JR福知山線脱線事故から17年(車両を残すことの意味について) | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

4月25日で、JR福知山線脱線事故から17年を迎えます。

昨年、一昨年と新型コロナウイルスの感染拡大の影響で慰霊式が開催されませんでしたので、事故現場に行くのは2年ぶりになります。本当に久しぶりですし、今年はメディアからのお電話は2件だけでした。事故から10年目ぐらいまでは、毎年この時期になるとものすごい数の取材依頼があったのですが、さすがにここのところ少なくなってきて、「慰霊式の前」という雰囲気ではない時間を過ごすことができています。

現在、JR西日本によって、今後、「事故車両」をどのように保管するのかという話し合いが成されていて、2年ほど前から説明会なども開催されています。「事故現場」の整備については彼らが丁寧に話し合いの場を設定してくれたので、きっと「車両」についてもきちんとした対応をしてくれるのではないかと思っています。「事故現場」のときもそうでしたが、多くの被害者それぞれにいろんな考えがあるので、全員の意向が反映されるということは不可能なのは最初から分かっていましたし、僕にとっては、初期段階からきれいに整備されてしまった「事故現場」は自分が知っている現場とはかけ離れたものになってしまっていたので、最初から「皆さんの意見を丁寧に聞いて決めてくれたのであればそれで良いと思います」という姿勢でした。
実際のところ、「全部残して欲しい」「全部無くして欲しい」「一部だけ残すので良いと思う」という意見がある以上、折衷案として「一部だけ残す」という結論になるのは最初から分かっていたことですが、むしろその結果よりも、JR西日本が丁寧に皆さんの意見を聞いて寄り添ってくれたということに意味があったと感じています。
事故車両に対する思いは、事故から10年目に書いた「私の2両目」という投稿で書かせていただきました。今も、その当時の思いとあまり変わっていません。

「事故車両」については、おそらく遺族の方と生き残った人では、その存在意義については事故現場以上に大きな隔たりがあるのではないかと感じています。
僕にとっての「事故現場」は、すっかりきれいに整備されてしまった実際の「現場」よりも、まさに「車両」そのものにあります。1両目が壁に激突してできた放射状の巨大なヒビは、事故後の耐震補強でいつの間にかすっかり無くなっていましたし、運転再開後は、当然ながら僕がいた2両目のマンションと線路の隙間は何の痕跡もなくきれいになってしまっていたので、自分の中ではもはや「事故現場」ではありません。その場に行って手を合わせている自分を自分で見ながら、「ほんとにここが自分がいた事故現場なんだろうか…」という違和感を持ちながら毎年献花をしていたというのが正直なところです。

「車両」
これが、まさしく僕にとっての事故現場です。きっと、愛する家族をあの車両の中で亡くされた遺族には理解できない感覚かもしれませんし、乗っていた人間以外にも分からない感情だと思いますが、2両目のあの車両は、僕を半殺しの目に合わせたと同時に自分を守ってくれた存在でもあるので、憎いと同時に愛おしい存在でもあります。事故から数日後、重機によって車両が切り刻まれ、地下駐車場に潜り込んだ1両目を重機が掴んで引きずり出されている中継の映像を見て、「電車がかわいそう…」という感覚で涙が止まりませんでした。
2両目の後方に乗っていた僕は、マンションへの激突で他の人たちと共に車両の前方に飛ばされていって、前方に乗っている人たちを押し潰しました。あんなスピードで激突して助かったのは、僕の代わりに誰かがクッションになってくれて、誰かがその死を引き受けてくれたのではないかと今でも感じています。

車両はただの残骸ではありません。日航機墜落事故の「安全啓発センター」には圧力隔壁や遺品などが展示されていますが、僕が一番心に残ったのは、ぐにゃぐにゃになった座席です。飛行機が墜落したら、機体がバラバラになって座席がぐにゃぐにゃになるのは当然のことですが、僕が展示されたその座席から感じたことは事故の衝撃の強さではありません。520名が亡くなって4名だけが助かった事故ですので、おそらく展示されている椅子に座っていた方は亡くなっているのでしょう…。この座席に座っていた人が、人生の最期をここで迎えたというのがこの椅子から伝わってきます。その人は誰かにとってかけがえのない人で、数時間前までは自分が最期を迎えるとは思っていなかったはずです。展示をし、わざわざ人に見てもらうという意味は、本当にその事故を自分のこととして考えることができるか…ということに他ならないと思っています。

事故車両の展示は、「安全教育のため」だけでは不十分です。JR西日本という企業に夢を持って就職をして日本の重要なインフラを支える仕事の中で、その職務を通して皆さんが社会の安全と人々の幸せを担っているということを感じ取って頂き、自分の家庭や自分自身が何を大切にして生きようとしているのかということを考えてもらうきっかけにならなければ、あまり意味がないのではないかと感じています。
立場的には事故の被害者なのかもしれませんが、今はJR西日本という会社が、日本の人々の生活や旅愁を守ってくれる夢のある会社になって欲しいと願っている応援団の一人です。