小生が愛読する日経新聞7月31日付夕刊くらしナビ欄コラム「がん社会を診る」に
掲載された東京大学特任教授中川恵一氏の「カッコいい生き方と健康」に、おおいに
興味をひかれたので、一部加筆の上で紹介する。 |
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私の実家は「中川酸素」という小さな会社を営んでいた。家族経営に近く、父が3代
目の社長、母は経理を担当していた。 |
社員数20人ほどで、会社は東京都中央区月島にあった。中川家一家4人(両親と私,
3歳下の弟)は、会社の建物の2階で暮らしていた。 |
「酸素屋」とはいっても、溶接や医療向けの販売はごく一部であり、築地市場の巨大
な生け簀(いけす)で、高級魚を生かすために使う酸素を一手に扱っていた。独占的
ニッチ・ビジネスであり、それなりに儲かっていたようだが、私が小学生のころから
築地市場の移転が取り沙汰されていた。当時の候補地は豊洲ではなく、大井だったと
記憶している。 |
月島と築地は 目と鼻の先で、現場のトラブルなどにも迅速に対応できた。しかし、魚
市場が大井に移転すれば地の利を失う。そもそも 近代的な設備を備えた新市場ができ
れば、中川酸素のような小さな企業が入り込むニッチはなくなるはずである。 |
結局、両親は会社の売却を決断した。私が 酸素屋の社長ではなく、がん治療の専門医
になったのは市場の移転問題が背景にあるといえよう。 |
幼稚園は築地本願寺付属和光童園幼稚園で、「南無阿弥陀仏」を唱えていた。小学校
からは 九段の暁星でカトリック教育を受けた。6歳にして「改宗」をしたわけだが、
阿弥陀仏は一神教的色彩があるせいか、あまり違和感を覚えなかったのである。 |
浄土真宗の浄土や往生,キリストの受難や復活という教えは、必然的に「生と死」を
考えさせる。がん医療の道に進んだ背景には幼少期の宗教体験があったとも思う。 |
子供の頃はよく、会社のトラックに乗せられて 市場に行ったものだった。仕事が終わ
ると、そのまま同じメンバーで居酒屋へ繰り出し、たばこを吸いながら大酒を飲むのが
お決まりのパターンであった。 |
健康的生活など 「男らしくない」,「カッコ悪い」と口を揃えていたのを覚えている。
血圧が高いことや肝機能が悪いことなど、むしろ自慢話になっていた。 |
病気の早期発見どころではなかったから、がんや脳卒中で亡くなった社員は1人や2人
ではなかったのだ。父には弟が3人いたが、うち2人が「がん」に罹患(りかん)して
1人が若くして亡くなっている。
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当時、定年は55歳であったが、今や70歳になろうとしている。「健康を意識して、
がんを避けながら、長く働ける体を保つ」こと。これは自分と家族を大切にして、社会
に貢献するステキな生き方。最高に「カッコいい」と私は思う。 |