『我思う、ゆえに我あり』では、 | NYのブログ

『我思う、ゆえに我あり』では、

『我思う、ゆえに我あり』

哲学者デカルトのこの有名な言葉は、私が覚えた最初の哲学の言葉だったと思う。小学生の高学年までには、誰かから聞いたような、・・・あいまいな記憶しかないのだが、印象だけは強く残ったし、その後も、見聞きする機会もあった。


ちなみに、悩みを抱えることになった青春時代には、“何を精神的な支柱にすべきなのか”ってことで思いを迷わすことも多かった。実際は、“精神的な支柱”などとかっこ良い言葉ではなく、漠然とした自分自身や社会に対する不安を感じ、それまでの知識を使って自分はどうあるべきかっていろいろと考えていたのである。それこそ、『我思う、ゆえに我あり』って感じであったのであるが不安は払拭できなかった。


考えるのは好きなほうなので、これは白昼夢なのではってくらい・・・、考えが展開していくのに任せていた時もあったような・・・。よく、百科事典で、宗教や思想、哲学に関係する項目をパラパラ眺めていたときもあった。


その過程で仏教の『自力本願』という言葉に出会い、これこそが自分にしっくりとするものであることに気付かされた。“自力本願”という言葉に大人びたかっこ良さを感じていただけかもしれないが、その後の人生に、影響を与えた言葉との出会いであることには違いない。


なんとなく、『我思う、ゆえに我あり』も『自力本願』もに似た響きを持つと感じていたのかもしれない。『自力本願』には共鳴したが、しかし、『我思う、ゆえに我あり』は、反発する感情がどうしても消せなかった。



『我思う、ゆえに我あり』では


改めて『我思う、ゆえに我あり』について考える機会が来たのは、その後、大学受験のために浪人していた時期だった、再度考えてみると、すぐに、これじゃだめじゃん、自己満足、自己陶酔のようではないかってね(当時、この言葉は使っていたか微妙だが、そのような批判を展開していた)。

存在の定義としては満足できないとの考えになった。


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ちなみに、「我思う、ゆえに我あり 」を Wikipediaから抜粋させて頂くと
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である(コギト命題)。

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“自力本願”で考えた結果、自分の存在の確かさは他者により確認される(認められる)ことが必要十分条件であり、自分(当事者)だけで自分の存在を確認することでは、不十分である(不完全)と考えるに至った(もちろん、現在もそのように考えている)。例えば、白昼夢にある人が自分自身を正しく認識できていると主張しても、他者から同意を得るのは難しいことを考えてもらえば分かるだろう。


物理史では、ガリレオ・ガリレイは落体の法則を示すため、ピサの斜塔での落体の実験を観衆(第三者)に見せたとされる。そのように、一般的に、ある事実の存在(例、自我の存在)についても、相互に同じもの(概念)を共有すること(相互作用)が必要であろうと私は考えていた。


じゃあ、存在の定義として『我思う、ゆえに我あり』に代わる考え(対案)を“自力本願”で考えることになってしまった。つまり、“存在とは何か”である。当時、哲学のスタートは、“在る”ということからであろうと考え、その後も、繰り返し考えることになったのである。


ちなみに、『自力本願』は仏陀のような悟りは自力でなければ到達しないことを意味すると考えてよいと思っている。


何かが分かるとは自分自身(自我)の状態の変化を自分自身で認識することだから、他力では達成しないのも当然であり、他人との関係(きっかけ)により、自分の中(自我)に変化が起こることを認識する場合でも、変化を認識するのは自分自身である(『我思う、ゆえに我あり』のようである)。


例えば、禅問答を通して師の世界観に達する者がいる、一方、全ての弟子がその状況に達しないことを想像してもらえば分かって頂けるのではないか。すなわち、決して『他力本願』ではないが、当然、“他力否定”でもない。



『天上天下唯我独尊』


我思う、ゆえに我あり』に似た響きの言葉として『天上天下唯我独尊』について、話を挟ませてもらう。


この言葉は、仏陀が誕生時に言ったとされる逸話が有名である。「(例文)橋下市長は独尊主義として批判される」のように使われることから分かるように、一般に、『天上天下唯我独尊』の“”とは仏陀自身を指し、仏陀(ある個人)のみが尊いと解釈する独尊主義としてネガティブにとられるのだが・・・。


しかし、仏教の教えの目的は悟りの境地に到ることである。その理解のために、概念として、『無我』、『』等の言葉で悟りの状態を表現している。また、インド思想の言葉『梵我一如(ぼんがいちにょ)』などから考えると分かるように、『天上天下唯我独尊』に在る“”とは仏陀自身ではなく、インドの古くからの概念の『』であると考えると筋が徹る。

 

ゆえに、上記の橋下市長についての例文のような使われ方は正しくないと思うのである。

 

仏教における『天上天下唯我独尊』の“”は『我思う、ゆえに我あり』の“”にほぼ重なると言えるだろう。すなわち、“迷いの在る混濁した自我”のことであり、仏教の究極の目的は、『天上天下唯我独尊』とされる尊いこの“”自身が最終的には滅すること(『諸行無常』)を受け入れた状態として『無我』、『』という言葉で表現していると考えれるのではないだろうか (あくまで宗教家でない私の理解です)。


と考えると、仏陀は宗教家と言うより哲学者であり、実際に、現代の哲学者にとっても仏教は哲学的なテーマを与えてくれているのだ。




存在とは


哲学に関心があるならば、存在論こそ哲学の入り口であり大事にすべきであると思うのだ。実際、多くの哲学者によって、存在とは何であるか論じられている。しかし、当時の私は、哲学の本を購入はしたのだが、最後まで読めた本は一冊もなく、ほとんどの本は手元に届いたことで満足し、いつか読もうと思って、結局、数行しか読まなかった(今においても・・・)。自分で考えることが好きであった反面、我の強い性格であるため、他人の考えに乗っかるのが好きでなかったし、背伸びしすぎていたのかも(今も)。


しかし、なぜか、ユング自伝Ⅰは読み終えている。とても難解であり、退屈なところもあったが、何よりも、ユングの内面があまりにも正直に書かれていたことに衝撃を受けた(ユング自伝Ⅱは読んでない)。本の内容を十分な理解をできていたか疑わしいが、その正直過ぎる告白による影響は大きかった。そのため、人に説明するのが難しい自分の内面で起こること(夢や思索に伴う個人的な体験)も、重要なんだとの思いを強めることになった。


ショーペンハウエルの「意志」という言葉に出遭ったのもユング自伝Ⅰにおいてである。その影響で、哲学者ショーペンハウエルへ関する哲学書の購入に至ったのだと思う。ユング自伝Ⅰの一部を引用しよう


“・・・(略)・・・ショーペンハウエルの暗い世界像には私は完全に賛成したが、しかし、彼の問題の解決の仕方にまで賛成したわけではない。私は、「意志」という語によって彼が実際には、神・造物主を意味していること、神は盲目的であると言っていることを確信した。・・・(略)・・・”



実は、この出会い以前に、たぶん数学で一次変換を習ったときだと思うが、ベクトルによって‘方向’とその方向への‘大きさ’をの2つの情報を表せること知り、その表現に感銘をうけ、「意志」もベクトルのようなイメージに近いなどと考えていた。だから、ショーペンハウエルはどのような世界観なのだろうととても親しみを持っていたのだ。


‘存在とは’としておきながら関係ない話になったように見える。ま、‘存在とは’という問いに対する自分の答えはどのようになったかを言えば、以下の通りになった。




“存在は差別化する”




つまり、存在とは他者と区別するだけでなく、積極的に差別化していくものであるとの理解になったのである。すなわち、存在とは他者(他の物)と差別化する「ベクトル」=「意志」の集合体であり、動的に変化する生命感のあるものと考えたわけである。つまり、その存在以外の他者を想定しているということである。先ほどの白昼夢の例えで、白昼夢にある人が自分自身を正しく認識できていると主張しても、他者からの同意を得るのは難しいが、その人は自身以外の他者や物事を頭の中で考えているわけで、やはり、彼が自分自身を正しく認識できていると信じるのも頷けるのではないか。



‘差別化’という言葉を用いるのには、人種差別等のネガティブなイメージがあるので、当初はためらいもあった。しかし、‘存在は差を付けて区別する’こととしては言葉としてのインパクトがなく、私にとって存在する理由は「意志(=ベクトル)」のような動的イメージであったので、差別‘化’の表現がしっくりすると感じているからである。




存在は差別化するとは


 

あなたが、何かしら‘存在’を認識すると、その‘存在’はあなたによって認識されただけにもかかわらず、しかも、実際はその認識が間違いであっても、そのような‘存在’として、あなたが扱っていくことになる。このことは、逆に、その認識が間違いであっても、その‘存在(の認識)によって、自分が影響されていることになる。つまり、まるで、その存在が勝手に自らが差別化しているように振舞って、あなた自身へ実際に影響を与えていくのである。


差別化こそが“存在の在り様”を決めているのである。存在とはその存在に伴う特徴を有すること(差別化)を示せなければ、それが存在しているとは言えない。


また、ユング自伝Ⅰの幼年時代の章にある、印象に残っている一段落を引用しよう。


“・・・(略)・・・

 この壁の前に、突き出た石 ― それは私の石だったが ― の埋まった坂があった。一人の時、しばしば私はこの石の上にすわって、次のような想像の遊びをはじめた。「私はこの石の上にすわっている。そして、石は私の下にある。」けれども石もまた「私だ」といい得、次のように考えることもできた。「私はここでこの坂に横たわり、彼は私の上にすわっている」と。そこで問いが生じてくる。「私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか。」この問いは常に私を悩ませた。そしていったい誰が何なのかといぶかしく思いながら立上ったものだった。答えは全くはっきりせずじまいで、私の不確かさは好奇な魅惑的な闇の感じに伴われることになった。けれどもこの石が私にとってある秘密の関係に立っていることは全く疑う余地がなかった。私は自分に課せられた謎に魅せられて、数時間もの間その上にすわっていることもできたのである。

・・・(略)・・・”





例えば、

「私は○○だ」とすれば、「私は○○でない」ということがありえる(言外に想定される)ことはすぐ分かるだろう。カードの裏表のごとくである。


今の例では、自分自身が自分を差別化(定義)しているだけであるが、今度は「あなたは○○だ」とすれば、「あなたは○○でない」ということも可能であり、これは、話者が『あなた』の特徴○○によって、認識(差別化)していることになる。 


すなわち、存在の在り様は『諸行無常』の世界である。‘存在する’といえば、‘存在しない’ことを暗に示すことだけではなく、‘存在の在り様’を(差別化するための境界条件を)めぐって、当事者同士だけでなく、第三者をも巻き込んで、常に、認識(定義)の見直しを繰り返している。しかも、それぞれの認識がお互いに同じ境界に落ち着くとは限らない。しかも、お互いに再帰的の様相(≒『曼荼羅』のような繰り返し)を呈している場合が多い。


例えば、リンゴといえば多くの人は果物のリンゴを想像するが、各人が想像した果物のリンゴの特徴は厳密にはそれぞれ異なる(もしかしたら食べかけの白いアップルのロゴ浮かべているかもしれない)。また、リンゴの特徴を説明するのに、リンゴの形、リンゴ味と表現する場合など、リンゴ自体を知っていることが前提であるような(再帰的な)使われ方においても混乱せず会話できる。すなわち、目の前のリンゴがある場合を除けば、厳密には各人が連想している「リンゴ」の完全一致は無理なのに、同じ言葉「リンゴ」を使って会話しても混乱がない。差別化するとは、差別化の厳密さの程度を緩めることにより、逆に、共有化することも言外に含むのである。


個々の差別化という行為の繰り返し(重ね合わせ)こそが再帰的(曼荼羅的、マンデルブロ集合的)な世界を作っていると言えるのではないか。



対極図の陰陽


陰陽師や道教に見られる対極図を良く眺めて、その影響から上記の考えに至ったとも言える。陰と陽(対極図での黒と白(もしくは黄))は存在の状態の有無に対応しているようであり、それらはそれらを包み込む大円の中で、蠢いているようである。


般若心経の『色即是空』も同様な世界観と考えられ、中国に仏教が伝来した当初は、道教の始祖である老子と仏陀の掛け軸を並べて飾っていた時期があると読んだことがある。実際、日本の仏教は道教の影響を受けている。真言宗では九字を切る「臨兵闘者皆陣列在前」を行うことがあるが、これは道教の影響のひとつで仏教の根本思想と関係がない。




空とは



私にとって、仏教で言うところ『色即是空』は、この存在の有無を超えたもっと広がりのある言葉で、‘認識できた存在からなる世界(色)’と同居する、もしくは、包み込む‘まだ未認識の存在からなる世界(空)’ではないかと考えている。

 

未認識の存在とは、認識不能であり、例えば、「人類誕生以前には今日のような言語は空であった」と言えば、「人類誕生以前には今日のような言語は無かった」では不十分で、むしろ、「人類誕生以前には今日のような言語は未出現(認識しようが無い)であった」ということである。

 

ここで‘未出現’としたのは、『死霊』作者である埴谷雄高氏の『存在の革命』、『未出現宇宙』といった語感も仏教的な世界観に通ずると感じているからである。
 


現時点で『空』であるものは認識できない(差別化できない)状態にあり、将来、『色』となるやも知れない。『色』となって初めて、その存在について有無が言える。

 


また、『色即是空』は、『色』を認識することは、すなわち、『色』と区別される、“認識できないはず”の『空』を認識することに通ずると達観した状態なのだろう。


その逆も真であり、『空即是色』というのも同様で、『空』を認識できることは、真に『色』の意味を認識していることに通ずるとのことだろう。 
  


『色』と『空』は‘存在の有無’と似ているが異なると私は考えている。‘存在が有’、‘存在が無’はともに『色』における事象である。すなわち、‘存在の無’とは『空』ではなく、『色』であり、‘存在が無’と認識可能な状態である。


一方、‘存在が『空』’とすれば。‘存在の有無’をいえる以前の状態、すなわち、認識不能もしくは不定な(決して、何であるか、または、何でないかも言い表せない、何も決まっていない)状態といえる。量子力学的に表現するとあらゆる状態の重ね合わせのようなこと。

 

にもかかわらず、概念として、『色』と『空』が存在する(認識できている)以上は、『色』と『空』はお互いに“差別化する”間柄であるとも言える。



 

最後に、抽象的思考のすすめ


抽象的な思考は、現実世界で役立たずだと思う人もいるだろうが、心を開放し、束縛した現実から自由になれるだけでも効用が有ると思うし、きっと、新たな思考を手に入れるきっかけにもなる。


空海は『虚空蔵求聞持法』によって悟りを開き、そのとき、空と海が眼前広がっていたことから、空海と名乗るようになったとされている。『虚空蔵求聞持』とは、読んで字のごとく、求め聞きたいことが、虚空に在るという意味に取れる(漢文は得意でないので・・・間違えているかも)。


また、現代社会は、数学や科学等の探求により、具体的な問題を抽象的な概念に還元し理解することで大きな成功を収めたと言える。


仮に、“存在は差別化する”と意識して世の中を見渡すと、例えば、個人においては服装や化粧・刺青等の外観や社会的な地位や肩書き等による差別化、グループにおいてはイデオロギーの共有の有無や共通の敵・目的を持つこと等による差別化、etc…、いくらでも“存在は差別化する”といえるベクトルが幾つも見出せる。それらの全てが、階層内・階層間に葛藤を抱えつつ、その存在自体の有り様を確固たるものにしようとして、相互作用しながら脈動していると客観的な見地を得ることができると思う。

 

橋下市長の言動にみられる、あえて他者(敵対者)を作るところなども・・・と言うことです。

 

また、価値が対立する(ギャップの大きい)境界でこそ、その存在の意義が強く意識されることも想像できる。例えば、自己意識(自我)は、心理学の無意識という言葉を借用すれば、外界(他者)と無意識の境界(自我)が認識(意識)されている(確認できる)と私は考えている。


 

そのような視点に立てば、なぜ異なる意見を持つ人がいて、なぜ争いが生じるかも思考を巡らせることもできるし、異なる意見の人とも争わずにすむ術(すべ)も見出せるのではないかと、我、思うゆえに・・・。

 


このような、抽象的な思考へいざなうことで、他者と垣根を取り払うこと(イメージ)ができるのではと考えている(客観的な見方を養う)。また、自分自身の心の矛盾を見つけ出し、解決策を与えてくれる(自分が進むべき方向を気づかせてくれる)。

 

難解な手前勝手な話にお付き合いくださりありがとうございます。







ちなみに、この記事作成中にネットラジオから流れた曲で印象に残ったのは、Feargal Sharkeyの「A Good Heart」(とてもホッとする歌声(男性)で良い曲)とPhil Collins の「Something Happened On The Way To Heaven」(フィルコリンズは私のお気に入りの歌手)です。