問題提示



 今回は歴史学者には自分の国の近世史と共に自分の国の近現代史も「必須科目」であるという考えを述べていきます。はじめにことわっておきますが、テーマ名にあることは今回の内容に関係はありますがメインではありません。毎回、テーマ名が変だと感じている方がいるかと思いますが、筆者は毎回テーマ名を考えるとき、自分のブログならではのネーミングを考えています。筆者はこのブログを、憲法の規定にある「言論の自由」の実践の場と考えており、それらしく自由さが感じられることを重視して名付けています。もちろん皮肉が込められている場合も多いです。今回のテーマ名に関しては、今の国士舘の学生にはZ世代らしく生意気になってもらいたいという願いを込め、文学部に細々と伝統として定着しているにも関わらず、初代文学部長の尾形裕康先生が築きあげたことについて教職員たちがその由来をおしえないことへの皮肉も込め、また、我々楓門閥に広く尾形裕康先生を認知してもらいたいという願いも込めて、このようなテーマ名になりました。それぐらい今回の記事、ひたすら、要は生意気になれと呼びかける内容になりますので、この記事を読んで歴史学者が歴史学に打ち込む活力が沸いてくだされば幸いです。









 根拠の提示



 歴史学者は自分の国の近現代史も必須科目とすべきです。なぜなら明治維新以降にできた仕組みに対して無批判に従っていると肝心な真実を見落とす場合が多く、ある程度批判意識をもって従うようにすれば肝心な真実を見落としにくくなり、より新発見をしやすくなると考えるからです。前回の記事「近世史基準歴史学習法の考案」では、歴史は自国の近世史を基礎に学ぶべきと述べましたが、歴史学者になる場合は近現代史も必ず学ぶべきことをここで述べていきます。しかし、前回の記事はどちらかというと歴史学者になる前提での話の割合が大きくなってしまいました。だけど、歴史を学ぶにとどまるのなら、せめて近世史を、歴史学者になるのなら古代か中世を研究する場合でも必ず近世史と近現代史は学ぶべきという考えであることを理解して頂ければ幸いです。


 では近現代史をよく知り批判意識をもつことによって有利になる理由として考えられることを以下にあげます。



 !1.通説となっている説を唱えた学者が男女別学で育ったことを考慮にいれて共学で育った自分が同じように考えられるかを検討することにより新しい発見ができる可能性があること。



 !2.出身高校と出身大学の伝統の意義を考えるに、そのルーツを知ることで、育った環境をのりこえた考え方ができるようになって新しい発見ができる可能性があること。



    !3.研究のノウハウはあくまで考案者のやり方であり、そのノウハウの長所と短所、そのノウハウのわけを確認し、ある程度批判することで新しい発見ができる可能性があること。


 以上の3点に共通して言えていることは要は今皆が従っている仕組みは人間がつくったものであり人間がつくったものだから何かしら欠陥はあるということです。そうなると皆が受けている教育にも何かしら欠陥があることにはならないかと言えば、そうなります。そう認識していいかと思います。大学に入学すると先生が学生に向けて偉そうに最初に言う言葉と言えば、「常識を疑え」ですよね。本当に常識を疑うこととはそういうことではないでしょうか。例え専門職にある身としても、日本の近現代が専門ではないからといって日本の近現代を調べてはいけないという規則はありません。むしろ、どんどん調べるべきであるように筆者は考えます。外国の近現代についても同様と考えます。また「常識を疑え」も常識です。だから常識を疑うこと自体も疑うことも必要であることになります。







 !1.の詳細



 これより日本の近現代を学ぶにあたって、研究者をしている方や研究者を目指している方に最初に考えて欲しいことについて述べます。それは上記の近現代史をよく知り批判意識をもつことによって有利になる理由として考えられることの!1.です。



 まず男女別学教育について私が欠陥だと思う点について見解を述べさせて頂きます。

 男女別学教育の欠陥は異質な人間に対して心を寛容にするように気をつけるように考えて行動する躾が身につきにくいことにあると考えます。これはそもそも高校から国民全員を偏差値ごとに分けて隔てて同程度の学力同士の学生とだけ半日あるいは1日中一緒になって過ごさせる現在の教育の仕方が小学校や中学校に比べて異質な人間に対して心を寛容にするように気をつけるように考えて行動する躾が身につきにくい仕組みになっています。男女別学の環境であると、その傾向が強くなる恐れが高くなるものと考えます。例えば高校から男女別学で育つ場合、たいていは高校に入学するのが15才で、18才で卒業しますが、人格の形成が著しく進む時期に平日の多くの時間を同性とだけ過ごすことになると同性への対応の仕方だけを覚えて異性への対応の仕方を覚えないで人格の形成が進んだ3年間になってしまったら、自分が友達と認めるのは同性だけにするような付き合いをする人間になったり、場合によっては異性に対する恐怖感が芽生え極力異性と親しくするのを避けるまでするようになる傾向が強くなる恐れがあるものと考えます。

 以上に加えて、さらに戦後の学制改革により公立の小中学校が全て男女共学になり、多くの高校と大学が男女共学になったことを踏まえると、現在の定説を唱えた学者の多くが青年期に男女別学で育っているので性別のことに関しては偏った考え方を植え付けられているうえで生まれた学説ということは見直しの余地が大いにあるに違いないと考えてみていいかと思うのです。そしたら新発見が沢山あるかもしれないのです。




 では例を示します。筆者の研究分野を題材に述べさせて頂くのなら、筆者が教わった流派は佐藤進一という方が流祖になります。佐藤進一の組み立てた学説の体系の中で佐藤進一の教えが受け継がれてきて本流から枝分かれして多くの支流ができて泡沫的な支流に私は生まれたわけです。それで師が教えたことを忠実に守って筆者は研究してい(るつもりでい)ますが師が教えたことを忠実に守って研究するということは定説を疑うことということでもあるのです。佐藤進一が唱えた定説を疑うのには、やはり佐藤進一の学校歴と育った教育環境が有力な手がかりになるのです。もちろん佐藤進一はずっと男子校で育ちましたから、性別のことに関しては偏った考え方を植え付けられているうえで今日の研究者が必ず目を通す学説を生んできました。だから大いに疑う余地があるのです。それで小学校から大学まで一貫して共学で育った私が、佐藤進一の説について、その説と同じようなことが考えられるか疑ってみたところ、案の定、佐藤進一と全く違う環境で育ったことが影響して、その説と違う見解が私のなかから湧いてきました。佐藤進一は鎌倉幕府について、源氏が三代で途絶えた後は北条氏の専制体制であったという見解を実証して、その理論が定説になっているものの、筆者は当ブログの「小さな政府としての鎌倉幕府」にて、朝廷側の築いた行政の仕組みが活きていることが一方では明らかになっている以上、北条氏が日本全国を牛耳っていたとするには無理があるとの見解を示しました。さらにXにおいて以下のように見解を示しました。








小西悟(@okinatikyu) 2024年2月13日投稿より





梶川貴子「得宗被官の歴史的性格」core.ac.uk/download/pdf/2…



長崎氏など得宗家の家政の責任者の立場でも将軍家の家臣だったと述べられています。つまり、御三卿の家老が直参であるのと同じということになりますか?やはり北条氏は将軍家の一部、同族も同然の扱い?渋沢栄一は一橋家徳川家の専属の家臣でした。渋沢本人いわく専属の家臣は扱いが低かったそう。ということは得宗家の専属の家臣も扱いが低かった?これでどうも長崎氏が重んじられた事情がわずかに読めたような。要は御三卿の家老同様、御家人としても扱いは高かったということかもしれません。これで平頼綱の真の意図が得宗家からの独立もしくは自立にあったという私の仮説が確信にわずかに近づいてきました。





小西悟(@okinatikyu) 2024年3月10日投稿より



鎌倉幕府将軍家の地方行政はまだ詳細に考察されていないのではないだろうか。知行国なら将軍家の意向が反映されるはず。相模国と武蔵国は北条氏が国司と守護を兼任するが、実際に仕切る目代や在庁官人とのやりとりが気になるところ。武蔵国を実質仕切ったのは日奉党だろうが、この事実に注目した研究をみたことがない。秩父平氏と誤解している方が多いようだが実際の行政文書にそれらしき人物の署名は見られない。武蔵国では留守所惣検校は在庁官人ではないそう。また、武蔵国目代と武蔵国在庁官人筆頭を同一とする誤った記述もみられるが、目代は国司の家臣であり、在庁官人は国司と同じく天皇の家臣なので、同一であるわけがないし、国司の家臣が在庁官人になれるわけがない。伊豆国の住人層や駿河国の住人層とどう力をあわせてきたのか、あまりきいたことがない。それから後半から越後国が将軍家分国であり続けるが、そちらについても同様。また北条氏が多く全国に守護として派遣される事象があるが将軍家の知行国でなければ中央の公家の指示を受けることになるはずなのに、守護の立場から、どう中央から派遣される国司あるいは目代とやりとりしたのだろうか。






小西悟(@okinatikyu) 2024年4月8日投稿より



北条時宗には他に二人、父親がいたと思っていいだろう。長時と政村だ。長時は実の伯父。政村は義時の後家の長男で御意見番。確か二人とも時頼から時宗の後見を頼まれていたかと思う。時宗の母の政治力はなかなかかな。







小西悟(@okinatikyu) 2024年4月19日投稿より



北条時宗の母葛西殿は孫の貞時の執権在任中と惣領権所有中も幕府政治の中心的役割を担い続け人事の調整に努めていた様子。嫁の堀内殿の考えも汲み貞時の執権辞任後の後任を貞時の従兄弟の師時に任せることにしたようだ。一度成敗された安達氏の娘が産んだ曾孫の高時が2歳を迎えて、これから朝廷と将軍家一同の結束の強化を進めるところだった頃に惜しくも嫁の堀内殿が亡くなり、(生きていれば)貞時の正室と高時の母が頼りとなったことだろう。師時には高時のもう一人の父親でいてもらい、貞時と師時の体制が続いたようだ。しかしながら二人が相次いで亡くなってしまって高時の父親の役目は時房の曾孫の宗宣に引き継がれた。だが加齢のためか1年で執権を辞して出家したため、高時の父親の役目は政村の曾孫の熙時に引き継がれた。しかし彼も病のため3年ほどで執権を辞し高時の父親の役目は葛西殿の弟の孫の基時に引き継がれた。葛西殿がそろそろ高時に経験を積ませなければと考えたのか、翌年にようやく執権職が高時に渡った。それを見届けたことで安堵したかのようにまもなく葛西殿は亡くなった。高時は実の父親ばかりでなく、執権になるまでに他の執権を辞した父親を4人も失っていたが葛西殿の力のおかげで結果的に一門の融和が果たされたのである。基時だけは幕府滅亡までに高時の父親の役目を担い続けていたようで、最後は義理の息子の盾になって自害して果てたようだ。基時の息子も、その前に高時の盾となって自害して果てたようだ。得宗専制と言われている時期に、もろ葛西殿が活躍していたことが想定できる。まさに葛西殿は鍵となる人物であろう。

❌4人も→⭕3人も


失礼、 ×4人も ×3人も→○2人も








小西悟(@okinatikyu) 2024年6月17日投稿より



日本の対モンゴル・高麗戦争に対応した将軍である惟康親王の御台所が誰なのか明らかではないが、その女性が、日本中が緊迫感に襲われているさなかにおいて日本中に目を光らせていたことは間違いないだろう。一方で後任の久明親王の御台所が惟康親王の娘であることは明らかである。その二代の在任中が得宗専制の確立期のようにいわれているのだが、辺境の地の防衛がほとんど北条氏に託されるようなことがまかり通ることからして御台所の力は無視できないであろう。そういえば敵国退散の英雄がいつのまにか亀山院ということになっているが、後宇多帝、二回目の蒙古襲来時の左大臣の二条師忠、同じ時に西国の防衛を指揮した六波羅探題の北条時国と北条時村、出羽介の安達泰盛の動向は語られていない。なお、この時の蝦夷沙汰職代官の安東氏と陸奥留守職の留守氏の具体的な人名が明らかではない。








 以上の見解について、読むだけでも定説と食い違っていることがわかるでしょうし、何か概説本に目を通せば、なおさらのこと、よく定説と食い違っているのがわかるでしょう。






 


 

  歴史学者が自国の近世から現代を学ぶことの有効性



 私がこのような見解を出すに至るまでは、不公平を嫌う性格が幸いしたこともあって、女性を下に見ることをしない私は、毎日女性差別と戦って精進を重ねてきた女性研究者の方々の研究成果に多く触れてきまして(今、綺麗事だけ申しましたが、研究で名をあげる女性はたいてい偏差値の高い大学や高校の出身のため、劣等生だからこそ、できる見方を求め続けることを信条の一つとしている筆者としては、女性だろうが優等生であることに変わらないから女性研究者を下に見ようがなかったという事情のためでもありました。)、性が違うだけで違う見解が出るものなのだから、偏差値の低い教育を受け続けたが、歴史が得意でも、それだけでは国公立大学教授や大河ドラマの時代考証や歴史漫画の監修をやる人になれないという現実だったり、田舎の人から秘密を聞き出すには、なめられて相手にしてもらえないことに十分な材料になるくらいの学校歴になってしまったという現実を嫌というほど、つきつけられ、優等生で歴史にだいぶ詳しいはずなのに、歴史の話をしても、いまいち歴史の面白さを共有できない人間をたくさん見てきた一方で、やたら芸術に対しても趣味がある自分だからこそ目が行き届くことを見つければ、それが自分の学問になると信じて、自然と日本の近現代史をある程度学習した結果、これぐらいのことを語ることができているのです。だから勧めます。周りの大人がなんと言おうと、たとえ、どこの国のどの時代について論文を書こうと、歴史学で論文を書くなら自分の国の近世~現代の歴史を必須科目のつもりでマイペースに学習することを。





 それでは皆さん、次の記事でまた会いましょう。