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革命歌で精神病は治るのか

「人民画報」1969年3月号は、遼寧省復州人民公社にある聾啞学校の生徒たちが人民解放軍3125部隊から派遣された毛沢東思想医療・衛生工作隊の治療によって「毛主席万歳!」と叫ぶことができるようになった、というキャンペーン記事を載せた。

生徒たちの声が出るようになったのは、3125部隊の医療チームにも同行した趙普羽という衛生兵が、その3カ月前に「実践論」の学習によって治療のツボを発見したからだ。別の報道によれば、針治療によって「毛主席万歳」を叫ぶことのできるもの90%、簡単な会話60%、東方紅を歌えるもの38%……だという。
(草森紳一著「中国文化大革命の大宣伝・上」より)

草森氏の著書にはパキスタン外相から毛沢東にプレゼントされたマンゴーが神格化され、全国巡回の旅に出て、ホテルに泊まり、腐ると困るのであげくの果てに蝋細工(!)バージョンが作られたというエピソードも紹介されている。

狂っている。だが、大昔の話だと笑ってもいられない。最近、中国では「紅歌療法(革命歌療法)」なる精神病の治療法が話題になっているからだ。

四川省資陽市の資陽精神病院は09年春、毎週日曜の午後3時に患者を集めて歌を唱わせる活動を始めた(↓)。そもそもの狙いは、昼寝あけの患者たちの頭をすっきりさせ、その後の一週間の出来事を振り返る会議の中身を充実させることにあった。

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資陽精神病院のもう1つの名前は「資陽退役軍人精神病院」である。患者の大半は40歳以上で当然ながら退役軍人が多い。退役軍人ばかりとなると、歌う歌は当たり前のことながら紅歌が多くなる。

当初は治療目的ではなかったが、病院職員の眼は明らかに「治療効果」が現れたように映った。57歳の患者、蒋朝興は「紅歌を歌ったあとはずっと気分がいい」と話した。

病院は09年11月に院内歌謡大会を開き、患者10人が参加した。地元紙の資陽日報が「紅歌治療」について報じた記事がネットでコピペされまくり、やがて病院に対して批判が集まるようになった。「紅歌を歌うのは治療の補助的手段にすぎない」と陳徳平院長は話している――。(南方週末より

文革中の71年8月、人民日報が「毛沢東思想によって精神病を治す」と題して湖南省の精神病院が患者に毛沢東思想を学ばせて病気を治した、と報じた。中国ネチズンは今回の「紅歌治療」もこの人民日報の記事と同じ、大まじめに報じた資陽日報の記者がビョーキなのでは?とこき下ろしている。

「紅歌」は共産党統治の正統性を高らかに歌い上げる。だから現政権は「紅歌」を神聖かつ不可侵な存在として祭り上げる。資陽精神病院の「治療」が笑いものになることで紅歌、ひいては共産党そのものの正統性に傷がつくことがあってはならない――と当局が判断したからかどうか、ネット上からはこの南方週末の記事以外の「紅歌治療」の記事は消えている。

もちろん「紅歌」だから治療があった、というのはでたらめだ。歌を大声で歌うという行為が精神の高揚をもたらし、病気の改善に一役買ったと考えるべきだろう。

ただ元解放軍兵士たちにとって、紅歌とそれが象徴する中国共産党(あるいは毛沢東的なもの)が、未だに自らの「信仰」の中心にあって、それが「治療」に役立った、という側面もあるかもしれない。「信じる者は救われる」である。

大半の人間には何か信じるものが必要である。それが人によってはキリストだったり、ブッダだったり、天皇だったり、麻原彰晃だったりする。これらの対象にすべてをゆだねることで、人は精神的な安定を得ることができる。

紅歌が治療に利用できる、という発想が明らかに宗教的である(麻原彰晃の風呂の残り湯を薬として飲んだようなものだ)。当の元解放軍兵士は当然として、その記事を書いた記者、そして読んだ読者に「紅歌」「共産党」「毛沢東」に対する宗教的依頼心がどれだけあるのか。

ネットでこんなに話題になったところを見ると、一定のニーズはあるのかもしれない。とすると、胡錦涛・温家宝コンビの「国父」「国母」イメージキャンペーンもまんざら的外れではない、ということになる。

天安門の学生リーダー李録の数奇すぎる人生

いささか旧聞のたぐいに属するし、かつ新聞もすでに報じているので「新聞が取り上げない中国ニュースを拾い読み」という看板からは外れるが、それでもこのニュースと人物について書きたい。こんな数奇な運命を歩んだ人を寡聞にして知らない。

李録は1966年、中国河北省唐山市で生まれた。66年は北京大学に壁新聞が貼られ、紅衛兵が紅衛兵を名乗り始めた文化大革命発動の年。まだ9ヶ月だった李を残して両親は労働改造所に送られ、いくつかの家族の間を転々としたあと、炭鉱夫の家に引き取られた。李が両親と再会するのは彼が10歳のとき、1976年である。

両親と再会できたその年の7月28日、唐山市を襲ったM7・8の大地震で24万人が死亡。彼とその家族は命に別状はなかったが、両親不在の間に彼を育ててくれた炭鉱夫とその家族は命を落とした。先の見えない人生に自暴自棄になった李は街で喧嘩を繰り返す日々を送った。

そんな彼を変えたのは、唐山市で初めて大学に入学した女性だった彼の祖母だった。祖母は彼を叱咤激励し机に向かわせた。その後、李は南京大学物理学部に合格した。

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89年初夏、天安門事件が再び李の運命を大きく変える。南京からやってきて天安門広場のハンストに参加した李は(上の写真右端)、6月4日の武力鎮圧の後まずフランスへ逃亡。その後アメリカに渡り、コロンビア大学に入学。経済学士、法学士、ビジネス管理学修士の3つの学位を取得した後、97年にヘッジファンド「ヒマラヤパートナーズ」を設立した。

そもそも中国人として金融やマーケットというものに懐疑的だった李の眼を開かせたのが、投資家のウォーレン・バフェットだった。93年にコロンビアでバフェットの講演を聞いた李は投資に対する偏見を捨て、民主化運動に関する著書の印税の運用を始める。96年に大学院を卒業するころ、李はその時点で「引退」できるほどの資産を稼ぎ出していた。

03年、李はバフェットの片腕のチャーリー・マンガーと知り合い、バフェットの投資持株会社バークシャー・ハサウェイの主要な出資者の1人となる。李の仲介でバフェットは08年以来中国の電池・自動車メーカーBYDに投資を続け、12億ドルの利益を上げている――。(WSJ紙などから)

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WSJは7月30日、李がバフェットからバークシャー・ハサウェイを引き継ぎ、彼の後継者になると報じた。バフェットはいわずと知れた「賢人投資家」。長期的な観点に基づく投資で世界にその名を知られ、金融危機の到来を予言した人物でもある。フォーブスによれば、現在世界第3位の金持ちだ。

李の経歴を見る限り、相当タフな精神の持ち主であることが分かる。多くのウォール街の投資家たち同様、理系出身であることも投資活動のうえで有利に働いたはずだ。その金融の才能は疑うべくもない。6・4事件で海外に逃亡した民主活動家で彼ほど成功している人はいない。

バフェットが彼を後継者に選んだのは、もちろんその能力が第一の理由だろうが、中国人であるという点も動機だったのではないか。BYDへの投資成功はポイントが高かったはずだ。

ただ李録は6・4事件で指名手配された21人の民主活動家の1人である。よくBYDの株式購入に中国政府の横槍が入らなかったと思うほどで、「帰りたくても帰れない」ウルケシ同様入国できないはず……と思っていたら、WSJ紙の記事によると、「限定的な原則に基づいて中国を旅行できる」のだという。

天安門事件の再評価を認めない以上、中国政府が事件の象徴である21人に対する厳しい態度を崩す理由はない。だが李はBYDの非公式なアドバイザーも務めている。中国政府の少なくとも黙認がなければ、BYDは李と関係できないはずだ。

ウルケシと李録に対する対応の差は、単にカネのあるなし故なのか、それとも他に理由があるのか(例えば少数民族問題)。李録のバフェット後継指名が「6・4平反」のきっかけになるのだったら、かなり面白い。

「小さな村の小さなダンサー」の美しすぎるバリエーション

中国バレエといえばいまだに「紅色娘子軍」を思い浮かべる読者も多かろう。地主vs貧農の娘+人民解放軍……というとてもとても分かりやすい構図の物語に京劇テイストをまぶした、見ようによってはおどろおどろしい舞台芸術なのだが、そのドロドロぶりが「お好きな」中国ウォッチャーにはたまらないらしく、今でも中央バレエ団が演じている。

もちろん、現在の中国バレエが「紅色娘子軍」や「白毛女」といった革命バレエばかりやっているわけではもちろんない。むしろクラシックバレエやコンテンポラリーダンスでの存在感が、その経済力に比例して高まりつつある。

それをもっとも如実に表しているのが、73年に始まった世界の新人バレエダンサーの登竜門ローザンヌ国際バレエコンクールの入賞者数だ。80年代以降10年ごとの日本と中国の入賞者数は

80年代 日本15人、中国4人
90年代 日本21人、中国1人
00年代 日本16人、中国8人

と、日本に迫る勢いで増えている(このデータもそのときどきの国際社会における中国の国力の盛衰を反映していて面白い。80年代に4人というそれなりの数字を維持したのは、文革が終わり、改革開放で国民のエネルギーが解放されたことが背景にある。それが90年代にダウンしたのは、あきらかに天安門事件がもたらした国際的孤立と無縁ではない)。

さて、本題である。山東省の片田舎から見いだされ、文革に翻弄されながら北京舞踏学院で学んで後にアメリカに「亡命」したバレエダンサー李存信(リー・ツォンシン)を描いた映画「小さな村の小さなダンサー」が8月、日本で公開される

留学先のヒューストンバレエ団で自由に踊ることに目覚め、アメリカ人の恋人と電撃入籍してグリーンカード取得を目指したが中国領事館に阻まれ、それが国際問題になって鄧小平と父ブッシュの直談判でアメリカに残ることになったが……という李の波乱の生涯を描いた映画、である。やや古くさい演出(何だか80年代の映画みたいだった)は気になったが、ストーリーはそれなりには楽しめた。

むしろ(というかやはり)圧巻だったのはバレエシーン。李の役は現在バーミンガムバレエ団でプリンシパルを務める中国人ダンサーの曹馳(ツァオ・チー)が演じているのだが、劇中でけがをしたプリンシパルの代役として踊るドン・キホーテのバジルのバリエーション(バリエーションはソロダンスの意味)を見ていて、その鬼気迫る踊りぶりに(陳腐な表現で申し訳ないが、こうしか言いようがない)背筋に電流が流れた。



バジルのバリエーションといえば、熊川哲也16歳のローザンヌの映像(↓)が有名だが、個人的には曹の踊りは熊川を超えていると思う。



16歳で天才的才能を認められた熊川哲也だが、プリンシパルとして迎えられたはずの英ロイヤルバレエ団ではついに実力を完全には発揮しきれなかった。同じ日本人の吉田都がほぼ完全燃焼して退団したことを考えれば、それはレイシズムの類ではないだろう。

バレエはあくまで女性が主役であり、男は脇役に過ぎない。そのことをよく理解して世界に愛されたのが昨年パリのオペラ座を退団したマニュエル・ルグリだったように思う。その対局が熊川哲也で、彼がロイヤルバレエ団でうまくいかなかったのは、その押しの強さ(というかアクの強さ)ゆえではないか。16歳のローザンヌで既に熊川はコメンテーターにそれを指摘されていた。Kバレエ団が明らかに男が主役のカンパニーであることを見てもそれは明らかだ。

中国人は本来日本人よりずっとアクが強い国民性のはずだが、中国人ダンサーである李にも曹にも、熊川の「アク」はない。それが右肩上がりの国力を背景にした「余裕」から生まれるものなのかどうか定かではない。ただこれから曹のようなダンサーがどんどん生まれるなら、世界のバレエ団のプリンシパルに中国人が占める割合も右肩上がりになっていくはずだ。

曹馳のドンキは、バレエも中国人のものになる時代の始まりを告げているのかもしれない。