前記事の続き。



日本の教育が大切にするところと、
海外の教育が大切にするところに違いを感じる。



日本は、みんなと一緒に、
ひとつのなにかをつくりあげるっていう体験をすごく重視してるという印象。
特にイベント系。



運動会にしても音楽会にしても。



そして、その完成度の高さに感動し、そこにやる方も見る方も充足感を得るというか。



私もそう感じる。



子供の頃は、そういうのが好きだったし、
高いレベルの完成度を求められて、
それに向かってみんなで頑張って練習して、
それが認められた時には、
とても嬉しかったし誇らしかった。



そして、それが当たり前に、
そこら中に転がっていて、
きっと誰もが一度は経験するであろうほど、
そこらに用意されてるように思う。



そこに費やす時間も労力も半端ない。
そして、そこで、自分の個としての表現や存在よりも、
全体の一員としての表現や存在意義を学ぶ場がもれなくついてくる。



逆に、そこで個を前面に押し出してなにかを表現することは求められてないし、
やれる空気でもなければ、
誰もそれを求めてない。



それが当たり前の環境で生きてきたから、なんの不思議も感じなかったけど、



大人になった今は、
ものすごい偏りを感じる。



もちろんいい面もたくさんあるし、
そこで学ぶことはとてもたくさんあって大切なことがいろいろある。




でも、レイラを見ていると、
団体で何かをつくりあげる時に、
日本で求められるようなものは、求められてないかんじがする。



これを言葉で表現するのは難しい。



そして逆に、個の表現が自由にさせてもらえる環境にあると思う。



運動会ひとつとっても、日本なら、体操服に色別のハチマキとかだけど、



自分のチームカラーの服で、
動きやすい服装ならなんでもいいし、



兄弟がいれば、
兄弟はみんな同じチーム。
親もチームカラーの服で観に来る。
ファミリー思考もこういうところから自然とすり込まれていくんだろうなって思う。



世界中どこでも生きていけるような逞しさがほしいなと思ってるんだけど、
やはり日本人として生まれた特権として、
日本人の強みも身につけられたらいいのになと思う。



なんでもいいから、大勢の人たちと何かひとつのものを、高いレベルで仕上げるっていう経験をインドネシアでするにはどんなことがいいんだろうかなー



とかいろいろ考える。