NYのブログ -46ページ目

消費税と民主党分裂

今週の政治の一番の話題は消費税の増税関連法案の採決であった。


衆議院の採決において、与党である民主党から、反対票を投じた議員が57人、棄権・欠席をした議員が16人となったとのことである。


法案の内容を党内で纏めることができないのに、自民党、公明党の賛成によって採決を通過させたことが政治の混迷を表している。以前、マニフェスト違反と自民党の谷垣総裁は批判していたのに、法案採決に賛成とは、ダメだこりゃって感じになってきた。


政党政治は党利党略で動いていますって感じの分かりやすい議員たちの行動に、あきれ返っている人々も多いのではないか。政党の看板が無いと選挙で落とされるような議員は必要なのだろうか?


野田首相には解散するカードがあるのだから、自民党・公明党との談合政治を行うなら、先に解散して消費税の必要性とその内容を選挙で訴えたら話も分かるのだ。野田代表のもと、法案を通過させる前に選挙すべきだった。


このような状況で、次の選挙での争点は何になるだろうか。国民は納税の義務を負っているのだから、増税内容こそ選挙の争点にすれば、選挙の投票率も上がり、国民の考えが反映する政治を行うことになるはずである。民意不在で政治を進めるなら、選挙は有名無実となっていくだろう。民主主義を標榜する看板を掲げる二大政党が何をやっているのだろう。


政治は多数決であると考える方がいるかもしれないが、私は、まず、政治家は一人一人が国民の代表として国政の議論に参加すべきであると考える。多数派形成に苦心しているようでは、国会での議論が形式的なものであると知らしめているようである。正しい議論の元においても個人の意見が変わること当然であるが、多くの場合、多数派側にいることが多く、矛盾だらけの発言の政治家はいらない。正しいことが議論によって見えてくるような政治を行うべきであろう。


そもそも、財政健全化に消費税がよいのだろうか?以前のブログで、これまでに所得税の累進性が緩和してきたことを書いたが、財源となる税は消費税しかないわけではない。宗教法人に対する課税や配当所得に対する課税もある。これまで、日本国民は所得の中間層以下のほうが多いのに、なぜ、富裕層に恩恵がでる税制を進めてこれたのだろうか?


多くの国民がもっと税金について勉強すべきと感じる。その上で、納税の義務を果たすべきである。徴税こそが国家を運営する財源であり、不公平な(格差の拡大がとまらない)税制こそ国民同士に不満をくすぶらせることになる。だからこそ、政治家が新たな税制をしっかりと説明しなければならないのである。国民の不満が思わぬ形で事変となることもあるのだから、政治家の説明責任は重い。



今日の多くの新聞は、恐らく、読者数減少に伴い、記者や論説員を減らしてきているのではないか、質が落ちてきていると感じる。だから、多くの個人が、ツイッターやブログで個人の意見を言うことも言論の基礎となりえる時代になったのではないか。匿名であるネットの発言においても、賛同できる内容も散見する。自分の考えと似た集団を形成することを目的にするのではなく、正しさをどこに見出すかこそ個人の問題とすべきである。民意の中にも多様な意見があることに慣れるのにネットは役立つ、異なる意見を拒絶するのではなく、どうして異なるのかを考えれるきっかけにしたい。


政治において正しいとは期待した結果(正しい結果)が得られることであろう。民主党のマニフェストに期待を寄せて投票したが、結果は期待はずれであったという訳である。小沢一郎代議士の思惑は量りかねるが、現状では、期待してみたいと思えるとところがある。民主党の分裂は避けられないだろうが、その際のメディアの反応を見ていると面白いかもしれない。メディア自体にも思惑ありということを。


多くの国民が変化を期待しているが、単なる政権交代による不満のガス抜きではでは無いということである。










非連続こそが政治の役割とは無責任すぎやしないか

久々に、橋下市長ツイートに不快感を覚える。

JBPRESS上の池田信夫氏の『記事ムーアの法則が「家電」を破壊する』(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35513 )を例に出して以下のようなツイートをしている。




+++++++++++++ t_ishin 橋下徹+++++++++++++

2012年06月22日(金) 32 tweets

橋下徹 ‏@t_ishin
非連続こそが政治の役割・本質。多くは連続性・行政の役割だが、肝心要のところでは非連続の政治が必要。政権交代は約束を破るメカニズム RT @JBpress: ムーアの法則が「家電」を破壊する 日本企業に必要なのは「約束を破るメカニズム」
http://goo.gl/KXNvm

(上記の参照は:http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35513

++++++++++++++++++++++++++++++++



非連続こそが政治の役割・本質”、“政権交代は約束を破るメカニズム”これで、責任を持って政治を行ってくれるのか。政治に対する不信感がこれでなくなるのだろうか。


政策を実行するには説明責任が求められると思うが、仮に、“非連続こそが政治の役割・本質”であるならば、政策の変更の説明はいらないではないか。これでは無責任の連続になってしまうのではないか。


しかし、橋下市長を支持する人々はこのような言葉こそ惹かれるのではないか。現状の政治に不満を抱く人の中には、橋下市長の変革を期待しているからである。


確かに、現状の政治に不満には賛同できるが、橋下市長の発言からは信頼に足りる言葉が見当たらない。言葉流暢にまくし立てていても、冷静になって、前後の文脈を読めば、刺激的な言葉で大衆を扇動しているだけのように見える。


池田信夫氏の記事も、民間企業では、しがらみのない役員にしてコストカットすることで、企業単体での利益を確保し、ムーアの法則のごとく効率化を進めるべきだといいたいのだろうが、効率化を進めた結果が現在のデフレ経済となっている可能性については言及せず無責任だ。


物事には、良い面と悪い面がある、企業のリストラは企業単体では株主利益の拡大につながり良いことに見えるが、国家レベルではリストラになった人の再就職が決まらなければ、労働力がある人が働かないでいる状態であり、効率的とは言えない。


電機業界もエコポイントのおかげで潤ったこともあったわけだが、その際に、そのような会社に勤める高額な所得をもらう人のほうがより恩恵を受けたことになるだろう。これは、高額報酬者ほど国内経済の恩恵をより多く享受していることの例のひとつ、国内景気がよくなれば、高額報酬者ほど所得増加が大きいことは想像できるだろう。すなわち、そのままでは、格差が拡大してしまう。格差を無くす(ゼロにする)のではなく拡大しないための税制が必要なのである。


格差が拡大する中で経済が動いてきたのがこれまであるが、更なる格差拡大は公共料金が高止まりする中で、可処分所得の減少がデフレを後押しし、消費税の税収も落ち込むことになるだろう。格差を増大させないためには、課税の累進性の見直し(調節)しかないだろう。


格差が少なくなることで、経済効率が増す。格差が大きい場合には、品揃えを高額品から低価格品までそろえることになること、各価格帯の消費者のボリュームが小さくなり投資妙味が小さくなること、価格競争が激化することなど考えられる。



話を橋下市長の“非連続こそが政治の役割・本質”に戻す。

この人は、どこまで、自分の発言を理解しているか疑問である。“こそ”とは強調を意味するのであり、つまり、「“政治の役割・本質”はいくつかあげられるが、中でも“非連続こそ”重要である」といっていることになるだろう。“政治の役割・本質”とはそのようなもであると思えない。



“政治の役割・本質”とは、国民(市民)の間の利害調整と実施する予定の政策の必要性、有効性について議論とその政策による結果の評価を行うことであると考える。





関係ないが小沢氏の元妻による文春の醜聞記事が出てきたのは、解散選挙が近いことを意味していると考える。今年中に解散するのではないか。小沢氏のイメージが悪くなっている間に選挙を行えば、小沢氏の政治力を抑えることができる。私としては小沢氏が宗教法人への課税強化をはっきり言明するのであればその点は賛同する。元妻の評判が、ネットに落ちている情報の通りなら、小沢氏と某宗教とのしがらみが切れたのだろうと期待したいところである。






政策を変更するならば、これまでの政策を変更する理由を説明することが当然要求される。原発問題では、橋下市長は刺激的な発言を繰り返してきたのに、最後は、大飯原発再稼動を“容認”するとのことであった。

格差社会と累進課税率推移と消費税


今年になって、日経平均は1月5日に8,500円台から始まり、バレンタイデー2月14日には日銀の金融緩和の一段の強化によって、上昇基調が加速し、3月の株式配当の権利確定日であった3月27日には、高値10,255円をつけて、その後、ギリシャ不安の再燃等により、今度は一転下げ基調となり、6月4日には8,200円台、まさに行って来いの展開であった。


テレビ東京の経済ニュース番組WBSに出演するコメンテーターは、金融緩和と財政健全化のため、消費税増税を訴えることがしばしばあるが、しかも、TPPにも肯定的であることがほとんどなのである。経済界の意向を如何にも正しそうに説明するからすばらしい。


今日の日本のデフレは、グローバル経済における構造的問題であり、一国の金融政策でインフレにできることではないと考えるべきだ。これから、他の先進諸国も日本に追従することになるのではないか。そもそも、金融の量的緩和は投機的な株価や金・コモデティの乱高下につながっているだけなのではないか?


為替介入で外需産業を守るより、内需産業の優遇税制を行うべきだ


今年、2月2日には1ドル=76円台であったのが、3月21日には83円台となるのだが、決算期に向けて、輸出産業の外貨から邦貨への円転のために円安誘導しているのようにも思える動きであった。


為替介入が行われることによって、輸出産業は円での利益を目減りが少なくて済むことになるから、為替介入は利益を補填しているのと同じことである。また、自動車産業はエコカー補助金で補填してもらっているような状態(デフレ下に値引きせずに売ることができる)である。それでもエコカー補助金のほうが為替介入よりましである。


薄型テレビは価格競争の激化により、シャープやパナソニック、ソニー等の電機メーカーは業績悪化が明らかになり、その裾野である日本の部品メーカー各社にも影響していくのだろう。すでに、テレビに使われる多くの部品が海外生産となっている中で、更なる、日本国内の産業空洞化の懸念が起きている。


80円という円高にもなれてしまってきている中、今後も外需頼みであれば、投資先が国内より海外中心となり、折角の金融緩和も資金が国外へ流れるので、国内産業への投資は衰退し、国内市場も縮小するという悪循環となるのではないか。すでに、この円高では輸出で儲け少なくなっているのに、TPPにより、内需を(円高状態では日本での稼ぎは自国で稼ぐより儲けが出やすい)外資系企業に明け渡すようなことになれば、日本の労働条件・環境において、格差がさらに広がるのではないか。


経営の効率化のためのコストカッターは経済規模を縮小させる


円高の対策として多くの企業が行っているのは、徹底的なコストカットであり、産業ロボット等の導入により、少ない人数で工場を稼動できるようになってきている。これは、良い事なのだろうか?


産業ロボットは電気が供給できれば文句も言わず動き続けるし、人のように賃金アップやリストラ対策のための組合活動などもしない。しかし、産業ロボットは電気は消費するが、それ以外の国内の消費経済には殆ど寄与しない。すなわち、労働者を減らすことで、その企業単体では効率的な経営となり、その企業の社員の給料は増加するが、一方で、もっと大きな視点で見れば、効率的経営が進めば、新たな産業が生まれない限り労働市場が縮小することになり、これは、そのうち消費経済市場の縮小に繋がる。


効率化が進めば人は要らなくなる。現に、日本国内の自殺者数はここ14年連続で3万人を超えていることは、死ぬ以外の行き場を失った人が如何に多いかを示している。


所得税の累進性を確認しよう


「所得税の税率構造の推移 財務省」(http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/income/035.htm

によると、昭和63年までは最高税率60%であった。


NYのブログ-所得税税率構造推移(表)
上記の水色の領域をグラフ作成したのがしたのグラフである。
NYのブログ-所得税税率構造推移(グラフ)
平成元年から平成19年への税率変更では、例えば、所得2000万円の人は10%(200万円)減額となる、一方、所得400万円の人は減額なし、また、所得100万円の人は5%(5万円)減額となる。(2014年1月7日;所得税の勉強不足でしたので、修正します。)



所得2100万円の人の場合、平成元年では2000万円を超過した部分について50%、平成19年度では1800万円を超過した部分について45%となるので、平成元年では2000万円から2100万円の部分の所得税は50万円、一方、平成19年度では2000万円から2100万円の部分の所得税は45万円となり、2000万円超から2100万円の部分(100万円について所得税は5万円の減額となります。


所得400万円の人の場合、平成元年では300万円超から600万円の部分について20%、平成19年度では195万円超から330万円の部分について10%、330万円超から695万円の部分について20%なので、平成元年では300万円超から400万円の部分の所得税は20万円、一方、平成19年度では300万円超から330万円の部分の所得税は3万円、330万円超から400万円の部分の所得税は14万円となり、300万円超から400万円の部分の所得税は合計17万円となるので、300万円超から400万円の部分100万円について所得税は3万円の減額となります。


所得100万円の人の場合、平成元年では0万円超から300万円までの部分について10%、平成19年度では0万円超から195万円の部分について5%なので、平成元年では0万円超から100万円の部分の所得税は10万円、一方、平成19年度では0万円超から100万円の部分の所得税は5万円となるので0万円超から100万円の部分100万円について所得税は5万円の減額となります。


どうですか、格差社会となる原因が見えてきませんか?仮に最高税率を1億円以上の所得に税率を100%としても、1億円以上所得があっても、所得税で全額持っていかれるわけではないのです。


その一方で、消費税はWikipediaによると

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(消費税 - Wikipedia)から抜粋

1989年(平成元年)4月1日 - 消費税法施行 税率3%
1997年(平成9年)4月1日 - 村山内閣で内定していた地方消費税の導入と消費税等の税率引き上げ(4%→地方消費税を合わせて5%)を橋本内閣が実施。
「福祉を充実させる」という名目であった。

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である。


消費税導入後、税目別の税収の推移(下記グラフ)をみると景気が減速しているのが分かる。平成元年は消費税の導入の一方で、所得税率が引き下げられているため、すぐに景気が落ち込んではいないが、平成2年には減速傾向となり、平成3年には景気後退期に入っている。


「税制について考えてみよう 財務省」(http://www.mof.go.jp/tax_policy/publication/brochure/zeisei_pdf2011/2310_1219.pdf


NYのブログ-税目別税収推移



このような経緯で現在の格差社会が生じてきたのである。


6月4日には、野田首相は消費税増税のためだけに内閣改造してきたのであるが、そのタイミングで、橋下大阪市長のツイートが再開し、原発再開問題で民主党対立し、自民党、公明党に擦り寄ってきていたのに、急に方向転換している。橋下市長の役割がなんであろうかは想像できるのではないか。


しかも、毎日新聞のおかしな世論調査

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[世論調査橋下市長「支持」54% 知事時代より低下- 毎日jp]

(http://mainichi.jp/select/news/20120605k0000m010047000c.html )

毎日新聞 2012年06月05日 02時30分(最終更新 06月05日 02時54分)


橋下徹・大阪市長=竹内紀臣撮影 毎日新聞は2、3両日、19日に就任半年を迎える橋下徹・大阪市長に関して、大阪府民と大阪市民を対象にMBSと合同で世論調査を実施した。市長を「支持する」とした市民は54%。高水準を維持しているが、大阪府知事時代に実施した計4回の調査より低かった。市長率いる大阪維新の会が次期衆院選に候補者を立てた場合の比例代表の投票先を尋ねたところ、府民では37%(2、3両日の全国調査は28%)が維新と答え、民主党(7%)や自民党(10%)を圧倒して首位だった。 

 市長を「支持しない」のは16%で、知事時代の調査より高い。府民全体では「支持する」60%、「支持しない」12%で、市民より支持率が高いが、知事時代よりは低かった。

 市民が支持する理由は「改革にスピード感がある」54%▽「指導力がある」22%▽「政策に期待できる」19%--で、不支持の理由は「政治の手法が強引」50%▽「急激に物事を変えすぎている」21%▽「政策に期待できない」15%--と続いた。

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その翌日には、

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[世論調査大阪府内で支持率60%… 橋下・大阪市長の人気、男高女低- 毎日jp]

(http://mainichi.jp/select/news/20120606mog00m010007000c.html )

2012年06月06日

 橋下人気は「男高女低」--。毎日新聞とMBSが2、3日に実施した合同世論調査では、橋下徹・大阪市長の支持率は、大阪府民全体では60%(大阪市民は54%)だったが、性別で見ると男性の66%に対し、女性は57%で9ポイントの差が出た。年代別では30代が73%で最も高かった。【藤田剛】

 府知事時代の調査(11年1月)では、男性が69%、女性が56%と支持率に13ポイントの差があった。やや縮まったとはいえ、「男高女低」の傾向は続いている。

 テーマ別では、大阪都構想を「支持する」と答えた府民は、男性で47%、女性で25%と2倍近くの差。住民サービスや人件費のカットによる財政再建には、男性の66%、女性の60%が支持。大飯原発の再稼働を限定的に容認した姿勢には、男性の55%、女性の50%が支持した。

 一方、年代別の支持率(府民)は、30代・73%▽40代・56%▽50代・54%▽60代・64%▽70代・59%--で、世代を超えて幅広い支持を集めている。

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と結果も印象も異なるニュースを報じている。

橋下市長言い争った女性記者のいるMBSと合同世論調査の結果なので信じられるのかな?


未だに、橋下市長を信心している人もいてもおかしくはないが、民意は流動的である。ネット上の雰囲気は変わってきていると思うのだが・・・。


『我思う、ゆえに我あり』では、

『我思う、ゆえに我あり』

哲学者デカルトのこの有名な言葉は、私が覚えた最初の哲学の言葉だったと思う。小学生の高学年までには、誰かから聞いたような、・・・あいまいな記憶しかないのだが、印象だけは強く残ったし、その後も、見聞きする機会もあった。


ちなみに、悩みを抱えることになった青春時代には、“何を精神的な支柱にすべきなのか”ってことで思いを迷わすことも多かった。実際は、“精神的な支柱”などとかっこ良い言葉ではなく、漠然とした自分自身や社会に対する不安を感じ、それまでの知識を使って自分はどうあるべきかっていろいろと考えていたのである。それこそ、『我思う、ゆえに我あり』って感じであったのであるが不安は払拭できなかった。


考えるのは好きなほうなので、これは白昼夢なのではってくらい・・・、考えが展開していくのに任せていた時もあったような・・・。よく、百科事典で、宗教や思想、哲学に関係する項目をパラパラ眺めていたときもあった。


その過程で仏教の『自力本願』という言葉に出会い、これこそが自分にしっくりとするものであることに気付かされた。“自力本願”という言葉に大人びたかっこ良さを感じていただけかもしれないが、その後の人生に、影響を与えた言葉との出会いであることには違いない。


なんとなく、『我思う、ゆえに我あり』も『自力本願』もに似た響きを持つと感じていたのかもしれない。『自力本願』には共鳴したが、しかし、『我思う、ゆえに我あり』は、反発する感情がどうしても消せなかった。



『我思う、ゆえに我あり』では


改めて『我思う、ゆえに我あり』について考える機会が来たのは、その後、大学受験のために浪人していた時期だった、再度考えてみると、すぐに、これじゃだめじゃん、自己満足、自己陶酔のようではないかってね(当時、この言葉は使っていたか微妙だが、そのような批判を展開していた)。

存在の定義としては満足できないとの考えになった。


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ちなみに、「我思う、ゆえに我あり 」を Wikipediaから抜粋させて頂くと
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である(コギト命題)。

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“自力本願”で考えた結果、自分の存在の確かさは他者により確認される(認められる)ことが必要十分条件であり、自分(当事者)だけで自分の存在を確認することでは、不十分である(不完全)と考えるに至った(もちろん、現在もそのように考えている)。例えば、白昼夢にある人が自分自身を正しく認識できていると主張しても、他者から同意を得るのは難しいことを考えてもらえば分かるだろう。


物理史では、ガリレオ・ガリレイは落体の法則を示すため、ピサの斜塔での落体の実験を観衆(第三者)に見せたとされる。そのように、一般的に、ある事実の存在(例、自我の存在)についても、相互に同じもの(概念)を共有すること(相互作用)が必要であろうと私は考えていた。


じゃあ、存在の定義として『我思う、ゆえに我あり』に代わる考え(対案)を“自力本願”で考えることになってしまった。つまり、“存在とは何か”である。当時、哲学のスタートは、“在る”ということからであろうと考え、その後も、繰り返し考えることになったのである。


ちなみに、『自力本願』は仏陀のような悟りは自力でなければ到達しないことを意味すると考えてよいと思っている。


何かが分かるとは自分自身(自我)の状態の変化を自分自身で認識することだから、他力では達成しないのも当然であり、他人との関係(きっかけ)により、自分の中(自我)に変化が起こることを認識する場合でも、変化を認識するのは自分自身である(『我思う、ゆえに我あり』のようである)。


例えば、禅問答を通して師の世界観に達する者がいる、一方、全ての弟子がその状況に達しないことを想像してもらえば分かって頂けるのではないか。すなわち、決して『他力本願』ではないが、当然、“他力否定”でもない。



『天上天下唯我独尊』


我思う、ゆえに我あり』に似た響きの言葉として『天上天下唯我独尊』について、話を挟ませてもらう。


この言葉は、仏陀が誕生時に言ったとされる逸話が有名である。「(例文)橋下市長は独尊主義として批判される」のように使われることから分かるように、一般に、『天上天下唯我独尊』の“”とは仏陀自身を指し、仏陀(ある個人)のみが尊いと解釈する独尊主義としてネガティブにとられるのだが・・・。


しかし、仏教の教えの目的は悟りの境地に到ることである。その理解のために、概念として、『無我』、『』等の言葉で悟りの状態を表現している。また、インド思想の言葉『梵我一如(ぼんがいちにょ)』などから考えると分かるように、『天上天下唯我独尊』に在る“”とは仏陀自身ではなく、インドの古くからの概念の『』であると考えると筋が徹る。

 

ゆえに、上記の橋下市長についての例文のような使われ方は正しくないと思うのである。

 

仏教における『天上天下唯我独尊』の“”は『我思う、ゆえに我あり』の“”にほぼ重なると言えるだろう。すなわち、“迷いの在る混濁した自我”のことであり、仏教の究極の目的は、『天上天下唯我独尊』とされる尊いこの“”自身が最終的には滅すること(『諸行無常』)を受け入れた状態として『無我』、『』という言葉で表現していると考えれるのではないだろうか (あくまで宗教家でない私の理解です)。


と考えると、仏陀は宗教家と言うより哲学者であり、実際に、現代の哲学者にとっても仏教は哲学的なテーマを与えてくれているのだ。




存在とは


哲学に関心があるならば、存在論こそ哲学の入り口であり大事にすべきであると思うのだ。実際、多くの哲学者によって、存在とは何であるか論じられている。しかし、当時の私は、哲学の本を購入はしたのだが、最後まで読めた本は一冊もなく、ほとんどの本は手元に届いたことで満足し、いつか読もうと思って、結局、数行しか読まなかった(今においても・・・)。自分で考えることが好きであった反面、我の強い性格であるため、他人の考えに乗っかるのが好きでなかったし、背伸びしすぎていたのかも(今も)。


しかし、なぜか、ユング自伝Ⅰは読み終えている。とても難解であり、退屈なところもあったが、何よりも、ユングの内面があまりにも正直に書かれていたことに衝撃を受けた(ユング自伝Ⅱは読んでない)。本の内容を十分な理解をできていたか疑わしいが、その正直過ぎる告白による影響は大きかった。そのため、人に説明するのが難しい自分の内面で起こること(夢や思索に伴う個人的な体験)も、重要なんだとの思いを強めることになった。


ショーペンハウエルの「意志」という言葉に出遭ったのもユング自伝Ⅰにおいてである。その影響で、哲学者ショーペンハウエルへ関する哲学書の購入に至ったのだと思う。ユング自伝Ⅰの一部を引用しよう


“・・・(略)・・・ショーペンハウエルの暗い世界像には私は完全に賛成したが、しかし、彼の問題の解決の仕方にまで賛成したわけではない。私は、「意志」という語によって彼が実際には、神・造物主を意味していること、神は盲目的であると言っていることを確信した。・・・(略)・・・”



実は、この出会い以前に、たぶん数学で一次変換を習ったときだと思うが、ベクトルによって‘方向’とその方向への‘大きさ’をの2つの情報を表せること知り、その表現に感銘をうけ、「意志」もベクトルのようなイメージに近いなどと考えていた。だから、ショーペンハウエルはどのような世界観なのだろうととても親しみを持っていたのだ。


‘存在とは’としておきながら関係ない話になったように見える。ま、‘存在とは’という問いに対する自分の答えはどのようになったかを言えば、以下の通りになった。




“存在は差別化する”




つまり、存在とは他者と区別するだけでなく、積極的に差別化していくものであるとの理解になったのである。すなわち、存在とは他者(他の物)と差別化する「ベクトル」=「意志」の集合体であり、動的に変化する生命感のあるものと考えたわけである。つまり、その存在以外の他者を想定しているということである。先ほどの白昼夢の例えで、白昼夢にある人が自分自身を正しく認識できていると主張しても、他者からの同意を得るのは難しいが、その人は自身以外の他者や物事を頭の中で考えているわけで、やはり、彼が自分自身を正しく認識できていると信じるのも頷けるのではないか。



‘差別化’という言葉を用いるのには、人種差別等のネガティブなイメージがあるので、当初はためらいもあった。しかし、‘存在は差を付けて区別する’こととしては言葉としてのインパクトがなく、私にとって存在する理由は「意志(=ベクトル)」のような動的イメージであったので、差別‘化’の表現がしっくりすると感じているからである。




存在は差別化するとは


 

あなたが、何かしら‘存在’を認識すると、その‘存在’はあなたによって認識されただけにもかかわらず、しかも、実際はその認識が間違いであっても、そのような‘存在’として、あなたが扱っていくことになる。このことは、逆に、その認識が間違いであっても、その‘存在(の認識)によって、自分が影響されていることになる。つまり、まるで、その存在が勝手に自らが差別化しているように振舞って、あなた自身へ実際に影響を与えていくのである。


差別化こそが“存在の在り様”を決めているのである。存在とはその存在に伴う特徴を有すること(差別化)を示せなければ、それが存在しているとは言えない。


また、ユング自伝Ⅰの幼年時代の章にある、印象に残っている一段落を引用しよう。


“・・・(略)・・・

 この壁の前に、突き出た石 ― それは私の石だったが ― の埋まった坂があった。一人の時、しばしば私はこの石の上にすわって、次のような想像の遊びをはじめた。「私はこの石の上にすわっている。そして、石は私の下にある。」けれども石もまた「私だ」といい得、次のように考えることもできた。「私はここでこの坂に横たわり、彼は私の上にすわっている」と。そこで問いが生じてくる。「私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか。」この問いは常に私を悩ませた。そしていったい誰が何なのかといぶかしく思いながら立上ったものだった。答えは全くはっきりせずじまいで、私の不確かさは好奇な魅惑的な闇の感じに伴われることになった。けれどもこの石が私にとってある秘密の関係に立っていることは全く疑う余地がなかった。私は自分に課せられた謎に魅せられて、数時間もの間その上にすわっていることもできたのである。

・・・(略)・・・”





例えば、

「私は○○だ」とすれば、「私は○○でない」ということがありえる(言外に想定される)ことはすぐ分かるだろう。カードの裏表のごとくである。


今の例では、自分自身が自分を差別化(定義)しているだけであるが、今度は「あなたは○○だ」とすれば、「あなたは○○でない」ということも可能であり、これは、話者が『あなた』の特徴○○によって、認識(差別化)していることになる。 


すなわち、存在の在り様は『諸行無常』の世界である。‘存在する’といえば、‘存在しない’ことを暗に示すことだけではなく、‘存在の在り様’を(差別化するための境界条件を)めぐって、当事者同士だけでなく、第三者をも巻き込んで、常に、認識(定義)の見直しを繰り返している。しかも、それぞれの認識がお互いに同じ境界に落ち着くとは限らない。しかも、お互いに再帰的の様相(≒『曼荼羅』のような繰り返し)を呈している場合が多い。


例えば、リンゴといえば多くの人は果物のリンゴを想像するが、各人が想像した果物のリンゴの特徴は厳密にはそれぞれ異なる(もしかしたら食べかけの白いアップルのロゴ浮かべているかもしれない)。また、リンゴの特徴を説明するのに、リンゴの形、リンゴ味と表現する場合など、リンゴ自体を知っていることが前提であるような(再帰的な)使われ方においても混乱せず会話できる。すなわち、目の前のリンゴがある場合を除けば、厳密には各人が連想している「リンゴ」の完全一致は無理なのに、同じ言葉「リンゴ」を使って会話しても混乱がない。差別化するとは、差別化の厳密さの程度を緩めることにより、逆に、共有化することも言外に含むのである。


個々の差別化という行為の繰り返し(重ね合わせ)こそが再帰的(曼荼羅的、マンデルブロ集合的)な世界を作っていると言えるのではないか。



対極図の陰陽


陰陽師や道教に見られる対極図を良く眺めて、その影響から上記の考えに至ったとも言える。陰と陽(対極図での黒と白(もしくは黄))は存在の状態の有無に対応しているようであり、それらはそれらを包み込む大円の中で、蠢いているようである。


般若心経の『色即是空』も同様な世界観と考えられ、中国に仏教が伝来した当初は、道教の始祖である老子と仏陀の掛け軸を並べて飾っていた時期があると読んだことがある。実際、日本の仏教は道教の影響を受けている。真言宗では九字を切る「臨兵闘者皆陣列在前」を行うことがあるが、これは道教の影響のひとつで仏教の根本思想と関係がない。




空とは



私にとって、仏教で言うところ『色即是空』は、この存在の有無を超えたもっと広がりのある言葉で、‘認識できた存在からなる世界(色)’と同居する、もしくは、包み込む‘まだ未認識の存在からなる世界(空)’ではないかと考えている。

 

未認識の存在とは、認識不能であり、例えば、「人類誕生以前には今日のような言語は空であった」と言えば、「人類誕生以前には今日のような言語は無かった」では不十分で、むしろ、「人類誕生以前には今日のような言語は未出現(認識しようが無い)であった」ということである。

 

ここで‘未出現’としたのは、『死霊』作者である埴谷雄高氏の『存在の革命』、『未出現宇宙』といった語感も仏教的な世界観に通ずると感じているからである。
 


現時点で『空』であるものは認識できない(差別化できない)状態にあり、将来、『色』となるやも知れない。『色』となって初めて、その存在について有無が言える。

 


また、『色即是空』は、『色』を認識することは、すなわち、『色』と区別される、“認識できないはず”の『空』を認識することに通ずると達観した状態なのだろう。


その逆も真であり、『空即是色』というのも同様で、『空』を認識できることは、真に『色』の意味を認識していることに通ずるとのことだろう。 
  


『色』と『空』は‘存在の有無’と似ているが異なると私は考えている。‘存在が有’、‘存在が無’はともに『色』における事象である。すなわち、‘存在の無’とは『空』ではなく、『色』であり、‘存在が無’と認識可能な状態である。


一方、‘存在が『空』’とすれば。‘存在の有無’をいえる以前の状態、すなわち、認識不能もしくは不定な(決して、何であるか、または、何でないかも言い表せない、何も決まっていない)状態といえる。量子力学的に表現するとあらゆる状態の重ね合わせのようなこと。

 

にもかかわらず、概念として、『色』と『空』が存在する(認識できている)以上は、『色』と『空』はお互いに“差別化する”間柄であるとも言える。



 

最後に、抽象的思考のすすめ


抽象的な思考は、現実世界で役立たずだと思う人もいるだろうが、心を開放し、束縛した現実から自由になれるだけでも効用が有ると思うし、きっと、新たな思考を手に入れるきっかけにもなる。


空海は『虚空蔵求聞持法』によって悟りを開き、そのとき、空と海が眼前広がっていたことから、空海と名乗るようになったとされている。『虚空蔵求聞持』とは、読んで字のごとく、求め聞きたいことが、虚空に在るという意味に取れる(漢文は得意でないので・・・間違えているかも)。


また、現代社会は、数学や科学等の探求により、具体的な問題を抽象的な概念に還元し理解することで大きな成功を収めたと言える。


仮に、“存在は差別化する”と意識して世の中を見渡すと、例えば、個人においては服装や化粧・刺青等の外観や社会的な地位や肩書き等による差別化、グループにおいてはイデオロギーの共有の有無や共通の敵・目的を持つこと等による差別化、etc…、いくらでも“存在は差別化する”といえるベクトルが幾つも見出せる。それらの全てが、階層内・階層間に葛藤を抱えつつ、その存在自体の有り様を確固たるものにしようとして、相互作用しながら脈動していると客観的な見地を得ることができると思う。

 

橋下市長の言動にみられる、あえて他者(敵対者)を作るところなども・・・と言うことです。

 

また、価値が対立する(ギャップの大きい)境界でこそ、その存在の意義が強く意識されることも想像できる。例えば、自己意識(自我)は、心理学の無意識という言葉を借用すれば、外界(他者)と無意識の境界(自我)が認識(意識)されている(確認できる)と私は考えている。


 

そのような視点に立てば、なぜ異なる意見を持つ人がいて、なぜ争いが生じるかも思考を巡らせることもできるし、異なる意見の人とも争わずにすむ術(すべ)も見出せるのではないかと、我、思うゆえに・・・。

 


このような、抽象的な思考へいざなうことで、他者と垣根を取り払うこと(イメージ)ができるのではと考えている(客観的な見方を養う)。また、自分自身の心の矛盾を見つけ出し、解決策を与えてくれる(自分が進むべき方向を気づかせてくれる)。

 

難解な手前勝手な話にお付き合いくださりありがとうございます。







ちなみに、この記事作成中にネットラジオから流れた曲で印象に残ったのは、Feargal Sharkeyの「A Good Heart」(とてもホッとする歌声(男性)で良い曲)とPhil Collins の「Something Happened On The Way To Heaven」(フィルコリンズは私のお気に入りの歌手)です。






先週は日食見れず、箱根湿生花園で花の撮影に

期待していた日食は残念ながら、箱根駒ケ岳では見ることができる状態ではなくすぐ下山することになりました。


せっかくなので箱根湿生花園で撮影しに行きました。


撮影時には花の名前など良く分からずにどんどん撮影していたため、何の花かも分からない状態に、調べて分かったもので、いくつか順不同であげていきます。



NYのブログ-イブキトラノオ(吹虎の尾)

イブキトラノオ(吹虎の尾)




NYのブログ-ニッコウキスゲ(日光黄菅)
ニッコウキスゲ(日光黄菅)

トビシマカンゾウよりも小型、

NYのブログ-トビシマカンゾウ(飛島萱草)

トビシマカンゾウ(飛島萱草)



NYのブログ-エゾスカシユリ(蝦夷透かし百合)

エゾスカシユリ(蝦夷透かし百合)



NYのブログ-アヤメ(文目・菖蒲)

アヤメ(文目・菖蒲)



NYのブログ-カキツバタ(杜若)_1 NYのブログ-カキツバタ(杜若)_2

カキツバタ(杜若)

アヤメには花びらの根元に網目があるが、カキツバタにはない。

アヤメより湿地を好むとのこと、



NYのブログ-エゾルリソウ(蝦夷瑠璃草)

エゾルリソウ(蝦夷瑠璃草)



NYのブログ-コマクサ(駒草)
コマクサ(駒草)






NYのブログ-ミヤマオダマキ(深山苧環)
ミヤマオダマキ(深山苧環)



NYのブログ-チシマギキョウ(千島桔梗)
チシマギキョウ(千島桔梗)



NYのブログ-ヒメシャガ(姫射干)

ヒメシャガ(姫射干)



NYのブログ-ホウチャクソウ(宝鐸草)
ホウチャクソウ(宝鐸草)


NYのブログ-ミヤマヨメナ(深山嫁菜)

ミヤマヨメナ(深山嫁菜)


NYのブログ-チョウジソウ(丁字草)
チョウジソウ(丁字草)


NYのブログ-ドイツすずらん(鈴蘭)
ドイツすずらん(鈴蘭)



NYのブログ-クサタチバナ(草橘)
クサタチバナ(草橘)



NYのブログ-タニウツギ(谷空木)
タニウツギ(谷空木)


撮影中、ミツバチが飛んできました。

NYのブログ-タニウツギ(谷空木)_02




NYのブログ-サクラソウ(桜草)
サクラソウ(桜草)



NYのブログ-シラン(紫蘭)
シラン(紫蘭)




NYのブログ-レンゲツツジ(蓮華躑躅) NYのブログ-レンゲツツジ(蓮華躑躅)_2
レンゲツツジ(蓮華躑躅)



NYのブログ-スイレン(睡蓮)

スイレン(睡蓮)


NYのブログ-ヒツジグサ(未草)

ヒツジグサ(未草)

スイレンより小ぶりで、かわいらしい感じ、


NYのブログ-コウホネ(河骨)
コウホネ(河骨)



NYのブログ-ハナイカダ(花筏)
ハナイカダ(花筏)

これは、風でゆれるので難しい。


三脚がなくてもブレないで撮影できるのは、最近のカメラのおかげです。


カメラ:PENTAX K-x、

レンズ:SIGMA APO 70-300mm F4-5.6 DG MACRO



いくつかと言いながら、たくさんあげてしまいました。まだ不明な花も複数あり、たぶん、分からないままでしょう。

日食を生で見ることができなかったので、とても残念な思いで帰路に着くところでしたが、箱根湿生花園で

気分転換ができました。被写体としては、日食よりも変化に富み、楽しく過ごせたのでこれでよしとしましょう。