JR福知山線脱線事故の事故車両について | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

いつ書こうか迷っていたのですが、今日、たまたま事故当時に持っていたICOCAカードが出てきたので、思い出しながら書いています。

 

昨年の10月頃だったと思いますが、JR福知山線脱線事故以来、初めて事故車両を見に行きました。事故からもうすぐ18年になるのですが、なぜ今頃かと言うと、ちょうど今、JRの説明会で事故車両の扱いについて話し合いがされているところですので、説明会の前に是非、現物を見てもらいたいとJRの担当者にお声がけをいただいたからです。最初に声をかけてもらってからしばらく放置していたのですが、「小椋さんには是非」ということで3回声をかけられたので行くことにしました。

 

事故現場に関しては、事故直後から耐震補強や整備で大幅に手が入っていたので、僕が記憶している現場とはそもそも早い段階からまったく別物になってしまっていました。それに加えて、「全部残してほしい」「全部無くしてほしい」「一部分だけで良い」など、いろんな考え方の方がおられましたので、僕としては、担当者が丁寧に寄り添って話を進めてくれたの、いずれの形でも良いと思っていました。実際のところは、あんなに大きく残さなくても、信楽高原鐵道の事故現場のような慰霊碑で十分かなと今でも思っています。

 

なので車両の扱いに関しても同様に、いろんな考え方の方がおられるというのは最初から分かっていることですので、前回同様、自分の考えはお伝えしますが、そこから先のことはJRが決めてくれたらそれで良いかなと思っています。

ただ、事故現場とかなり違っている部分は、まずこの車両に対して、それぞれの立場の人がどのような気持ちを持っているのかという根本的な部分が大きいのではないかと思います。家族を亡くした方にとっては、あの車両は当然憎むべき存在だと思いますが、僕はちょっと違います。事故から数日後に重機を使って車両が引きずり出される姿をテレビで見て、なんだか涙が止まりませんでした。僕が車両に対して感じているのは、あんなにボロボロの姿になって自分を守ってくれた存在という感覚なので、憎むべきという感覚はなく、むしろ愛おしい存在のように感じています。たぶん、この感覚は乗っていた人にしか分からない不思議な感覚だと思いますが、JRの担当者によるとそう感じているのは僕だけではないとのことでした。

 

JALの安全啓発センターには日航機墜落事故の原因となった圧力隔壁の他、ねじ曲がった座席や遺品などが展示されていますが、こうした事故にまつわるものを展示する意味は、悲惨な姿を見せるためだけではないと思っています。事故は、人間の尊厳を根こそぎ奪い取る暴力的なやり方で命を奪うので、もちろん悲惨さを伝えるのは大切なことだとは思いますが、それでは伝える意味の半分も伝わっていないのではないかと思います。

僕は、展示されているねじ曲がった座席が伝えようとしているのは、ものすごいスピードで墜落したからその衝撃が強かったということを伝えたいだけでは無いのではないかと思っています。524人の乗客のうち520人が亡くなった事故ですので、ここに展示されている座席に座っていた方はおそらく亡くなっているでしょう。この座席は、誰かにとって大切だった人が最期に座っていた場所であり、それまで人生を生きてきた誰かの最期の場所です。そうした人の生きた証や足跡に思いを馳せ、自らの生き方や今後の社会の中での自分の役割を見つめ直すなど、自分のこととして考えることができるものでなければ、教訓にはならないのではないかと感じています。

 

事故車両についての話し合いの前から、車両の復元はほぼ不可能ということを担当者からお聞きしていましたので、なぜそれが不可能なんだろう…ということはずっと疑問に感じていました。これまでの彼らの事故に対する姿勢をみても、やりたくないから「不可能」と言っているのではないだろうということは感じていましたが、きちんと話し合いの場に臨むために、事故から17年半目にして初めて見に行くことにしました。

実際に見た感想としては、彼らが「不可能」と言っていた意味がよくわかりました。あれを再現するのは不可能ですし、そうすることにあまり意味も感じないというのが僕の結論です。事故車両の中にいたときに感じた、その場にあった締め付けられるような雰囲気や、裂けた壁面やポールなどが凶器になって突き刺さっている場面など、もっと差し迫ったものを感じるかと思っていましたが、実際はただの部品というものにしか感じることができませんでした。

 

ただ、1両目と2両目だけは大きなパーツ(5〜7mぐらいあったかな)が2つずつ残されていて、1両目の運転席周辺と立体駐車場に潜り込んで押し縮められていた部分、2両目の僕がいた柱に激突して折れ曲がった角の部分(おそらく)、その他、2両目のどこか分からない部分がありました。皆さんから集めた手記の中に1両目に閉じ込められていた人たちの話がいくつもありましたが、押しつぶされてまったく原型を留めていない車両とは言えないこんなところで、ほんとによく生きてくれていたなと感じました。2両目の折れ曲がった角の部分の裏に僕はいたのですが、その部分は自分の記憶通り、言うまでもなくものすごい状態でした。妻が一緒に来ることに関しては少し躊躇しましたが、彼女はかなりショックを受けているようでした。僕が何百回と取材でお答えして知っているはずだった事故の姿を遥かに凌駕した姿だったのでしょう。

 

これはちょっとどうかなと感じたのは、この場を出てきた後に一番心に残っていたのが1両目の運転席だったということです。僕は特に運転手に対して恨みの感情は持っていないのですが、この場に足を運んだのは、自分の人生の転機になった車両の近くに寄り添うことでなにか大切なものに近づけたとか親近感のようなものや納得のような感覚を得ることができるのではないかと思って行ったのですが、まったく思いもしていなかった運転士のことが最後の印象として残って出てくる羽目になり、ちょっと複雑な心境でした。やはり、ビジュアルとして残っている大きなパーツという視覚の印象は強く、自分と亡くなった方たちとの間に挟まっていた外れた座席や刃物のように尖っていた破れた壁など、あんなに思い入れがあったものたちはただのスクラップのようになっていて、これまであえて思いを馳せたことも無い運転士のことが一番強い印象として残りました。

JRの説明によると車両を運び出すために切り刻まざるを得なかったとのことでしたが、それではこの4つの大きな部分はどうやって運んだのかな…という疑問は残りました。切り刻んでしまったものは今更言っても仕方がないので言うつもりもありませんし、僕は全部を残してほしいとも全然思っていないので良いのですが、あまりにもバラバラすぎて、もうどうにもならない状態になっています。

 

この事故車両が保管されている巨大な倉庫の周辺は鉄工所などがあってかなり大きな音がしていますので、事故の関係者だからといって誰彼なく見に行ったら良いというものではありません。なかなか強烈なインパクトがありますし、鉄工所の音と共に当時のことを思い出させる雰囲気がありますので、むしろ見に行かないほうが良いかもしれません。

ただ、事故車両を復元するということにこだわっている方には、この状態を見ない限りはなかなか話が噛み合わないのではないかなと感じました。なぜ車両を残すのか、そして何を伝えるために車両を展示するのかなど、まずは基本的なところを大切にしながら話し合いを進めていかなければいけないと改めて思いました。