その8「取材を受ける理由」~JR福知山線脱線事故から10年 | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

事故直後から、これまで10年間にわたって取材をお受けした回数は、数えたことはないけどたぶん数百回。時間に換算すると数百時間という単位ではなく、軽く1000時間を越えているのではないかと思います。報道関係の記者、ディレクターの皆さんには本当にいろんな場面でお世話になっていますが、僕にはずっと取材を受け続けている明確な理由があります。記者に対する思いや考えは、取材でお話ししたとしても記事にはならない話なので、ここに書いておくことにします。


事故直後は家族が駆けつけてくれたり、友人知人がたくさん電話をかけてきてくれました。テレビで被害者の名前がテロップで流れると、そこからしばらく電話攻撃が始まりますので、布団に横たわりながらずっと電話をしていたような気がします。「助かって良かった良かった」「きっとこれまでに世話をした動物たちが助けてくれた」「あなたには生きる使命があったんですよ」などなど、助かったことを一緒に喜んでくれて、そう言われることに対して僕も最初は何の疑問も持っていませんでした。
しばらく布団から動けなかったのでずっとテレビを見ていたのですが、事故から数日後、一番多くの犠牲者が出たのが2両目だということが報道されました。そのときに、それまで「良かった良かった」と単純に喜んでいた自分の心の中に、何か変化が起きるのを感じました。

新聞、テレビの取材は、事故直後から途切れることなくずっと入れ替わり立ち替わりという感じで依頼がありましたが、僕にとっては話を聞いてもらえるというのはとても嬉しいことで、話をするのがつらいとか苦しいという感覚は全くありません。むしろ、聞いてもらえるという安心感に加えて、報道関係者に話をすることで事故原因の究明や事故の姿を伝えることの役に立てているという実感が持てたので、自分の気持ちを整理する上でとても良い効果があったと感じています。

小椋さんは使命感や責任感があると言ってくれる方もいますが、僕の中では少しニュアンスが違っています。取材を受けたときにはこれまでずっと同じ言葉を使い続けてきましたが、人にはそれぞれ「役割」というものがあって、僕の場合は「2両目で生き残ったあなたにしかできないことをやりなさい」という「役割」を、あの場で生き残った時に与えられたのだと思っています。
実質遺族会であった4・25ネットワークの中で遺族と共に活動を行ったことも、最期の乗車位置を探す取り組みを行ったことも、おそらく2両目にいた自分にしかできなかった役割だったと思っています。事故から2年目に国土交通省で開催された意見聴取会で発言をさせて頂きましたが、負傷者が発言を許されたのは日本の事故調査史上初めてだったそうです。乗車位置を探す取り組みの中で、被害者の皆さんが語ってくれた証言があったからこそ認められたのだと思いますが、多くの被害者の皆さんが口にできない思いをお伝えする役割が、「2両目」という車両の生存者には課せられているのだと実感した出来事でした。

福知山線の事故のことに関して、自分の考えをお伝えすることに全く迷いはありません。今、台本も無しに話をして欲しいと言われても、多分1時間や2時間はお話しできると思いますし、お伝えする内容がブレることはないと思います。継続してメディアに出続けていると、目立ちたがりと思われたり、まるで被害者の代表のように思われたり(全くそんなつもりはありませんが)、「私はそんなふうに思っていないのに」と反感を買ったりするリスクを伴うのは重々承知の上ですが、そのリスクを負うのも自分の役割なのでしょう。自分の考えや思いをお伝えしても、もしかすると現状は変わらないかもしれませんが、少なくとも思いを持っているだけで行動をしなければ何も変わりません。
被害者の中には、相手の都合や考えを無視して感情的に話しまくる人がいますが、そういった方からは自ずと記者の皆さんも離れていってしまいます。何がしかの悔しい思いがあるからこそそういう態度になってしまうのだと思うのですが、感情的な意見を報道すると結局その矛先は自分に戻ってきますので、記者の皆さんも距離を取らざるを得ない状況になるのでしょう。
僕も人間なので、JRが最初の説明会に呼ぶ人を勝手に選別したときや、事故調査委員会が遺族にしか説明会をしないという態度を示したとき、情報漏洩事件のときにはかなり怒り心頭でしたが、物事を訴えて状況を打開するときには、ある程度論理的な考えを人に話を聞いてもらえるような話し方で伝える必要があります。理論と情緒のバランスはとても難しい。小椋さんは穏やかな話口調ですねと言われることが多いのですが、心中はメチャクチャ怒っていました。この理不尽な事故に対しての言動は、怒りが自分を支えていると言っても過言ではありませんでした。

週刊誌、信頼関係が出来上がっていない一見さんの記者の電話取材、そして「10分だけで良いですから…」という必要なコメントだけを求められるテレビ取材はお断りしています。それと、自分が意図的にこの件に関しては受けないと意思表示をした内容(例えば裁判のこととか)もお断りしていますが、それ以外の取材は基本的に全てお受けしてきたつもりです。どんなに忙しくて仕事が立て込んでいる中でも、時間を見つけて最低でも2時間、通常は3、4時間ぐらい話を聞いて頂くようにしてきました。1000時間というとわずか41.5日間ですので、10年分を合算するとたぶんそれぐらいは軽く費やしていると思います。

事故当時、僕は35歳だったのですが、記者のほとんどは僕よりも年下の方でした。現在は45歳なので、担当が変わって新しい記者が来ると、更にその年齢差は広がっています。僕はあまり年齢差というのを気にしない人ですが(歳を食っていてもしょうもないヤツはいますし、その逆も然り)、記者という仕事は、ある程度の年齢になると内勤のデスクという立場になることが多いので、必然的に20台後半~30台中ばぐらいの記者が現場の取材を担当することになります。
僕は、現場の記者というのがとても好きです。初めての記者に取材をお受けするときは、今までどこの支局で働いていて、いつからJR事故のことに関わっているのか、そして彼らがなぜ記者になろうと思ったのかや、これまでに取材をして思い入れのある事件事故などの話をお聞きするようにしています。今、僕がお受けしているテレビ局の取材の担当者は、報道関係の道に進もうと思った切っ掛けがこの福知山線の事故だったそうです。なので、この事故の取材をするというのは彼女にとってもとても大きな意味を持っているのです。基本的には、取材は取材を受ける人が話をする場なのですが、僕はそれだけだとは思っていません。報道に携わっている人にとっても、その人の人生の中で重要な局面があり、取材を通して出会った人たちとの繋がりの中で、共に心を痛めたり、悔しい思いをしたりして、彼らにとっても思い入れのある事件事故がそれぞれにあるはずなのです。

中には、十把一絡げに報道関係者のことをマスゴミと揶揄して、適当な取材をして事実と違うことを報道しているという人もいますが、それは、プロのイラストレーターだから仕事としてお金のために適当に絵を描いてこなしていると言われるのと同じことです。やろうと思えば、手を抜いて絵を仕上げることもできない訳ではありませんが、その人にとって大切なメッセージがある内容のことを自分に託してくれて、依頼者の思いや情熱に触れると、そんないい加減な仕事はできません。報道機関のように組織が大きくなると、記者個人の思いとは別の作用が加わって思い通りのものにならないことも多々あるかと思いますが、もし取材の現場で見聞きしたことが間違って社会に伝わる内容に社内で修正されそうになった場合、現場の記者は断固としてそれに立ち向かって闘わなければなりません。なぜなら、直接取材対象者と向き合って、最も現場に近い感覚を肌で知っているのは間違いなく記者という立場の人だからです。
僕が現場の記者の皆さんに2時間も3時間もお話をするのは、そうした彼らに、会社の中でより現場に近い姿を伝えてもらうための熱をお伝えしたいと思っているからです。インプットの部分で情報に熱が無ければ、アウトプットの段階で人の心を打つ記事になるはずがありません。基本的に僕らは報道される前の原稿を読める訳でもありませんし、テレビの編集作業に立ち会える訳でもありませんので、自分が話をして手を離れた後は、もうどうすることもできません。自分が大変な労力を費やして向かい合って来た10年という時間や、自分が大切に思っている人生の一部を伝えてもらうことを、目の前にいる記者の情熱に託すしか方法はないのです。
事故から6、7年後までは、報道された内容如何によって「何だこれ…」と思って落胆することもありましたが、ここ最近だんだん自分の視点はそこでは無くなってきました。一旦出てしまった内容はもうどうすることもできませんし、会社の中でどのようなチェック体勢があってニュアンスが違う記事になってしまったのかは、自分にとってはもう範疇を越えた世界なのであまり気にならなくなってきました。むしろ、自分としてはやれることは全部やったので、「あなたが良いと思って一生懸命そうしてくれたんだったら、それで良いです」と思うようになってきました。
そして、自分より若い彼らが、将来、違う事件事故の取材に遭遇したときに、「JRの事故の取材のときに、あのおっさんが何か熱っぽくしゃべっていたな」「そういえば、この事故の被害者も小椋さんと同じことを言ってるな」と思い出してもらえたら良いなと思っています。

長時間記者と話をしていると、彼らがこれまでに直面した人生の片鱗を耳にする機会があります。ある記者が話をしてくれたのですが、お酒を飲んだら母親に暴力をふるう父親がいる家庭で育ったそうです。その父親は、彼が学生の頃に首を吊って自殺をしたそうですが、そのときに「これで家庭の中の争いを見なくて済む」と思って心の中で喜んでしまった自分がいた…と言っていました。きっと彼は、そう思ってしまった自分を責めたことでしょう。このことが、その後、彼が報道という仕事に携わることと関係していたのかどうかは分かりませんが、少なくとも取材を受ける側にもする側にも人それぞれいろんな人生のドラマがあって、今、彼が自分の取材をしてくれているのだなと感じました。

僕は「風化」という言葉を今までほとんど使ったことがありませんし、意図的に使わないようにしてきました。僕の記事で使われていたこともありますが、自分が語った言葉ではありません。
事故現場を残そうと残さなかろうと、必ず風化はします。なぜなら、自分も他の事件や事故のことを普段は忘れているからです。JRの事故だけは忘れないで…というのは虫のいい話で、「風化を防ぐ」という言葉を使うのであれば、そうならないために具体的に継続をして何を行うのかという話をしなければ、何の説得力もない訴えになります。僕は20年も30年も何かを訴え続ける覚悟もモチベーションもありませんので、今後も「風化」という言葉は使わないと思います。
ただ、僕が期待していることは、こうして時間をかけて記者の皆さんにお伝えすることによって、彼らが次の事件事故に直面したときに少しでも思い出してもらうことができれば、それは福知山線の事故のことが活かされて継承されることに繋がるのではないかと思っているからです。便利に使うことができる「風化防止」という言葉よりも、「一生懸命話をしてくれたおっさん」として記者の心の中に残れば、きっとそれが自分にできる風化防止なのかなと感じています。

記者の皆さん、いつも丁寧に話を聞いてくれてありがとう。事故から10年目の報道で少しでもたくさんの方の思いに寄り添い、あなたの目を通した記事を発信して下さることを願っています。