問題提示




 これから鎌倉幕府を小さな政府として捉え直すことを試みます。このたびは中世前期で卒業論文を書くことを考えている偏差値の低い大学の学生に必読ということにしておきたいと思います。中世前期で卒業論文を書くことを考えている偏差値の低い大学の学生の皆さん、ぜひヒントにしてください。




 



 記述に至った経緯





 昨年の大河ドラマが「鎌倉殿の十三人」だっただけに、その話題性に依存するかのようになってしまうのですが、正直、内田樹、磯田道史、本郷和人、細川重男、呉座勇一、濱田浩一郎の各氏がするような、時事やトレンドに記事のネタを考えることを依存するようなまねはまださけておきたかったのです(悪口ではありません)。日常会話において時事や話題にのぼっていることを口に出すことはコミュニケーションを円滑にするのに有効なのですが、今あげた諸先生方については日常会話のレベルを超えているのですね(悪口ではありません)。例えば政治経済のことなら、政治経済専門の方は日常会話のレベルを超えて政治経済を語ることに何も不自然なことはないのですが、今あげた諸先生方のように、ある分野でエキスパートとして名が知られているような方は学者は何でも語れるということを大衆にアピールするかのように、政治経済なら政治経済のことをあたかも一流に語れると言わんばかりに日常会話のレベルを超えるのですよね。大衆には何の専門家なのかわかりにくいわけですが、かといって政治経済の論文を書くわけではないのですよね。というか本来は認められないはずです。しかもいざ筆者のような一市民が今あげた諸先生の誰かの専門分野を得意気に語ると、本人怒るんですよね(そもそも偉い学者が専門外の分野を得意気に語るようなことが起こるくらいなら、みんながみんなベースの専門分野をもちつつ、大学で身につけた研究方法論に基づいた研究活動をする前提で専門外の分野を語ることが許される学術界であるべきで、筆者自身、学術界はそうあるべきと考えているわけで、今あげた諸先生方にはそれが可能な環境を築いてもらいたいと思います)。どうも安易に時事やトレンドとリンクさせると、いかにも大衆を見下すことになりそうなので、なるべくさけたかったのです。それは読者の皆さんにもう少し筆者についての理解を深めてもらってからと考えていたのです。では、どうしてこのたび、こうなったのかといいますと、親族たちにも、とっつきやすいものを書きたいと思い、なるべく親族たちがとっつきやすいように書くにはどんなネタがいいのか考えたところ、いくつか考えまして、そのなかで比較的簡潔にまとまるネタが今回のネタだったのですね。決して「鎌倉殿の十三人」を意識したわけではないのです。自分が元々ベースとしている分野なので、このような成りゆきになったに過ぎないのです。

 では、「鎌倉殿の十三人」には前提にない、昔の日本にあった「武家は武家で、町は町で、村は村で、裏社会は裏社会で何とかする」世界を楽しんでくださればと思います。







 確認事項1 日本の政治の手法





 日本の政府は基本的にかつ伝統的に政府は「小さな政府」です。いつの頃からかは確かなことは言えませんが、基本的に政府が民間に関わる範囲を狭くした行政のやり方を続けてきて今日に至っています。それは鎌倉時代も例外ではありません。 四民平等化する近代までは様々な身分のそれぞれに固有の社会があり、基本的に人はその社会のしきたりのなかで生きるものだったのです。本来なら他の身分社会には干渉しないしきたりなのですが、中世と近世では武家が他の身分社会に干渉することが許されています。それは中世と近世の特色がそうさせています。ある一つの国ができて60年~100年ぐらい経てば、その国の社会は多様化してくるものです。つまり人口が増えてきて、それだけ個性が多様化してくるのです。それに伴い様々な制度がもうけられ、一つの窓口でいくつもの対応の仕方を同時並行で行うのに無理が生じるわけです。そうなると管轄を細かくわけざるをえません。管轄を細かく分けると足並みが揃わなくなるので、足並みを揃える役割を武家が担わされたのが中世と近世なのです。日本において中世の括りにしている平安時代後期から室町将軍足利義昭追放までの500年前後の歳月はまさに社会が多様化し行政が多元化した時代だけになかなか全体像を捉えにくい時代なのですね。ここでとりあげる鎌倉幕府も社会の多様化に応じて生まれたわけです。やがて征夷大将軍が平清盛に次いで清華家の資格を有すると朝廷においても主導的な役割を担って公家も監督する立場になったため、行政は武家のもとに一元化され近世に至ります。しかし近世になっても中世に引き続いて社会は多様化したままで、後ほど触れますが、世界情勢的にも動乱が一旦は落ち着いたものの、変わらず帝国主義競争は続いており、外国の侵略を強く警戒する必要があるがために引き続き武家が 異なる身分の足並みを揃えて国を率いることになったわけです。








 確認事項2 国防優先の時代




 日本での中世はまさに世界中で動乱の時代でした。蒙古襲来があったように、いつ諸外国の帝国主義競争にこの日本も巻き込まれても不思議ではない時代でした。外国の侵略が現実味を帯びていたからこそ国防強化の需要が生じて武家太政大臣の誕生そして鎌倉幕府の誕生の歩みを進んだわけです。しかし、鎌倉時代でも、まだ武家は軍事と治安維持を司る立場に過ぎず、基本的に政治を司っているのは公家であることはぶれていないわけです。先ほども申しましたようにやがて行政が武家のもとに一元化されて近世に至るわけですが、武家が行政を担う状況になるほどに世界では帝国主義競争が続いているため強い国防が近世に入っても優先事項だったわけです。






 確認事項3 身分社会の仕組み 




 現代の我々からすると、鎌倉幕府は朝廷に代わって全日本の政治を牛耳っていたかのように見えてしまうのですが、鎌倉幕府は武家社会をまとめていたにすぎず、やはり基本的には公家、宗教者、その他もろもろの身分は管轄外 なのです。しかし先ほども申しましたように異なる全ての身分社会の足並みを揃える役割を担わされていたわけです。幕府が全国に設置した守護や地頭についても、あたかも彼らが地方の行政を仕切っていたかのように言われるのですが、彼らはあくまで守護や地頭として行政を仕切っていたのではなく、基本的には国司、現地駐在の広域自治体幹部、自治体の首長、荘園領主の代官のいずれかの役職の者として仕切っていたわけで、守護や地頭としては鎌倉幕府が認可した軍事基地の運営をしていたに過ぎず、行政に関与するとしても、その延長線上だったわけです。征夷大将軍はこれら軍事基地をまとめる本部基地の司令官であり、あくまでも武家の首領の域を出ていないわけで、武家社会については強い権限をもっても、公家社会や宗教者社会 、 百姓社会(注1)といった他の身分社会には干渉しないのが基本なのです。現代でも役所は会社に訴えがあったら真っ先に会社を裁くのではなく本当に会社の中では解決できない問題かを吟味するように、鎌倉幕府も他の身分社会においての問題については訴えがあったら真っ先に裁くのではなく本当にその身分社会の中では解決できない問題かを吟味します。現代でもそうであるように、たいていは属す社会の枠で解決できることはその属す社会に任せるのです。これが鎌倉時代に限らず明治時代になるまでの日本の常識だったのです。この常識に基づいて理解すると、以下のようなことになります。







 確認事項4 上皇を頂点とした体系




 やはり鎌倉時代でも日本全体で政治の仕組みを見渡すと、依然朝廷が一番強く権力をもっていることがうかがわれます。変わらず「国」という広域自治体に分かれ、その自治を国司が担っています。中世ではその国司が雇われの身であり、上皇が任命した知行国主あるいは分国主という存在が家臣もしくは親類縁者を国司に任命して「国」の運営を援護する方法で地方自治が進められていました。荘園も領主は皇室、摂関家、特権的な寺社勢力に限られ、領主の代官が実際の運営を担うかたちがとられていたわけです。鎌倉時代は、幕府の棟梁は武家で唯一知行国主になれたわけですが、任命するのはあくまで上皇です。しかも荘園制においても幕府の棟梁は代官頭までしかできません。幕府の棟梁ではない武家は荘園制においては領主の代官までで代官頭にはなれないわけです。荘園の領主では上皇が一番立場が上です。結局、荘園も公領も上皇に権限が集中しているわけです。それから鎌倉幕府が設置した守護や地頭というのは将軍家の家臣が任命される役職で辺境軍の派出機関の指揮官としての肩書きであり、本来は国防を司る役職なので、やはり武家が軍事と治安維持を司る立場の域を出ていないのです。自治体における行政はあくまで 、そこの首長が担っており、荘園では領主がそれを担っているまでで、その地位には必ず公家がつくのであり、守護や地頭は首長でも領主でもないのです。やはり変わらず政治は公家が担っているわけです。






 説明事項の提示




 では鎌倉幕府は何なのでしょうか。武士の時代ではないのでしょうか。実は鎌倉時代は武士の時代ではないのですね。鎌倉幕府は国防軍であり、 治安取り締まりを担う機動組織です。そういうなら源頼朝は日本全体を手中に収めたのではないということなのでしょうか。北条氏の権力集中をどう説明つければいいのでしょうか。以下に経緯に 触れながら説明します。






 子どもの喧嘩ではない派閥争い




 鎌倉幕府はあくまで辺境駐在の国防軍であり、征夷大将軍はいわば辺境基地の司令官です。国防軍といっても開かれた当初は後白河院派に属す国防軍に過ぎず、八条院派に属す国防軍もあったわけです。当時の朝廷は大きく 後白河院派と八条院派に分かれていました。世界が動乱であるなか、より国を開くか一部のみ開くかで二つの派閥に分かれたのです。より国を開く道を選ぶのが八条院派で、一部のみ国を開く道を選ぶのが後白河院派です。平清盛一族、 源義仲一族、奥州藤原氏が八条院派の国防軍の役割を担っていました。ただし、両派の国防軍とも敵対して殺しあうことは前提になかったわけです。どちらも朝廷公認の国防軍だからです。共に主な目的は奸賊つまり謀反人の成敗です。国防軍自体に成敗の対象は決められません。決められるのは派閥の指導者です。源頼朝は後白河院が謀反人とした者を成敗したわけです。結果、後白河院は国の政治を独占し、源頼朝は国防を独占できたのです。しかし、時が経てば勢力図が塗り替えられます。


 ここからは筆者の推測になりますが、そのように仮定したとして話を進めます。源頼朝は権大納言にまで昇進し、入閣を果たすことができました(省の副大臣と大臣政務官も内閣の一員とされ、納言の権官は丁度それらに近いので内閣の一員でいいでしょう)。頼朝が亡くなり、後を継いだ頼家にはやがては入閣を果たすことが期待できるわけです。しかしながら、平清盛内閣が実力主義の政治を目指す過程で武力行使してまでも上皇をも抑え込むに及んだことで政治の混乱が招かれたこともあって、朝廷内には武家を政治の中枢に加えることに反対の立場をとる者が少なからずいました。頼家が頼朝の後を継いだ時には鎌倉幕府の後ろ盾である後白河院はすでにこの世にいません。後白河院と主義を異にする八条院の派閥の後鳥羽院の世だったのが鎌倉幕府に不利に働いてしまいました。八条院派の平清盛一族に奥州藤原氏が滅んで勢力が弱まっていた八条院派でしたが後鳥羽院が治天の君として強い権力を握ったことで、息を吹き返しました。鎌倉幕府は後白河院が承認した軍事組織なのですが、対立する派閥がもつ軍事組織を後鳥羽院が快く思うはずがありません。後白河院亡き後、その派閥は院の皇女である宣陽門院に引き継がれたため、宣陽門院派となっていたわけですが、頼家が頼朝の後を継いだ時、頼家は18歳、後鳥羽院は20歳、宣陽門院は19歳と三人とも国家を背負うにはあまりにも人生経験の乏しい年頃でした。若い指導者の時代の到来です。指導者が若いと組織が活気づくわけですが、同時に不安がもたらされるのです。若い指導者を支える人々の気苦労はいかほどか。後鳥羽院は宣陽門院派を徹底的に叩き潰すつもりでいたでしょう。若さの勢いのまま急進的になるのは無理のないことです。後鳥羽院がそうなら、若き棟梁頼家もそうに違いありません。頼家は国防の任を果たさんと軍備強化を進めていました。製造業者集団・日置部(ひおきべ)を束ねる比企能員(ひきのよしかず)を乳母夫にも舅にも持ったことが棟梁に急進的な軍備強化をさせたに違いありません。(注2)その急進性に反感をもつ者もいたのでしょうが、鎌倉幕府を維持することにつながるので軍備強化をすること自体は概ね同意は得られたのでしょう。問題は後鳥羽院と頼家が衝突する恐れがあったことにありました。世界規模化に意欲的で自由的経済主義を採る八条院派の後鳥羽院としては鎌倉幕府の軍備強化について軍需産業の景気があがることによって経済の活発化がもたらされることが見込めるという意味では歓迎だったのでしょうが、それが、内政の充実を優先して保護的な貿易を推進する宣陽門院派に強い軍事力が築かれることにつながるのは気にくわなかったに違いありません。やがて頼家は征夷大将軍になりますが、若き将軍としては宣陽門院を後ろ盾に後鳥羽院を圧倒的できるぐらいまでに強い軍事力を築きあげる自信があったのでしょう。なぜなら全国の武士を家臣にもつのですから。それに奥羽の海運、黄金、織物、毛皮に琵琶湖の水運、熱田社の海運、上総国の海運、那須温泉、両毛の織物、伊豆温泉など頼家を援護する地域から得る資源に内戚の代々の財源に外戚の財源そして宣陽門院派が基盤としている土地のもたらす資源をあわせた豊富な資源でもって十分に軍事衝突に備えられる見込みがたつのです。周囲は心配したことでしょう。その軍事力を頼りに後鳥羽院を幽閉することまでしてしまったら、平清盛の二の舞になりかねないと。その後の流れからすると、頼家は後鳥羽院にあまり忖度はしなかったのでしょう。頼家の見込みは甘いといわざるをえません。家臣が誰一人として見限って後鳥羽院に寝返らないとは限りません。中世では複数の家に仕えることがまかり通ってました。家臣のなかには宣陽門院派もいれば八条院派も、もしくは両方に属す者もいたわけです。(注3)従って後鳥羽院の方も十分に軍事衝突に備えられる見込みがたっているのです。そんなわけで危機感を抱いた頼家の母政子は後鳥羽院に接近し断腸の思いで頼家を謀反人として売ることを決意したのでした。これには宣陽門院も同意せざるをえなかったのでしょう。政子は仕方なく頼家の舅の比企能員を成敗し、頼家を隠居に追い込んで蟄居謹慎処分にしました。頼家は入閣を果たすことなく、まもなく謎の死をとげました。噂では政子の弟の北条義時が放った刺客に討たれたと言われていますが、頼家を殺す動機は後鳥羽院にもあります。(注4)その後の鎌倉幕府は朝廷側に忖度しながら政治をおこなうことになります。将軍のもと武家をまとめあげるはずが、頼朝、頼家と二代に渡り武家の殺し合いが絶えず起こってきたため、幕府側には武家を政治の中枢に加えるべきではないという意見に反論の余地はありません。大御台所政子は折衷案として頼家の弟の幼い千幡(後の実朝)に棟梁を継がせ、後鳥羽院に鎌倉幕府の運営を援護してもらうかたちをとることにしました。いよいよ幕府側は武家の暴走を武家の力だけで抑えるのが無理であることを悟らざるをえません。そこで公家の力を借りて鎌倉幕府が組織の躰をなすようにするという公武が協調して進める政治を目指すことになるわけです。実朝の代になっても武家の暴走は絶えず起こり、そのたびに大御台所政子は泣いて馬謖を斬る思いで暴走した家臣を成敗していくことになります。全ては後鳥羽院に恭順の意を示すため。何と父の北条時政をも追放したのです。やがて八条院が亡くなり、八条院派は後鳥羽院派となります。後鳥羽院の人望はかつて女帝候補とまで言われた八条院の人望に届きません。ここで、ようやく両派の力が均衡したわけです。幕府は約束します。将軍職は院の皇子に譲ることを。これで将来、鎌倉幕府は後鳥羽院の掌握するところとなるかのように思われました。院ご本人もそのつもりで支度を進めていたことでしょう。接近してきた三浦義村の手引きに従い、未来の皇子将軍にとって障壁となりうる実朝と、頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当公暁の両者を消したうえで幕府を手中に収める魂胆だったのでしょう。両者を消すことには成功したものの、想定外のことが起きました。後鳥羽院派の武将たちが不服従の態度をとったのです。慌てた院は急遽皇子の将軍着任を見送りました。そして実朝の後任人事を幕府に任せることにしました。幕府は妥協して左大臣九条道家のまだ幼く進路が決まっていない(注5)部屋住みの三男に実朝の後を継がせることにしました。後鳥羽院は一旦はその人事を認めました。しかし、後になって執権北条義時に「幼君を意のままに操り辺境軍を私して密かに海外の王朝と結びついて坂東に独自の朝廷を設けることを企み、帝をないがしろにしようとしてる」とのいいがかりをつけ、幕府を一度潰して幼き将軍を中心に自身に都合のいいようにつくりかえることを企んだのです。当然、北条義時も弱気でいるわけがありません。宣陽門院を後ろ盾に後鳥羽院を糾弾する材料をもっています。しかも朝廷側への根回しも進めていたわけです。戦争への備えも十分です。強気の北条義時は当然ながら監察官の調べに応じるのを拒否します。こうなれば、いよいよ北条一門を朝敵として成敗する大義名分が成り立ちます。とうとう後鳥羽院は挙兵します。しかし、後鳥羽院の企みに協力してきた三浦義村がここにきて寝返ったのです。しかも、期待したほど兵力が集まりません。いつのまにか京都から残らず後鳥羽院方が追放され朝廷は宣陽門院派の独占状態になっていました。当然それまで傍観していた武将たちも次々と北条方につきます。もはや勢力の巻き返しが不可能となり、勝敗は決しました。太政官は一転して後鳥羽院方を朝敵として厳罰に処すとの裁定を下しました。よって北条方の完全な勝利に終わりました。以後、鎌倉幕府は公家将軍の制御のもと北条氏が公家と武家の架け橋を担うかたちの公武が協調する政治を目指すこととなったわけです。







 時政のではなく政子の後継者たち





 以上の通りなら、源頼朝は国防を独占したに過ぎず、武家は公家を補助する役回りでしかないことになります。そうなると、北条氏も強い立場にないことになります。 通説的には鎌倉幕府執権職や執権家として北条氏が一番強く権限を掌握して国の政治を主導的に牛耳ったことになっています。ですが筆者はこう考えます。その北条氏がもつとされる権限のもとは初代棟梁の御台所政子だったわけです。三代北条泰時から北条氏惣領は代々御台所政子の役割を引き継いだに過ぎず、初代時政と二代義時は大御台所となった政子の後ろ盾によって執権職として強い権限を握ったに過ぎなかったわけです。北条氏惣領が幕府政治を強く主導する事象でもって得宗専制と定義づけられたわけですが(注6)、それは北条氏の惣領は初代御台所の役割を担うしきたりとなっているがためで、執権職とは別の将軍後見人としての活動であるわけです。同時に史料にみられるように執権職の後見人を兼ねているわけです。さらには御台所あるいは将軍第一夫人の後見も惣領夫人と共に兼ねていたものとみてよろしいでしょう。得宗専制と言われた北条氏惣領に強いて肩書きをつけるなら、鎌倉幕府政治顧問といったところでしょう。だから得宗専制ではないのですね。将軍あっての執権職であり、北条氏なのです。身内でも都合が悪ければ容赦なく排除したと言われたり他氏排斥といわれている事象については先ほども申しましたように武家の暴走を食い止めることが目的であったと考えたいと思います。それにしても『吾妻鑑』の記述をどう説明つけるでしょう。これは作為的に将軍に責任を負わせず北条氏に全責任を負わせるように記述されているに過ぎないと考えると説明がつきそうです。表向きは北条氏主導の様でも実は将軍が黙認しているというのが真相ではないでしょうか。鎌倉幕府が将軍を主としている以上、北条氏ではなく将軍を守るのが優先のため将軍に代わって北条氏が手を汚したと理解してよろしいのではないでしょうか。北条氏が滅んでも将軍が生き残れば幕府は存続できて派閥の始祖である待賢門院(後白河院の母)の志は受け継がれるつもりでいたならば、北条氏が将軍に代わって全責任をかぶって憎まれ役をつとめていたとすれば納得できそうです。よく時代劇にある殿様の黙認のもと家老が陰謀を主導し、検挙される運びになったら家老が全責任を負って切腹して事件が落着するという展開を鎌倉幕府に当てはめて考えてみていただきたいと思います。つまり学者たちがその暗黙の了解に気づかなかったか気づいても指摘できなかったがために当事者が願う通りの将軍に責任を負わせない説明が通説となって現在に至っているわけです。そもそも鎌倉幕府を率いる征夷大将軍という職は勅命を受けて朝敵を成敗するのが役目です。 公家といえども征夷大将軍である以上は天皇から直接勅命を受ける立場にあり、いくら武家の頂点にあっても、北条氏が天皇から直接勅命を受けるわけではないのですね。北条氏はあくまで将軍家の家政を監督する立場にあり、将軍の忠実な重臣でなくてはならないのです。つまり将軍の下知なしには北条氏は軍を動かせるわけがないのです。例えば蒙古襲来における幕府の対応で考えますと、蒙古・高麗連合軍の襲撃に対し、これを鎮圧するよう天皇より勅命が出たとするならば勅命を受けたのは征夷大将軍源惟康(注7)であり、惟康の下知を受けて執権北条時宗が軍を組織して、これを派遣したと考えるべきなのでしょうが、表向きは北条時宗が全ての責任を負うかたちで鎮圧が行われています。そうです、天皇より勅命を受けるのは征夷大将軍であって、北条氏ではないのが重要です。 これはどうしても『吾妻鑑』と矛盾します。むしろ矛盾しているのは『吾妻鑑』の方です。征夷大将軍は公家といえども生易しいことではつとまらないはずです。辺境駐在の国防軍の司令官なのですから。辺境でつとめを果たして死ぬことが前提だったと考えていいでしょう。他にも制度と照らし合わせると「得宗専制史観」では説明できない事象がいくつか出てきます。まず地方行政の仕組みを確認しますと、鎌倉時代になって、日本の地方行政はこれまで荘園公領制、院宮分国制、知行国制と複数の仕組みによって、まかなわれてきたのが、それらに鎌倉幕府が任命する守護と地頭による行政の監督が加わるといったようにさらに多元化するかたちとなりました。先ほども申しましたように、こうした仕組みは全て上皇に権力が集中するようにできています。そのなかで征夷大将軍は上皇より任命される知行国主、荘園制における領主代官のまとめ役になれる資格を有しており、これは実朝の跡に公家が就いても変わりませんでした。ということは、征夷大将軍ではない武家は知行国主にも領主代官のまとめ役にもなれないため、武家の頂点に立つ北条氏は幕府政治でも朝廷政治でも仕組み上あくまで公家の下につく立場に過ぎないことになります(注8)。地方行政においては、領主のような役割をしていたという守護と地頭は先ほども申しましたようにあくまで軍事を司る役職なので、分国主、知行国主、国司、現地駐在の広域自治体幹部、自治体の首長、荘園領主やその代官といった重役との合意が成り立たなければ行政を主導することができない立場にあるはずなのです。そういう意味でも「得宗専制」は成りたちそうにありません。また将軍の後見役は北条氏惣領だけとは限らないかもしれません。安達氏などは北条氏の外戚といわれるだけで北条氏の下風に置かれるかのような言われようなのですが、安達氏の祖・丹後内侍は初代将軍頼朝の乳姉妹(ちきょうだい)であり、丹後内侍の母で頼朝の乳母である比企尼(比企能員の養母)と共に頼朝を後見した功によって丹後内侍の嫡流が将軍の後見をつとめるしきたりとなっていたとすれば、むしろ丹後内侍の嫡流である安達氏と執権北条氏とでは将軍家の家臣同士の立場以上に対等な関係なのかもしれません。将軍の後見ということで史料で語られているよりも実際の幕政において強い影響力があったとしても不思議ではないでしょう。そして足利氏についてもです。頼朝の右腕であった足利義兼は足利義康と頼朝の母方の従妹の養子で、頼朝とは近い方の親戚になるわけです。共に河内源氏の名跡を継いでいるという意味でも(注9)鎌倉幕府の棟梁に近い系譜をひいているので朝廷の理解を得られれば実朝の後は足利氏の者が征夷大将軍を継いで代々足利氏が征夷大将軍であってもおかしくなかったでしょう。ここは、幕府内では足利将軍を望む声が多くあるので、武家を代表して公家将軍に家人たちの声を届ける役目を果たすために将軍の後見をつとめていたと考えたいです。ちなみに幕末において水戸中納言家の徳川慶篤が「将軍目代」の肩書きでもって徳川幕府を代表して朝廷との交渉をつとめていたように、同様のことが足利氏にあったように考えられそうなのです(注10)。北条氏と安達氏と足利氏は鎌倉幕府の「三本柱」を担うごとく極めて重宝されていたようで北条氏が両氏と代々婚姻関係を結んでいることからしても執権職は北条氏が独占しても将軍の後見は複数の氏族がつとめていたということなら(注11)、そういう意味でも「得宗専制」は成り立ちそうにありません。それから、そもそも将軍は公家で執権は武家ということで、それぞれ異なる身分社会に属しています。公家社会と武家社会 の対話によって政治を進める必要が生じますから、双方より双方の仲介を担う役目の者が置かれます。従って幕府政治は武家によってというよりは将軍への取次を担う公家との協議によって進める必要が生じるはずです。要するに北条氏は公家との合意に基づいて政治を進めていたというのが真相なのではないでしょうか。そういう意味でも「得宗専制」は成り立ちそうにありません。


 


  

                             



               つづく