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尾張エクセルの「日々精進ブログ」

木曽の清流に映え、心触れ合う躍動都市;愛知県一宮市に活動拠点を置く、尾張エクセルです。保守政権を応援しつつ、経済・社会・軍事防衛まで、地域や国内、海外の気になる出来事や話題を、独断と偏見溢れる一味違った目線でブログ提供します。

小生が愛読する日経新聞7月31日付夕刊くらしナビ欄コラム「がん社会を診る」に
掲載された東京大学特任教授中川恵一氏の「カッコいい生き方と健康」に、おおいに
興味をひかれたので、一部加筆の上で紹介する。
私の実家は「中川酸素」という小さな会社を営んでいた。家族経営に近く、父が3代
目の社長、母は経理を担当していた。
社員数20人ほどで、会社は東京都中央区月島にあった。中川家一家4人(両親と私,
3歳下の弟)は、会社の建物の2階で暮らしていた。
「酸素屋」とはいっても、溶接や医療向けの販売はごく一部であり、築地市場の巨大
な生け簀(いけす)で、高級魚を生かすために使う酸素を一手に扱っていた。独占的
ニッチ・ビジネスであり、それなりに儲かっていたようだが、私が小学生のころから
築地市場の移転が取り沙汰されていた。当時の候補地は豊洲ではなく、大井だったと
記憶している。
月島と築地は 目と鼻の先で、現場のトラブルなどにも迅速に対応できた。しかし、魚
市場が大井に移転すれば地の利を失う。そもそも 近代的な設備を備えた新市場ができ
れば、中川酸素のような小さな企業が入り込むニッチはなくなるはずである。
結局、両親は会社の売却を決断した。私が 酸素屋の社長ではなく、がん治療の専門医
になったのは市場の移転問題が背景にあるといえよう。
幼稚園は築地本願寺付属和光童園幼稚園で、「南無阿弥陀仏」を唱えていた。小学校
からは 九段の暁星でカトリック教育を受けた。6歳にして「改宗」をしたわけだが、
阿弥陀仏は一神教的色彩があるせいか、あまり違和感を覚えなかったのである。
浄土真宗の浄土や往生,キリストの受難や復活という教えは、必然的に「生と死」を
考えさせる。がん医療の道に進んだ背景には幼少期の宗教体験があったとも思う。
子供の頃はよく、会社のトラックに乗せられて 市場に行ったものだった。仕事が終わ
ると、そのまま同じメンバーで居酒屋へ繰り出し、たばこを吸いながら大酒を飲むのが
お決まりのパターンであった。
健康的生活など 「男らしくない」,「カッコ悪い」と口を揃えていたのを覚えている。
血圧が高いことや肝機能が悪いことなど、むしろ自慢話になっていた。
病気の早期発見どころではなかったから、がんや脳卒中で亡くなった社員は1人や2人
ではなかったのだ。父には弟が3人いたが、うち2人が「がん」に罹患(りかん)して
1人が若くして亡くなっている。
当時、定年は55歳であったが、今や70歳になろうとしている。「健康を意識して、
がんを避けながら、長く働ける体を保つ」こと。これは自分と家族を大切にして、社会
に貢献するステキな生き方。最高に「カッコいい」と私は思う。
カマラ・ハリス副大統領は、アメリカの政治家として新しい時代を象徴する存在である。
彼女は「女性初、黒人初、インド系アメリカ人初の副大統領」として歴史的な地位に立つ。
しかし、彼女の評判は必ずしも芳しくはない。
ハリス副大統領は、バイデン政権発足から3年半が経過しているが、政権内で与えられて
いる担当政策は複雑であり、具体的な成果にはつながっていないままだ。彼女の影響力は、
十分に発揮されていなかったと言えるだろう。しかし、民主党は バイデン氏が大統領選挙
戦からの撤退表明後に、どうやら正式な民主党代表候補に祭り上げられたようである。
一方、ハリス副大統領は「不法移民問題など政権の難題を特命的に担当してきたが、期待
されたほどの実績を上げていなかった」との評価もある。歴代の副大統領は長い政治経験
を持っており、議会対策を担当することが多い中で、ハリス氏は、上院議員を1期務めた
だけであり、「経験不足」との評判がついている。
さらに、彼女が大統領に次ぐ地位に登り詰めた初めての女性であることや、インドとジャ
マイカの移民家庭出身なことも、一部の有権者に違和感を与えている可能性があるのだ…。
 
<〇良い評判>
①歴史的な存在;初の女性副大統領、アフリカ系およびインド系アメリカ人
②多様性の象徴;多様なバックグラウンドを持ち、アメリカの多様性を体現
③強力なリーダーシップ;カリフォルニア州司法長官や連邦上院議員としての経験
④社会正義の擁護者;単一医療保険制度や大麻の合法化、不法移民の市民権への道など、
 社会正義に関する政策を支持
⑤外交経験;副大統領として、欧州や中南米、東南アジアなどへの外遊を通して外交経験
⑥バイデン政権のパートナー;バイデン政権の副官として、インフレ削減法やコロナ観戦
 症救済資金を含む政策の可決に貢献
⑦若い世代へのアピール力;次世代のリーダーとしての期待・

<●悪い評判>
①メディア対応の不適さ;記者会見やインタビューでの攻撃的な態度で、「冷淡や傲慢」と
 いうネガティブなイメージ
②移民問題での失言;初外遊でのグアテマラ訪問中に、「アメリカ国境に来ないで」とか、
 「来ても追い返されるだけ」と不愛想に発言して批判を浴びた
③管理能力への疑問;副大統領室の混乱や幹部スタッフの辞職が続出し、2021年には
 政策チーム幹部が一斉に辞職
④民主党内からの批判;特に左派からの支持が低く、政策上の厳しい踏み絵を踏まされる
⑤不人気の高さ;世論調査での支持率が低く、不支持率が高い
⑥女性・少数派への偏見;初の女性副大統領、アフリカ系およびインド系アメリカ人という
 歴的な存在だが、その多様性が一部有権者からの偏見や差別の対象に
⑦副大統領の特性・大統領職の継承、上院議長の兼務、特使としての外交活動、特定の政策
 課題の主導~いずれも大きな成果なし
 
バイデン大統領が選挙戦からの撤退を表明したことを受けて、ハリス副大統領は7月21日
に声明を出した。
この中で「私は、アメリカ国民を代表し、バイデン氏の大統領としての並外れた指導力と、
数十年にわたる我々の国に対する貢献に感謝する。バイデン氏が成し遂げた偉大な功績は、
アメリカの現代史において比類のないもので、『2期を務めた、他の多くの大統領の功績を
凌ぐ』ものだ」として、バイデン氏を称えた。
その上で、バイデン氏が民主党の大統領候補としてハリス氏を支持したことについて「バイ
デン大統領の支持を得られたことを光栄に思う。この指名を勝ち取るつもりだ…」として、
党の候補者の指名獲得に意欲を示した。
そして「わたしは全力を尽くして民主党を、そしてわれわれの国を結束させ、トランプ氏を
打ち負かす」としている。
誰が次のアメリカ大統領がなるかは、日本の政治、外交、経済に与える影響も大きく、日本
の指導者ばかりでなくて小生も高い関心を払わざるを得ない問題であろう。
そうした中で、「もしトラ」という言葉が流行って久しいが、1期目と同じように国家的な
エゴとでも言うべき「アメリカ第一主義」を掲げて、「関税の大幅引き上げや反・カーボン
ニュートラル政策」を公約する一方で、具体策を言わずに、ロシアのウクライナ侵略やイス
ラエルのガザ地区への攻撃を「電話1本で終わらせて見せる」などと広言して憚らない トラ
ンプ氏が再び米国大統領の座に就くことになれば、世界と日本が大変な混乱に巻き込まれる
ことはおおいに危惧すべき点である。
これに対して、選挙戦からの撤退を表明したバイデン氏に代わって、民主党の大統領候補と
して急遽、トランプ氏と対峙することになったハリス氏が、「いったいどれぐらい信頼でき
る人物なのか?」という点も、おおいに気になるところである。
尤も、マスコミはここ数日間に、ハリス氏を持ち上げた報道ばかりを繰り返しているところ
には、小生は胡散臭い匂いを感じるのであるが…。
パリ・オリンピックの馬術競技は7月29日に、ベルサイユ宮殿で総合馬術団体の
障害飛越競技が行われ、日本が銅メダルを獲得した。愛称「初老ジャパン」のメン
バーが快挙を達成した。
表彰式では超豪華なメダルのプレゼンター「英国のアン王女」だった。サングラス
をかけて、黒いジャケット姿。日本の選手たちと握手し、首に銅メダルをかけた。
馬術競技の日本勢のオリンピックメダル獲得は、「1932年ロサンゼルス大会」
で障害飛越競技で「西竹一」が金メダルを獲得して以来92年ぶりである。
SNS上では「バロン西以来の快挙」と盛り上がっている。だが、マスコミでの
取り上げは少ないようであり、小生は些か不満でもある。

 
この金メダルは、パリオリンピックの総合馬術団体で、日本代表が銅メダルを獲得
するまで、馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルであり、金メダルとしては現在
もなお唯一の獲得例である。
これまでの馬術競技で日本唯一のメダリストだった西竹一は、「バロン西」として
知られる。1902年、東京生まれの西は 学習院初等科から陸軍幼年学校に入り、
陸軍士官学校に入学。2027年に騎兵中尉に進級した
ロスオリンピックでは、約10万人の観衆の前に「ウラヌス号」と登場して、設定
された19の障害を飛越した。地元の米国選手を破って、金メダルを獲得した。

「バロン」とは、西が「男爵位」を持つことからの呼称である。
ロス五輪後は騎兵学校の教官を務め、1936年のベルリンオリンピック大会にも
出場した。「ウラヌス」と臨んだ障害飛越競技では、競技中に落馬し棄権している。
この意外な落馬には、主催国ドイツの選手に金メダルを譲るために西が計った便宜
ではなかったかという憶測が当時から流れていた。
西竹一は、帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいたが、後に「戦車兵」に転科して、
1943(昭和18)年8月、陸軍中佐に昇進、また1944(昭和19)年3月
には「戦車第26連隊」の連隊長を拝命し、満州国北部(北満)防衛の任に就いた。
戦車第26連隊は、当初は「サイパンの戦い」に参戦する予定であったが、現地の
守備隊が早々と玉砕したため守備隊が再編成され、1944(昭和19)年6月に
硫黄島への動員が下令された。
映画『硫黄島からの手紙』では、同じ騎兵出身の「栗林忠道陸軍中将(⇒陸軍大将。
小笠原方面陸海軍最高指揮官たる小笠原兵団長)」と意気投合したとなっているが、
実際には確執もあったという。
大東亜戦争末期の激戦地となった硫黄島の戦いにおいて、戦車第26連隊長として
1945(昭和20)年3月に戦死した。
「ウラヌス号の鬣(たてがみ)を懐に忍ばせていた」ともいわれている。

クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』でも、西竹一の姿が描かれ
ている。小生も何度も観たが、素晴らしい映画であった。
パリ市内の中心部を流れるセーヌ川は、ヨーロッパで最も有名な川の一つとして観光
スポットにもである一方で、訪れた人をガッカリさせるほど「汚い」ことでも有名だ。
日本で「汚い川の代表」として例にあげられることもある、「大阪;道頓堀川の4倍
もの大腸菌が検出された」との報道もあり、セーヌ川は100年前に開催された前回
のオリンピック開催前の1923年より、水質汚染による健康被害を理由にして遊泳
が禁止されている。
パリ市は、今回オリンピックを誘致するにあたって、14億€(約2400億円)を
投入して浄化作戦を決行したが、オリンピック開催直前の6月に28回の水質調査を
したところ、競技実施の基準を満たしたのは3回だけだったという。
パリ市の下水道は、雨と生活排水をいっしょに流す「合流式」である。これは、東京
区部と同じだ。「合流式」とは、「生活排水と雨水を1本の下水管に合流させ、下水
処理施設で浄化した後、河川に流す」という方式である。
「合流式」のために、豪雨などで一度に大量の雨が下水管に入ると、生活排水がマン
ホールなどから溢れて、下水処理場に到着する前に 生活環境中に出てしまうことが
ある。また、下水処理場に到着しても水量が多くて処理能力を超えると、汚水が処理
されないまま川へ流れることもある。
そのために。豪雨時には未処理の生活排水がセーヌ川に流れ込み、水質は悪化した。
「パリ・オリンピック」開催前から問題視されていたセーヌ川の水質問題で、遂に
実害が発生した。
7月28日、トライアスロン競技の「スイム」練習が予定されていたが、水質悪化
を理由にして、「中止」と発表された。
7月17日には、65歳のイダルゴ市長が自ら川で泳ぎ、「水質が改善したことを
アピールしていた」が、映像越しでもセーヌ川は濁って汚れているのは明らかで、
とても人が泳げるような場所には小生には見えなかった。
去る7月27日未明(現地時間26日)には、セーヌ川を舞台に開会式が行われた
が、このときに初めて「セーヌ川の汚染の実情」を知ったという人も多いようで、
TV視聴者からはドン引きの声もあがっていた由。
 
式の中では、このセーヌ川から噴水が吹き上げられており、その水飛沫が選手に
かかってしまうことが心配されていたが、「トライアスロン競技」にいたっては、
その川を1.5kmも泳がなければならない。
今回のトライアスロン競技のルートは、「浮桟橋(ポンツーン)」から始まって、
セーヌ川や、シャンゼリゼ通り、モンテーニュ通りなどを通過し、ゴールである
アレクサンドルⅢ世橋を目指すという構成だ。
確かに、TVで見ている分には観光気分で楽しめていいが、パリのPRも兼ねて
セーヌ川の汚水の中を泳がねばならない選手は、たまったものではないだろう。
SNSでも、「利権がチラチラ見えて、選手ファーストとは程遠い」などの呆れ
声もあがっている。
なお、競技本番までに水質が基準値を満たさない場合は、日程を数日ずらしての
開催、それでも難しい場合は、「スイム」を取りやめて、陸上競技と自転車競技
のみの「デュアスロン」に切り替えると発表されていたが…。
4年に1度の晴れ舞台のオリンピックだからこそ、「選手ファースト」の運営を
のぞみたいものである。
日経ビジネス7月15日号の特集は「休めニッポン~疲れた会社は稼げない」である。
この特集は、小生にはとても共感したので、今回のブログで紹介する。
有休取得率は主要先進国でワースト。長時間労働者の割合が欧米より高いなど「休ま
ない国・日本」。
しかし、社員をいかにうまく休ませるかは、生産性向上や働き手確保のための王道で
あり、会社経営にとって最重要課題の一つであるはずだ。
疲れた社員ばかりでは、革新的なアイデアが出ないし、本来の力も発揮できない。
先進企業に学んで、もっと戦略的に休もう、ニッポン。
【PROLOGUE】時に限界を超える仕事をするため
 ~「休みを取らないのは罪悪」;ファストリ・柳井氏の転向
かつては、無休で猛烈に働いていた経営者も、年3回の長期休暇を欠かさなくなった。
完全に仕事から離れる時間がアイデアを生む。仕事と向き合うための休みの効用を説く。
「昔は休みを取ることが罪悪と捉えられたが、今は逆。休まない方が罪悪だ」
「本当に一生懸命やったら、だらだらと仕事ができるわけない」
「(短期的に)限度を超えた仕事をする場合があれば、1週間以上休むことがあって、
初めて正常に戻れる」、「日本人はもっと長期の休みを取るべきだ」…。
 
【PART1】日本の有休取得率は主要国で最下位
 ~休めば上がる生産性 問われる経営能力
「24時間戦えますか」。バブル期を象徴するCMのセリフは、口が裂けても言えない。
「働き方改革」を引き合いに出すまでもなく、「休むことは生産性向上」そのものだ。
休ませられるかは経営者の能力。
「しっかり社員、休ませてますか」
「なぜこの部署は、有休取得日数が計画通りにいってないんだ」。
工作機械最大手のDMG森精機では、毎月の経営会議で、事業幹部は 受注台数や粗利益
などと並び、部署ごとの有休取得日数を俎上に上げる。達成度合いが問われて、いわば
「ノルマ」と同じ扱いだ。森雅彦社長は他の経営指標同様に目を光らせる。
 
【PART2】業務見直しから奨励金支給まで
 ~休みやすい5社、「後ろめたさ」を排除
5連休取得で5万円支給、16連休が前提、2年間の学びに給与全額支給…。
社員が充電することの重要性に気づいた企業は、ユニークな策を繰り出す。
そこには生き生きと働く人たちの笑顔。会社とウィンウィンの関係が築かれていた。
① CASE 1「クボタ」;労組とメニュー協議、毎月面談も
② CASE 2「オリックス」;5連休を取得すれば5万円支給
③CASE 3「ジャパネットホールディングス」;16連休推奨、電話は上司に転送
④CASE 4「ポーラ・オルビスホールディングス」;「学び」に最大2年間、減給なし
⑤CASE 5「つるみ観光」;社員を「多能化」、残業もゼロに
 
【PART3】社員の「黄信号」を見逃すな
 ~使える「休ませテック」 隠れた不調を発見
副業解禁や在宅勤務の定着で、心身不調の社員を把握することが困難になった。そんな
状況をテクノロジーで打開しようとするサービスが相次ぎ登場している。不調を検知し
早期に休ませる仕組みにより、生産性や定着率の向上を期待できる。
 
【EPILOGUE】「オリンピック選手」と「企業戦士」の共通点 
踏み出せば世界が変わる~まずは「第一歩」の覚悟を。
バスケ女子日本代表と「日本一幸せな会社」の新社長…。
それぞれが覚悟を持って休みと向き合う。休み方を変えれば見える世界が変わる。
そこから新しい自分を見いだすことができるはずだ。
 
多くの日本企業が、人材を「資本」として捉え、価値を最大限に引き出して中長期的な
企業価値向上につなげる「人的資本経営」を掲げる。
リスキリング(学び直し)なども 手段としては浮上するが、人材という資本を 健全な
状態に保つことが先決だ。
その第一歩として思い切った「休ませ方改革」に踏み出してはどうか。
1日の最高気温が35℃以上の日を「猛暑日」と呼ぶ。
東京都(千代田区)及び名古屋市における「猛暑日」について、1970年代~
2010年代(10年間毎の推移)と、2020年~2023年の猛暑日(月別
日数)を掲載する。
 
<東京都の猛暑日>
①2020年代(2020年~2023年)及び、②1970年以降に記録した
猛暑日(最高気温が35℃以上)について年代別の日数を掲載する。
各年;6月~9月である。観測開始以降で 5月と10月に猛暑日の記録はない。
また、東京都の観測地点は千代田区である。
東京(千代田区)の猛暑日は、2010年代から急増している。
 
<名古屋市の猛暑日>
③2020年代(2020年~2023年)及び、④1970年以降に記録した
猛暑日(最高気温が35℃以上)について年代別の日数を掲載する。
各年;6月~9月である。観測開始以降で 5月と10月に猛暑日の記録はない。
名古屋市の猛暑日は1990年代から急増している。
また、名古屋市の猛暑日の日数は、東京都に比べてはるかに多いのだ。つまり、
「名古屋の夏は 東京よりも暑い」ことは間違いないだろう。

 
「子供のころより暑い」とは、ある程度以上の年齢の人がよく言うことであろう。
確かに、上のグラフのように、「猛暑日」の年間日数は目に見えて増えている。
過去のデータでこれだけの違いがあれば「東京や名古屋の夏は暑くなっている」と
言わざるを得ない。たとえ地球温暖化否定派でも、この事実は認めざるを得まい。
「猛暑日」は、東京都、名古屋市以外の大都市や地方都市を問わずに増加している。
しかし、海岸地域の もともと殆んど猛暑日がない地域では、平均気温は 他の都市
と同じ程度に上昇しているにもかかわらず、その増加(ないしは新規発生)は見ら
れないようである。
「真夏日」も特に増えてはいないのであって、こうした海岸地域では、「子供の頃
よりも暑く」はなっていないのである。
もしも 「CO2が主たる原因で地球温暖化が起こっている」のであれば、こうした
現象の説明がつかない。
それなら、都市部だろうと海洋域だろうと 真夏の最高気温は同様に上昇するはずだ。
 
小生は「猛暑日激増の主たる原因はCO2ではなくて、急速な都市化による ヒート
アイランド現象」であろうと思う。「キャノングローバル研究所」データによれば、
それは「ほぼ全てが、『廃熱』ではないか」ということになっている。
パリ・オリンピックが始まっている。連日の熱戦がTV番組やネットなどで報道さ
れており、船上パレードの雨の開会式に加えて、柔道や男子体操,水泳,スケボー,
フェンシングなどには注目をしている。
特に、熱戦が続く柔道や、大逆転で金メダルを獲得した男子体操競技には、大きな
感動をもって見守っている。

日本選手が活躍しているのを、闘病生活を続けている小生は夜中まで拝見しており、
金メダルを獲得して国旗「日の丸」が掲揚され、国歌「君が代」が流れると、小生
は ナショナリストになる。

1898(明治31)年にアテネから始まった近代オリンピックでは当初、スポーツ
だけでなく芸術競技もあった。日本が初参加した1912(明治45)年のストック
ホルム大会では、文学部門で「スポーツに寄せる詩」を書いた詩人;「ホーロット&
エッシェンバッハ」が金メダルに輝いた。
この時の出品作品はフランス語で「オド・オ・スポール(Ode au Sport、日本語で
『スポーツ賛歌』)」とされている。
「おおスポーツよ、神々の喜びよ、生命の本質よ」…詩はこう始まる。「おまえは、
人びとの幸福なつながりを後押しするとともに、人びとを団結させ、一つの力に献身
させる」。これは「オリンピックの掲げた理想そのもの」である。それもそのはずで、
その詩人は近代オリンピックの創始者;「ピエール・ド・クーベルタン男爵」のペン・
ネームだったという。
さらには、クーベルタン男爵の考案・提唱によって「近代五種競技」が1912年の
ストックホルム・オリンピックから競技種目に採用された。これは、1人の選手が、
1日の間に「フェンシング,水泳,馬術,レーザーラン(射撃+ラン)」というそれ
ぞれに全く異質な5種類の競技に挑戦する、万能性を競う複合競技である。
クーベルタン男爵が「IOC」会長を退く花道として、故郷のパリで大会が開かれた
のは1924(大正14)年。以来100年ぶりに点された聖火である。「愛の讃歌」
が流れる中、舞い上がった気球の炎を眺めながら、男爵が記した詩句を改めて思う。
クーベルタン男爵の名言を紹介する。
「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」
「オリンピックを復興し、世界中の若者たちに幸福と友好に満ちた出会いの場を提供
 しなければならないのです。みなさん、漕手たちを、走者たちを、そして剣士たち
 を海の向こうに送り出しましょう。彼らは平和の使者になるのです」
「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、
 最も大切なことである」
「”休戦”という考えもオリンピズムの本質的要素です。だからこそ、その周期は厳格
 に守られなければなりません。オリンピックは人間の春を祝い、世代の継承にたた
 える4年に1度の祭典なのです」
国連総会での「オリンピック休戦」決議をよそに、ウクライナや、パレスチナ自治区
ガザでは戦火が続いている。開会式直前にはフランスで「TGV(高速鉄道網)」が、
大がかりな破壊行為で大混乱した。肥大化する商業主義、次々に発覚する汚職や、ス
キャンダル…。「平和の祭典」は矛盾に満ち満ちている。
クーベルタン男爵自身、平和と友好を謳いつつ、女性選手参加を終生拒み続けるなど、
矛盾を抱えた人だったらしい。
理想を現実にするのはむずかしい。今ほど オリンピックの持つ意味を考えさせられる
ときはないだろう。
「二十四節気の大暑」を迎えて、このところ「毎日が最高気温が35℃以上の猛暑日」。
闘病生活中の小生は、冷房の効いた部屋でこの夏をやり過ごしている。
ただならぬ暑さの中で、我が一宮市では真夏の祭典~七夕まつりが終わって、パリ・オリ
ンピックも始まっており、7時間の時差を越えて、日本人選手の一喜一憂の結果も、毎日
伝えられており、寝不足気味の頭が重い。


そんなときに、月刊Hanada2024年9月野分号が届いた。

 
9月号は、「総力大特集 誰が日本を変えるのか!」である。
【総力大特集 誰が日本を変えるのか!】
【「ポスト岸田」私はこの人を推す】
馬場伸幸/乾正人/岩田清文/小川榮太郎/鈴木宗男/生田よしかつ
浜田聡/猫組長/亀井静香/有馬晴海/三浦小太郎/矢野将史/衛藤晟一
島田洋一/高須克弥/谷本真由美
◎石橋文登 【自民党総裁選深層レポート1】安倍晋三の遺志を継ぐのは誰か?
◎阿比留瑠比 石破茂は「いつも逃げる政治家」
◎池田良子 岸田総理と赤いネットワーク
◎徳本進之介 安倍総理の志を次の世代に
◎官僚覆面座談会 岸田総理には理念や信条がない
◎小笠原理恵 報道されない自衛隊員の声、防衛省大量処分に異論あり
◎浅川芳裕 小池百合子都知事、学歴詐称疑惑の決定的証拠
◎藤原かずえ 時代錯誤の蓮舫と「立憲共産党」
◎西牟田靖 国会議員が見た尖閣諸島のリアル
◎山上信吾×石平 日本の弱腰外交 三つの原因
 
【トランプ銃撃と米大統領選の核心】
堤堯×久保紘之 【蒟蒻問答】トランプ銃撃で勝負は決まった
 
【新しい保守主義と日本】
長谷川幸洋 “極右”政党が欧米で躍進する理由
大東亜戦争(太平洋戦争)が終焉に近づいた1945(昭和20)年7月に 一宮市は、
2回にわたる空襲を受けた。米国が 「終戦近くに 本土の各都市を無差別空襲した」と
いう事実を決して忘れてはならない。


先日から「第69回七夕祭り」が盛大に開催されており、本日は最終日である。だが、
一宮市が79年前のこの日に空襲されたことは、誰も言わないし、報道もしない…。

今回のブログは「一宮空襲」である。

1944(昭和19)年12月から、米軍によって 日本本土の大都市に対して激しい
空襲が行われるようになり、12月に一宮市でも戒警報が22回、空襲警報が11回
も発令されている。

一回目の空襲は7月13日午後8時頃。折からの雨をつき突如侵入したB29約20機
の編隊が、大量に焼夷弾を市内に投下した。空襲警報も発令されていない突然のことで、
一宮市民は防空訓練を考えるゆとりもなく郊外へと逃げた。だが、焼夷弾は 市街地では
なく、瀬部・赤見・佐千原・今伊勢地区に投下されて、付近一帯は火に包まれた由。
この空襲により二十数名の死者が出た。その大部分が、市街地の人々で焼夷弾の落下を
見て遮二無二走り出して、途中の路上で、あるいは藪の中へ逃げ込んで直撃弾を受けて
死亡した。他に瀬部・赤見の国民学校(小学校)の校舎の一部が焼失した。

 
二回目の空襲は、7月28日の夜だった。テニアン島のマリアナ基地;ハゴイ飛行場を
飛び立った戦略爆撃機B29;約260機が 、午後10時頃から一宮市上空に侵入し、
油脂焼夷弾の波状攻撃を集中。
B29の反復旋回攻撃に曝された一宮市街地は、午後10時半迄に 殆どが炎に包まれた。
さらに、攻撃は翌日;午前2時頃まで続き、
爆撃による火災は 3日3晩続いたという。

 
この二回の空襲により、被災戸数は全市(旧市部)の83%の10468戸、被災者は
全人口の71%;41027人にのぼった由。その内訳、死者は727人で、負傷者は
4187人。中でも一宮市北東部の大乗町,神明津町付近の住民に犠牲者が多かった由。
罹災面積は4.07k㎡にも及んで、市街地面積 約4.96k㎡の80%が灰燼に帰した。
主な被災建物は、一宮市民の心の支えであった真清田神社をはじめ、警察署,税務署,
商工会議所,尾張一宮駅,一宮中学校(現;一宮高校)や一宮高等女学校(商業高校)
及び一宮商業学校(南部中学校)の各中学校、第一・第二・第五国民学校(現;宮西・
貴船・向山小学校)、他に川崎航空機工場(現在のバロー、ケーヨーD2等)、特殊
軽合金工場、日本毛織(ニッケ)今伊勢工場など。 
「満州」に出征中であった小生の父親の実家は、「西本町(今の大宮)」にあったが
 敢え無く灰燼に帰した。
また、小生の母の実家は「新柳通(今の本町3丁目)」にあり、旧電報電話局の北側
にあったために、「強制疎開」と称して、事前に取り壊されていた。
小生の母は、一宮高女(高等女学校)の女学生であったが、勤労動員で川崎航空機工
場や、名古屋の日本碍子で工場勤務をしていた。


一宮市の空襲から数えて僅か18日後の8月15日に、日本はポツダム宣言の受諾に
より終戦を迎えた…。
「国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会」は7月27日、「佐渡島(さど)
の金山」の、世界文化遺産への登録を決めた。日本の文化遺産としては21件目であって、
自然遺産も合わせた世界遺産は26件となった。
ユネスコの諮問機関は去る6月、日本に対し登録内容の一部修正などを求める「情報照会」
を勧告していた。
政府や地元自治体は 明治以降の史跡が多い地区の除外といった要請を受け入れて、今回の
審査に臨み、世界遺産委員会ではこうした対応が評価された。
世界遺産委員会は、「世界の他の地域で採鉱などの機械化が進んだ時代に 高度な手工業を
継続したアジアにおける他に類を見ない事例」と評価した。
佐渡金山を巡っては委員国でもある韓国が「朝鮮半島出身者の強制労働があった」として、
登録に反対していた経緯がある。
歴史的経緯から、当初は韓国側が猛反発する一方で、安倍晋三元総理は 登録を強硬に主張
していた。政権基盤が弱い岸田文雄首相にとっては、最大限に神経を使う「安倍案件」の
一つだった。最終的には韓国も登録に賛成するなど「軟着陸」できた背景に何があったか。
日本側が、佐渡市内の博物館で 朝鮮半島出身者を含む鉱山の労働者に関する新たな展示を
始めることなどを決め、韓国側と合意に至って、7月27日の世界遺産委員会では、韓国
を含む全会一致で登録が決議された。
文化庁の資料によると、鉱山の開発は古代から世界各地で手工業によって行われ、大航海
時代を迎えた15〜16世紀は、欧州を中心に機械化が進んだ。鉱石の運搬や排水などに
機械を導入。化学薬品の使用も広がった。
一方で、佐渡金山は江戸幕府の下で本格的に開発が始まって、鎖国政策が敷かれるなかで
諸外国との交流を制限された結果、手工業の金生産システムが 19世紀半ばまで続いた。
江戸幕府は国内各地から技術者を集めて、生産技術の向上をはかった。
17世紀前半には世界の2割の金を日本が生産して、国内の半分を佐渡島で産出するなど、
国際的にも認知度が高かった由。純度は99.54%までに到達した。
 
小生が愛読する産経新聞の朝刊コラム【産経抄】から一部加筆のうえで引用して紹介する。
日本が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に推薦した新潟県の「佐渡島の
金山」の登録が、ようやく実現したようである。「朝鮮半島出身者の強制労働があった」
と 主張してきた韓国との間でほぼ合意できた為で それ自体は慶事だが、どこかすっきり
しない。
2015年の「長崎県の端島炭坑(通称・軍艦島)の世界文化遺産登録時」のことである。
韓国は日韓外相会談での合意を無視して世界遺産委員会の声明案に、日本が否定する強制
労働の文言を ひそかに2か所盛り込ませようとした。日本側の猛抗議で、韓国は声明案を
合意通りに修正したものの、危なかった。 
今回、韓国の外交当局者は合意の見通しとなった理由を韓国内で次のように説明している。
いわく、日本の植民地時代に「朝鮮半島出身者が強制労働させられた現場」であり、韓国
は「全体の歴史」が忠実に反映されなければならない…との立場を示した。日本がこれを
約束し、実質的な措置を取った…。
一方、日本政府は令和3年4月、朝鮮半島出身者が強制労働させられたかどうかに関する
答弁書を閣議で決定している。「募集、官斡旋(あっせん)および徴用による労務はいず
れも条約上の強制労働には該当しない」。これが政府の公式見解である。
韓国は強制労働させられたという思い込みに固執し、日本は強制労働ではないと断りつつ
も相手の立場を忖度する。かくて見る角度で色彩が変わる玉虫色の決着が繰り返される。
佐渡島の金山でも同様に、曖昧な着地点を探ったのか。
慰安婦問題が ああもこじれたのはなぜか。「どうか強制性を認めてくれ」という韓国の
強い要請を受け入れ、証拠もないのに河野洋平官房長官談話を作ったためである。この
貴重な教訓を生かしたい。