天安門の学生リーダー李録の数奇すぎる人生
いささか旧聞のたぐいに属するし、かつ新聞もすでに報じているので「新聞が取り上げない中国ニュースを拾い読み」という看板からは外れるが、それでもこのニュースと人物について書きたい。こんな数奇な運命を歩んだ人を寡聞にして知らない。
李録は1966年、中国河北省唐山市で生まれた。66年は北京大学に壁新聞が貼られ、紅衛兵が紅衛兵を名乗り始めた文化大革命発動の年。まだ9ヶ月だった李を残して両親は労働改造所に送られ、いくつかの家族の間を転々としたあと、炭鉱夫の家に引き取られた。李が両親と再会するのは彼が10歳のとき、1976年である。
両親と再会できたその年の7月28日、唐山市を襲ったM7・8の大地震で24万人が死亡。彼とその家族は命に別状はなかったが、両親不在の間に彼を育ててくれた炭鉱夫とその家族は命を落とした。先の見えない人生に自暴自棄になった李は街で喧嘩を繰り返す日々を送った。
そんな彼を変えたのは、唐山市で初めて大学に入学した女性だった彼の祖母だった。祖母は彼を叱咤激励し机に向かわせた。その後、李は南京大学物理学部に合格した。

89年初夏、天安門事件が再び李の運命を大きく変える。南京からやってきて天安門広場のハンストに参加した李は(上の写真右端)、6月4日の武力鎮圧の後まずフランスへ逃亡。その後アメリカに渡り、コロンビア大学に入学。経済学士、法学士、ビジネス管理学修士の3つの学位を取得した後、97年にヘッジファンド「ヒマラヤパートナーズ」を設立した。
そもそも中国人として金融やマーケットというものに懐疑的だった李の眼を開かせたのが、投資家のウォーレン・バフェットだった。93年にコロンビアでバフェットの講演を聞いた李は投資に対する偏見を捨て、民主化運動に関する著書の印税の運用を始める。96年に大学院を卒業するころ、李はその時点で「引退」できるほどの資産を稼ぎ出していた。
03年、李はバフェットの片腕のチャーリー・マンガーと知り合い、バフェットの投資持株会社バークシャー・ハサウェイの主要な出資者の1人となる。李の仲介でバフェットは08年以来中国の電池・自動車メーカーBYDに投資を続け、12億ドルの利益を上げている――。(WSJ紙などから)
*

WSJは7月30日、李がバフェットからバークシャー・ハサウェイを引き継ぎ、彼の後継者になると報じた。バフェットはいわずと知れた「賢人投資家」。長期的な観点に基づく投資で世界にその名を知られ、金融危機の到来を予言した人物でもある。フォーブスによれば、現在世界第3位の金持ちだ。
李の経歴を見る限り、相当タフな精神の持ち主であることが分かる。多くのウォール街の投資家たち同様、理系出身であることも投資活動のうえで有利に働いたはずだ。その金融の才能は疑うべくもない。6・4事件で海外に逃亡した民主活動家で彼ほど成功している人はいない。
バフェットが彼を後継者に選んだのは、もちろんその能力が第一の理由だろうが、中国人であるという点も動機だったのではないか。BYDへの投資成功はポイントが高かったはずだ。
ただ李録は6・4事件で指名手配された21人の民主活動家の1人である。よくBYDの株式購入に中国政府の横槍が入らなかったと思うほどで、「帰りたくても帰れない」ウルケシ同様入国できないはず……と思っていたら、WSJ紙の記事によると、「限定的な原則に基づいて中国を旅行できる」のだという。
天安門事件の再評価を認めない以上、中国政府が事件の象徴である21人に対する厳しい態度を崩す理由はない。だが李はBYDの非公式なアドバイザーも務めている。中国政府の少なくとも黙認がなければ、BYDは李と関係できないはずだ。
ウルケシと李録に対する対応の差は、単にカネのあるなし故なのか、それとも他に理由があるのか(例えば少数民族問題)。李録のバフェット後継指名が「6・4平反」のきっかけになるのだったら、かなり面白い。
李録は1966年、中国河北省唐山市で生まれた。66年は北京大学に壁新聞が貼られ、紅衛兵が紅衛兵を名乗り始めた文化大革命発動の年。まだ9ヶ月だった李を残して両親は労働改造所に送られ、いくつかの家族の間を転々としたあと、炭鉱夫の家に引き取られた。李が両親と再会するのは彼が10歳のとき、1976年である。
両親と再会できたその年の7月28日、唐山市を襲ったM7・8の大地震で24万人が死亡。彼とその家族は命に別状はなかったが、両親不在の間に彼を育ててくれた炭鉱夫とその家族は命を落とした。先の見えない人生に自暴自棄になった李は街で喧嘩を繰り返す日々を送った。
そんな彼を変えたのは、唐山市で初めて大学に入学した女性だった彼の祖母だった。祖母は彼を叱咤激励し机に向かわせた。その後、李は南京大学物理学部に合格した。

89年初夏、天安門事件が再び李の運命を大きく変える。南京からやってきて天安門広場のハンストに参加した李は(上の写真右端)、6月4日の武力鎮圧の後まずフランスへ逃亡。その後アメリカに渡り、コロンビア大学に入学。経済学士、法学士、ビジネス管理学修士の3つの学位を取得した後、97年にヘッジファンド「ヒマラヤパートナーズ」を設立した。
そもそも中国人として金融やマーケットというものに懐疑的だった李の眼を開かせたのが、投資家のウォーレン・バフェットだった。93年にコロンビアでバフェットの講演を聞いた李は投資に対する偏見を捨て、民主化運動に関する著書の印税の運用を始める。96年に大学院を卒業するころ、李はその時点で「引退」できるほどの資産を稼ぎ出していた。
03年、李はバフェットの片腕のチャーリー・マンガーと知り合い、バフェットの投資持株会社バークシャー・ハサウェイの主要な出資者の1人となる。李の仲介でバフェットは08年以来中国の電池・自動車メーカーBYDに投資を続け、12億ドルの利益を上げている――。(WSJ紙などから)
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WSJは7月30日、李がバフェットからバークシャー・ハサウェイを引き継ぎ、彼の後継者になると報じた。バフェットはいわずと知れた「賢人投資家」。長期的な観点に基づく投資で世界にその名を知られ、金融危機の到来を予言した人物でもある。フォーブスによれば、現在世界第3位の金持ちだ。
李の経歴を見る限り、相当タフな精神の持ち主であることが分かる。多くのウォール街の投資家たち同様、理系出身であることも投資活動のうえで有利に働いたはずだ。その金融の才能は疑うべくもない。6・4事件で海外に逃亡した民主活動家で彼ほど成功している人はいない。
バフェットが彼を後継者に選んだのは、もちろんその能力が第一の理由だろうが、中国人であるという点も動機だったのではないか。BYDへの投資成功はポイントが高かったはずだ。
ただ李録は6・4事件で指名手配された21人の民主活動家の1人である。よくBYDの株式購入に中国政府の横槍が入らなかったと思うほどで、「帰りたくても帰れない」ウルケシ同様入国できないはず……と思っていたら、WSJ紙の記事によると、「限定的な原則に基づいて中国を旅行できる」のだという。
天安門事件の再評価を認めない以上、中国政府が事件の象徴である21人に対する厳しい態度を崩す理由はない。だが李はBYDの非公式なアドバイザーも務めている。中国政府の少なくとも黙認がなければ、BYDは李と関係できないはずだ。
ウルケシと李録に対する対応の差は、単にカネのあるなし故なのか、それとも他に理由があるのか(例えば少数民族問題)。李録のバフェット後継指名が「6・4平反」のきっかけになるのだったら、かなり面白い。