小椋聡のブログ「古民家に住もう!」

小椋聡のブログ「古民家に住もう!」

主に、動物や昆虫などのイラストを描いて仕事をしています。イラストやデザインを通して、「いのちの大切さ」や「生きる楽しさ」を伝えることができる仕事をしたいと願っています。

沼などに生えている蒲という水性植物ですが、まるでフランクフルトがたくさん生えているような穂綿の姿は、大人にとっても魅力的でかわいい形に見えるので、子どもたちにとってはなおさらです。

穂綿の部分はフェルトのようにちょっと硬めの不思議な感触なのですが、これをコンクリートなどに叩きつけると形が崩れてモコモコと綿状に爆発します。これがおもしろくてあっちこっちで叩いて遊んでいたのですが、これが洗濯物に付くと大変なことになるそうで…母に怒られました(^_^;)

 

子供時代の遊びの中でもっとも楽しかった記憶があるのは、やはりザリガニ釣り(捕り)かなと思います。適当なヒモにスルメを結びつけておけば、餌を取られることなくいくらでも釣ることができますし、無くなっても、その場で釣れたザリガニの尻尾の皮を剥いて餌にすることもできます。

 

大物を目視で見つけると、腰まで沼にズブズブ浸かって捕獲しに行きました。それぐらい、大物のザリガニは子どもたちにとっては宝物のような存在でしたが、服はいつでも泥だらけで、そのまま手をズボンで拭くのでカピカピになって生臭い匂いがしていたのではないでしょうか…。洗濯をする親は大変だったでしょうね(^_^;)

 

 

おそらく、日本中どこの小学生も夢中になった牛乳キャップ集め。今の学校給食の牛乳キャップも紙が使われているのでしょうか?


基本的に、子供は人が持っていないものを集めるのが好きです。ウルトラマンの怪獣カードなどは、まさに子供心をくすぐる大人の戦略にまんまとハマっているわけです(大人でも、ポケモンGOにハマるぐらいですので)。学校給食に出てくる牛乳キャップは誰でも持っていて珍しくないので、銭湯に売っていたコーヒー牛乳やフルーツ味などのキャップを集め、さらに強者たちは乳製品を販売している会社に返信用封筒を同封して珍しいキャップを送ってもらったりしていました。


遊び方は学校によっても違うみたいですが、僕らはメンコ(ベッタンと言っていましたが)のようにしては遊ばず、両手をフイゴのような形にして叩き合わせて風を送って、裏返しになったら相手のキャップをもらえるという遊び方をしていました。ベッタンも同様ですが、弱い奴は取られてばっかり…。言い方を変えれば、せっかく集めたキャップを巻き上げられるわけですので、今思うとなかなかシビアな子供の遊びですね(^_^;)


完成版のペン入れ後のイラストからさかのぼって、最初のアイデア段階の適当なスケッチ、鉛筆でトレースした下描き、着色のみの状態…。実際に絵を描く作業というのは、小学校の教室がどうなっているのかや、牛乳キャップがどんなデザインだったのかというところから調べ直さないといけないので、結構大変な作業なのです。

僕らの遊び場だった公園のとなりに、なぜかたくさんエロ本が落ちている小高い丘があって、「エロ本山」と呼ばれていました。当時は、そういった本が落ちている場所がところどころにあったような気がします。何故でしょう!?(目立つので記憶に残っていただけなのかもしれませんが)。


その存在の前と後で世界の在り方を根底から大きく変えたのは、やはりインターネットだと思います。僕らの子供の頃には当然インターネットもパソコンもありませんでした。僕が初めてアップル・コンピュータを手に入れたのは大学生の頃で、ダイヤルアップのモデムでメールを送ったりし始めたのは、たぶん26、7歳のときだったのではないかと思います。パソコン通信などで特定のマニアはもっと早くから使っていたと思いますが、一般家庭にあったのは、せいぜい「書院」などのワープロぐらい。僕が27〜30歳頃の間に、家庭で使ういわゆるパソコンというものの性能とネット環境が恐ろしく整備され、ピーガ〜、ピロピロ〜と鳴って電話回線で接続し、通信費を気にしながら使っていたネット環境から、30代半ば頃までにはネットへの常時接続というのが当たり前になっていたように思います。


個人で写真を手に入れようと思っても、小学生当時はデジカメもありませんしカラーコピー機もありませんでしたので(モノクロコピーですら珍しかったので、学校のプリントはわら半紙にガリ版印刷でした)、写真=雑誌そのものを手に入れるか、生写真と言われる写真屋さんで現像したものしかありませんでした。なので、エロ本山のエロ本は子供たちにとってはものすごく珍しいものだったのです。


今や、ネット上にエロ画像なんて掃いて捨てるほどありますが、当時はエロ画像どころかアイドルや映画俳優などの画像を見るのは、紙媒体かテレビしかありませんでした。見てはいけないと言われると見たくなるし、やってはいけないと言われるとやりたくなるのが子供なので、性の意味もよく分からないまま珍しいモノ見たさにワイワイ言っていた時期です。小学校の授業でも女子だけの授業というのがあったり、いったいその授業ではどんな話がされているのか…というのも興味津々。今のようにネットで調べたら何でも出てくる時代ではありませんでしたので、異性というものは子供ながらに謎に包まれた神秘的な存在でした。


自分はすでに50歳を超えるおっさんになってしまっていて、時代が便利になってくる過程を経験してきた立場なので今の子供たちが現代の環境をどのようにとらえているのかは分かりませんが、あまりにも簡単に情報が手に入るようになると、神秘的どころか、もううんざりでありがたみも無い…という感覚になるのは容易に想像ができます。


YouTubeで何でもタダで音楽が聞けるようになると、宝物のように大切だった1枚のアルバムの価値も無いし、便利さの裏側で失くしてしまった感覚がたくさんあるなという気がしています。

いろんなことに興味を持ち始める思春期である小学6年生の夏に、台北に引っ越しをしました(当時は、台湾への渡航にもビザが必要でした)。世界の様々なテクノロジーが目まぐるしく変化している時代でしたし、今と違ってネットも無い時代でしたので、漏れ伝わってくる情報がとても魅力的に思えて、日本という国がまるで夢の国のように感じていました。夏休みや冬休みなどに日本に一時帰国をした同級生たちが仕入れてくる情報がものすごくうらやましくて、日本のテレビ番組の「紅白歌合戦」や「西部警察」などを録画してきたビデオを、VHS(もしくはβマックス)の再生機器を持っている友人の家に集まって見ていたような時代です。

台北でも邱永漢書店というところで日本の少年向け雑誌「平凡」「明星」、映画雑誌「スクリーン」なども売っていましたので、そこで垣間見ることができる情報がキラキラ輝いて見えていました。ちょうど僕が台北にいる頃にソフィー・マルソーの「ラ・ブーム」が公開され、雑誌「スクリーン」でもよく紹介されていました。子供心に、めっちゃかわいい〜と思いました♥ナスターシャ・キンスキーやブルック・シールズなど、映画というものにほとんど触れたことのない世代の我々(あるとすれば「のび太の恐竜」とか「プロジェクトA」「ゴジラ対モスラ」ぐらい)にとっては、ブロマイド(生写真と共に死語)を見るのもキュンとくる存在でした。

そんな中、日本に一時帰国をした友人がソニーのウォークマンなるものを持って帰ってきて、初めてYMOのカセットテープを聞かせてくれました。「ぬお〜!!なんだ、この猛烈にカッコよくて変な曲は!!!」「しかもメチャクチャ音が良い!!!」という衝撃を受け、こんなスゴいものが日本で流行っているらしい…ということを知りました。まったく前知識がない中でいきなりYMOの曲を聞かされたので、どう理解して良いのかも分からず、とにかく僕の中に強烈なインパクトを残した鮮烈な彼らの音楽との出会いでした。
好きな音楽を歩きながら聞くことができるという、今ではバカみたいに当たり前のことですが、そのスタイリッシュさやカッコ良さの衝撃をリアルタイムで実感できた我々は、とても幸せだったのだと思います。まさに、テクノロジーによって未知の時代がやって来るという実感がありましたし、日本という自分の国がその最先端を走っていたのを感じることができる時代でした。

ゲームと言えば「野球盤」や「人生ゲーム」などのボードゲームしか無かったのですが、僕が小学3年生か4年生の頃に、突如「スペースインベーダー」という画期的なゲームが登場しました。当時、喫茶店に出入りすると不良になる…と言われていましたので(スゴい理論)、それらの場所に置かれているゲームも学校では禁止されていました。当時は、「ノーパン喫茶」なるよく分からないものが喫茶店と合体して世の中に存在していましたので、無理もありませんが…。しかし、「禁止」と言われたらやりたくなるのが子供で、近所のバッティングセンターの待合室にインベーダーゲームが設置されたら、こっそりやりに行っていました。


友達何人かで遊んでいたある日、警察が見回りにやってきたので皆でトイレの個室に隠れましたが、見つかって怒られました…。その後、ゲームウォッチやファミコンが出てきたりして、一気にテレビゲームというのが広がりました。


その後、6年生で台北の日本人学校に転校したのですが、台湾では5元(当時のレートで日本円の30円ぐらい)でゲームができましたので、それはそれはよくゲームセンターに通ったり、かき氷を食べながらゲームをしたりしていました。「頂好」という場所の地下に大きなゲームセンターがあったのですが、そこで遊んでいると警察の一斉摘発があって連行されそうになりましたが、「我們是日本人了」と言うと釈放してくれました(何が悪かったのかよく分かりませんでしたが)。


台湾にいた頃に散々ゲームで遊んでお金を使ったので、日本に帰ってからは「ゲーム=悪」というイメージがついて、まったくやらなくなりましたし興味も持たなくなりました。なので、未だDSやプレステ、wiiなどは何をどうやって遊ぶ機械なのかもしりませんが、今でも一番おもしろいと思うゲームは「パックマン」「ギャラクシアン」「麻雀」かな〜。

運動場での遊びの花形と言えばドッヂボールですが、その他に僕らがよくやったのが「よんむし」と「じゃんこ」という遊び。誰が考えたのか知りませんし、名前の意味も知りませんが、とても良くできたルールで、ラグビーのような要素があるなかなか過激な遊びでした。僕らの子供時代は基本的には制服でしたが、全員、白のシャツに紺のズボンだと地味な絵になるので、ランドセルがある放課後の様子ですが私服という設定で描きました。


「じゃんこ」は円の内側を守るチームと、円の外側の花弁のような広い部分と狭い部分があるところを回る攻撃チームに分かれます。攻撃チームが円の外側を2周回って、一番下の入口から円の中に入り、上にある宝物を踏むと勝ち。両チームとも自分の陣地の外に出されるとアウトなので、外に出て見ているだけになります。攻撃側は縁の外側を走って回るわけですが、細い部分があるのでそこを通るときに守りチームから外に押し出されたり、中に引っ張り込まれたりします。逆に攻撃側が守り側の人を円の外に引っ張り出すこともできます。


攻撃側にとって広くなっている場所は守り側から手が届かないので安全地帯なのですが、攻撃側の人数を減らすために守り側の誰かがジャンプしてタックルし、相手ごと自爆をして押し出すことも可能です。ただし、タックルしても自爆した相手がラインの外に出ずに耐えた場合や、さっとかわされて先に地面に足がつくと自分だけがアウトになります。場合によっては、ひとりの自爆で2、3人道連れで攻撃側をアウトにすることもできます。


攻撃側の誰かが2周回って宝物を踏みに円の中に入っていくのですが、守り側がたくさん残っていると、寄ってたかって皆に捕まって円の外に引きずり出されてアウト。なので、2周回った人が複数集まるまで正面で待って(待っていると自爆される可能性もありますが)、相手に引きずり出されないように分散して最後の攻撃をかけます。


なかなか過激な遊びですが、チーム全体で協力をして、誰かひとりに宝物を踏ませに行くために子供たちなりにあれこれ作戦を考えるわけですので、結構奥が深い遊びだったと思います。こういう遊びの中で、集団のルールやチームワークを学んできたのかなと思います。こんな遊びを半袖半ズボンでやっていたので、いつもみんな擦り傷だらけでした。

【「浅野千通子さん講演会と交流会」受付終了のお知らせ】
 

今月24日(土)に開催予定の「浅野千通子さん講演会と交流会」についての取材を彼女と一緒にお受けし、終了後にこれまでほとんどお話する機会がなかったので、いろいろなことを話すことができました。

…というのも、彼女とちゃんと話をするのは10年ぶりぐらい。最初に出会ったのは、マンションに激突してぺちゃんこに折れ曲がった2両目の事故車両の中。私は片足を挟まれて逆さまにぶら下がっていて、彼女は2両目の先頭の方に埋もれていて、上にたくさんの人が積み重なっている状態でした。足が抜けた後に瀕死の人を運び出しましたが(足の骨が折れていましたけど…)、そのときに彼女に「助けてください…」と声をかけられました。「大丈夫か」と声をかけたけど、「この子は助からない…」と思いました。それほど悲惨な状況で、どうしてあげることもできない現場でした。

その後、新聞などで必死に安否を探しましたが、結局分かりませんでした。

それから約1年後。亡くなった方の乗車位置や乗車車両を探すための取り組みの場で、車椅子に乗った彼女に再会しました。生きていてくれたことに本当に感動しました。彼女のこれまでの壮絶なリハビリの日々を思うと、なんと表現して良いのか分からない複雑な気持ちで涙が止まりませんでした。「助けてあげられなかった」という気持ちと、「しかたがなかった」という言い訳と、何もしてあげられすに「見捨てた」という罪悪感など、いろんな感情が入り混じっていました。でも、車椅子に乗って会場に来てくれた彼女は、「私はこうして生きているよ」「頑張ったよ」って言ってくれているように感じました。
周りには遺族の皆さんがたくさんいる場でしたので、あまり喜び合うこともできず別れましたが、それから、会社帰りに何度か入院中の彼女のお見舞いに行かせてもらいました。

退院をして我が家にも遊びに来てくれるようになりましたが、妻が双極性障害という病気になり、ちづこちゃんもPTSDの診断を受けたため、しばらく疎遠になりました。

そこからの我が家は本当に大変でした。どうやってその時期を乗り越えたのか、あまりよく思い出すことすらできません。

妻が少し良くなり始めたときに、ちづこちゃんはピラティスの教室をやり始めることになり、妻がレッスンに通うようになりました。まったく何事にも興味を示さなくなっていた妻が、自発的に彼女のレッスンに通うようになって、私の知らないところでお互いを支え合う良き理解者同士になっていたようです。彼女はいろんなことにチャレンジしようとしてもがいていましたが、事故から随分時間が経ってから妻と同じような症状を患い、精神科の病棟に強制入院することになりました。

この間、妻から彼女の様子を聞くか、たまに彼女が書いていたSNSの投稿で近況を知る程度で、あえて私からはコンタクトを取らないようにしていました。ただ、「調子が悪そうだ…」ということは何となく垣間見ることができました。

私は事故後、遺族や負傷者との関わりや事故調査のことでかなり事故のことに深く関係していましたので、私と関わることは「=事故のことを思い出す」ということを意味していました。なので疎遠になるのは致し方ないことと感じていましたし、事故後、たくさんの被害者のかたとお付き合いがありましたが、時間と共に皆さんと距離ができるようになりました。「そんなもんか…」と思う反面、生きている人間は同じ場所にとどまっているわけにはいきませんので、疎遠になるのは、それぞれの人にとって良いことでもあったはずです。

事故から6年目に国との事故調査のことが一段落し、我が家は事故から8年目に多可町に越してきました。まったく縁もゆかりもない場所でした。妻の病気は一進一退でしたが、少しずつ底上げがされてきたように感じています。きっと、この場所が彼女に合っていたのでしょう。

本来10年目に出すべき書籍のことが宙ぶらりんになり、モヤモヤした時間を過ごしましたが、事故から13年目に自分で出版社を作って、妻と共同で「ふたつの鼓動」という書籍を発刊しました。これまで伝え残していたことを全部吐き出すことができて、もうやり残したことはないと感じました。後は、バラバラになった事故車両を、今後、どのように安全教育のために活かすのか…ということだけですが、これはまだもっと先のことではないかと思っています。

そして今年の3月末にちづこちゃんが新たな家族の息子さんと一緒に我が家に遊びに来てくれて、その後、「自分が経験したことを伝えることによって、生きる力をお伝えできれば」という思いで、講演会をする場所を探しているということを知りました。人が集まって、知らない人同士がつながることができる場所「古民家空間 kotonoha」を3年ほどかけて創り上げてきた私にできることは、これかなと思いました。彼女にとっては、自分の経験を自分の言葉で話をしようと思うようになるまでに、これだけの時間が必要だったのでしょう。

こんなに遠い場所であるにも関わらず、すでに45名ほどの皆さまがお越しくださることになりましたので、本当はもっとたくさんの方にお話を聞いていただきたいのですが、そろそろ受付終了とさせていただこうと思っています。すみません。
告知をしている間に、ネットでの情報をとおしてはるか遠くのJR東日本さんからお声がかかり、11月に二人で約300人の社員の前で講演をさせていただくことにもなりましたし、来年、事故から15年目には東京でも講演ができたら良いなということで、これまでにいろんな立場で事故のことに関わってくださった方がプロジェクトチームを作って、関東で動いてくださっています。本当にありがたいことです。

ご予約をしてくださった皆さま、「私のいのちを生きること」というタイトルどおり、ひとりひとりにとっての「生きる勇気」をお伝えできる場にできるように頑張ります。当日、お目にかかれるのを楽しみにしております。


田舎の集落での暮らしでは、日役と呼ばれる村全体での共同作業の日が多かれ少なかれあります。この三谷集落では、毎年決まった作業が年に4回あります。主には村が管理している共同の敷地の草刈り作業ですが、春の「溝掃除(草刈り)」、台風シーズン前の「山道作り(草刈りと側溝掃除)、夏の「川刈り(村を流れる川の土手の草刈り)、秋の「道作り(草刈りと秋祭りの準備)」です。

 

まずは春の「溝掃除」。これまではただ草刈り機を持っていって、みんなが刈っている周辺を刈っていれば良かったのですが、隣保長として初の日役ですので何をすればよいのかな…と思っていたら、前日に区長さんからお電話がありました。

「明日の、ゆねは誰が出ることになりましたか?」とのことで、「ゆね??」「誰が出る?」…と、お葬式のときと同様、まず日本語の意味そのものが分からなかったのですが、よくよく話を聞いてみると、『「ゆね」と呼ばれる川から田んぼに水を引くための取水口の掃除には、各組から一人ずつ当番を出して掃除をするので、各組の隣保長はその当番を決めてゆねの掃除に行かせてください』という意味だったようです。これ、移住してきた人には、ほぼ100%通じません…。「ゆね」とは、いったいどんな漢字を書くんでしょう?

 

 

その他、村から各組に草刈り機に使う混合ガソリンが支給されるので、隣保長は携行缶に入ったガソリンを1年間保管することになっています。草刈りがある毎に持って歩かないといけないのですが、我が家には軽トラックが無いのでご近所さんのトラックの荷台に積んでもらって運ぶことになります。自分の車だと車内で高温になって危険なので、こういうときにもやはり軽トラックがあると便利だな〜と思います。薪ストーブの薪を運ぶときにあったら良いな〜と思うことはありますが、畑や田んぼをしていない我が家はホントに年に何度かしか必要ないので、今のところ購入の予定は無し。

 

春はまだそれほど草も伸びていないので作業そのものは楽ですが、公共の場所がきれいになるととてもすっきりして村全体がとてもきれいに見えます。

こちらに来るまでは草刈り機も使ったことがありませんでしたが、これは劇的な威力を発揮するので結構好きな作業です。家の庭も定期的に刈ると見違えるようにきれいになります。

 

通常、草刈り機の刃はスチールの円盤を付けて使うのですが、自宅の庭を刈るときにはナイロンカッターと呼ばれるヒモ状のものを使います。これは、「刃で切る」と言うよりもナイロン状の硬いヒモで草を「叩き切る」という感じなのですが、細かい岩の隙間や段差のあるところでもきれいに刈ることができるのでスグレモノです。しかし、ネックは石が周囲に飛びまくるので、必ず顔を覆うフェイスガードを付けてやらないと、下手をすると失明します。さらに、家の窓などにも雨戸を立てておかないと、石が飛んで割れることがあるので気をつけなくてはいけません。越して来てすぐに、そんなことも知らずにブンブン刈りまくっていたら、窓を割りました…。

 

田舎暮らしの必需品。軽トラックもあった方が良いですが、まずは草刈り機。絶対必要です!

集落内でお亡くなりになった方がいた場合、区長は可能な限り全員の葬儀に出席するそうですが、隣保長は基本的に同じ隣保の方が亡くなった場合にのみお世話をさせていただくことになります。もちろん、隣保関係なく親しくお付き合いをしておられる方は葬儀に参列するのですが、隣保としての役割は親族の皆さんをお手伝いして負担を減らし、ご近所の仲間を皆で送り出してあげることです。

残念ながら、隣保長になって一番最初の仕事がお葬式ということになりました。集落によって違う…というよりも、各家によってまったくやり方が違いますので、これまでに何度も隣保長をやっている方でも、葬式に関してはどうすれば良いのか分からないというのは正直なところのようです。

 

 

昔は集落の集会所で葬儀を行うことが多かったようですが、最近は葬儀場で執り行うことが増えたので、同じ隣保の皆さんが自主的に食事などの準備をすることは少なくなったようです。僕はまだ一度も経験したことがありませんが、隣保で接待の食事の準備をする場合はお出しする食事の内容が決まっているようですので、皆で手分けをしてあちこちに買い出しに出るそうです。大量の食事を用意するのでこれがなかなか大変とのことですが、当然、葬儀なのでそれが突然降って湧いてくるわけです。

 

隣保でお亡くなりになった方がいると、直接、隣保全員の家に知らせに来てくださるご近所さんがいるので、情報はすぐに回ります。近隣の皆さんも僕が初めて直面する葬儀なので、分からないことだらけだろう…と心配してあれこれアドバイスをしてくださるのですが、「まずは、そうけのご意向をお聞きして…」と言われても、「そうけ?」という単語そのものが分かりません。普段馴染みのない言葉ですが、葬儀を執り行う家と書いて「葬家」というそうです。

「しゃばりょうを準備して…」というのも、「シャバ料?」ヤクザのシャバ代のこと!?と思ったら、「車駕料」と書いてお坊さんのお車代とのこと。一事が万事すべてこんな感じで、「とぎりょう(斎料)」「やくそう(役僧)」など、耳で聞いただけでは何を言っているのか全然分からないことだらけで、まるで外国語を聞いているような状態でした。

 

さらにどうして良いのか分からないのは、お亡くなりになった方は普段からお付き合いがあるので連絡先を把握していますが、その親戚関係となると、誰がどう繋がっているのかまったく分かりません。昔からここに住んでおられる方は当然把握しておられるのですが、この地域は同じ名字の方が多いので、名前で判断することもできないのでほぼお手上げ状態。

幸い、同じ隣保に移住してきたご夫妻がいるので、「何が分からないか」ということを分かってくれる方がおられるので助かりましたが、同じ隣保の長老の後を付いて回って無事に役目を果たすことができました。3年間のお役目の間に葬式が無いに越したことはないのですが、果たして何度か経験したら理解できるようになるものでしょうか…あまり自信がありません。

 

田舎の葬儀は葬家のご意向によってかなり違いますが、おおむね隣保の皆さんがお通夜と葬儀の両日の駐車場係と香典の受付などのお手伝いをさせていただき、お骨がご自宅に戻って来てからご挨拶に伺うという流れかと思います。なので、ほぼ二日間お世話をさせていただくことになりますが、場合によっては葬家の代わりにお弁当の手配をしたり、必要な物の買い出しに出たりもします。昔のように同じ地域内で仕事をしている場合は田舎の習慣に理解があるので突然休むことも可能でしょうけど、他地域の企業に務めておられる方は難しいかなと思います。僕の場合はフリーランスなので比較的自由に時間を調整できますが、もし自分にしかできない講演会や講座を受け持っていた場合は絶対外すことができませんので、どなたかにお願いをするしか方法がありません。こういう場合、同じ家か近隣に身内が住んでいると代わりに出席してもらえるのですが、我が家は両親が鳥取、弟夫妻は北海道なので、ほぼ不可能です。

 

僕のように子供の頃からあちこち転居が多い人にはなかなか理解できませんが、同じ集落内に同級生がいたり、兄弟のようにずっと何十年も一緒に育った人が亡くなった場合、ご近所の全員でお見送りをしてあげたいというのはとても自然な流れなのではないかと思います。また、同じ集落内に親戚がたくさんおられるので、近隣の皆さんが葬家の皆さんの負担を減らすためにお手伝いを申し出るというのも理にかなった習慣のように感じています。

こちらに越して来てまだ6年ですが、一緒に草刈りをして秋祭りなどに参加していたご近所さんがお亡くなりになって空き家になってしまうと、それほど深いお付き合いをしていたわけではなくても、何となく寂しいものがあります。