報道とは何か | 小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

小椋聡@カバ丸クリエイティブ工房

兵庫県の田舎で、茅葺きトタン引きの古民家でデザイナー&イラストレーターとして生活しています。
自宅兼事務所の「古民家空間 kotonoha」は、雑貨屋、民泊、シェアキッチン、レンタルスペースとしても活用しています。

久しぶりに「特集」といわれる番組の取材を受けましたが、結論から言うと意図するものとはまったく違った内容でした。編集の手腕や方法の好みなどに関してはあれこれ言うつもりはないのでうが、まずは、根本的な主題の取り上げ方が現状に即していないという時点で間違っています。

 

現在、JR事故の車両の件で説明会などで話し合いがなされているのは、「公開の是非」ではなく、「車両の展示(保管)の方法」です。公開するかどうかについては今後の課題の中には含まれていますが、まだまだ先の話なのでそもそもの視点として間違っているので、正しい報道ではありません。繰り返しますが、今話し合われているのは、「車両の展示(保管)の方法」です。

さらによろしく無いのは、僕が取材を受けてコメントをしたのは「車両の展示(保管)の方法」としての見解でかなり長い取材を受けてお話をしたのに、使われた枠組みが違っているので正しい放送としては伝わりようがありません。この放送内容であるならば、個人の見解を含めずキャスターが話をして伝える方がまだマシです。

 

僕はここで報道に対しての苦情を言いたいわけではなく(放送されたものは、もうどうにもならないので)、もっと大きな課題がこの背後にあるのではないかということです。

これまで、事故後、18年の間に、自分の役割としておそらく1000時間を超えるぐらいの取材時間を費やしてきましたが、今回の報道で「今後、もう受けないでおこうかな…」と思えるような気持ちになりました。実名と顔を晒して、しかも亡くなった人と生き残った人がいる事件事故で、取材を受けるという行為はリスク以外のものは何もありません。当然、取材に関する謝礼はまったくありませんし、事故当日に勝手に撮られた映像も含めて、一度撮られたものは本人の承諾無く、別の番組でもずっと使い続けられます。

 

ただ、今回も含め、これまで取材をしてくださった記者の皆さんはいつも我が家の思いに寄り添ってくれて、現役の方も、転職された方も含めてずっと長いお付き合いをしてもらえていることにはとても嬉しく思っています。それは取材をお受けするひとつの原動力になっていることは間違いありませんが、一番大きな理由は、当事者が話をしなくなるとあっという間に無かったことになってしまうということと、正しい報道がされなくなってしまうというところにあります。

 

メディアの報道だけでなく、物事を訴える場合、「何かに反対」という内容に関しては分かりやすいので声を挙げやすいし取り上げやすい。でも、肯定的な意見については、わざわざ声を挙げる必要もないので声としては出てこない。もしくは、JRがやっている方向性について「正しいと思う」ということや、「正しいけどここは違うと思う」という論理的な意見は、きちんとした内容を伝えないと伝わりません。人の意見は単純に「賛成」と「反対」ではなくいろんな条件や心情があった上での意見なので、もしそこを報道できないのであれば、報道はただのアンケート結果になってしまいます。

 

これまで、あまり乗り気ではない取材も何度もお受けしてきましたが、コメントを取りやすい「何かに反対という意見だけを取り上げて報道を構築するのは、何だか違うんじゃないだろうか…」というところもあったのであえてお受けしてきましたが、何百回も取材をお受けする経験をしてきた中でもだんだんリスクの方が大きくなってきたので、これまでとはちょっと違う怖さを感じました。

被害者の中でも「風化してほしくない」という話をよく耳にしますが、当事者が語らなくなると風化するのは当然です。僕は「風化」という言葉はあまり好きではなくて、これまで取材のコメントの中でも使ったことがありません。なぜなら、例えば同じ4月25日に南海トラフのようなものすごい災害が発生した場合、この日は、あっという間に「南海トラフの日」に置き換わるからです。

 

おそらく自然災害の方が比べ物にならないぐらいの死傷者が出ることは容易に予想ができますが、では、そうなってしまったらJR事故の教訓や意味は無くなるのでしょうか?僕はそうは思っていません。なぜなら、そもそも根本的に伝える内容が違うからです。そして、人数では図ることができない、「人」が経験した教訓と生きる意味がそこにあるからです。風化をするかしないかは、そこしかありません。報道された回数が風化の指標であるのであれば時間とともに必ず風化しますし、それはどうにもなりません。僕自身も、過去の多くの事件事故を忘れて日々を過ごしています。ただ、いくつかの事件事故や戦争などの悲惨な過去の教訓の中で、「人」に思いを馳せることができることについてはずっと心の中に残り続けます。

 

何が心に残るのかは人によって違います。ある人にとっては、JRの事故がまったく心に残らなくても全然OKです。でも、もし僕がわざわざリスクを負ってでもお受けした取材の報道の中で、「この人が言っていることは何となく分かる」と感じてくれて、何か少しでも生きる勇気につながってくれたらと願ってお受けしています。おそらく妻も同じ思いで受けてくれているのではないかと感じています。そうでなければ、わざわざ自分の病気のことを顔と名前を出して報道される意味はありません。

 

この10年ぐらいの間に、テレビを観るということが激減しました。若い方の中にはテレビを持っていない人も多くいるようですし、まったく観ないという人がそれなりいるように感じています。我が家も、なぜテレビを観る人が減ってきたのか、何となくその理由が分からないでもない気がしています。

あくまでも僕個人の考え方ですが、上記のような経験をすると、自分の顔と名前を晒して全国に放送されるのに編集内容も見せてもらえないし、いつどんな番組に転用されるかも分からない取材を受ける意味があるのだろうか…という考えになるのは当然のことです。取材を受ける人がいなくなると、当然、片寄った意見のみの報道になるのでますます客観性がなくなりますし、そうなると報道そのものがされなくなり悪循環に陥ります。

 

さらに、大切に思っている内容であればあるほど、自分の身近な人に知ってもらいたいという思いがあるので、リスクとメリットを勘案すると、個人が発信をする配信で十分なのではないだろうかという結論に至ります。自分で発信するのもであれば、自分が納得できる形にまで推敲して配信することができる時代になりました。

 

しかしながら、メディアという媒体にはそれを補って余りある配信力と影響力がありますし、報道のプロの視点ならではの昇華のさせ方ができるという優位性がありますが、そこには、その「情報が正しい」という条件が伴います。

100%正しいなんていうことはどんなことにも有り得ませんが、前述のように、「今、話し合っている内容とは違う」という報道では、そもそもの報道機関としての立ち位置が揺らぐことになり、ますます一般の視聴者がテレビという媒体への期待が薄れていくのではないかと感じています。僕自身も、テレビという媒体に期待しながらも、すでに「正しい」と思う情報は、これまでのいわゆるメディア(テレビ・新聞)と言われる媒体には依存せずに、自分で情報源を選んで判断をするという方法になっています。

 

テレビという媒体が非常に怖いのは、台本が無い収録の中で、話をする素人が喋った一部分のみを本人のチェック無しにカットして編集されることで、そういうことがまかり通っている業界であるということです。事故直後の現場の映像も、何の許可も契約もなく勝手に撮られまくり、本人の許可無く生涯に渡って使い続けられます。ただ、言うまでもありませんが、動画には写真にはない説得力と分かりやすさがあり、それが無いと物事が正しく伝わらないという一面があるのも事実ですので、僕自身はある程度その意義については理解をしているつもりです。ただ、分かりやすい分だけ、間違った伝わり方も分かりやすく間違って伝わります。報道とは、正義であると共に暴力とも成り得る力を持ってる媒体です。

 

【「取材を受ける理由」~JR福知山線脱線事故から10年】

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