから長らく人の住まない荒れ屋敷として残っていたので、土地の人は「更屋敷」と呼んでいた。


 本多忠刻を失った後の千姫のご乱行は、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振袖で」と俗謡で唄われるほど世間に知れ渡った。千姫は、男なら誰でも涎を流した類稀な美女で、まだ三十そこそこ、美男で最愛の夫・忠刻を失って身の置き所に泣いたであろう。そこで若い男を呼びこんで慰みものにした。周辺の者達が、事実の発覚を恐れて若者の命を奪い、死体を古井戸に投げ込んだ。青山主膳の召使お菊が身を投げた古井戸も同じ井戸だったかもしれない。


 「番町皿屋敷」の青山主膳は、若い召使のお菊を妾にしょうとするが、お菊がうんと言わないので、可愛いと憎いは紙一重、可愛さ余って憎さ百倍、皿一枚紛失の濡れ衣を着せ、手打ちにすると叫んで刀を引き寄せるが、目出度いお正月のことゆえ手打ちは松飾が取れてからにして欲しいという奥方の願いを聞き入れ、右手の中指一本だけ切り落として納屋のなかへ抛り込んで置いた。ところがお菊は、其の晩のうち、縄つきの儘部屋から逃げ出し古井戸に身を投げて死んだ。その後、間もなく生まれた奥方の子には右手の中指が無かったという。青山主膳はその後公儀に家内監督不行き届きの角で咎められ、お家断絶となった。


 五番町の辺りは、地獄谷にも近いから、古井戸に幾つも骸骨が転がっていてもおかしくないし、湿った日などには、青い火の玉も飛んだことであろう。但し、一枚、二枚・・・・、と皿を数えるお菊の亡霊の声が聞こえたかどうかは定かでない。


第二十一話「竜田川」(原典第百六段)

<現代語訳>

 昔、ある男がいて、親王(みこ)達がそぞろ歩きをしているところへ伺って、竜田川の辺りで、「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれないに水くくるとは」(神代の時代にもこんなことがあったとは聞いていません。この竜田川の水を深紅色にくくり染めするとは。)と詠んだ。


<註釈>

【竜田川】

 奈良県生駒郡を流れる川で大和側の支流。今は市街地になっているが、今でも川の両岸は紅葉の名所になっている。


【からくれない】

 韓から渡来した深紅のべに色。(広辞苑)


【水くくる】

 水の流れをくくり染めにする。江戸時代の国学者・歌人・賀茂真淵に依って改められる迄は、「水くぐる」と読まれ、主人公の熱い心が水の下を潜って表に現れない意味に解釈されていた。


<鑑賞>

 万葉集の後、紀貫之らによって編纂され、905年に成立した最初の勅撰和歌集「古今和歌集」に、在原業平の作として載せられているこの唄は、恐らく後から加筆されたものであろう。何故なら、この段は、或るエピソードの後日談的なところもなく、業平の歌というだけのことで付け加えられたようなもので、物語性に乏しい。ただこの歌は、竜田川の紅葉の美しさを彷彿とさせる。それは、「からくれないに水くくる」と読み切った真淵の功績であろう。

籠つるべ

 8月25日(水)の天声会で、四世富士松亀三郎作曲の新内小唄「籠つるべ」を佐々舟洋師の糸で唄わせて頂くことになった。この曲は、昭和35年に発行された富士松亀三郎作曲の新内小唄集第六編に収録されているが、小唄集「千草」には載っていない。また、木村菊太郎氏の「芝居小唄」及び「昭和小唄」の何処にも見当たらない。しかしこの小唄は、新内小唄として割によく唄われる曲で、昭和61年に発行された蓼胡琳編集の「続小唄百選」には収録されている。


 この小唄は、歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」を題材としたもので、「籠釣瓶」というのは、「水も溜まらぬ」つまりよく切れるということで、名刀・村正に付けられた名前である。この芝居は名刀の持主、佐野次郎佐衛門が、江戸中期享保年間(今から約300年前)に引き起こした「吉原百人切り」という事件をもとに、河竹黙阿弥の弟子・河竹新七が作った狂言で、明治21年に上演され大当たりを取った。


 この芝居のあらすじは、野州(今の栃木県)佐野で絹商人で豪農の佐野次郎兵衛(次郎佐衛門の父)の因果話から始まり、息子の次郎佐衛門が「籠釣瓶」という村正の名刀を手に入れる経緯、江戸吉原で全盛の花魁・八橋太夫を見染め、金にあかして通いつめ、果ては身請けにまでエスカレートするが、八橋太夫に間夫がいて、愛想づかし。「籠釣瓶」を持って来た次郎佐衛門は可愛いさ余って憎さ百倍。八橋太夫始め万座の人を切り殺す。全八幕ものであるが、今では五幕目の「吉原仲乃町見染めの場」から上演されることが多い。


 横山花生作詞による「籠つるべ」の歌詞。「菊の露 昨夜も宿で寝もやらず 濡れて見たさに来てみれば 案に相違の袖しぐれ 所詮惚れたが仇なれど 可愛いと憎いは紙一重 人の心の通わぬは 神も仏もあらぬ世か 狂いみだるる籠釣瓶 花の嵐の仲乃町 宵の騒ぎや郭の酔いざめ」


 上村幸以氏の「手前勝手小唄百五十番」の中にこんな「かごつるべ」が収録されている。「ゆうべも宿で寝もやらず 浮き川竹の 心変わりと知らぬ身の 先やさほどにも思やせぬのに 菊見がてらに郭の露 エエー 濡れて見たさに来てみれば 案に相違の愛想づかし それじゃ花魁つれなかろ じつ抜けば玉散るかごつるべ オイ切れるゾ」(「惚れて通う」の替え歌)


武蔵野の怪談ーその一「地獄谷の妖怪」

 江戸の元禄時代の前の延宝年間というから17世紀後半の頃である。麹町六番町から二番町に至る間は低地が連なっていて、人呼んで「地獄谷」といい、行き倒れ人や、罪人の死体を放置する場所で、骸骨がごろごろ転がっていたそうな。ここで発生した一つの怪談が言い伝えられていた。


 地獄谷に夜な夜な妖鬼が現れるという噂が立った。町方の涼み台では、それは通行人を苦しめる「高入道」か「見越し入道」(いずれも江戸時代の妖怪で、見上げるような大男のお化け)に違いない、などと、妖怪の噂で持ちきりであった。夜になると人っ子一人通らなくなった。


 噂を聞いて奮起した一人の武士がいた。「戦乱も収まった治世の御代に、奇怪な風説を聞くものかな。どんな妖怪か正体を見届けてやろう。」と、身支度も甲斐甲斐しく、その夜、地獄谷の土手の下に身を潜ませていた。


 人魂が出る死人の谷に、月も西に傾き、最早丑三つ時と思われる頃、ふらふらと向こうの木陰から、彷徨い出た白衣の人影があった。「さてこそ妖怪のお出まし・・・」と、武士は土手を降りて木陰へと忍び寄る。見ると男である。しかも僧の格好をしている。それが何やら抱えている。月の光に透かして見ると、抱えているのは死体、それも若い女の死体だ。黒髪が頬に散って凄美な死顔だ、と思う間に、男は死体の胸に食らい付いた。


 女の死体の乳房に、ガブリと食らい付いたその形相の恐ろしさに、流石の武士もギョッとしてたじろいだ。男は乳房を食い終わると今度は白い喉首へかぶり付いた。そして、ぴしゃぴしゃと、舌舐めずりをしながら、獣のように血を啜る。ポキポキト骨を噛み砕きながら肉を食うのであった。


 男が、人の気配を感じたらしく、キョロキョロと辺りを見回している。その時、武士が刀を抜いて躍り出た。「おのれ悪鬼め!」と、一刀両断に切りつけようとすると、男は「アッ」と叫んで逃げようとする。武士が男の襟首を掴んで捩じ伏せると、男は抵抗せずに手を合わせ、「命ばかりはお助けください。もう二度とこんなことはしませんから!」と泣いて詫びる始末。武士が事情を糺すと、この男は、元、芝の徳水院というお寺の僧であった。


 男が徳水院の僧でいた頃、病気で死んだ若い女の遺体が葬儀のため寺に持ち込まれたことがあった。お寺ではその時人手が足りなかったので、湯灌から,剃髪、引導渡し、納棺まで、一人で処理しなければならなかった。男が剃髪のとき、慣れないまま、額の肉を一寸ばかり削いでしまった。咄嗟のことで、男はその肉を隠そうとして口に入れてしまった。ところが、口中に残った肉の味がなんとも忘れられない味であった。「もう一度だけ」と思って女の墓場を掘って死人の肉を食ったのが病みつきとなった。遂にそれが露見して男は寺を追い出された。宿なしになった男は、野良犬のように、人肉を求めて地獄谷を徘徊する様になったのである。


 


 

第二十話「世のうきこと」(原典第百二段)

 

<現代語訳>

  むかし、ある男がいた。歌はそれほど詠まなかったが、男女の中の心の機微については、よく弁えていた。或高貴な女人が尼になって、人の世の人間関係を厭わしく思い、都を避けて、遙か遠い山里に住んでいた。男は、もともとこの尼さんとは親族関係であったので、特別に次の歌を詠んでやった。


 「そむくとて雲には乗らぬものなれど世の憂き子とぞよそになるてふ」(世の中に背いて出家して、仙人の様に雲に乗るわけでもないけれど、世の中の辛いこととは縁が無くなることでしょうよ)


 この尼というのは、伊勢の斎宮(いつきのみや)のことである。


<註釈>

【ある男】無論業平のことである。業平は、いわゆる六歌仙の中で二番目に挙げられる和歌の名手であるが、この段では、「歌はそれほど詠まなかったが」などど、わざとぼかしている。


【斎宮】伊勢神宮に巫女(みこ)として仕える未婚の皇女。天皇の即位の都度、選ばれて赴任した。この段に登場する斎宮は、55代文徳天皇の皇女で、惟喬(これたか)親王の妹、恬子(やすこ)内親王を差すと云われている。


<鑑賞>

 この原典第百二段の物語は、原典第六十九段の物語(八海老人日記2009-10-29ブログ、伊勢物語の世界第十四話「狩の使」参照)の後日談である。「狩の使」では、禁断の恋(斎宮は恋することを禁じられていた)に燃え上がった二人であった。女が、人目を盗んで男の部屋に忍び込み、同衾した。しかし、女が来るのが遅かったので、男が何もしないうちに夜が明けてしまい、男は再会を約して旅立った。その後、密通によって子が生まれ、この子の名は、高階茂範の養子にされた師尚である。浮名を流した恬子内親王も、晩年は尼となって、都を離れた山里で、辛い浮世を忘れて暮らしたことでしょう。

腕守

 5月28日の第157回天声会で、蓼胡満和師の糸で唄わせて貰った春日とよ稲作曲の「腕守」という小唄は、「三社祭」と共に春日とよ稲の代表作の一つとされ、小唄会でよく唄われている。この小唄は、昭和38年、春日派の初代家元・春日とよが亡くなった翌年、とよ稲がそれまで内緒で作り貯めていた他の十曲と共に発表されたものである。その後、昭和43年までに「三社祭」も含め70曲近くを発表し、更にその後の十年でとよ稲の作曲した小唄は150曲に達した。この中から厳選された59曲が「春日とよ稲作曲集」として出版され、同時にカセットテープも発売されている。これだけ小唄会に貢献した人は少ない。


 わたしがこの唄の稽古をつけてもらったのは昭和62年、239番目に頂いた曲であった。稽古を付けてくれた師匠も5月1日に91歳で亡くなった。その葬儀や後始末でバタバタしている内に、天声会の日がどんどん近付いてきた。心細くなって、江戸小唄友の会(城南)の世話役をやっている春日派名取のA女史に電話をして助けを求めた。彼女はすぐとよ稲が自分で吹き込んだテープを送ってくれた。そのテープのお蔭でどうやら格好を付けることができた。


 小唄作曲家として、あまりにも大きな存在であった春日とよ初代家元の陰で、控え目とならざるを得なかったが、木村菊太郎の「昭和小唄その三」によると、春日とよ稲は本名小林誠子で、昭和の初め頃、鴬谷に近い根岸三丁目で生まれた。父は小林弁三で、新吉原角町「稲弁楼」の当主、母は魚河岸「伊勢吉」の娘・フク、誠子は四女で、長男で誠子の兄が、後、作詞家となった小林栄である。母のフクは、幼少の頃から邦楽諸流、邦舞を仕込まれ、小唄も得意で春日とよに師事し、春日とよ福を名のり師範を務めた。長女で姉の園も母の芸を継いで二世春日とよ福を名のり、まさに邦楽一家であった。


 末子の誠子は、始め母の言付で長唄を習わせられたが、蛙の子は蛙、小学生の頃から、誰に教わることもなく小唄の三味線を弾くようになったので、母のとよ福は誠子を春日とよ家元の所へ連れて行って弟子入りさせて貰った。それからの誠子は水を得た魚の様に才能を伸ばし、昭和13年7月、十歳を少し超えたばかりの年齢で名取を許され、春日とよ稲を名乗ることとなった。


 とよ稲は、三味線の上達につれて、兄・小林栄の作詞に曲付けなどしていたが、発表することは差し控えていた。家元への遠慮もあったと思われる。昭和37年に家元が亡くなると、翌38年にまるで堰を切ったように、兄・小林栄作詞による「腕守」「滝夜叉」「遠山桜」「閻魔堂橋」「夜桜紀文」「坪坂・お里」「お七」「三十三間堂・柳」「紫式部」「大文字」の十曲と、小島二朔作詞「春おぼろ」の合わせて十一曲、更に翌年、「三社祭」「宝蔵門」の二曲を発表して小唄界を驚かせた。


 小唄「腕守」の歌詞は、柳橋芸者の仇姿を唄ったもので、「川風の渡る涼しき柳橋 褄とる手先ほろ酔いに 紅を差したる爪先の 踏む桟橋や屋根船に ひらりと移る仇姿 透綾(すきや)の肌に風薫る 男嫌いの評判も つい竪川か一の橋 弁天様へ願掛けの 二の腕かけた腕守」。


<註>

【透綾】すきやと読むが、薄い絹織物のこと。透綾縮みは夏のきもの。


【竪川】本所深川を流れる隅田川の支流。この川は、江戸名所図会にも出ているし、広重の浮世絵にも描     かれており、昔は情緒があった。今は川の上を高速が走っており、見る影もない。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも屡々登場する。小唄では、「男嫌いの評判も」の掛詞。


【一の橋】一つ目橋とも言う。この橋を渡ると、江の島の弁財天を勧請した「江島杉山神社」があった。

 

【腕守】神社のお守りなどを入れた小袋で、中には男からの起請文が入っていた。外からは見えないように女の二の腕に結いた。

第五話「野火止伝説」

 新武蔵野物語の著者・白石実三氏は、西武東上線沿線にある平林寺は、武蔵野の寺として特色のある寺であるという。寺の裏手に青前姫(あおまえひめ)の伝説を秘めた「野火止塚」があり、その隣には在原業平の石碑さえ残っている。そして、山吹の名所でもあるこの寺の広い敷地の中や庫裏の床下にまで野火止用水の清流が流れている。この用水は、知恵伊豆といわれた川越城主・松平伊豆守信綱が、羽村から四谷大木戸まで玉川上水の水を通し江戸を潤した褒美に、その3割の水を野火止台地開墾のため分水することを許されたものである。信綱はこの工事を代官・安松金右衛門に三千両で請負わせ、金右衛門は着工後僅か40日で6里余の水路掘削工事を完成させたという。


 この話は、戦前の国定教科書に載っていたから、日本国中知らない者はない。しかし、後で触れるが例によってこの話は少し眉唾なのである。野火止塚の伝説については、武蔵野の研究家として知られた白石氏は、新武蔵野物語の中で僅か4行しか述べていない。というのは、野火止塚伝説が生まれる前に、既に伊勢物語の中に元になった話があるのである。伊勢物語の第12段「昔、ある男(業平)が人の娘を盗んで都から武蔵の国へ逃げてきたが、盗賊として国守につかまってしまった。隙を見て逃げ出したが追手が迫って来たので女を草叢に隠し、自分だけ逃げた。追手が、この野には盗人が潜んでいる筈だから火を放って炙り出そうと言った。それを聞いた女が困り果てて歌を詠んだ。<武蔵野は 今日はな焼きそ若草に 夫(つま)も籠れり我も籠れり>。この歌を聴いて追手が感心している間に業平が女と一緒に逃げてしまった。」というまことに長閑な話である。


 伊勢物語の後、民話として作られたと思われる「野火止塚伝説」は、「平安時代の初め、都から在原業平という貴族が東下りの途中、武蔵の国へやって来た。そして幾日か郡司・長勝の屋敷に逗留した。長勝はには都から訪れた貴族を丁重にもてなした。長勝には美しい一人娘・青前姫がいた。業平は一目でこの姫が好きになった。姫も都育ちの垢ぬけた業平に惹かれて行った。ある日、姫は一本に草花を業平に見せ、この花の様に静かに二人で暮らしたいと言った。その花の名は<都忘れ>であった。しかし、長勝は姫の嫁ぎ先を決めていた。姫が業平と付き合っていると知って大変怒りだした。二人は手に手を取って駆け落ちし武蔵野の原っぱへ逃げた。その頃の武蔵野は丈を越す薄が生い茂っていた。追手が武蔵野に火を放った。二人に危険が迫って来た時、姫が歌を詠んだ。<武蔵野は 今日はな焼きそ・・・>伊勢物語と同一の歌である。すると不思議なことに姫の手前で火がぱったり止まってしまった。野火止の地名はここから始まったようだ。姫は家人(けにん)に捕えられ、父の決めた家来に嫁がせられ、泣く泣く一生を終えたという。」というもので、長勝も青前姫も実在性は乏しい。


 野火止用水の話は眉唾と言ったが、この話には謎が多い。①6里余の水路掘削工事が僅か40日で出来る筈がない。②開墾のためにあんなきれいな水をとおす必要があるとは信じがたい。③寺の敷地の中を用水がぐるぐるまわるのは何のためか。④平林寺は禅宗の寺なのに空海の開いた真言宗と深い関わり合いがあるのが謎である。これに対し暇なブロガーが絵解きをしてくれた。但し、あまり当にはならない。


 ①野火止用水を通す小川が既に自然の水路として出来ていた。②開墾用と言うのは幕府をごまかすための口実で、本当は平林寺の敷地に設置された何台かの水車を廻すのに必要な水であった。その裏付けは平林寺の入口と出口の水路の落差は3mもある。④空海一派は、山師集団で、銅や鉄などの資源を探索して歩いたようだ。銅は伸銅など寺の建設に欠かせない物資で、鉄は武具その他に必要な資源である。空海は仏教以外、渡来技術によりこれらの金属を生産することができたと思われる。


 江戸時代、幕府が外様大名に大規模工事を賦課し、大名は工事を業者に請負わせ、業者は工事費を水増し請求し、儲けた金で役人や大名に賄賂を掴ませ、遊郭で接待した。工事に必要な伸銅は高い値段で良く売れた。川越藩は知恵伊豆のお蔭で財政は豊かであったことであろう。立ち入り禁止になっていた平林寺の境内にこんな秘密が隠されていたとは。


 

 

第十九話「天の逆手(あまのさかて)」(原典第九十六段)

 <現代語訳>

 むかし、ある男がいた。 女にあれこれ言い寄っているうちに、月日がたってしまった。女も、さすがに木石ではなかってので、気の毒に思ったのであろうか、だんだん男をいとしく思うようになった。 


 その頃、丁度、水無月の望の日(みなづきのもちのひー駐1)頃の暑いときで、女は体に出来物(註2)が一つ二つ出来ていた。そこで女は男に文をやってこう告げた。 「今はあなたをいとしいと思うほかには、何の想いもありません。でも、体にお出来が一つ二つ出来ていますし、時節も大変暑うございます。少し秋風が立ち始めます頃、必ずお逢いしましょう。」


 ところが、男が秋になるのを心待ちしている内に、女の周囲のあちこちから、「彼女はあの男のものになろうとしているそうだ。」と、非難する者が出てきた。そこで、女の兄(註3)が、俄に彼女を迎えに来た。それで彼女は、かえでの初もみじの葉を召使に拾わせ、歌を詠んでその葉の表に書きつけた。「秋かけていいしながらもあらなくに 木の葉降りしく 江にこそありけれ」(秋になったらと約束しましたが、その想い通りにならないとは、秋とともに木の葉が降りしく浅い入江のように浅いご縁でした。)と書いて、あの人から使いが来たらこれを渡しなさいと言い置いて行ってしまった。


 その後、その女がどうなったか分らない。幸せになったのか不幸になったのか分らない。何処へ行ったのさえ分らない。男の方は「天の逆手(註4)」というまじないをして、「いまに見ておれ」と、裏切った女を呪っているそうだ。怖い怖い。


<註釈>

註1 【水無月の望の日】

 旧暦六月十五日のこと。


註2 【体に出来物】

 原典では、「かさ」であるが、多分、あせものかなんかであろう。


註3 【女の兄】

 男を業平とすれば、女は藤原高子、そしてその兄とは、業平よく思わなかった藤原基経か、若しくは国経。


註4 【天の逆手】

 古事記にも出ている人を呪うときのまじない。 どんな事をするのか、詳しいことは分らない。


<鑑賞>

 原典第九十六段は、「伊勢物語」が成立した第一期の素朴な形と内容を残した一章である。 第二期、第三期になると歴史的実名を登場させたり、貴族趣味に堕したりする加筆が次第に多くなる傾向が見られるが、貴族の嫌う「かさ」や、「天の逆手」などという人を呪うまじないなどの話題が貴族趣味に合わなかったのかも知れない。



 

伊勢物語

 平成22年4月21日、南青山会館で催された247回江戸小唄城南友の会で、吉井勇作詞、春日とよ作曲の「伊勢物語」を蓼静奈美師の糸で唄わせて貰った。この唄を聞いて小唄仲間の誰かが、「こんな唄、聞いたことが無いなあ。新作かい?」と言った。


 戦後十年、朝鮮戦争特需を切っ掛けに、日本が高度成長の階段を登り始めた頃、小唄界は空前のブームを迎えつつあった。所謂三ゴ時代の幕開けである。三ゴとは、ゴルフ、囲碁、小唄のことで、会社の重要な仕事の一つとして、お役人や銀行マンの接待があり、宴席では、未だカラオケなどは無く、専ら芸者の三味線で唄う粋な小唄がもてはやされた。


 やがて、小唄のラジオ放送が盛んになり、渋沢秀雄などが小唄解説者として活躍した。この頃、レコード会社が小唄レコードの発売に力を入れ始め、昭和31年8月、日本コロンビア㈱では、当初、専属作詞家として吉井勇を起用、新進作曲家による小唄集「現代小唄十二ケ月」を、一流の唄い手と糸方による演奏でLPレコード盤を企画発売した。その内容は次の通り。


 一月「おけら詣り」、」吉井勇作詞、宮崎春昇作曲。 二月「合性」、吉井勇作詞、宮崎春昇作曲。

 三月「寒牡丹」、吉井勇作詞、佐々紅華作曲。 四月「都おどり」、吉井勇作詞、佐々紅華作曲。

 五月「文がら」、吉井勇作詞、杵屋六佐衛門作曲。六月「夜の雨」、吉井勇作詞、杵屋六佐衛門作曲。

 七月「踊り子」、吉井勇作詞、杵屋正邦作曲。 八月「風神雷神」、吉井勇作詞、正邦作曲。

 九月「写楽」、吉井勇作詞、清元寿兵衛作曲。十月「縄のれん」、吉井勇作詞、清元寿兵衛作曲。

 十一月「菊の香」、吉井勇作詞、清元寿兵衛作曲。十二月「顔見世」、吉井勇作詞、清元栄寿郎作曲。


 以上の内、「文がら」「夜の雨」「風神雷神」「写楽」「縄のれん」などは、今でもよく唄われている。


 「現代小唄十二ケ月」中、六月「夜の雨」については、2006-05ー14のブログに書いたので再び繰り返さないが、吉井は、菊五郎、吉衛門のコンビによる歌舞伎・髪結新三の深川閻魔堂の名場面を苦心惨憺して作詞し、「湯島境内」、「残菊物語」、「鶴八鶴次郎」など新派小唄を手掛けた春日とよに作曲を依頼する予定であった。ところが春日とよが辞退したため、改めて杵屋六佐衛門に作曲を依頼し、あの名調子が生まれた。


 吉井勇(1886~1960、明治19年~昭和35年)は、京都・祇園をこよなく愛し、北原白州、森鴎外、石川啄木、谷崎純一郎らと親交のあった耽美派の歌人・劇作家として知られる。早稲田大学中退。「かにかくに祇園はこひし ねるときも 枕の下を水の流るる」と詠んだ歌碑が京都・祇園に在り、今でも毎年11月8日に吉井を偲んで「かにかくに祭」が行われている。


 吉井勇は、「現代小唄十二ケ月」の後も作詞を続けた。昭和35年4月に開曲された吉井勇作詞、春日とよ作曲による物語三部作「源氏物語」(末摘花)、「竹取物語」(かぐや姫)、「伊勢物語」(業平東下り)は、恐らく吉井の最後の作詞ではないかと思う。間もなく彼は体調を損ない、その年の11月に肺がんのため75年の生涯を閉じた。


 私のブログ・八海老人日記の中の一つのテーマである「伊勢物語の世界」第四話(2009-05-05)で、業平東下りの記事を書いた誼で、「業平東下り」の小唄があるのを知り、今回唄ってみたという次第。


 

 



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