自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -36ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。

目が覚めたら、起きる。
お腹が減ったら、食べる。
眠くなったら、寝る。

基本はこれだけ。

時間に縛られることも無い。
やりたくないのにやらなくちゃいけないことなど何も無い。
我慢することも何も無い。

自分のためだけに、全部の時間を使っている。
自分のしたいことだけをしている。

こんなふうに、とても贅沢な時間を過ごしている。

ありきたりな言い方をすれば、「今までのご褒美」かもしれない。
でも、本当はこんなふうに暮らすことが、人間らしい暮らしなんじゃないかとも思う。

あまりに社会生活から離れているので、ちょっと心配になる気持ちが顔を出すこともある。
大丈夫か、自分? と思う。
これじゃ、ボケるんじゃないか? などと思う。

多分、暫しの休息、だという気はする。
でもまだこの贅沢な時間を味わっていてもいいとも感じている。

この贅沢な時間は、自分をとことん味わいつくすための時間、だという気がしている。


ノックしても開けてもらえない扉

ベールのむこうに隠される意図

シャッターをおろしたハート


「そんなふうに開いていないハートには、私のハートだってひらくことは出来ないよ。」

思わず、そうつぶやいた。



そんなふうにつぶやくのは、寂しいワタシ

そう、「サビシイワタシノココロ」



だから

わたし

は、こうつぶやこう。


あなたがどんなに閉ざそうとしても、私はその意図をも超えて

あなたの中にある憧れ、光、真実

それを見ている。

私にはそれが見える。


私は、世界をそんなふうに見ている。



こうつぶやいて

わたしは

私の戦い

を終わらせる。

いろんなことを考えすぎて
自分を疑ったり
また自分に確信を持ってみたり。

いろんなことが少し面倒臭くなってきた。

「自分はもうこれでいい。」
とは思っているけれど、揺れる・ぶれかけることもある。

誰かと比べてしまうから、ぶれる、不安になる
ということは、頭ではわかっている。

そんな今日、出会った言葉。


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『自分の一歩』 (宮澤章二)


いま わたしの踏みしめる一歩は
だれか他の人の一歩ではない
私の足が地上に刻む一歩は
いつでも わたし自身の一歩なのだ

他の人より一歩先を歩くからといって
他の人より優れているとは限らない
他の人より一歩後を歩くからといって
他の人より劣っているとは限らない

自分の目標を定めて歩きだしたのだから
自分の一歩をしっかりと信じて進もう
----その決意が 最後まで歩く力を生む

出発点には<人生>など まだない
到着点にこそ わが<人生>はあるのだ
歩きつづけ生きぬいた尊い証明として

ずっと、「マスターが欲しい。」と思っていた。
「グルはいらないけれど、マスターが欲しい。」と。

そう思うときの、私の「グル」のイメージは、絶対帰依。
グルの言うことは、なんでもかんでも正しい。
グルの言うことは、たとえ意味がわからなかろうが、ただひたすら従う。
それを続けていくことで、いつか光明が見えてくる。
そんな感じ。

「マスター」は、ちょっとユーモアがあって、こちらから何か聞けば当意即妙に答えてくれる。
答えを直接教えてくれるわけではなく、答えに至るヒントを教えてくれる。
向こうからはあまり何も言ってこない。
でも、間違ったことをしたときには叱ってくれる。
本当に道を踏み外しそうな時、道を誤りかけた時には、軌道修正・助け船を出してくれる。
「メンター」に近い感じだろうか。
そこにさらに、「叡智」のようなもの(サイキック能力も含む)を上乗せした感じ。

とにかく、私の感じる疑問や迷いに対して、理解して応えてくれる人。
(「答える」のではなく、「応える」)
そんな人が欲しいと思っていた。

そんな話を友人にすれば、「そんな人いるわけないじゃない。」と笑われた。
そうかもしれないけれど、この広い世の中、どこかにいるかもしれない、と思いたい自分がいた。
積極的に探しまわるわけでもないが、もしかしたら、いつか時が来れば(笑)、そういう人がふっと現れるかもしれないと、思っていたかった。

今でも、そうなったら嬉しいとは思う。

でも。

もう、その考えから自由になってもいいかな、と思う。

「マスターが欲しい。」と思うことは、結局、自分の外に何かを求めていることかもしれない。
どうしようもないことから逃れるために創り出した幻想、かもしれない。
「結局は自分が自分のマスター」なんて、ありきたりの答えにたどりついたわけではなく、「マスター」なんてことそのものが幻想だっていうような気がするのだ。うまく言葉では説明できないけれど。

自分の感じること・自分が信じること、に確信が持てなかった。

もしかしたら間違っているかもしれない。
もしかしたら、ものすごく勘違いしてるだけかもしれない。
自分は全然ダメなやつかもしれない。嫌なやつかもしれない。

「ああそうなんだ!」という理解が訪れても、すぐそのあとには「でも勘違いかも」というような迷いが生じる。
「これでいいのかな。」と、すぐに不安になる。
それを打ち消してくれる人、「それで正解だよ。おめでとう。」と言ってくれる人が欲しかった。
自分を肯定してくれる人。
もしかしたら、それは具体的な「人」というより、「権威」という概念でしかないのかもしれない。
いわゆる「お墨付き」が欲しかった。





どうして人は「不幸自慢」をするのだろうか。
どうして「まだダメな自分」でいたがるのか。
少し不安な状態でいることの方を選ぶのだろうか。

それは全部、巧妙な自我の罠。
ACIMで繰り返し語られることの意味が、やっとわかったような気がする。

「それホント?」「それってなんか上から目線じゃない?」「自分はそんなに立派なよく出来た人間かな?」「なんか勘違いしてんじゃないの?」

こんな思考は全部、自我の声、だって気がついた。
自我が消滅しないために、ささやきかける声。

それは、私の本質ではない。
「私」とは別のものだ。



私自身がつながっている場所。

そんな場所があることを、既に知っている。
ということに、疑問を持つのはもうやめる。

自分自身が否定することをやめよう。

多分私は、また忘れて、自我の声にオロオロするだろう。
そうしたら、もう1回思い出すだけだ。
繰り返し繰り返し、思い出す。
そういう自分を私は許す。


私は、ただもう、その先に行きたいのです。

問題を抱えた私でも

怖れを感じる私でも

汚い私でも

ダメな私でも

全部の不完全さを引き連れたまま

それでも、その先に行きたいのです。

不完全さを受け入れたまま

ただもう、光の方へと

光の方だけを見ていたいのです。



苦しみが消える日を待つのではなく

苦しみは既に終わったと意図して

ただ、そのむこうへといきたいのです。



わたしを引きとめるものは、全てまぼろし

わたしは、もうその先へと、向こうへと行きたいのです。