小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

2018年に自身の出版社を立ち上げて出版した「JR福知山線脱線事故からのあゆみ〜ふたつの鼓動」ですが、ここのところまた少しずつご注文をいただくようになりましたので、再度ご案内をさせていただきます。納本先の倉庫を見ると関東方面の方からのご注文が多いので、JR福知山線がある関西とは別の地域の方に関心を持っていただけるのはとても嬉しいことです。

 

Amazonでもご注文いただくことは可能ですが、結局、コトノ出版舎から一旦Amazon納本してからの再発送となりますので、こちらに直接オーダーいただくほうが早くお届けできます。(*^^*)

 

なお、現在、コトノ出版舎で別件の絵本を制作中です。もう少しで皆様にご案内できると思いますので、もうしばらくお待ち下さいませ。

 

【発売中】

価格:¥1,320(本体:¥1,200)+送料
サイズ:A5判/ページ数:160p/高さ:148mm
ISBN:978-4-9910423-0-0 C0095

 

ご購入希望の方は、下記のコトノ出版舎までお問合せください。

著者:小椋 聡/小椋 朋子
表紙デザイン/装丁:コトノデザイン
発行所:コトノ出版舎
〒679-1333 兵庫県多可郡多可町加美区三谷255
電話:090-7965-9964 FAX:0795-20-7484

久しぶりに「特集」といわれる番組の取材を受けましたが、結論から言うと意図するものとはまったく違った内容でした。編集の手腕や方法の好みなどに関してはあれこれ言うつもりはないのでうが、まずは、根本的な主題の取り上げ方が現状に即していないという時点で間違っています。

 

現在、JR事故の車両の件で説明会などで話し合いがなされているのは、「公開の是非」ではなく、「車両の展示(保管)の方法」です。公開するかどうかについては今後の課題の中には含まれていますが、まだまだ先の話なのでそもそもの視点として間違っているので、正しい報道ではありません。繰り返しますが、今話し合われているのは、「車両の展示(保管)の方法」です。

さらによろしく無いのは、僕が取材を受けてコメントをしたのは「車両の展示(保管)の方法」としての見解でかなり長い取材を受けてお話をしたのに、使われた枠組みが違っているので正しい放送としては伝わりようがありません。この放送内容であるならば、個人の見解を含めずキャスターが話をして伝える方がまだマシです。

 

僕はここで報道に対しての苦情を言いたいわけではなく(放送されたものは、もうどうにもならないので)、もっと大きな課題がこの背後にあるのではないかということです。

これまで、事故後、18年の間に、自分の役割としておそらく1000時間を超えるぐらいの取材時間を費やしてきましたが、今回の報道で「今後、もう受けないでおこうかな…」と思えるような気持ちになりました。実名と顔を晒して、しかも亡くなった人と生き残った人がいる事件事故で、取材を受けるという行為はリスク以外のものは何もありません。当然、取材に関する謝礼はまったくありませんし、事故当日に勝手に撮られた映像も含めて、一度撮られたものは本人の承諾無く、別の番組でもずっと使い続けられます。

 

ただ、今回も含め、これまで取材をしてくださった記者の皆さんはいつも我が家の思いに寄り添ってくれて、現役の方も、転職された方も含めてずっと長いお付き合いをしてもらえていることにはとても嬉しく思っています。それは取材をお受けするひとつの原動力になっていることは間違いありませんが、一番大きな理由は、当事者が話をしなくなるとあっという間に無かったことになってしまうということと、正しい報道がされなくなってしまうというところにあります。

 

メディアの報道だけでなく、物事を訴える場合、「何かに反対」という内容に関しては分かりやすいので声を挙げやすいし取り上げやすい。でも、肯定的な意見については、わざわざ声を挙げる必要もないので声としては出てこない。もしくは、JRがやっている方向性について「正しいと思う」ということや、「正しいけどここは違うと思う」という論理的な意見は、きちんとした内容を伝えないと伝わりません。人の意見は単純に「賛成」と「反対」ではなくいろんな条件や心情があった上での意見なので、もしそこを報道できないのであれば、報道はただのアンケート結果になってしまいます。

 

これまで、あまり乗り気ではない取材も何度もお受けしてきましたが、コメントを取りやすい「何かに反対という意見だけを取り上げて報道を構築するのは、何だか違うんじゃないだろうか…」というところもあったのであえてお受けしてきましたが、何百回も取材をお受けする経験をしてきた中でもだんだんリスクの方が大きくなってきたので、これまでとはちょっと違う怖さを感じました。

被害者の中でも「風化してほしくない」という話をよく耳にしますが、当事者が語らなくなると風化するのは当然です。僕は「風化」という言葉はあまり好きではなくて、これまで取材のコメントの中でも使ったことがありません。なぜなら、例えば同じ4月25日に南海トラフのようなものすごい災害が発生した場合、この日は、あっという間に「南海トラフの日」に置き換わるからです。

 

おそらく自然災害の方が比べ物にならないぐらいの死傷者が出ることは容易に予想ができますが、では、そうなってしまったらJR事故の教訓や意味は無くなるのでしょうか?僕はそうは思っていません。なぜなら、そもそも根本的に伝える内容が違うからです。そして、人数では図ることができない、「人」が経験した教訓と生きる意味がそこにあるからです。風化をするかしないかは、そこしかありません。報道された回数が風化の指標であるのであれば時間とともに必ず風化しますし、それはどうにもなりません。僕自身も、過去の多くの事件事故を忘れて日々を過ごしています。ただ、いくつかの事件事故や戦争などの悲惨な過去の教訓の中で、「人」に思いを馳せることができることについてはずっと心の中に残り続けます。

 

何が心に残るのかは人によって違います。ある人にとっては、JRの事故がまったく心に残らなくても全然OKです。でも、もし僕がわざわざリスクを負ってでもお受けした取材の報道の中で、「この人が言っていることは何となく分かる」と感じてくれて、何か少しでも生きる勇気につながってくれたらと願ってお受けしています。おそらく妻も同じ思いで受けてくれているのではないかと感じています。そうでなければ、わざわざ自分の病気のことを顔と名前を出して報道される意味はありません。

 

この10年ぐらいの間に、テレビを観るということが激減しました。若い方の中にはテレビを持っていない人も多くいるようですし、まったく観ないという人がそれなりいるように感じています。我が家も、なぜテレビを観る人が減ってきたのか、何となくその理由が分からないでもない気がしています。

あくまでも僕個人の考え方ですが、上記のような経験をすると、自分の顔と名前を晒して全国に放送されるのに編集内容も見せてもらえないし、いつどんな番組に転用されるかも分からない取材を受ける意味があるのだろうか…という考えになるのは当然のことです。取材を受ける人がいなくなると、当然、片寄った意見のみの報道になるのでますます客観性がなくなりますし、そうなると報道そのものがされなくなり悪循環に陥ります。

 

さらに、大切に思っている内容であればあるほど、自分の身近な人に知ってもらいたいという思いがあるので、リスクとメリットを勘案すると、個人が発信をする配信で十分なのではないだろうかという結論に至ります。自分で発信するのもであれば、自分が納得できる形にまで推敲して配信することができる時代になりました。

 

しかしながら、メディアという媒体にはそれを補って余りある配信力と影響力がありますし、報道のプロの視点ならではの昇華のさせ方ができるという優位性がありますが、そこには、その「情報が正しい」という条件が伴います。

100%正しいなんていうことはどんなことにも有り得ませんが、前述のように、「今、話し合っている内容とは違う」という報道では、そもそもの報道機関としての立ち位置が揺らぐことになり、ますます一般の視聴者がテレビという媒体への期待が薄れていくのではないかと感じています。僕自身も、テレビという媒体に期待しながらも、すでに「正しい」と思う情報は、これまでのいわゆるメディア(テレビ・新聞)と言われる媒体には依存せずに、自分で情報源を選んで判断をするという方法になっています。

 

テレビという媒体が非常に怖いのは、台本が無い収録の中で、話をする素人が喋った一部分のみを本人のチェック無しにカットして編集されることで、そういうことがまかり通っている業界であるということです。事故直後の現場の映像も、何の許可も契約もなく勝手に撮られまくり、本人の許可無く生涯に渡って使い続けられます。ただ、言うまでもありませんが、動画には写真にはない説得力と分かりやすさがあり、それが無いと物事が正しく伝わらないという一面があるのも事実ですので、僕自身はある程度その意義については理解をしているつもりです。ただ、分かりやすい分だけ、間違った伝わり方も分かりやすく間違って伝わります。報道とは、正義であると共に暴力とも成り得る力を持ってる媒体です。

 

【「取材を受ける理由」~JR福知山線脱線事故から10年】

https://ameblo.jp/office-cozy/entry-12011896974.html

いつ書こうか迷っていたのですが、今日、たまたま事故当時に持っていたICOCAカードが出てきたので、思い出しながら書いています。

 

昨年の10月頃だったと思いますが、JR福知山線脱線事故以来、初めて事故車両を見に行きました。事故からもうすぐ18年になるのですが、なぜ今頃かと言うと、ちょうど今、JRの説明会で事故車両の扱いについて話し合いがされているところですので、説明会の前に是非、現物を見てもらいたいとJRの担当者にお声がけをいただいたからです。最初に声をかけてもらってからしばらく放置していたのですが、「小椋さんには是非」ということで3回声をかけられたので行くことにしました。

 

事故現場に関しては、事故直後から耐震補強や整備で大幅に手が入っていたので、僕が記憶している現場とはそもそも早い段階からまったく別物になってしまっていました。それに加えて、「全部残してほしい」「全部無くしてほしい」「一部分だけで良い」など、いろんな考え方の方がおられましたので、僕としては、担当者が丁寧に寄り添って話を進めてくれたの、いずれの形でも良いと思っていました。実際のところは、あんなに大きく残さなくても、信楽高原鐵道の事故現場のような慰霊碑で十分かなと今でも思っています。

 

なので車両の扱いに関しても同様に、いろんな考え方の方がおられるというのは最初から分かっていることですので、前回同様、自分の考えはお伝えしますが、そこから先のことはJRが決めてくれたらそれで良いかなと思っています。

ただ、事故現場とかなり違っている部分は、まずこの車両に対して、それぞれの立場の人がどのような気持ちを持っているのかという根本的な部分が大きいのではないかと思います。家族を亡くした方にとっては、あの車両は当然憎むべき存在だと思いますが、僕はちょっと違います。事故から数日後に重機を使って車両が引きずり出される姿をテレビで見て、なんだか涙が止まりませんでした。僕が車両に対して感じているのは、あんなにボロボロの姿になって自分を守ってくれた存在という感覚なので、憎むべきという感覚はなく、むしろ愛おしい存在のように感じています。たぶん、この感覚は乗っていた人にしか分からない不思議な感覚だと思いますが、JRの担当者によるとそう感じているのは僕だけではないとのことでした。

 

JALの安全啓発センターには日航機墜落事故の原因となった圧力隔壁の他、ねじ曲がった座席や遺品などが展示されていますが、こうした事故にまつわるものを展示する意味は、悲惨な姿を見せるためだけではないと思っています。事故は、人間の尊厳を根こそぎ奪い取る暴力的なやり方で命を奪うので、もちろん悲惨さを伝えるのは大切なことだとは思いますが、それでは伝える意味の半分も伝わっていないのではないかと思います。

僕は、展示されているねじ曲がった座席が伝えようとしているのは、ものすごいスピードで墜落したからその衝撃が強かったということを伝えたいだけでは無いのではないかと思っています。524人の乗客のうち520人が亡くなった事故ですので、ここに展示されている座席に座っていた方はおそらく亡くなっているでしょう。この座席は、誰かにとって大切だった人が最期に座っていた場所であり、それまで人生を生きてきた誰かの最期の場所です。そうした人の生きた証や足跡に思いを馳せ、自らの生き方や今後の社会の中での自分の役割を見つめ直すなど、自分のこととして考えることができるものでなければ、教訓にはならないのではないかと感じています。

 

事故車両についての話し合いの前から、車両の復元はほぼ不可能ということを担当者からお聞きしていましたので、なぜそれが不可能なんだろう…ということはずっと疑問に感じていました。これまでの彼らの事故に対する姿勢をみても、やりたくないから「不可能」と言っているのではないだろうということは感じていましたが、きちんと話し合いの場に臨むために、事故から17年半目にして初めて見に行くことにしました。

実際に見た感想としては、彼らが「不可能」と言っていた意味がよくわかりました。あれを再現するのは不可能ですし、そうすることにあまり意味も感じないというのが僕の結論です。事故車両の中にいたときに感じた、その場にあった締め付けられるような雰囲気や、裂けた壁面やポールなどが凶器になって突き刺さっている場面など、もっと差し迫ったものを感じるかと思っていましたが、実際はただの部品というものにしか感じることができませんでした。

 

ただ、1両目と2両目だけは大きなパーツ(5〜7mぐらいあったかな)が2つずつ残されていて、1両目の運転席周辺と立体駐車場に潜り込んで押し縮められていた部分、2両目の僕がいた柱に激突して折れ曲がった角の部分(おそらく)、その他、2両目のどこか分からない部分がありました。皆さんから集めた手記の中に1両目に閉じ込められていた人たちの話がいくつもありましたが、押しつぶされてまったく原型を留めていない車両とは言えないこんなところで、ほんとによく生きてくれていたなと感じました。2両目の折れ曲がった角の部分の裏に僕はいたのですが、その部分は自分の記憶通り、言うまでもなくものすごい状態でした。妻が一緒に来ることに関しては少し躊躇しましたが、彼女はかなりショックを受けているようでした。僕が何百回と取材でお答えして知っているはずだった事故の姿を遥かに凌駕した姿だったのでしょう。

 

これはちょっとどうかなと感じたのは、この場を出てきた後に一番心に残っていたのが1両目の運転席だったということです。僕は特に運転手に対して恨みの感情は持っていないのですが、この場に足を運んだのは、自分の人生の転機になった車両の近くに寄り添うことでなにか大切なものに近づけたとか親近感のようなものや納得のような感覚を得ることができるのではないかと思って行ったのですが、まったく思いもしていなかった運転士のことが最後の印象として残って出てくる羽目になり、ちょっと複雑な心境でした。やはり、ビジュアルとして残っている大きなパーツという視覚の印象は強く、自分と亡くなった方たちとの間に挟まっていた外れた座席や刃物のように尖っていた破れた壁など、あんなに思い入れがあったものたちはただのスクラップのようになっていて、これまであえて思いを馳せたことも無い運転士のことが一番強い印象として残りました。

JRの説明によると車両を運び出すために切り刻まざるを得なかったとのことでしたが、それではこの4つの大きな部分はどうやって運んだのかな…という疑問は残りました。切り刻んでしまったものは今更言っても仕方がないので言うつもりもありませんし、僕は全部を残してほしいとも全然思っていないので良いのですが、あまりにもバラバラすぎて、もうどうにもならない状態になっています。

 

この事故車両が保管されている巨大な倉庫の周辺は鉄工所などがあってかなり大きな音がしていますので、事故の関係者だからといって誰彼なく見に行ったら良いというものではありません。なかなか強烈なインパクトがありますし、鉄工所の音と共に当時のことを思い出させる雰囲気がありますので、むしろ見に行かないほうが良いかもしれません。

ただ、事故車両を復元するということにこだわっている方には、この状態を見ない限りはなかなか話が噛み合わないのではないかなと感じました。なぜ車両を残すのか、そして何を伝えるために車両を展示するのかなど、まずは基本的なところを大切にしながら話し合いを進めていかなければいけないと改めて思いました。

 

4月25日で、JR福知山線脱線事故から17年を迎えます。

昨年、一昨年と新型コロナウイルスの感染拡大の影響で慰霊式が開催されませんでしたので、事故現場に行くのは2年ぶりになります。本当に久しぶりですし、今年はメディアからのお電話は2件だけでした。事故から10年目ぐらいまでは、毎年この時期になるとものすごい数の取材依頼があったのですが、さすがにここのところ少なくなってきて、「慰霊式の前」という雰囲気ではない時間を過ごすことができています。

現在、JR西日本によって、今後、「事故車両」をどのように保管するのかという話し合いが成されていて、2年ほど前から説明会なども開催されています。「事故現場」の整備については彼らが丁寧に話し合いの場を設定してくれたので、きっと「車両」についてもきちんとした対応をしてくれるのではないかと思っています。「事故現場」のときもそうでしたが、多くの被害者それぞれにいろんな考えがあるので、全員の意向が反映されるということは不可能なのは最初から分かっていましたし、僕にとっては、初期段階からきれいに整備されてしまった「事故現場」は自分が知っている現場とはかけ離れたものになってしまっていたので、最初から「皆さんの意見を丁寧に聞いて決めてくれたのであればそれで良いと思います」という姿勢でした。
実際のところ、「全部残して欲しい」「全部無くして欲しい」「一部だけ残すので良いと思う」という意見がある以上、折衷案として「一部だけ残す」という結論になるのは最初から分かっていたことですが、むしろその結果よりも、JR西日本が丁寧に皆さんの意見を聞いて寄り添ってくれたということに意味があったと感じています。
事故車両に対する思いは、事故から10年目に書いた「私の2両目」という投稿で書かせていただきました。今も、その当時の思いとあまり変わっていません。

「事故車両」については、おそらく遺族の方と生き残った人では、その存在意義については事故現場以上に大きな隔たりがあるのではないかと感じています。
僕にとっての「事故現場」は、すっかりきれいに整備されてしまった実際の「現場」よりも、まさに「車両」そのものにあります。1両目が壁に激突してできた放射状の巨大なヒビは、事故後の耐震補強でいつの間にかすっかり無くなっていましたし、運転再開後は、当然ながら僕がいた2両目のマンションと線路の隙間は何の痕跡もなくきれいになってしまっていたので、自分の中ではもはや「事故現場」ではありません。その場に行って手を合わせている自分を自分で見ながら、「ほんとにここが自分がいた事故現場なんだろうか…」という違和感を持ちながら毎年献花をしていたというのが正直なところです。

「車両」
これが、まさしく僕にとっての事故現場です。きっと、愛する家族をあの車両の中で亡くされた遺族には理解できない感覚かもしれませんし、乗っていた人間以外にも分からない感情だと思いますが、2両目のあの車両は、僕を半殺しの目に合わせたと同時に自分を守ってくれた存在でもあるので、憎いと同時に愛おしい存在でもあります。事故から数日後、重機によって車両が切り刻まれ、地下駐車場に潜り込んだ1両目を重機が掴んで引きずり出されている中継の映像を見て、「電車がかわいそう…」という感覚で涙が止まりませんでした。
2両目の後方に乗っていた僕は、マンションへの激突で他の人たちと共に車両の前方に飛ばされていって、前方に乗っている人たちを押し潰しました。あんなスピードで激突して助かったのは、僕の代わりに誰かがクッションになってくれて、誰かがその死を引き受けてくれたのではないかと今でも感じています。

車両はただの残骸ではありません。日航機墜落事故の「安全啓発センター」には圧力隔壁や遺品などが展示されていますが、僕が一番心に残ったのは、ぐにゃぐにゃになった座席です。飛行機が墜落したら、機体がバラバラになって座席がぐにゃぐにゃになるのは当然のことですが、僕が展示されたその座席から感じたことは事故の衝撃の強さではありません。520名が亡くなって4名だけが助かった事故ですので、おそらく展示されている椅子に座っていた方は亡くなっているのでしょう…。この座席に座っていた人が、人生の最期をここで迎えたというのがこの椅子から伝わってきます。その人は誰かにとってかけがえのない人で、数時間前までは自分が最期を迎えるとは思っていなかったはずです。展示をし、わざわざ人に見てもらうという意味は、本当にその事故を自分のこととして考えることができるか…ということに他ならないと思っています。

事故車両の展示は、「安全教育のため」だけでは不十分です。JR西日本という企業に夢を持って就職をして日本の重要なインフラを支える仕事の中で、その職務を通して皆さんが社会の安全と人々の幸せを担っているということを感じ取って頂き、自分の家庭や自分自身が何を大切にして生きようとしているのかということを考えてもらうきっかけにならなければ、あまり意味がないのではないかと感じています。
立場的には事故の被害者なのかもしれませんが、今はJR西日本という会社が、日本の人々の生活や旅愁を守ってくれる夢のある会社になって欲しいと願っている応援団の一人です。

沼などに生えている蒲という水性植物ですが、まるでフランクフルトがたくさん生えているような穂綿の姿は、大人にとっても魅力的でかわいい形に見えるので、子どもたちにとってはなおさらです。

穂綿の部分はフェルトのようにちょっと硬めの不思議な感触なのですが、これをコンクリートなどに叩きつけると形が崩れてモコモコと綿状に爆発します。これがおもしろくてあっちこっちで叩いて遊んでいたのですが、これが洗濯物に付くと大変なことになるそうで…母に怒られました(^_^;)