歴史修正主義、極右とは何か?
東京都知事選で61万票を獲得した田母神俊雄氏と衆議院議員の西村慎吾氏が、保守新党を立ち上げた。旧太陽の党を引き継いだようで、狙いは「自民党の右に柱を立てる」そうである。
米英の大手マスコミからは、安倍総理でさえも「極右」、「歴史修正主義者」とレッテルを貼られるが、この保守新党も同様のレッテルを貼られることになるだろう。
批判される側の共通点は、東京裁判史観の見直しと、自主憲法の制定などを掲げる点である。東京裁判史観とは、先の大戦が日本の一貫した侵略戦争で起こり、もっとも残虐な行為をしたのは南京大虐殺を行なった日本軍であるとする歴史観である。
つまり「敗者=侵略者=加害者」というレッテル貼りで、これを見直すことは「歴史修正主義」であると批判する。
私はこれまでメルマガを書きながら、日本の戦争に至る近現代史を調べなおしてきた。その中で明らかになったことは、第1次大戦後、中国に勢力を拡大した日本を見て、特にイギリスは恐怖を感じた。
しかし、当時は「日英同盟」が健在であったので、イギリスは表に出ず、アメリカや宣教師を使って、中国で「反日運動」を展開し出した。1919年が最初で、反日運動は子どもたちの教科書にも及び、日本製品ボイコット運動など、お金を払って反日運動を誘導している。そのことは、GHQによる焚書本を調べている西尾幹二氏の調査により明らかである。
さらに1927年頃からの蔣介石軍の北伐の過程で、排英・排日の暴動が何度か起こった。漢口・九江イギリス租界占領事件、英国公使館襲撃などでイギリス人が殺されるなどしたイギリスは、日本とアメリカに反撃の共同行動を依頼した。アメリカは即座に応じて蔣介石軍に対峙したが、日本の幣原喜重郎外相は動かなかった。それだけでなく「支那の独立性を尊重する」として、支那をかばったのである。当時、優柔不断と批判された「幣原外交」である。
この幣原外交が最初の別れ目だった。イギリスは、「日本は支那とつるみ、支那の市場を独占する気か」と怒り、逆に蒋介石軍に関税優遇措置や経済支援をし出したのである。そうして、「中国から日本を締め出し、いずれ蔣介石軍と戦わせる」ことを目論んだ。その結果、ばらまかれたのが「田中上奏文」である。
田中上奏文とは、日本の田中元首相が天皇に上奏したとするもので、「満州を征服できれば支那を征服できる。支那を征服できれば世界を征服できる」という内容である。
日本が満州事変を起こした後、国際連盟で中国に非難されたが、その時、引用されて有名になった。東京裁判でも、証拠採用はされなかったが、裁判官が採用した「満州事変から日本の一貫した侵略計画」という断罪は、田中上奏文の論理と一致する。
この文書は、これまでソ連が偽造したのではないかとされていたが、そうではない。当時のインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボーズの観察によれば、イギリスはインドや中国で、「日本は世界征服の野望を持つ」、「日本は世界の敵である」と執拗に説きまわっていたという(田中秀雄著『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』より)。
まさに田中上奏文を拡大した内容である。
この話は長くなるので今回はここまでとするが、結局、先の戦争に至る過程を掘り起こされて困るのは、イギリス、アメリカ、ソ連、中国共産党である。イギリスは、蔣介石軍を支援することで日本と戦わせようとし、アメリカもすぐに呼応した。ソ連と中共も蔣介石軍と日本軍を戦わせようと何度も挑発し、その後の内戦を計画した。そのための策略は本数冊分にもなる。まさにABCS包囲網であった。
彼ら英米ソ中と、その大手マスコミは、歴史の真実を明らかにされては困るから、東京裁判史観を見直し、自主憲法を制定しようとする人物には「歴史修正主義」、「極右」とレッテルを貼る。しかし、いつまでも「歴史隠ぺい主義・ねつ造主義」が勝つとは限らないのが、また歴史である。
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