自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~ -20ページ目

自分ブランドで生きる ~世界一シンプルな私の創り方~

自分で決めて、自分で生きる。
自分を愛して、自分を生きる。


『ちゃんと天は私を転ばせてくれる。』


自分の中からそんな言葉が出てきた。
最初は自覚がなかったのだけれど、しばらくしてから、「あれ?!」と驚いた。

今までずっと、「傲慢」ということについて考え続けてきた。
「ひとりでやろうとしない。」ということも。

ゆだねるということ。
受け入れるということ。

頭の理解でしかないと、どこか自分でも感じていた。
「どうしたらいいんだろう?」「どうやったらいいんだろう?」と考え続けていた。
自分に自信がなくなることもあった。
一止さんのように、「毎日迷っているよ、これでいいのか。」と思わずつぶやきたくなることもあった。

それでも、自分の中にある確かなもの、自分自身がつながる場所を信じていた。
立ち止まればいつでも、それを感じることは出来る。

その繰り返しだった。
今もその繰り返しだ。


私の思考が、私の行動が、私の生き方が、それがまちがいであるならば、天はしかるべき時にちゃんと私を転ばせてくれる。

愛なのか怖れなのか、自我の声じゃないのかとか。
その選択をあれこれ思い悩んでも、結局のところ私には本当のところはわからない。
それは誰にもわからない。

ならばただ淡々と、今、自分の信じる道を進んでいけばいい。
どっちにしろ、今の自分に出来ることしか出来ないのだ。
それが誤りであるならば、その誤りは必ず正される。
きちんと私は転ばされるだろう。

それは怖れや不安では無く、転ばされることは深く大きな愛情ゆえのことだという信頼。

天に対する信頼。
この世界に対する信頼。
自分自身に対する信頼。

それはすべて同じこと。

どんな誤りも必ず正される。
正してくれる存在がいる。
つまりそもそも、誤りなんかない。
全てが必要な経験だから、起きているだけ。

どれだけ私たちは受け入れられ、愛されている存在であるのか。
いつのまにか、呼吸をするように当然のこととして受け入れていたんだ。
こんなふうに、誤りは正されていくんだね...。





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この世界を信頼する。
そんなことをいっしょに話してみませんか。

対話セッションのご案内
しばらく前に「少し外へと」という記事を書いたが、セッションを始めるということを決めたら、この場所に書くことが、なんだかうまく出来なくなった。

セッションについて説明しようという気持ちは、そこに「他者」が入ってくる。
それまでは、誰かが読んでくれているだろうけれど、それを第一義に考えていなかった。

セッションのことを書くということは、それを届けたい・読んで欲しい誰かがいるということ。
それが、今までの「この場」では難しかった。
それは、単なる自分の感覚でしかなく、読む方にはあまり関係は無いのかもしれない。
でも、その違和感は自分では大きかったので、もうひとつの別のブログを作った。
それは「お仕事用ブログ」というやつになるのだろう。
その言葉は好きになれないけれど、説明するとそういうことになるのだろう。


やってみなければ、わからないことがある。


しばらくやってみて、わかった。

私にとって、この場は、モノローグ(独白)。
自分に向かって、ひとりで語っている場。
そこに「他者」への意識は薄い。


一方、もうひとつのブログは、ダイアローグ(対話)。
届けたい誰かに向かって語りかける場。
読んでくれる人ではなく、届けたい「他者」を意識した場。


今まで、内に内に向かっていた私が、外へと向かっていく。

今までの思索(大げさな言い方だけれど)
その成果(これまた大げさな言い方!)
それを外に出したくなったのだろう。(大げさすぎる?!)

今まで自分の中だけで完結させてきたこと。
それをこれからは、世界に結んでいく。
今まで、どこか繋がりを避けていたのかもしれない。
つなることを恐れていたのかもしれない。


自分の提供するセッションを、『対話セッション』 と名付けた。

対話するということは、向き合うということ。
今までずっと、自分と向き合ってきた。
これからは、もっとこの世界と向き合いたい。

これまで世界はいつも、薄い幕一枚の向こう、
自分とは少し離れたところにあるような感覚があった。

世界に自分を溶け込ませていく。
世界につながるという明確な「意図」を持つ。

怖れは捨てて、つながりたい。

今、そう思う。





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私はあなたとつながりたい。

あなたと出会いたい。








(神さまに)試されてる。

よく、そんな言い方をする。
私も、そう思いかけるときもある。

でも、そういうときはいつも

いや、神さまは試さない。
試されたと勝手に自分が思っているだけ。
神さまはわざわざ私を試したりなんかしない。

と、自分に言い聞かせる。

だって、この世界は自分が創り出したもの。
自分が見たいように見ているだけ。
試されているのではなく、勝手に自分が試してみているだけ。

「お試し?」って思うのは、自分の軸がぶれかけたサイン。
自分に自信が無くなったときのサイン。

私はそう受け取っている。


同じことかもしれないけれど、「神さまに試されてる」なんて外にある何かのせいにはしたくない。

自分がどう世界を見ようとしているのかの確認作業。




自分自身への信頼。

それは自分が見ている世界への信頼。

私はこの世界を、強く美しいものとして見たい。

そう見させて欲しいという願いは、神さまの願いと一緒。


信じることは祈ること。

祈ることは信じること。

今日も祈り続ける。





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あなたの見たい世界はどんな世界ですか?
私に聞かせてください。



今日、この方のこんなブログの記事を読んで、朝から(って、結構昼近くだけど(^^ゞ)、
なんだかもうすごく嬉しくなった。
誰かが自分の本当の気持ちに気がついて幸せになっていく。
それに触れさせてもらうと、こんなに嬉しいんだなぁ。

私の幸せの形とはまったく違うけれど、その人にとっての一番。
それがいちばん。


時々、スーパーで買い物をして家に帰る途中、
特に夕ぐれどきなんかに、泣きそうになるときがある。

ああ、私はなんて自由で幸せなんだろう。
好きなときに、好きなものを食べて、好きなように生きて。
何ものにも縛られない。
今はこんなに自由で自由で。
本当に幸せすぎて、泣きそうになる。

自由で幸せ。


そんなことを考えていたら、とつぜん、気がついた。


ワタシ、もっと幸せになれる!
幸せになってもいいんだ~。



自由でいるためには、ひとりでいなければならない、って思ってた。

パートナーがいると自由が阻まれる。


私にとって、パートナーは「オプション」だった。
パートナーがいなければ幸せになれない、とは思っていない。
現に今、十分、幸せ。

でも、パートナーがいると幸せのじゃまになる、って思ってた(爆)
私の自由が阻まれる、
私は自由でいられなくなる、と。

確かにプラスアルファの幸せはやってくる。
でも、そのために本体の幸せがちょっと減るんじゃないかと。
こんなに完璧な幸せに影が射すんじゃないかと。
だとしたら、トータルで考えて、そのオプションは特に要りません。
そう思っていました。

ははは...(-_-;)

これ、結婚生活のダメージですね。
こんなふうに残ってた。

パートナーの有無で私の幸せは左右されない、と思ってた。
でも、うそだった。
パートナーがいると、私の幸せに影響が出る。
いる方が幸せじゃなくなるって、盲点だった(@_@;)

パートナーの有無で私の幸せは左右されないっていうのは、
いてもいなくても、そもそも私は幸せ。
いなくても幸せ、だけじゃなくて、
いても幸せ、ってことだよね。当たり前(^_^;)

ならば、そのオプション、もうつけてもいいかも。

オプションであることには変わりないけれど、かたくなに拒まなくても、付けときましょうかって言われたら、つけといてもいい(笑)
積極的に「つけてちょうだい!」という感じではないけれど。



幸せになることに、どこかで制限をかけていた。
これだけ幸せだから、もう大丈夫もう充分、って。

貪欲になることってカッコ悪いっていう、私の根強い思い込み。
こんなところに、こんなふうに、まだまだあるんだなぁ。

これ以上、望んじゃいけない。
そんなに欲しがったら、バチが当たります、みたいな。

これって、貪欲、なんだろうか。
「貪欲」なんて名付けるから、イケナイ気持ちになってしまうのかも。
いずれにせよ、これ、もういらない。

もっと幸せになること、自分に許可します。

ああ、もうそんな、おりこうさんに頑張らなくても、
多分もう、もっと幸せになっても大丈夫な私になったんだろう。

本当に終わった。
私の「女性性の癒し」、別名、結婚生活振り返りシリーズ(~_~;)

ゴミ出し手伝ってるよね?ってにやりとされたのは、こんなところにたどり着くためだったのか。




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人生の片づけ祭り、人手は足りていますか?
こんまりさんって、あれ、ある意味エネルギーワークでしょー(^^ゞ
ゴミ出し、お手伝いします。

1年前の今日、会社を辞める、と決めた。

辞めたいという気持ちはあったけれど、まさか辞めるとは思ってもいなかった。
自分が辞められるとは思ってもいなかった。
会社を辞めてどうやって生きていくのか、不安を通り越して、ありえない選択だった。

でも、心が決まったら、すべてはすんなりと流れていった。




2年半ぐらい前に、「5年後の自分」を考える機会があった。
いろいろ考えて考えて考えた末に、自分の中から出てきたのは、なんと

働きたくない

だった。

仕事が忙しくて忙しくて疲れ切っていたからかもしれない。
ギリシア時代の貴族のように、公衆浴場で一日中哲学やらなんやらを議論したり思索したりしていたい。
そう思った。それが私の理想だった。

驚いたことに、その想いもかなってしまった。
この1年、まったく働かなかった。
願いは本当にかなうものです...。




私が「働きたくない」と思うのは、「働く=競争」みたいなイメージだからだろう。

他人よりも、もっともっと。
より多く、より先に。

そういう椅子取りゲームみたいな、有限のものを奪い合うような、
そういう価値観とはもうサヨナラしたかったのだ。
そういう意味での「働く」は、もうやりたくない。

何かを得るためには、何かを犠牲にしなくてはならない。
私が得るということは、誰かが得られないということ。

そういう価値観の中で生きるのは、もう限界だった。


食べるために働いてきた。
そう思っていたけれど、本当にそうだったんだろうか。
既存の価値観に合わせて、競争の中で無理に頑張っていたような気もする。
自分自身も、「その価値観」を強化することに加担していたのではないかとも思う。


会社を辞めてしばらくしたころ、ふと思った。

もしも今、宝くじ3億円が当たったとしても、私の生活はそんなに変わらないな。

だからもう今は、宝くじは買わない。
会社員のころは、宝くじが当たったら会社を辞められる、と思ってた。
後はもうとりあえず安泰。なんとかなる、と。

でも、宝くじが当たらなくてもなんとかなった。
この先はどうなるかわからないけれど、とりあえず今この瞬間はなんの問題も無い。
3億円あろうがなかろうが、今この瞬間の幸せは変わらない。


「足るを知る」ということは、「もうすでに十分あるんだよ」と知っているってことだと、しみじみと思う。


これからは、本当の意味で、食べるために働きたい。
シンプルに、誰かの価値観に踊らされずに。
自分を生きるために、自分を生かすために、働きたい。
働くことが、生きることとイコールになるような生き方。
そんな贅沢を、そんな幸運を、そんな豊かさを、私は受け取りたい。



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オープンします。
セッションのご案内


βバージョンの間、セッションを受けてくださった方々、本当にどうもありがとうございました。
たくさんのものを受け取らせていただきました。
また、いろいろな形で励ましてくださったり、アドバイスしてくださった方々、ありがとうございました。
皆様のおかげで、本格オープンすることが出来ました。
助けてくださって、本当に本当に感謝しています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。