夢は見始めると見るのか、注意を払うと記憶に残るようになるのか知らないけれど、体感ではここ数年、ほとんど夢をみなくなっていたのに、また今日も妙な夢を見た。
今日の夢はストーリーはなんだかよくわからない、起きたら思い出せなくなるたぐいの夢らしい夢だった。
前後のストーリーは記憶になく、場面と印象だけが記憶に残る。
大きなイノシシがやってくる。
多分、森の奥から。
こっちにむかってゆっくりゆっくり歩いてくる。
まわりの人たちが、「逃げろ!」「やられるぞ!」と叫んでいる。
でも、イノシシは私を見つめたまま、歩いてくる。
もう襲われようが、殺されようがどうでもいいや、ここで逃げても意味が無い。
と思って、「わたしは逃げないよ!このままここにいる!」とまわりの人たちに叫ぶ。
イノシシは私よりもはるかに大きい。
目の前にやってきて止まる。
恐る恐る手をのばすと、鼻面に触れることが出来た。
イノシシはゆっくりと腰をおろし、寝そべる。
私は、鼻面をなでつづける。
まわりの人たちは、「あのイノシシがなついたぞ!」とびっくりし、遠巻きにしている。
私は、大きなイノシシにもたれる。
ごわごわした体と、でも暖かい体温が伝わってきて、そのままうとうとと眠りに落ちる。
イノシシもまた静かに目を閉じる。
目を閉じているけれど眠っているのではなく、私を見守っているのだということを感じながら、私は暫しの休憩、と眠りに落ちる。
たぶん、ほんの少しの時間。
短いけれど、十分な休息をとって目が覚める。
すると、イノシシも立ちあがり、また森の奥の方へと帰っていく。
ゆっくりゆっくりと歩いて去っていく。
ただそれだけの夢だった。
夢から覚めて、「なんでイノシシ?」と思った。
イノシシでまっさきに思い浮かぶのは、父が猪年生まれだということ。
でも、あのイノシシの雰囲気は生前の父の印象と似ているとは感じなかった。
「おとうさんじゃないでしょう。全然、違うじゃん!」
「それにお父さんはこっちには興味ないでしょーが。」
と思った(笑)。
父が亡くなって10年以上がたつ。
もう、(父の)親兄弟全員あちらの世界にそろっているので、みんなであっちで楽しくやってるから、こっちのことはあんまり気にしてないよ、と母や姉とよく話をしていた。
こっちの世界がばたばたして、父に「ちょっと助けてよー。」と言ってみてもまったく気配を感じることもなく、まあそれはそれで良いことだわと思っていた。
だから、「おとうさん、こっちの世界には興味ないでしょ!」と。
そしたら。
(まあ、ここから先は私の妄想だ。笑って読んでください。)
進化したといおうか。
父も単なる父だったものから、あちらの世界で修行をしたのだか、大きな源へと還っていく過程なのかそういうことはよくわからないのだけれど、進化して変わった、らしい。
(らしい、というのもヘンだなぁ。なんかそういうことのような気がする、という感じ?)
私の知っている父の雰囲気はうっすらとだけあるけれど、ご先祖様のような代々のつながりのようなもっともっと大きなもの(?)、そういったものの象徴。
そんなふうなことなのかな、と頭に浮かんだ。
とにもかくにも、夢の通り、私を見守ってくれる存在、だということなのか。
深いやすらぎと休息。
暫しの休憩。
休憩の後は、また何か、何かが始まるんだろうか...。
久しぶりに、ものすごくストーリーのある夢を見た。
ストーリーというより、シナリオ?
映画を見ているような、長編ドラマ。
カメラ割りっていうのか、カメラアングルまでしっかりしたシーンがあるし、セリフのように自分がしゃべる言葉の記憶もしっかりある。
登場人物も、しっかり性格や背景まである。当然ながら、それを全部わかってる。
かといって、最近そんな映画やドラマ、小説や漫画を見たというわけでもない。
なんで、唐突にこんな夢を見るのか、まったくわからない。
昔はこんなふうにストーリーのしっかりした夢を結構ひんぱんに見て、起きるとぐったり疲れていた。
だって、「愛と感動の大巨編!」とか、「スリルとサスペンス!」とか「SF大巨編!」みたいなのを、実感を持って見ているんだから。
しかも、夢なので、途中で何パターンにも分岐するストーリーを見ていたりする。
長編映画1本分じゃなくて、2本も3本もいっぺんに見るというか、経験している感じなので、ぐったり疲れて目が覚める。
こんなふうにストーリーがしっかりとある夢を見るのは、何年ぶりだろう。
今日の夢は、ロードムービみたいな雰囲気。
意に反して、犯罪者みたいな立場になってしまい、警察から逃れるために東京から四国へと旅をしていく。
なんで、四国かっていうと、逃亡を手助けしてくれているやくざの親分みたいな人が、そこで偽装結婚させてどこかへ逃がそうとしている男がいるから、そこまで行く羽目になる。
夫や子供、事故の目撃者だった近所のおばさんたちと、なぜかみんなで逃げていく。
みんな今までの生活を捨てて、世間のしがらみや常識も捨てて、先の無い、あるいは先の見えない明日だけど、だからこそどんどん自由になって、どんどん楽しくなっていく。
文章で書くと、どっかで見たことあるような、とってもチープな感じになってしまうのだけれど、これを夢の中で実感を伴って、つまり実際の経験のように感じているわけですよ(笑)。
さらに、物語のパターンとして、夫と二人だけ、子供がいるパターン、集団で逃げていくパターンとシナリオは複数に分岐して、その各々のストーリーを全部見ている。
かなりぐったりでしょう(^_^;)
「もう東京へ帰る道なんか、わからなくなっちゃったよ。」
風の中でそんな言葉を発している。
(まるでセリフ!映画のワンシーン!その瞬間、東京のマンションのリビングの風景がよぎったりするし。)
ただの目撃者なのに、なぜかいっしょに逃げることになっちゃったおばちゃんが、
「もう旦那のとこにも、家族のとこにも戻れないけどさ、今がいっちばん楽しいよ。」
「こんなに毎日が楽しかったことはないよ。後悔なんかするもんか!」
って泣き笑いしてる。
ラストシーンまでたどりつかないうちに目が覚めたけれど、ラストは映画「テルマ&ルイーズ」みたいになりそうでもあり、四国からさらに船で外国へと逃げて行きそうでもあった。
「日常」を捨てて、どんどん自由になっていく。
社会のわくから飛び出して、そして初めて本当の本当に自由になって、生きている実感を感じて、一瞬一瞬を楽しんでいた。
今、思い出しても、あまりに楽しくて、キラキラしていて、でも切なくて泣けてくる(笑)
ストーリーというより、シナリオ?
映画を見ているような、長編ドラマ。
カメラ割りっていうのか、カメラアングルまでしっかりしたシーンがあるし、セリフのように自分がしゃべる言葉の記憶もしっかりある。
登場人物も、しっかり性格や背景まである。当然ながら、それを全部わかってる。
かといって、最近そんな映画やドラマ、小説や漫画を見たというわけでもない。
なんで、唐突にこんな夢を見るのか、まったくわからない。
昔はこんなふうにストーリーのしっかりした夢を結構ひんぱんに見て、起きるとぐったり疲れていた。
だって、「愛と感動の大巨編!」とか、「スリルとサスペンス!」とか「SF大巨編!」みたいなのを、実感を持って見ているんだから。
しかも、夢なので、途中で何パターンにも分岐するストーリーを見ていたりする。
長編映画1本分じゃなくて、2本も3本もいっぺんに見るというか、経験している感じなので、ぐったり疲れて目が覚める。
こんなふうにストーリーがしっかりとある夢を見るのは、何年ぶりだろう。
今日の夢は、ロードムービみたいな雰囲気。
意に反して、犯罪者みたいな立場になってしまい、警察から逃れるために東京から四国へと旅をしていく。
なんで、四国かっていうと、逃亡を手助けしてくれているやくざの親分みたいな人が、そこで偽装結婚させてどこかへ逃がそうとしている男がいるから、そこまで行く羽目になる。
夫や子供、事故の目撃者だった近所のおばさんたちと、なぜかみんなで逃げていく。
みんな今までの生活を捨てて、世間のしがらみや常識も捨てて、先の無い、あるいは先の見えない明日だけど、だからこそどんどん自由になって、どんどん楽しくなっていく。
文章で書くと、どっかで見たことあるような、とってもチープな感じになってしまうのだけれど、これを夢の中で実感を伴って、つまり実際の経験のように感じているわけですよ(笑)。
さらに、物語のパターンとして、夫と二人だけ、子供がいるパターン、集団で逃げていくパターンとシナリオは複数に分岐して、その各々のストーリーを全部見ている。
かなりぐったりでしょう(^_^;)
「もう東京へ帰る道なんか、わからなくなっちゃったよ。」
風の中でそんな言葉を発している。
(まるでセリフ!映画のワンシーン!その瞬間、東京のマンションのリビングの風景がよぎったりするし。)
ただの目撃者なのに、なぜかいっしょに逃げることになっちゃったおばちゃんが、
「もう旦那のとこにも、家族のとこにも戻れないけどさ、今がいっちばん楽しいよ。」
「こんなに毎日が楽しかったことはないよ。後悔なんかするもんか!」
って泣き笑いしてる。
ラストシーンまでたどりつかないうちに目が覚めたけれど、ラストは映画「テルマ&ルイーズ」みたいになりそうでもあり、四国からさらに船で外国へと逃げて行きそうでもあった。
「日常」を捨てて、どんどん自由になっていく。
社会のわくから飛び出して、そして初めて本当の本当に自由になって、生きている実感を感じて、一瞬一瞬を楽しんでいた。
今、思い出しても、あまりに楽しくて、キラキラしていて、でも切なくて泣けてくる(笑)
ACIM(A Course in Miracles - 奇跡のコース)では、からだにはなんの力もない、という。
そもそもこの世界は非実在。
この肉体だって、全部、幻。
なんとなくのイメージをしてみることは出来るけれど、どうもいまひとつよくわかっていない。
というか、「そうだよね。」とすらっと言えるところまでの理解にはなっていない。
本当に理解したときって、「そうなんだよねぇぇぇぇ!!!」というような興奮よりも、「だって、そうだよね。なんでって言われても困るけど、そうだからそうなんだよ。」というような感じになるような気が、最近している。
理解した、というより、理解が終わった、とでもいうような感じか?
そういう意味でいくと、「からだは無力」ということに関して、「うん、そうだよね~。」と落ち着いて言えるところまでは納得していない。
肉体を通して感じることが確かにあるし、肉体があるからこそわかることがある、と私は強く信じている。
自分のからだの中にしっかりと居続ける、そうなりたいと思っている。
体の声を聴く、というように、体が教えてくれるメッセージというものも確かにあると思うし、それに対して敏感でいたい。
だから、ACIMが「からだは無力」ということにいまひとつ納得できないし、よくわからない。
ただ、最近なんとなく思うこと。
体そのものに力がある、ということではなくて、体を動かす心、意思、さらにはそのおおもとの魂、源こそに力がある、ということなんだろうか。
だから、肉体は幻、っていうんじゃないか。
この細胞ひとつひとつに力があるのではなく、そこに宿る心に力がある。
その心こそが、この細胞ひとつひとつを、つまりはこの幻、この非実在の世界を創り出しているということ?
だから、からだは無力であり、力があるのは心、だと言うのかな?
この肉体は器に過ぎない。
ただし、器だからどうだっていい、あるいは粗末に扱っていい、という思考とはまったくレベルの違う話をしているんだって気がする。
心の力が創り出した(幻である)肉体。
だからこそ心の力で変えることもできるし、それならばより良い状態でいることを心がけたい。
(まさに、「心がける」だ。)
「(体を)大事にする」ということは、結局、体だけのことを言っているのではなく、そもそもの心を、自分の本質を大事にする、ということと同じ意味なんだろう。
体の力、心の力、と対立するように思いがちだが、その本質は結局すべて同じということではないかと思う。
ただ、体だけ、体そのもの、に力があると思うことは誤り。
力があるのは、心の方だっていうことを忘れるな、勘違いするなってことかな、と思う。
そもそもこの世界は非実在。
この肉体だって、全部、幻。
なんとなくのイメージをしてみることは出来るけれど、どうもいまひとつよくわかっていない。
というか、「そうだよね。」とすらっと言えるところまでの理解にはなっていない。
本当に理解したときって、「そうなんだよねぇぇぇぇ!!!」というような興奮よりも、「だって、そうだよね。なんでって言われても困るけど、そうだからそうなんだよ。」というような感じになるような気が、最近している。
理解した、というより、理解が終わった、とでもいうような感じか?
そういう意味でいくと、「からだは無力」ということに関して、「うん、そうだよね~。」と落ち着いて言えるところまでは納得していない。
肉体を通して感じることが確かにあるし、肉体があるからこそわかることがある、と私は強く信じている。
自分のからだの中にしっかりと居続ける、そうなりたいと思っている。
体の声を聴く、というように、体が教えてくれるメッセージというものも確かにあると思うし、それに対して敏感でいたい。
だから、ACIMが「からだは無力」ということにいまひとつ納得できないし、よくわからない。
ただ、最近なんとなく思うこと。
体そのものに力がある、ということではなくて、体を動かす心、意思、さらにはそのおおもとの魂、源こそに力がある、ということなんだろうか。
だから、肉体は幻、っていうんじゃないか。
この細胞ひとつひとつに力があるのではなく、そこに宿る心に力がある。
その心こそが、この細胞ひとつひとつを、つまりはこの幻、この非実在の世界を創り出しているということ?
だから、からだは無力であり、力があるのは心、だと言うのかな?
この肉体は器に過ぎない。
ただし、器だからどうだっていい、あるいは粗末に扱っていい、という思考とはまったくレベルの違う話をしているんだって気がする。
心の力が創り出した(幻である)肉体。
だからこそ心の力で変えることもできるし、それならばより良い状態でいることを心がけたい。
(まさに、「心がける」だ。)
「(体を)大事にする」ということは、結局、体だけのことを言っているのではなく、そもそもの心を、自分の本質を大事にする、ということと同じ意味なんだろう。
体の力、心の力、と対立するように思いがちだが、その本質は結局すべて同じということではないかと思う。
ただ、体だけ、体そのもの、に力があると思うことは誤り。
力があるのは、心の方だっていうことを忘れるな、勘違いするなってことかな、と思う。
「無職」というのはなんとも不思議な感じ。
これからさき、「やるべきこと」が無いっていうのは、なんかすごい。
自分が何も生産的なことをしていないっていうことに不安を覚えかけたりもするけれど、「とりあえず1・2年は何もしないでいいって決めたでしょ。」と自分で自分に言い聞かせている。
まだ始まったばかりで焦るのは早すぎるって思うけれど、始まったばかりだからどんな感じで生活していけばいいのかがまだまったくわからず、それで不安になるところもある。
でも今までとはまったく違った生活で、新鮮な毎日を送っています。
時間に余裕が出来たので、と思って、ツイッターを始めてみて、そんな新鮮さをつぶやいてみている。
(お暇な方、よかったらからんでください。)
しかしながら、いまいちよく使い方がわからないまま。
なんかひらめいたこと、気がついたことをメモ替わりにつぶやいとけば忘れないかな、と思って始めたけれど、文字にするとそれでもうなんだか落ち着いちゃって、結局、それきりになったりする感もあり。
そして、だんだんまとまった文章が書けなくなっていくんじゃないか、っていう気もする。
とりあえず思いついたままを文字にすると、何かが変わる気もする。
思考回路に影響があるような気がする。(あまり深く考えなくなるというような)
始めたばかりなので、まだよくわからないけど。
会社員をやめても、夜型の生活は結局まったく変わらない。
やっぱり、夜の時間の方が好きだし、体質みたいなものがあるのではないかと思う。
省エネにはならないところが悩みのタネ。
ああやっぱり、思考回路も文章も変わっていると思う...。
これからさき、「やるべきこと」が無いっていうのは、なんかすごい。
自分が何も生産的なことをしていないっていうことに不安を覚えかけたりもするけれど、「とりあえず1・2年は何もしないでいいって決めたでしょ。」と自分で自分に言い聞かせている。
まだ始まったばかりで焦るのは早すぎるって思うけれど、始まったばかりだからどんな感じで生活していけばいいのかがまだまったくわからず、それで不安になるところもある。
でも今までとはまったく違った生活で、新鮮な毎日を送っています。
時間に余裕が出来たので、と思って、ツイッターを始めてみて、そんな新鮮さをつぶやいてみている。
(お暇な方、よかったらからんでください。)
しかしながら、いまいちよく使い方がわからないまま。
なんかひらめいたこと、気がついたことをメモ替わりにつぶやいとけば忘れないかな、と思って始めたけれど、文字にするとそれでもうなんだか落ち着いちゃって、結局、それきりになったりする感もあり。
そして、だんだんまとまった文章が書けなくなっていくんじゃないか、っていう気もする。
とりあえず思いついたままを文字にすると、何かが変わる気もする。
思考回路に影響があるような気がする。(あまり深く考えなくなるというような)
始めたばかりなので、まだよくわからないけど。
会社員をやめても、夜型の生活は結局まったく変わらない。
やっぱり、夜の時間の方が好きだし、体質みたいなものがあるのではないかと思う。
省エネにはならないところが悩みのタネ。
ああやっぱり、思考回路も文章も変わっていると思う...。
姿勢が悪い。
重心が後ろにいってしまう、いわゆる「腹出」。
そうなると腰に負担がかかる。
膝もいつも固まったままでロックされている状態。
知っているけど、気が付いているけれど、しみついたくせはなかなか直らない。
すぐに元に戻ってしまう。
今日は久しぶりにアレクサンダー・テクニークの個人レッスンを受けた。
すっかり後ろ重心の姿勢になってしまっていて、もう自分でいい感じのところに戻せなくなってしまっているので、ちゃんと立つ、ということをやりたいと思って、レッスンに臨んだ。
そしたら、わかった!
なんでそうなるのか、自分のくせ。
そのくせの理由。
立っているときや歩いているとき、肩が後ろにいく。
後ろに引くくせがある。
そうなれば、重心は後ろにいってしまう。
必然的に、お腹が出る。
なんでそんなことをしているのか。
肩を後ろに引くと胸がそって、そしてからだの前面の面積が広がる(ような気がする)。
そうやって大きく見せようとしてるんだ、自分!
もしくは、そうやってかまえている。対している。
何に?
向こうから来る敵?
向こうから来る試練?(笑)
そうやって、何かに対してかまえて立ち向かっている。
ちょっとでも大きくみせようとして、表面積を広げようとしている。
でも、だから、自分のからだは前だけの平面で、後ろが無い。
『表面積じゃなくて、からだは体積でしょう。』
そう、後ろが意識できるようになると、胴体は丸く太くどっしりと感じられる!
『人間の腕は体の前で作業するでしょう。後ろで作業はしないわね。
腕は前にあっていいのよ。』
そう先生に言われてみれば、腕は体の横から生えている(笑)と思っていたかもしれない。
(それが肩を後ろに引くのをさらに強化している。)
で、肩が前方に入るのは、「いい姿勢」ではないと思い込んでいる。
なんだかだらしない、しょんぼりした姿勢のようなイメージ。
でも、腕が前にあることを許してあげると、肩甲骨も下がって、さらに腰も膝も連動してゆるんで、ちゃんと体重が足のうら全体に乗ってくる。
さらに、その状態でもまだ少しある違和感を追っていくと、顎に緊張があるのがわかった。
姿勢が変わって、腰・膝も緩んでいくと、顎も緩めようと動きたがってくる。
腰や膝にあった緊張は顎からつながっているようだ。
どんだけ歯を食いしばって、日常的に生きているのか?!と思う。
そしてさらに、その顎の緊張は目の緊張からつながっているみたい。
ぎゅっと凝視するくせ。
ものすごく頑張って見ようとするくせ。
先生の手で、ちゃんとかかとに体重が乗った姿勢になったところから、前方を見ようと視線を上げた瞬間、
『あら、ここで首が固まったわね。』と先生。
ただ見ればいいものを、ものすごく頑張って見ようという努力をしている?
今日はコンタクトレンズを入れていたせいもあるのかもしれない。
焦点をぎゅっと寄せて見ているのが自分でもわかった。
そうするとき、一緒に歯も食いしばっているのも。
いろんなところで、こんなにいろいろ余計なことをしている。
これ全部いらないことなんだなぁ。
やめようとすると、今度は一生懸命、「やらない」をやってたりするから、それもまた要注意なんだけど。
レッスンが終わって外に出ると、目がすごくよく見えるようになっていてびっくりした。
看板の文字やらなんやら、くっきりと見えすぎるくらい見える。
でもなんだか、「見る」ことに関して、特にまだまだ大きな課題を感じる...。
重心が後ろにいってしまう、いわゆる「腹出」。
そうなると腰に負担がかかる。
膝もいつも固まったままでロックされている状態。
知っているけど、気が付いているけれど、しみついたくせはなかなか直らない。
すぐに元に戻ってしまう。
今日は久しぶりにアレクサンダー・テクニークの個人レッスンを受けた。
すっかり後ろ重心の姿勢になってしまっていて、もう自分でいい感じのところに戻せなくなってしまっているので、ちゃんと立つ、ということをやりたいと思って、レッスンに臨んだ。
そしたら、わかった!
なんでそうなるのか、自分のくせ。
そのくせの理由。
立っているときや歩いているとき、肩が後ろにいく。
後ろに引くくせがある。
そうなれば、重心は後ろにいってしまう。
必然的に、お腹が出る。
なんでそんなことをしているのか。
肩を後ろに引くと胸がそって、そしてからだの前面の面積が広がる(ような気がする)。
そうやって大きく見せようとしてるんだ、自分!
もしくは、そうやってかまえている。対している。
何に?
向こうから来る敵?
向こうから来る試練?(笑)
そうやって、何かに対してかまえて立ち向かっている。
ちょっとでも大きくみせようとして、表面積を広げようとしている。
でも、だから、自分のからだは前だけの平面で、後ろが無い。
『表面積じゃなくて、からだは体積でしょう。』
そう、後ろが意識できるようになると、胴体は丸く太くどっしりと感じられる!
『人間の腕は体の前で作業するでしょう。後ろで作業はしないわね。
腕は前にあっていいのよ。』
そう先生に言われてみれば、腕は体の横から生えている(笑)と思っていたかもしれない。
(それが肩を後ろに引くのをさらに強化している。)
で、肩が前方に入るのは、「いい姿勢」ではないと思い込んでいる。
なんだかだらしない、しょんぼりした姿勢のようなイメージ。
でも、腕が前にあることを許してあげると、肩甲骨も下がって、さらに腰も膝も連動してゆるんで、ちゃんと体重が足のうら全体に乗ってくる。
さらに、その状態でもまだ少しある違和感を追っていくと、顎に緊張があるのがわかった。
姿勢が変わって、腰・膝も緩んでいくと、顎も緩めようと動きたがってくる。
腰や膝にあった緊張は顎からつながっているようだ。
どんだけ歯を食いしばって、日常的に生きているのか?!と思う。
そしてさらに、その顎の緊張は目の緊張からつながっているみたい。
ぎゅっと凝視するくせ。
ものすごく頑張って見ようとするくせ。
先生の手で、ちゃんとかかとに体重が乗った姿勢になったところから、前方を見ようと視線を上げた瞬間、
『あら、ここで首が固まったわね。』と先生。
ただ見ればいいものを、ものすごく頑張って見ようという努力をしている?
今日はコンタクトレンズを入れていたせいもあるのかもしれない。
焦点をぎゅっと寄せて見ているのが自分でもわかった。
そうするとき、一緒に歯も食いしばっているのも。
いろんなところで、こんなにいろいろ余計なことをしている。
これ全部いらないことなんだなぁ。
やめようとすると、今度は一生懸命、「やらない」をやってたりするから、それもまた要注意なんだけど。
レッスンが終わって外に出ると、目がすごくよく見えるようになっていてびっくりした。
看板の文字やらなんやら、くっきりと見えすぎるくらい見える。
でもなんだか、「見る」ことに関して、特にまだまだ大きな課題を感じる...。