幕府の命取りになるのは毎回治安悪化であること





 鎌倉幕府も小さな政府に過ぎないことがおわかり頂けたでしょうか。鎌倉時代もそれぞれの身分社会で、それぞれのしきたりに従って生活するのが当たり前だったことからして管轄が細かく別れたり、仕組みが多元化してくると、やがて治安の維持が難しくなります。管轄を細かく分けるとそれを利用して上手く捕縛から逃れる犯罪者が多数発生する時期が必ず訪れます。それは繰り返し起こることでして、日本史上うまく防止できたことがありません。「小さな政府」でいるということはそういうことなのです。それぞれの身分社会で完結して、その枠を出ないような仕組みにおいては他の身分社会には関心をもたなくて武家だろうが公家だろうが所詮他人事になるので住民にしてみれば住んでいる自治体が誰の領地になろうがどうでもいい話で、とにかくいい暮らしができればいいとしかいいようがないわけです。そのような調子なものだから、現在でも立法の段階から管轄をまたいだ犯罪を想定しないのが当たり前のようになっています。そんなこんなで治安悪化の処理に追われ、とうとう鎌倉幕府の体制が限界を迎え、やがて弱体化します。




 保護主義の敗北





 しまいには八条院派の系譜をひく大覚寺統の後醍醐帝が「北条氏が宮将軍を欺いて辺境軍を私して意のままに操り密かに海外の王朝と結びついて坂東に独自の朝廷を設けることを企み、都の朝廷をないがしろにしようとしてる」とのいいがかりをつけ、北条氏を排除して将軍守邦親王を自身の保護下に鎌倉幕府をまるごと自分の軍として所有することで権力を独占することを企み北条氏討伐に動きます。まさに第二の承久の乱というべき事件が勃発しました。今度は自由主義派の勝利です。鎌倉幕府は武家暴走問題の克服ならびに公武融和型政治の推進に失敗したのでした。守邦親王は北条氏滅亡後、武蔵国比企郡増尾郷に逃れ、まもなく亡くなったといいます。おそらく親王は北条氏に味方したのでしょう。筆者としては北条氏滅亡後の混乱を恐れ、武家を重んじた形の鎌倉幕府の存続ならびに改革を官軍に承諾してもらうように奔走していたものと考えたいです。





 自由主義の損害懸念




 以上、鎌倉幕府を「小さな政府」として捉え直すことを試みました。暴虐的なイメージをまとう北条氏が実は穏健な方だったように思えてこないでしょうか。北条時政・政子父子がいなかったら戦国時代が早まったかもしれなかったのです。主に美福門院の系統の者たちが日本に戦をもたらしていたと言っても過言ではないかもしれません(注12)。その系統を引く後醍醐帝が親政をしいて以降、日本は戦が多くなりました。だから鎌倉時代には強く興味をもたざるをえません。どうか以上の内容で論文を書けるよう読者の皆さん、応援をお願いします。また、中世前期で卒業論文を書くことを考えている偏差値の低い大学の学生の皆さんはぜひ参考にしてください。




                


                 それではまた、ブログで会いましょう。








(注1)ここでの百姓は庶民の意。農民、漁民、狩猟民、職人、商人をひっくるめて百姓と呼ぶ場合があります。以下を参照のこと。



(注2)比企能員の本当の苗字は日置(ひき)で安房国の出身。元は三浦党の家の子でした。比企は在名(ざいみょう)といって所属する地域や組織をあらわしています。比企郡の比企は日置部に由来します。実は文明誕生以来、中国や韓国同様に日本人も庶民でも苗字はもっているものの平安時代に入るあたりから公式には苗字を名乗らず庶民は下の名前しか名乗らず武士に至っては在名と下の名前を名乗り、在名がなければ下の名前のみでした。南北朝時代に入ってから武士のなかに公式でも苗字を名乗るものが出てくるようになったようです。比企能員は元は安房国の日置部に属していたようですが、安房国の日置部は武蔵国比企郡に住む日置部との密接な交流があり、比企能員は武蔵国の日置部を束ねる比企尼の養子に迎えられて武蔵国の日置部の首領の座を継承したということのようです。安房国の日置部が住んでいた集落のあたりに頼家を祀る神社が存在し、比企郡であった埼玉県東松山市には頼家を祀る寺院が存在します。これはどういうことかといえば比企能員が二代将軍頼家の舅となったことにより、安房・武蔵両国の日置部が頼家の後援勢力となっていたことを示していると考えます。また、比企郡には守邦親王とゆかりの深い八幡神社があり、その境内に「新羅神社」が祀られています。清和源氏の氏神・新羅明神(しらぎみょうじん)のことだとしたら、死後も頼家の正統性がゆらいでおらず実のところ頼家の政治が否定されていたわけではなく頼家の支持基盤は何者かに受け継がれ、その後の将軍家にも財産の一部になっていたということではないでしょうか。また、埼玉県川越市には生存した頼家の遺児が五代執権北条時頼の援助を受けて開いたという寺院が存在します。さらに頼家は埼玉県新座市にある晋光明寺という寺院に千体地蔵を奉納したといいます。それから、名刹と名高い京都の建仁寺を建てたのも頼家です。これらの事象からも頼家は父・頼朝に劣らぬ政治力をもっており優れた政治手腕を発揮したことで後鳥羽院に睨まれてしまったように考えられそうです。


詳細は以下の文献を参照のこと


茂木和平編纂『埼玉苗字辞典』表紙ページ

 


同『埼玉苗字辞典』より「日置」ならびに「比企 」の項




大嶽神社 – かもナビ | 鴨川のすべてを見る!探す!わかる!-Kamogawa Portal Site-リンクwww.kamonavi.jp



松長哲聖「猫の足あと」より


大塚八幡神社の項

 



晋光明寺の項



宗悟寺の項




埼玉県川越市・最明寺公式サイトより縁起の項

 



(注3)詳細は下記リンクを参照のこと

   

 


(注4)頼家が息を吹き返すことを恐れ、後鳥羽院が刺客を放ったとも考えられなくもありません。『吾妻鏡』には死因は明記されておらず、北条義時による暗殺説は『愚管抄』に基づく見解で、あくまで伝聞らしいので、定説になっている、この説は確実的とは言い難いともとれます。しかも鎌倉幕府の事情に詳しくない者の記述であることで信憑性が危ういと考えるべきかもしれません。『愚管抄』の愚管とは私見を意味するらしく、著者の私見を述べた読み物ということで、取り扱いに注意が必要です。




 本郷和人「源頼家,修善寺で殺される」『別冊歴史読本 [もののふの都]鎌倉と北条氏』(新人物往来社 1999)

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/yoriie.htm 





(注5)庶子は控えでなければ分家の他に養子と仏門の道があり、九条左大臣の三男は控えだったのかもしれません。




(注6) 




(注7) 蒙古襲来当時は皇族身分を離れ皇室の家臣の扱いだったようです。

 





(注8) 遠藤基郎「鎌倉後期の知行国制」 



(注9)(注1)の茂木前掲書表紙ページ及び第五巻「足利」の項参照




(注10)ヒロ「なるほど!幕末」より




(注11)『吾妻鏡』建長三(1251)年十二月七日条では義氏は「関東宿老」(幕府の宿老)と呼ばれています。安達氏については藤次郎氏が下記リンクのページにおいて比企氏との婚姻関係を否定しているものの、それでは滅ぼされても再興を許される特待ぶりの説明が弱く、筆者としては乳母の親族の可能性は捨てきれないものとして、ここでは比企尼の長女の子孫として話を進ませて頂きます。また、乳母の親族であるために重要され子孫が代々重役を務めた氏族の例としては徳川幕府では稲葉氏と堀田氏があげられます。両氏とも関ヶ原の戦いの後に徳川氏の臣下となって外様大名に分類されるところが、特例によって譜代大名に分類されました。陸奥伊達氏では初代近世当主伊達政宗の乳母の弟である片倉景綱の片倉氏と、同じく茂庭綱元の茂庭氏が大名の家臣ながら1万石以上の石高の領主に封じられました。さらに4代当主綱村の代になって乳兄弟の白河宗広が主家の一門の家格を与えられ、以来白河氏は主家の一門の家格のまま明治維新に至りました。このように外戚の家系とともに乳母の家系が主君の家政を主導するのは珍しくないようなのです。


藤次郎「千葉氏の一族」より



 





・江戸幕府編纂『寛政重修諸家譜 第10 新訂』p.410(続群書類従完成会 1965)





  10 新訂 第10 新訂




 




若槻武雄「陸奥・蝦夷・歌枕」より

http://www.t-aterui.jp/miyagi/m-mukasikawa3.htm







(注12) 詳細は当ブログ「関東地方の荘園の存在意義」を参照のこと