いい習慣は、大人になっても残る。
小さいうちに身につけておかないと”手遅れ”になる、たったひとつのスキル。
五百田達成 | 作家・心理カウンセラー/五百田達成事務所 代表 2016年3月27日 19時33分配信
(写真:アフロ)
4月はもうすぐそこ。新生活を機に、新しいことに挑戦したい、子どもに挑戦させたいという気持ちが芽生える季節です。
突然ですが、あなたは子供の頃にどんな習い事をしていましたか?
ピアノ、バレエ、そろばん、テニスなどなど…誰しも一度はこれらの習い事の経験したことがあることかと思います。しかし最近は、これら「王道」とも言うべき習い事とは異なる、新たな習い事が注目を集めています。
習い事としてのプログラミング
いま流行している新たな習い事…それは、「プログラミング」です。
プログラミングとは、コンピューターやアプリケーション、システムを動かすための“指示書”を専門の言語を用いて作成するスキル。ホームページを作成したり、アプリを作ったりすることも広い意味でプログラミングと呼ばれています。
誰もがパソコンを使えるようになったいま、ITスキルを身に付けることは21世紀を生きる上で避けて通れない、という考えを持った親たちが、早々に子供たちにプログラミングを学習させようとし、多くのプログラミング塾が登場しているのです。
大人も子供もプログラミング
大人の間でもプログラミング学習は大きな注目を集めています。私の知人にも実際にプログラミング塾に通ったり、或いはインターネット上で無料受講できる講座などで独学するなどして学習している人が何人もいます。
さらには、ハッカソンと呼ばれるプログラミングを用いたビジネスコンテストのようなものが各地で次々と開催。知り合いの東大生(女子)は、女子大学生のみが参加できるハッカソンを企画したところ、多くの学生が参加して大盛況だったとのことでした。
高給アルバイトの条件にも
さらには、独学でプログラミングを学び、IT企業でサービスの開発をするアルバイトをしている学生もいて、「IT系の仕事が増えている中でエンジニアの数は足りていない。だから学生でもプログラミングが出来ると高い時給で雇ってもらえるんです」と胸を張る彼も、実は経済学部に所属するいわゆる文系学生。今や「プログラミング=理系の人がやるもの」ではありません。子供もやるし、文系の人もやる。そんな時代がもう始まっているのです。
「これからは海外だ! 英語を勉強しないと会社で生き残っていけない!」「いや、中国語だ」「いやいや、インドだ」などと言われていたのは昔のこと。どんな国相手でも通用する言語、それこそがプログラミング。ITの21世紀において、ごくごく基本的な能力として身に付けていることが期待される時代が来るかもしれません。
・・・って、本当?
と、ここまでは、とても一般的なお話。「なるほどなあ、これからはプログラミングか!」「よし、子どもに習わせないと!」と思ってもらうのが本稿の目的ではありません。
「英語が話せないとグローバルに活躍できない」「いやいや、これからは数字だ。数字を読めて、統計学を学べてこそ、ビジネスマンだ」といった言説は、あとをたちません。そんな中で登場したプログラミングブーム、なるほど、いい線を付いているように見えます。
それでも、私はこのように、なにかのスキルを得ることで道が開ける、あるいは、これからの時代あるスキルがないとやっていけないという論調には、いくつかの理由から、一貫して懐疑的です。
まずは、そうしたスキルは手段でしかないから。
英語を話すことは、目の前の人とコミュニケーションするための手段に過ぎません。逆に言うと、目の前の人と普通にやりとりできるなら、英語なんて必要ないわけです。なのに「英語ぐらい話せないと」と、英会話スクールに大枚をはたいて鍛えた英語力を、どこでどうやって発揮するのかわからない、という人がほとんどではないでしょうか。
誤解して欲しくないのですが、それが無駄とはまったく思いません。きちんとお金を出して塾に通えば、見地も広がるし、人生に意欲的にもなれます。純粋に楽しいし、世界が広がる予感もうれしい。
それでも、そこで身につけたスキルによって、即、魔法のように道が開けるわけではない。そんなことはオトナなら誰でも知っていることです。
次に、「~~がないとまずい」という恐怖訴求は、話半分に聞いておいたほうがいい、ということもあります。人は知らないことを恥じるし、そこを突かれるととたんに弱くなる傾向があります。わからない・知らない→恥ずかしい→習う。その点、プログラミングは多くの人にとってなじみがないし、そのくせ「なんとなくこれからの時代必要そう」な感じも実に絶妙。だからこそ、よくよく考えないといけません。
さらに、私が信じているルールが、「なんだって、必要に迫られたら、どうせ身につけざるを得ない。逆に、必要じゃなかったら、なにをどうやったって、身にはつかない」というものです。
突然海外に住むようになったら、ある日、日本語を話せない恋人ができたら。そうしたらもう、四の五の言わずに英語を身につけざるを得ないのです。でないと、やっていけないから。本当のスキルとはそうやって、後付けで身につくもの。履歴書に1行書くぐらいのレベルなら、ちょっと勉強して身につくかもしれませんが、本当に使えるスキルには「必要は発明の母」の”母”が欠かせないのです。
習い事の本当の意味
なにかを習うというのは、学ぶ内容・ジャンル自体に意味があるのではなく、その行為に意味があります。
意を決してそこに取り組む姿勢、ゼロからなにかを習得する喜び、好奇心を共有する仲間との時間、知らなかったことへ目を開く視野の広さ。
それが身につけば、サッカーでも書道でも、英語でもプログラミングでも、子どもでもオトナでも、なんでもいい、構わない。
ですから、先ほどの主張と矛盾するようですが、いまプログラミングが流行していることは、とてもいいことです。興味があるなら学ぶといいでしょう。知らないことをそのままにしておくとモヤモヤするなら、学べばいい。そのための機会はたくさん用意されています。学ぶことで、発見と喜び(あるいは既視感と失望)があることは間違いありません。
ですが、それを学びさえすれば道が開けるというのは甘い幻想。百歩譲ってそういう幸運なケースがあったとしても、「それを学ばなかったからキャリアが全く閉ざされる」「これからの時代、このスキルがなかったら圧倒的に不利」というのは、なるべく穏当に言って、ウソでしょう。
現在たまたま英語もプログラミングも必要のない仕事についているから言える戯れ言かもしれませんが、まさに必要がないからこそ、胸を張って言えます(あるいは、一度、ホームページを自分で作ろうと思い、独学で挑戦し、泣きべそをかいた経験があるから、言える、とも言えます。その経験を踏まえて、いまでは気心の知れた、センスのいい、腕のたつ、プロフェッショナルに依頼しています。もちろん、この「頼む」というのも、人生においてとても重要なスキルです。残念ながら学校では教わりにくいタイプのスキルですが)
子どもが身につけるべきたったひとつのスキル
必要になったら、必要になってから身につければいい。
逆に言うと、いつなんどき、どんな内容でも学んで習得できるような「学ぶクセ」と「学ぶ技術」だけを、子どもには身につけさせればいい。それが身につけば、ジャンルはなんでもいい。むしろ、小さいころは興味の幅を広げるために、いろいろ手を出すといい。
新たに登場してきたプログラミングは、そのひとつに過ぎない、ぐらいに捉えるのが健康的でしょう。あなたはどう思いますか?
(作家・心理カウンセラー 五百田 達成)
五百田達成 作家・心理カウンセラー/五百田達成事務所 代表
(いおた・たつなり)《30万部突破「察しない男 説明しない女」シリーズ》東京大学教養学部卒。角川書店、博報堂、博報堂生活総合研究所を経て独立。「コミュニケーション心理」「社会変化と男女関係」「SNSと人づきあい」「ことばと伝え方」を主なテーマに執筆・講演。米国CCE,Inc.認定 GCDFキャリアカウンセラー。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/iotatatsunari/20160327-00054690/
学ぼうとする心。
勉強をするクセ。
自分でいろいろ調べてみるクセ。
朝顔の成長日記などは、いいと思う。
失敗しても、あきらめずに、いろいろな角度から挑戦してやりとげるクセ。
困難な状況でもサバイバルできると信じて頑張る強い気持ち。
一度やってみて、ダメでも、いろいろ工夫して挑戦してみるクセ。
工夫ができない人は何をやってもアカン人になってしまう。
同じ方法で何度かやってみて、直ぐ、あきらめてしまう人は成長が無い。
会社の営業の仕事でも、一度ダメでも何度も工夫して最後に上手くいく人もいる。
工夫しない夫は、妻に飽きられる。
(工夫する夫は妻の受けが良い)
歯を磨く習慣。
風呂に入る習慣。
靴を揃える習慣。
きちんと食べる習慣。
(くちゃくちゃ音をたてずに食べる)
箸の持ち方を正しく教える。
勉強をする習慣。
(勉強をするのは、楽しいと思わせる)
身のまわりをかたずける習慣。
軽い運動をする習慣。
いい習慣は、大人になっても残る。
なんだか、ダラダラと書いてしまったけど、
大人が子供に与えることができるのは、
困難があっても立ち向かうなり、逃げるなりして
生き抜く知恵と勇気なんじゃないかな。
とりあえず、
歯磨きの習慣は教えておいた方がいい。
五百田達成 | 作家・心理カウンセラー/五百田達成事務所 代表 2016年3月27日 19時33分配信
(写真:アフロ)
4月はもうすぐそこ。新生活を機に、新しいことに挑戦したい、子どもに挑戦させたいという気持ちが芽生える季節です。
突然ですが、あなたは子供の頃にどんな習い事をしていましたか?
ピアノ、バレエ、そろばん、テニスなどなど…誰しも一度はこれらの習い事の経験したことがあることかと思います。しかし最近は、これら「王道」とも言うべき習い事とは異なる、新たな習い事が注目を集めています。
習い事としてのプログラミング
いま流行している新たな習い事…それは、「プログラミング」です。
プログラミングとは、コンピューターやアプリケーション、システムを動かすための“指示書”を専門の言語を用いて作成するスキル。ホームページを作成したり、アプリを作ったりすることも広い意味でプログラミングと呼ばれています。
誰もがパソコンを使えるようになったいま、ITスキルを身に付けることは21世紀を生きる上で避けて通れない、という考えを持った親たちが、早々に子供たちにプログラミングを学習させようとし、多くのプログラミング塾が登場しているのです。
大人も子供もプログラミング
大人の間でもプログラミング学習は大きな注目を集めています。私の知人にも実際にプログラミング塾に通ったり、或いはインターネット上で無料受講できる講座などで独学するなどして学習している人が何人もいます。
さらには、ハッカソンと呼ばれるプログラミングを用いたビジネスコンテストのようなものが各地で次々と開催。知り合いの東大生(女子)は、女子大学生のみが参加できるハッカソンを企画したところ、多くの学生が参加して大盛況だったとのことでした。
高給アルバイトの条件にも
さらには、独学でプログラミングを学び、IT企業でサービスの開発をするアルバイトをしている学生もいて、「IT系の仕事が増えている中でエンジニアの数は足りていない。だから学生でもプログラミングが出来ると高い時給で雇ってもらえるんです」と胸を張る彼も、実は経済学部に所属するいわゆる文系学生。今や「プログラミング=理系の人がやるもの」ではありません。子供もやるし、文系の人もやる。そんな時代がもう始まっているのです。
「これからは海外だ! 英語を勉強しないと会社で生き残っていけない!」「いや、中国語だ」「いやいや、インドだ」などと言われていたのは昔のこと。どんな国相手でも通用する言語、それこそがプログラミング。ITの21世紀において、ごくごく基本的な能力として身に付けていることが期待される時代が来るかもしれません。
・・・って、本当?
と、ここまでは、とても一般的なお話。「なるほどなあ、これからはプログラミングか!」「よし、子どもに習わせないと!」と思ってもらうのが本稿の目的ではありません。
「英語が話せないとグローバルに活躍できない」「いやいや、これからは数字だ。数字を読めて、統計学を学べてこそ、ビジネスマンだ」といった言説は、あとをたちません。そんな中で登場したプログラミングブーム、なるほど、いい線を付いているように見えます。
それでも、私はこのように、なにかのスキルを得ることで道が開ける、あるいは、これからの時代あるスキルがないとやっていけないという論調には、いくつかの理由から、一貫して懐疑的です。
まずは、そうしたスキルは手段でしかないから。
英語を話すことは、目の前の人とコミュニケーションするための手段に過ぎません。逆に言うと、目の前の人と普通にやりとりできるなら、英語なんて必要ないわけです。なのに「英語ぐらい話せないと」と、英会話スクールに大枚をはたいて鍛えた英語力を、どこでどうやって発揮するのかわからない、という人がほとんどではないでしょうか。
誤解して欲しくないのですが、それが無駄とはまったく思いません。きちんとお金を出して塾に通えば、見地も広がるし、人生に意欲的にもなれます。純粋に楽しいし、世界が広がる予感もうれしい。
それでも、そこで身につけたスキルによって、即、魔法のように道が開けるわけではない。そんなことはオトナなら誰でも知っていることです。
次に、「~~がないとまずい」という恐怖訴求は、話半分に聞いておいたほうがいい、ということもあります。人は知らないことを恥じるし、そこを突かれるととたんに弱くなる傾向があります。わからない・知らない→恥ずかしい→習う。その点、プログラミングは多くの人にとってなじみがないし、そのくせ「なんとなくこれからの時代必要そう」な感じも実に絶妙。だからこそ、よくよく考えないといけません。
さらに、私が信じているルールが、「なんだって、必要に迫られたら、どうせ身につけざるを得ない。逆に、必要じゃなかったら、なにをどうやったって、身にはつかない」というものです。
突然海外に住むようになったら、ある日、日本語を話せない恋人ができたら。そうしたらもう、四の五の言わずに英語を身につけざるを得ないのです。でないと、やっていけないから。本当のスキルとはそうやって、後付けで身につくもの。履歴書に1行書くぐらいのレベルなら、ちょっと勉強して身につくかもしれませんが、本当に使えるスキルには「必要は発明の母」の”母”が欠かせないのです。
習い事の本当の意味
なにかを習うというのは、学ぶ内容・ジャンル自体に意味があるのではなく、その行為に意味があります。
意を決してそこに取り組む姿勢、ゼロからなにかを習得する喜び、好奇心を共有する仲間との時間、知らなかったことへ目を開く視野の広さ。
それが身につけば、サッカーでも書道でも、英語でもプログラミングでも、子どもでもオトナでも、なんでもいい、構わない。
ですから、先ほどの主張と矛盾するようですが、いまプログラミングが流行していることは、とてもいいことです。興味があるなら学ぶといいでしょう。知らないことをそのままにしておくとモヤモヤするなら、学べばいい。そのための機会はたくさん用意されています。学ぶことで、発見と喜び(あるいは既視感と失望)があることは間違いありません。
ですが、それを学びさえすれば道が開けるというのは甘い幻想。百歩譲ってそういう幸運なケースがあったとしても、「それを学ばなかったからキャリアが全く閉ざされる」「これからの時代、このスキルがなかったら圧倒的に不利」というのは、なるべく穏当に言って、ウソでしょう。
現在たまたま英語もプログラミングも必要のない仕事についているから言える戯れ言かもしれませんが、まさに必要がないからこそ、胸を張って言えます(あるいは、一度、ホームページを自分で作ろうと思い、独学で挑戦し、泣きべそをかいた経験があるから、言える、とも言えます。その経験を踏まえて、いまでは気心の知れた、センスのいい、腕のたつ、プロフェッショナルに依頼しています。もちろん、この「頼む」というのも、人生においてとても重要なスキルです。残念ながら学校では教わりにくいタイプのスキルですが)
子どもが身につけるべきたったひとつのスキル
必要になったら、必要になってから身につければいい。
逆に言うと、いつなんどき、どんな内容でも学んで習得できるような「学ぶクセ」と「学ぶ技術」だけを、子どもには身につけさせればいい。それが身につけば、ジャンルはなんでもいい。むしろ、小さいころは興味の幅を広げるために、いろいろ手を出すといい。
新たに登場してきたプログラミングは、そのひとつに過ぎない、ぐらいに捉えるのが健康的でしょう。あなたはどう思いますか?
(作家・心理カウンセラー 五百田 達成)
五百田達成 作家・心理カウンセラー/五百田達成事務所 代表
(いおた・たつなり)《30万部突破「察しない男 説明しない女」シリーズ》東京大学教養学部卒。角川書店、博報堂、博報堂生活総合研究所を経て独立。「コミュニケーション心理」「社会変化と男女関係」「SNSと人づきあい」「ことばと伝え方」を主なテーマに執筆・講演。米国CCE,Inc.認定 GCDFキャリアカウンセラー。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/iotatatsunari/20160327-00054690/
学ぼうとする心。
勉強をするクセ。
自分でいろいろ調べてみるクセ。
朝顔の成長日記などは、いいと思う。
失敗しても、あきらめずに、いろいろな角度から挑戦してやりとげるクセ。
困難な状況でもサバイバルできると信じて頑張る強い気持ち。
一度やってみて、ダメでも、いろいろ工夫して挑戦してみるクセ。
工夫ができない人は何をやってもアカン人になってしまう。
同じ方法で何度かやってみて、直ぐ、あきらめてしまう人は成長が無い。
会社の営業の仕事でも、一度ダメでも何度も工夫して最後に上手くいく人もいる。
工夫しない夫は、妻に飽きられる。
(工夫する夫は妻の受けが良い)
歯を磨く習慣。
風呂に入る習慣。
靴を揃える習慣。
きちんと食べる習慣。
(くちゃくちゃ音をたてずに食べる)
箸の持ち方を正しく教える。
勉強をする習慣。
(勉強をするのは、楽しいと思わせる)
身のまわりをかたずける習慣。
軽い運動をする習慣。
いい習慣は、大人になっても残る。
なんだか、ダラダラと書いてしまったけど、
大人が子供に与えることができるのは、
困難があっても立ち向かうなり、逃げるなりして
生き抜く知恵と勇気なんじゃないかな。
とりあえず、
歯磨きの習慣は教えておいた方がいい。
いろんな人材を適切な場所で使いこなせていない上の者が悪い
1)「政治家と金」の問題ではないのではないのか:前田 正晶
目下、ガソリンのプリペイドカードを政治資金で大量に購入したとマスコ ミに採り上げられ、週刊新潮の4月14号にもトップ記事で扱われ、民進党 の新政調会長・山尾志櫻里が話題となっている。これも「政治と金の問 題」として扱われているが、私はこれと甘利前大臣の場合の「政治と金」 とは同日に論じられないと思って眺めている。甘利前大臣の場合は明らか に政治家、それも大臣という職責が物を言ったいたようだが、山尾政調会 長の件は秘書の不始末のように彼女は言うが、私には単なる管理能力の不 足から生じた問題にしか見えない。ことの性質が全く異なると思うのだ。
序でに申し上げておけば、小渕優子や松島みどりの場合も彼らが起こした 事件は政治本体の一部分であったとは見えるが、私には管理能力不十分が 引き起こした問題のように見えて仕方がなかった。
テレビに登場する識者や評論家は「山尾は法律の専門家であるから、この ような明らかな法的な誤りを見落とすはずはない」であるとか「カードを 有権者か支持者に配布したのでは」のように言う。だが、肝腎の代議士に 管理能力が欠落していたか否かは別にして、その秘書が230万円かいくら か知らぬが、自分で勝手に流用し、その帳尻合わせをプリペイドカードを 大量に買い入れたことにしていたとも考えられそうだとも思う。さらに想 像をたくましくすれば、山尾代議士は本来の政治活動が多忙で事務所の帳 簿管理にまで手が回っていなかっただけとも言える気がする。それでも広 義の「政治」の範疇かも知れないが。
何が言いたいのかと言えば「山尾という人は優れた知能を活かして司法試 験を通って検察官になるような能力はあったが、自分の事務所を管理する ような事務能力が不十分だったのではないか」なのだ。私は全知全能な人 などいる訳がなく、人はそれぞれ得手不得手があるもので、その得意とす る分野では総理を保育園問題でやり込めて一躍脚光を浴びたが、自分の仕 事の後始末は不得手だったということだと思っている。
その昔、親しくしていた商社マンの一人は俗に言う「辣腕」であり「豪 腕」で商才に優れ、次から次へと新分野と取引先を開拓し、ニューヨーク 支店に栄転しても輝かしい実績を残していた。ところがその辺りから何故 か昇進については同期にも抜かれたし、本社に戻ったかと思えば小さな子 会社に出されてしまったのだった。私には不可解な人事に見えたのだった ので、その背景というか理由をそっと彼の同僚と上司にも尋ねてみた。
答えは外部にいては簡単には知り得ないもので「彼は新分野を開拓し、売 り上げを伸ばして利益を上げてくるが、社内における事務管理や代金回収 などには余り精力を注ぎ込まず、彼の部下や周囲にいる者たちが懸命に なってカバーしていたのが実態で、豪腕や商才は飽くまでも『外面』で あって、上層部からの評価はもう一つだった」というものだった。悲しい 情報だったが、その点が同期入社の連中との対比でマイナス評価になった ようだった。
私は要するにその人物が持ついくつかの長所というか能力のうちどれを活 かして使うかが、管理の任に当たっている上層部の責任であり手腕でもあ ると考えている。会社という組織ならば所謂アシスタント的なものをつけ てその豪腕の欠陥を補ってやることもあるだろうが、私には政治家は団体 競技ではなく、テニスやゴルフまたは相撲のような個人種目のように見え てならない。
ここでまた難しい議論に入れば、私は女性の事務管理能力と秘書のような 仕事では男よりも遙かに優れた能力があり、その点を如何に巧みに適材適 所で活用していくかを考えた方が適切で、安倍総理の女性活用論に見られ るように何が何でも管理職に登用することが全てではないような気がす る。これはこれまでに経験した二人の女性の力から言えることだ。「わず か二人とは」と言われそうだが、それは間もなく結婚53年目を迎える家内 と、W社で12年間私を適切に使ってくれた秘書のE子さんを指しているのだ。
これでは「政治と金の問題」から些か離れてしまったが、私は山尾の場合 は政治色よりも彼女の管理能力に問題があったのではないかを言いたく て、此処まで引っ張ってきた次第だ。但し、山尾の長所と見える能力を安 倍政権の揚げ足取りにだけしか活かせない岡田克也以下の民進党の幹部連 中の能力にも問題があるように見える。
~~~~~~~~
会社の売り上げをどんどん伸ばしてくるような人材をきちんと使いこなせず、補助も付けず、ヒマな部署に押し込める会社はダメな会社。
どんどん物を売ってくるけれども、管理がうまくできず、いつも物を切らして、事務員に謝らせてばかりいる営業も、管理ができる人を補助につけてもらっていないからであって、会社がうまく人を使いこなせていないってこと。
いろんな人材をうまく使いこなせてこそいい会社ってもんだろう。
ガソリンのプリペイドカード問題は、たぶん、秘書が金を勝手に私用で使っていて、つじつま合わせにカードを買ったことにしているのだと思うけど、そんな犯罪者を秘書として雇う党が一番オバカさん。秘書が何をしているのか、チェックもしていない政治家もオバカさん。その秘書はいったい、何者やねん。なんでも秘書のせいにして、政治家は罪を背負わなくていいのが、日本の悪いところ。日本では、秘書は政治家より偉いのかな。税金を無駄使いばかりして、日本のために何もいいことをやっていないではないか。アメリカの言いなりになって日本を売っている政治家もイヤだけど、役に立たない政治家も本当にイヤ。そんな政治家を選挙で選んでいる日本人も問題だ。アメリカの言うことを聞かないなら殺されるっていうなら、日本国民に暴露してほしい。アメリカの言いなりにならないと、地震と津波と原発の爆破だと脅されているのなら、暴露してほしい。日本のために死ねる政治家って、いないのかな。
目下、ガソリンのプリペイドカードを政治資金で大量に購入したとマスコ ミに採り上げられ、週刊新潮の4月14号にもトップ記事で扱われ、民進党 の新政調会長・山尾志櫻里が話題となっている。これも「政治と金の問 題」として扱われているが、私はこれと甘利前大臣の場合の「政治と金」 とは同日に論じられないと思って眺めている。甘利前大臣の場合は明らか に政治家、それも大臣という職責が物を言ったいたようだが、山尾政調会 長の件は秘書の不始末のように彼女は言うが、私には単なる管理能力の不 足から生じた問題にしか見えない。ことの性質が全く異なると思うのだ。
序でに申し上げておけば、小渕優子や松島みどりの場合も彼らが起こした 事件は政治本体の一部分であったとは見えるが、私には管理能力不十分が 引き起こした問題のように見えて仕方がなかった。
テレビに登場する識者や評論家は「山尾は法律の専門家であるから、この ような明らかな法的な誤りを見落とすはずはない」であるとか「カードを 有権者か支持者に配布したのでは」のように言う。だが、肝腎の代議士に 管理能力が欠落していたか否かは別にして、その秘書が230万円かいくら か知らぬが、自分で勝手に流用し、その帳尻合わせをプリペイドカードを 大量に買い入れたことにしていたとも考えられそうだとも思う。さらに想 像をたくましくすれば、山尾代議士は本来の政治活動が多忙で事務所の帳 簿管理にまで手が回っていなかっただけとも言える気がする。それでも広 義の「政治」の範疇かも知れないが。
何が言いたいのかと言えば「山尾という人は優れた知能を活かして司法試 験を通って検察官になるような能力はあったが、自分の事務所を管理する ような事務能力が不十分だったのではないか」なのだ。私は全知全能な人 などいる訳がなく、人はそれぞれ得手不得手があるもので、その得意とす る分野では総理を保育園問題でやり込めて一躍脚光を浴びたが、自分の仕 事の後始末は不得手だったということだと思っている。
その昔、親しくしていた商社マンの一人は俗に言う「辣腕」であり「豪 腕」で商才に優れ、次から次へと新分野と取引先を開拓し、ニューヨーク 支店に栄転しても輝かしい実績を残していた。ところがその辺りから何故 か昇進については同期にも抜かれたし、本社に戻ったかと思えば小さな子 会社に出されてしまったのだった。私には不可解な人事に見えたのだった ので、その背景というか理由をそっと彼の同僚と上司にも尋ねてみた。
答えは外部にいては簡単には知り得ないもので「彼は新分野を開拓し、売 り上げを伸ばして利益を上げてくるが、社内における事務管理や代金回収 などには余り精力を注ぎ込まず、彼の部下や周囲にいる者たちが懸命に なってカバーしていたのが実態で、豪腕や商才は飽くまでも『外面』で あって、上層部からの評価はもう一つだった」というものだった。悲しい 情報だったが、その点が同期入社の連中との対比でマイナス評価になった ようだった。
私は要するにその人物が持ついくつかの長所というか能力のうちどれを活 かして使うかが、管理の任に当たっている上層部の責任であり手腕でもあ ると考えている。会社という組織ならば所謂アシスタント的なものをつけ てその豪腕の欠陥を補ってやることもあるだろうが、私には政治家は団体 競技ではなく、テニスやゴルフまたは相撲のような個人種目のように見え てならない。
ここでまた難しい議論に入れば、私は女性の事務管理能力と秘書のような 仕事では男よりも遙かに優れた能力があり、その点を如何に巧みに適材適 所で活用していくかを考えた方が適切で、安倍総理の女性活用論に見られ るように何が何でも管理職に登用することが全てではないような気がす る。これはこれまでに経験した二人の女性の力から言えることだ。「わず か二人とは」と言われそうだが、それは間もなく結婚53年目を迎える家内 と、W社で12年間私を適切に使ってくれた秘書のE子さんを指しているのだ。
これでは「政治と金の問題」から些か離れてしまったが、私は山尾の場合 は政治色よりも彼女の管理能力に問題があったのではないかを言いたく て、此処まで引っ張ってきた次第だ。但し、山尾の長所と見える能力を安 倍政権の揚げ足取りにだけしか活かせない岡田克也以下の民進党の幹部連 中の能力にも問題があるように見える。
~~~~~~~~
会社の売り上げをどんどん伸ばしてくるような人材をきちんと使いこなせず、補助も付けず、ヒマな部署に押し込める会社はダメな会社。
どんどん物を売ってくるけれども、管理がうまくできず、いつも物を切らして、事務員に謝らせてばかりいる営業も、管理ができる人を補助につけてもらっていないからであって、会社がうまく人を使いこなせていないってこと。
いろんな人材をうまく使いこなせてこそいい会社ってもんだろう。
ガソリンのプリペイドカード問題は、たぶん、秘書が金を勝手に私用で使っていて、つじつま合わせにカードを買ったことにしているのだと思うけど、そんな犯罪者を秘書として雇う党が一番オバカさん。秘書が何をしているのか、チェックもしていない政治家もオバカさん。その秘書はいったい、何者やねん。なんでも秘書のせいにして、政治家は罪を背負わなくていいのが、日本の悪いところ。日本では、秘書は政治家より偉いのかな。税金を無駄使いばかりして、日本のために何もいいことをやっていないではないか。アメリカの言いなりになって日本を売っている政治家もイヤだけど、役に立たない政治家も本当にイヤ。そんな政治家を選挙で選んでいる日本人も問題だ。アメリカの言うことを聞かないなら殺されるっていうなら、日本国民に暴露してほしい。アメリカの言いなりにならないと、地震と津波と原発の爆破だと脅されているのなら、暴露してほしい。日本のために死ねる政治家って、いないのかな。
いつまでもアメリカに頼ってばかりいては日米関係も機能しなくなるとい うことだ。
日本も直視すべき過激派テロの脅威
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櫻井よしこ
3月22日、ベルギーの首都ブリュッセルの国際空港と地下鉄駅で同時テロ 事件が発生するや否や、ベルギー原子力監督機構は国内の原発7基の現場 で働く職員の大半に帰宅命令を出した。
次に出社命令が出るまで自宅で待 機せよという指示である。
原発稼働に必要な最小限の幹部だけを残しての突然の帰宅命令について ベルギー当局は、職員の氏素性は十分に調査済みだが、「後悔するより安 全第一だ」と述べている(「タイム」誌、4月4日号)。
原発サイトで働く人々の中に1人でもテロリストがまじっていれば大惨劇 が生じかねないと危惧しての判断だった。
この判断は闇雲になされたので はなく、イスラム国(IS)が放射性物質を含む大量破壊兵器の入手を目 指していることを示す証拠が断片的ながらも集積されていたという事実に 基づいたものだった。
たとえば昨年11月13日に発生したISによるパリ襲撃事件の捜査の過程で 犯人のアジトから1本のビデオが見つかった。
そこには生垣に仕込んだ隠 しカメラで遂一撮影されたベルギー連邦原子力エネルギー研究センター幹 部の自宅の映像が記録されていた。
幹部の勤務先には核兵器の材料となり 得る高濃縮ウランが保管されている。
医療用放射性物質も貯蔵されてお り、これらは放射性物質を撒き散らす「汚い爆弾」(ダーティー・ボム) の原材料となる。
核兵器でなくともダーティー・ボムが都市攻撃に使用されれば、都市は壊 滅的被害を受ける。
犠牲者の数も測りしれないだろう。
ISは究極の攻撃 兵器の製造を念頭に、放射性物質の入手につながるこの幹部の誘拐目的で 自宅を監視していたと分析された。
ISをはじめとするテロリストの実力の程はどうなのか。
彼らは昨年8 月時点でイラクのクルド人部隊に化学兵器のマスタードガスを使用した可 能性があると、当時、「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙が報じ た。
いま、そのISが粉末状のマスタードガス製造に成功したと、今度 は、「タイム」誌が報じている。
ゆるい管理体制
同誌はこれをオウム真理教がサリンガスを製造したのに続く、テロリス トによる化学兵器の製造例と位置づけている。
欧米諸国は日本人よりはる かに厳しい認識でサリン事件を記憶しているのである。
核によるISのテロについては未だ深刻な脅威ではないと考える専門家 もいるが、ISが近未来に核、もしくはダーティー・ボムなどの大量破壊 兵器を手にする確率は高いと見ておくべきだろう。
そう考えなければなら ない理由のひとつが放射性物質のゆるい管理体制である。
世界には130か国に分散する形で180万トンもの放射性物質が存在する。
しかし、保管に関して安全策を講じているのはわずか23か国だと言われて いる。
放射性物質は軍事施設だけでなく、病院や研究室など多くの民間施 設に分散されており、その全てで万全の保管体制を作ることは至難の業だ と言ってよい。
この危うい現実がベルギーのテロ犯たちに放射性物質を狙わせたとも言え るだろう。
彼らは今回は入手に至らなかった。
しかし、同じような試みが 繰り返され、彼らが大量破壊兵器を手に入れる日はいつか来ると見るべき だ。テ
ロはこれまでよりもはるかに危険で厄介な局面に入っているのである。
また、各国政府がテロリストをコントロールすることも困難になりつつあ る。
各地でテロに走る若者たちの多くは、移住先の国に溶け込むことが出 来ず、ISの偏狭かつ暴力的な教えに感化されている。
一方、ベルギー在 住のエッセイスト、大野ゆり子氏が3月27日の「読売新聞」で、今回のテ ロ事件の容疑者の多くがベルギー生まれの若者であること、過激思想の拠 点となったモレンベーク地区は市の中心部に近い所にあることを指摘して いた。
彼女はその地区内の地下鉄駅をよく使うそうだ。
日常の風景の一地域か ら過激思想の若者たちが生まれてくる。
彼らに疎外感を抱かせれば、向う 側に押しやってしまう。
しかし有効な解決策は見当たらない。
こうして 次々に地元で生まれるテロリストたちに各国は対処しきれずにいる。
新た なテロが発生し続け、その波はいまやアジアにも押し寄せている。
今年に入ってインドネシアやパキスタンでもテロが続く。
1月14日にはジャカルタの中心部で20人以上が死傷した。
同月20日にはパ キスタン北西部のペシャワル近郊で21人が殺害された。
3月27日にはまた もやパキスタン東部の都市ラホールの自爆テロで72人が死亡した。
直近のこのテロ事件の犠牲者数はベルギーでのそれよりもはるかに多 い。
日本での報じ方はベルギーのテロと較べると驚くほど地味であるが、 アジアにもテロが広がっていること、それらのテロはやがて日本への脅威 となることについて、もっと危機感を抱かなければならないはずだ。
日米安保に不満
テロをどこか他国の事象としてとらえ、日本に関係することととらえにく いのは戦後70年、一度も戦争をせずにきた日本だからこそであろうか。
私 たちが向き合わなければならないのはテロ攻撃の可能性だけではない。
国際社会の動きは1日毎に変化すると言ってよい程、大きく変わりつつあ る。
その変化に正対しなければ日本は本当に大変なことになる。
日本を厳 しいが当たり前の現実に引き戻そうとしているのがアメリカの変化であろう。
オバマ大統領が世界の警察をやめた結果、世界にもたらした変化は中国の 膨張であり、テロリスト勢力の拡大だった。
オバマ政権が米国内にもたら したのが、根拠不十分な極論を吐き続けるドナルド・トランプ氏である。
トランプ氏の発言の殆どは論外だが、その中には日本が真剣に向き合わな ければならない点がある。
日本は日米安保条約でアメリカに助けてもらう 一方で、アメリカを助けないのは許し難いという非難である。
氏の日本非難の発言が繰り返し報道されることで、より多くの米国人 が、日米安保の性質に気づきつつある。
安倍政権だけでなく、民主党の野 田政権でさえ、日米安保政策に関しては努力を重ねてきた。
しかし、その ような細かい事情は関係なく、アメリカ国民は片務性の強い日米安保に不 満を抱くだろう。
これは日米安保に大きな影響を与えずにはおかない。
いつまでもアメリカに頼ってばかりいては日米関係も機能しなくなるとい うことだ。
テロの脅威についても、中国の脅威の前で自国の安全をどう守 るかについても、より現実的に考えなければならないいま、安保関連法の 施行を、せめて評価したいと思う。
『週刊新潮』 2016年4月7日号
日本ルネッサンス 第699回
━━━━━━━━━━━━━━━━━
櫻井よしこ
3月22日、ベルギーの首都ブリュッセルの国際空港と地下鉄駅で同時テロ 事件が発生するや否や、ベルギー原子力監督機構は国内の原発7基の現場 で働く職員の大半に帰宅命令を出した。
次に出社命令が出るまで自宅で待 機せよという指示である。
原発稼働に必要な最小限の幹部だけを残しての突然の帰宅命令について ベルギー当局は、職員の氏素性は十分に調査済みだが、「後悔するより安 全第一だ」と述べている(「タイム」誌、4月4日号)。
原発サイトで働く人々の中に1人でもテロリストがまじっていれば大惨劇 が生じかねないと危惧しての判断だった。
この判断は闇雲になされたので はなく、イスラム国(IS)が放射性物質を含む大量破壊兵器の入手を目 指していることを示す証拠が断片的ながらも集積されていたという事実に 基づいたものだった。
たとえば昨年11月13日に発生したISによるパリ襲撃事件の捜査の過程で 犯人のアジトから1本のビデオが見つかった。
そこには生垣に仕込んだ隠 しカメラで遂一撮影されたベルギー連邦原子力エネルギー研究センター幹 部の自宅の映像が記録されていた。
幹部の勤務先には核兵器の材料となり 得る高濃縮ウランが保管されている。
医療用放射性物質も貯蔵されてお り、これらは放射性物質を撒き散らす「汚い爆弾」(ダーティー・ボム) の原材料となる。
核兵器でなくともダーティー・ボムが都市攻撃に使用されれば、都市は壊 滅的被害を受ける。
犠牲者の数も測りしれないだろう。
ISは究極の攻撃 兵器の製造を念頭に、放射性物質の入手につながるこの幹部の誘拐目的で 自宅を監視していたと分析された。
ISをはじめとするテロリストの実力の程はどうなのか。
彼らは昨年8 月時点でイラクのクルド人部隊に化学兵器のマスタードガスを使用した可 能性があると、当時、「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙が報じ た。
いま、そのISが粉末状のマスタードガス製造に成功したと、今度 は、「タイム」誌が報じている。
ゆるい管理体制
同誌はこれをオウム真理教がサリンガスを製造したのに続く、テロリス トによる化学兵器の製造例と位置づけている。
欧米諸国は日本人よりはる かに厳しい認識でサリン事件を記憶しているのである。
核によるISのテロについては未だ深刻な脅威ではないと考える専門家 もいるが、ISが近未来に核、もしくはダーティー・ボムなどの大量破壊 兵器を手にする確率は高いと見ておくべきだろう。
そう考えなければなら ない理由のひとつが放射性物質のゆるい管理体制である。
世界には130か国に分散する形で180万トンもの放射性物質が存在する。
しかし、保管に関して安全策を講じているのはわずか23か国だと言われて いる。
放射性物質は軍事施設だけでなく、病院や研究室など多くの民間施 設に分散されており、その全てで万全の保管体制を作ることは至難の業だ と言ってよい。
この危うい現実がベルギーのテロ犯たちに放射性物質を狙わせたとも言え るだろう。
彼らは今回は入手に至らなかった。
しかし、同じような試みが 繰り返され、彼らが大量破壊兵器を手に入れる日はいつか来ると見るべき だ。テ
ロはこれまでよりもはるかに危険で厄介な局面に入っているのである。
また、各国政府がテロリストをコントロールすることも困難になりつつあ る。
各地でテロに走る若者たちの多くは、移住先の国に溶け込むことが出 来ず、ISの偏狭かつ暴力的な教えに感化されている。
一方、ベルギー在 住のエッセイスト、大野ゆり子氏が3月27日の「読売新聞」で、今回のテ ロ事件の容疑者の多くがベルギー生まれの若者であること、過激思想の拠 点となったモレンベーク地区は市の中心部に近い所にあることを指摘して いた。
彼女はその地区内の地下鉄駅をよく使うそうだ。
日常の風景の一地域か ら過激思想の若者たちが生まれてくる。
彼らに疎外感を抱かせれば、向う 側に押しやってしまう。
しかし有効な解決策は見当たらない。
こうして 次々に地元で生まれるテロリストたちに各国は対処しきれずにいる。
新た なテロが発生し続け、その波はいまやアジアにも押し寄せている。
今年に入ってインドネシアやパキスタンでもテロが続く。
1月14日にはジャカルタの中心部で20人以上が死傷した。
同月20日にはパ キスタン北西部のペシャワル近郊で21人が殺害された。
3月27日にはまた もやパキスタン東部の都市ラホールの自爆テロで72人が死亡した。
直近のこのテロ事件の犠牲者数はベルギーでのそれよりもはるかに多 い。
日本での報じ方はベルギーのテロと較べると驚くほど地味であるが、 アジアにもテロが広がっていること、それらのテロはやがて日本への脅威 となることについて、もっと危機感を抱かなければならないはずだ。
日米安保に不満
テロをどこか他国の事象としてとらえ、日本に関係することととらえにく いのは戦後70年、一度も戦争をせずにきた日本だからこそであろうか。
私 たちが向き合わなければならないのはテロ攻撃の可能性だけではない。
国際社会の動きは1日毎に変化すると言ってよい程、大きく変わりつつあ る。
その変化に正対しなければ日本は本当に大変なことになる。
日本を厳 しいが当たり前の現実に引き戻そうとしているのがアメリカの変化であろう。
オバマ大統領が世界の警察をやめた結果、世界にもたらした変化は中国の 膨張であり、テロリスト勢力の拡大だった。
オバマ政権が米国内にもたら したのが、根拠不十分な極論を吐き続けるドナルド・トランプ氏である。
トランプ氏の発言の殆どは論外だが、その中には日本が真剣に向き合わな ければならない点がある。
日本は日米安保条約でアメリカに助けてもらう 一方で、アメリカを助けないのは許し難いという非難である。
氏の日本非難の発言が繰り返し報道されることで、より多くの米国人 が、日米安保の性質に気づきつつある。
安倍政権だけでなく、民主党の野 田政権でさえ、日米安保政策に関しては努力を重ねてきた。
しかし、その ような細かい事情は関係なく、アメリカ国民は片務性の強い日米安保に不 満を抱くだろう。
これは日米安保に大きな影響を与えずにはおかない。
いつまでもアメリカに頼ってばかりいては日米関係も機能しなくなるとい うことだ。
テロの脅威についても、中国の脅威の前で自国の安全をどう守 るかについても、より現実的に考えなければならないいま、安保関連法の 施行を、せめて評価したいと思う。
『週刊新潮』 2016年4月7日号
日本ルネッサンス 第699回
それは日本が原爆を持っていなかったからだ
『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』
加瀬英明著・KKベストセラーズ社刊
第八章 アメリカと日本の原爆
今回は、第8章です。
原爆投下は必要なく、投下したことはアメリカの歴史において未曾有の残虐行為だったと第三一代アメリカ大統領のフーバーはその大著『Freedom Betrayed』の中で述べています。
「日本は原爆投下の二週間前に、ソ連に対して和平の明らかな意向を持っていることを知らせていたが、トルーマンも、バーンズ、スティムソンも日本の外交電文を傍受解読して承知していた。…トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆投下を命じたことは、アメリカ政治家の質を疑わせるものである。…アメリカ国民の良心を永遠に責めるものである。」
しかし、アメリカでは原爆を投下したことによって日本が救われたと考える人が圧倒的です。筆者は1990年8月に原爆投下実施部隊(陸軍航空隊第509混成旅団)の最後の戦友会に招かれて講演をしています。原爆投下訓練が行われたウエンドオーバーで航空隊員(家族含めて500人あまり)に原爆を投下しなくても降伏した、原爆投下は無用だった、国際法に反する、人道にもとる残虐行為だったが、戦争の狂気の中で行われたことであったから、今では日本国民はアメリカを恨むことは全く無いと話したそうです。話しているうちに一人さり、二人さり、最後は40人あまりしか残っていなかったそうです。その中にティベット准将がいて、「よい話だった」「日本側の見方がよくわかった」と言ってくれたそうです。
筆者は、ニューヨーク・タイムズ社のオーナー夫人のサルツバーガー主催の昼食会で、スティムソン陸軍長官のもとで陸軍次官を務めトルーマン大統領が原爆投下を決定したホワイトハウスの会議に出席したジョン・マクロイに会ったので、「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたら日本に核攻撃を加えていたでしょうか」と質問したそうです。そこにいたタイムズ記者のジェームズ・レストンが「なぜそんな当たり前のことを質問するんだ。聞かなくてもわかっているだろう」と口を挟んだそうです。マクロイは、勿論投下することはありえなかった」と答えたそうです。
広島の有名な碑に書かれている「過ちは繰り返しません」という意味は、原爆を持っていなかった過ちのことなのだろうか?サッチャー首相も、日本がなぜ原爆を投下されたのか聞かれると、それは日本が原爆を持っていなかったからだ、と答えたという話もよく聞きます。これが世界の常識なのでしょう。
日本文は、http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Greater88.pdf
英文は、http://www.sdh-fact.com/CL/Greater8.pdf
英文は、下記の通り、英文Newsletter で海外に発信しました。
平成28年4月8日 「史実を世界に発信する会」茂木弘道拝
The Greater East Asian War: How Japan Changed The World
By Kase Hideaki
(Published by KK Bestseller in Japanese, 2015)
Chapter 8 – The United States and the Atomic Bombings of Japan
This link is to Chapter 8.
Roosevelt's predecessor as president, Herbert Hoover strongly denounced the atomic bombing of Hiroshima in his memoir, Freedom Betrayed;
Nearly two weeks before [the atomic bombings], the positive proposal of Japan was made to Russia of which Truman, Byrnes and Stimson had full information from intercepted telegrams. (p. 560)
Truman’s immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese …Not only had Japan been repeatedly suing for peace but it was the act of unparalleled brutality in all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience. (p.882)
However, majority of American people believe that Japan was saved thanks to the atomic bombing. In August 1990, Mr. Kase made a speech at the final reunion of the veterans of the United States Army Air Forces' 509th Composite Group held in the town of Wendover. The 509 Composite Group was formed as the atomic bombing team, which was trained in the secret base in this town. He spoke to about 500 attendee that Japan would have surrendered even without the atomic bombings and thus there was never any need to drop the bombs. He concluded the speech by saying that, while the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki were atrocious acts contrary to both international law and basic humanity, they took place in the madness of war, and for that reason, Japanese people have already forgiven it and bear no resentment against the United States.
During his speech, people rose from their seats one by one and finally only forty or so people remained. However, Brigadier General Tibbets was among those who stayed behind. After Mr. Kse had left the stage and Tibbets had exited into the hallway, more than thirty people line up to shake his hand. They thanked him personally and told him things like, "That was a good speech" and "I truly understand the Japanese viewpoint."
Mr. Kase was once invited to a luncheon party held by Mrs. Iphigene Sulzberger owner of The New York Times Company. There he met Mr. John McCloy, who had been Assistant Secretary of War during the final year of World War II. Since he knew that McCloy was a participant in the conference where the decision to drop the atomic bomb had been made, he asked him, If Japan was in possession of even a single atomic bomb at that time, and had the capacity to drop it anywhere in America, would the United States still have subjected Japan to a nuclear attack?" Mr. James Reston of New York Times, who happened to be there immediately interjected, "Why would you ask something so obvious? You should know the answer without having to ask." McCloy said, "Naturally, you too know the answer. If Japan also had had an atomic bomb, then making a nuclear attack on Japan would have been unthinkable."
URL: http://www.sdh-fact.com/book-article/671/
PDF: http://www.sdh-fact.com/CL/Greater8.pdf
Author profile: http://www.sdh-fact.com/auther/kase-hideaki/
*For your reference; Chapter 1. Up to the Day Japan Surrendered
http://www.sdh-fact.com/CL/The-Greater1.pdf
Chapter 2. The Trap Laid by the United States
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater2.pdf
Chapter 3. The Greater East Asia Conference and the Dream of Racial Equality
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater3.pdf
Chapter 4. The Noble Spirit Which Inspired the People of Asia
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater4.pdf
Chapter 5. Freedom >From Racial Discrimination
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater5.pdf
Chapter 6. Japanese Army’s “Spirit-First Policy”
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater6.pdf
Chapter 7. Why Do We Praise The Kamikaze?
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater7.pdf
Questions are welcome.
MOTEKI Hiromichi, Acting Chairman
for KASE Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact
Phone: +81-3-3519-4366
Fax: +81-3-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com
Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.
加瀬英明著・KKベストセラーズ社刊
第八章 アメリカと日本の原爆
今回は、第8章です。
原爆投下は必要なく、投下したことはアメリカの歴史において未曾有の残虐行為だったと第三一代アメリカ大統領のフーバーはその大著『Freedom Betrayed』の中で述べています。
「日本は原爆投下の二週間前に、ソ連に対して和平の明らかな意向を持っていることを知らせていたが、トルーマンも、バーンズ、スティムソンも日本の外交電文を傍受解読して承知していた。…トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆投下を命じたことは、アメリカ政治家の質を疑わせるものである。…アメリカ国民の良心を永遠に責めるものである。」
しかし、アメリカでは原爆を投下したことによって日本が救われたと考える人が圧倒的です。筆者は1990年8月に原爆投下実施部隊(陸軍航空隊第509混成旅団)の最後の戦友会に招かれて講演をしています。原爆投下訓練が行われたウエンドオーバーで航空隊員(家族含めて500人あまり)に原爆を投下しなくても降伏した、原爆投下は無用だった、国際法に反する、人道にもとる残虐行為だったが、戦争の狂気の中で行われたことであったから、今では日本国民はアメリカを恨むことは全く無いと話したそうです。話しているうちに一人さり、二人さり、最後は40人あまりしか残っていなかったそうです。その中にティベット准将がいて、「よい話だった」「日本側の見方がよくわかった」と言ってくれたそうです。
筆者は、ニューヨーク・タイムズ社のオーナー夫人のサルツバーガー主催の昼食会で、スティムソン陸軍長官のもとで陸軍次官を務めトルーマン大統領が原爆投下を決定したホワイトハウスの会議に出席したジョン・マクロイに会ったので、「もし、あの時、日本が原子爆弾を一発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたら日本に核攻撃を加えていたでしょうか」と質問したそうです。そこにいたタイムズ記者のジェームズ・レストンが「なぜそんな当たり前のことを質問するんだ。聞かなくてもわかっているだろう」と口を挟んだそうです。マクロイは、勿論投下することはありえなかった」と答えたそうです。
広島の有名な碑に書かれている「過ちは繰り返しません」という意味は、原爆を持っていなかった過ちのことなのだろうか?サッチャー首相も、日本がなぜ原爆を投下されたのか聞かれると、それは日本が原爆を持っていなかったからだ、と答えたという話もよく聞きます。これが世界の常識なのでしょう。
日本文は、http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Greater88.pdf
英文は、http://www.sdh-fact.com/CL/Greater8.pdf
英文は、下記の通り、英文Newsletter で海外に発信しました。
平成28年4月8日 「史実を世界に発信する会」茂木弘道拝
The Greater East Asian War: How Japan Changed The World
By Kase Hideaki
(Published by KK Bestseller in Japanese, 2015)
Chapter 8 – The United States and the Atomic Bombings of Japan
This link is to Chapter 8.
Roosevelt's predecessor as president, Herbert Hoover strongly denounced the atomic bombing of Hiroshima in his memoir, Freedom Betrayed;
Nearly two weeks before [the atomic bombings], the positive proposal of Japan was made to Russia of which Truman, Byrnes and Stimson had full information from intercepted telegrams. (p. 560)
Truman’s immoral order to drop the atomic bomb on the Japanese …Not only had Japan been repeatedly suing for peace but it was the act of unparalleled brutality in all American history. It will forever weigh heavily on the American conscience. (p.882)
However, majority of American people believe that Japan was saved thanks to the atomic bombing. In August 1990, Mr. Kase made a speech at the final reunion of the veterans of the United States Army Air Forces' 509th Composite Group held in the town of Wendover. The 509 Composite Group was formed as the atomic bombing team, which was trained in the secret base in this town. He spoke to about 500 attendee that Japan would have surrendered even without the atomic bombings and thus there was never any need to drop the bombs. He concluded the speech by saying that, while the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki were atrocious acts contrary to both international law and basic humanity, they took place in the madness of war, and for that reason, Japanese people have already forgiven it and bear no resentment against the United States.
During his speech, people rose from their seats one by one and finally only forty or so people remained. However, Brigadier General Tibbets was among those who stayed behind. After Mr. Kse had left the stage and Tibbets had exited into the hallway, more than thirty people line up to shake his hand. They thanked him personally and told him things like, "That was a good speech" and "I truly understand the Japanese viewpoint."
Mr. Kase was once invited to a luncheon party held by Mrs. Iphigene Sulzberger owner of The New York Times Company. There he met Mr. John McCloy, who had been Assistant Secretary of War during the final year of World War II. Since he knew that McCloy was a participant in the conference where the decision to drop the atomic bomb had been made, he asked him, If Japan was in possession of even a single atomic bomb at that time, and had the capacity to drop it anywhere in America, would the United States still have subjected Japan to a nuclear attack?" Mr. James Reston of New York Times, who happened to be there immediately interjected, "Why would you ask something so obvious? You should know the answer without having to ask." McCloy said, "Naturally, you too know the answer. If Japan also had had an atomic bomb, then making a nuclear attack on Japan would have been unthinkable."
URL: http://www.sdh-fact.com/book-article/671/
PDF: http://www.sdh-fact.com/CL/Greater8.pdf
Author profile: http://www.sdh-fact.com/auther/kase-hideaki/
*For your reference; Chapter 1. Up to the Day Japan Surrendered
http://www.sdh-fact.com/CL/The-Greater1.pdf
Chapter 2. The Trap Laid by the United States
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater2.pdf
Chapter 3. The Greater East Asia Conference and the Dream of Racial Equality
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater3.pdf
Chapter 4. The Noble Spirit Which Inspired the People of Asia
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater4.pdf
Chapter 5. Freedom >From Racial Discrimination
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater5.pdf
Chapter 6. Japanese Army’s “Spirit-First Policy”
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater6.pdf
Chapter 7. Why Do We Praise The Kamikaze?
http://www.sdh-fact.com/CL/Greater7.pdf
Questions are welcome.
MOTEKI Hiromichi, Acting Chairman
for KASE Hideaki, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact
Phone: +81-3-3519-4366
Fax: +81-3-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com
Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.
横浜市都筑区でこの8ケ月の間に起きたトラバサミによる虐待事件
宛先: 横浜市長
林文子 横浜市長!都筑区で発生した「猫バラバラ遺体事件」「トラバサミによる猫虐待事件」は動物愛護法違反であり、市全体の問題です!トラバサミ使用禁止の啓発と、重点的な繁殖予防を!
hinata chie 日本
私は、地域の動物に関わるボランティア活動を行う者です。
横浜市の動物適正飼育推進員でもあります。
横浜市都筑区でこの8ケ月の間に起きた二つの虐待事件。
2015年6月に横浜市歴史博物館に隣接した遺跡公園での「猫バラバラ遺体事件」2016年1月「トラバサミによる猫虐待事件」
記事:朝日新聞2016年2月5日(金)
記事:毎日新聞2016年2月4日(木)
調べて行くと過去三年以内にトラバサミによる虐待事件は他にも2件判明。
2015年11月中区では薬物による猫の変死事件など、動物虐待事件の多さははっきり言って異常事態です。
警察による懸命な捜査が続く中、市民であるわたしたちや行政のできることの提案を続けています。
横浜市にはとかくこの事態を重く受け止め、これ以上重大な事件へと発展させないためにも、市長により委嘱された80人を超える動物適正飼育推進員や自治会などと連携し、啓発活動に積極的に取り組むことを求めます。
実際、2007年鳥獣保護法の改正により狩猟のための「トラバサミ」の使用は禁止となり、有害捕獲のための使用にも厳しく規制がかかりました。
挟まると骨は粉砕骨折し多くは足を切断せざるを得ないほどの威力を持つトラバサミは、古くは農機具の一つとして使用されるなどし、現在も納屋などに残っていて、無知ゆえの使用も含め規制強化を周知徹底しなければならないと思うのです。
また、このような事件が多発する背景には、過剰な猫の繁殖による糞尿被害なども要因の一つになっている事実も見逃せません。
その根本解決策として・・・。
重点的な繁殖予防(TNR活動)を行うことに尽きると考えています。
そこで、多額の税金を投入して建設された横浜市動物愛護センターを活用し、この地区をモデル地区にするなど、実践的な啓発活動と繁殖予防(TNR活動)が行えるよう声をあげていきたいと思います。私たちの活動にご賛同くださいますよう、よろしくお願いします。
林文子 横浜市長!都筑区で発生した「猫バラバラ遺体事件」「トラバサミによる猫虐待事件」は動物愛護法違反であり、市全体の問題です!トラバサミ使用禁止の啓発と、重点的な繁殖予防を!
hinata chie 日本
私は、地域の動物に関わるボランティア活動を行う者です。
横浜市の動物適正飼育推進員でもあります。
横浜市都筑区でこの8ケ月の間に起きた二つの虐待事件。
2015年6月に横浜市歴史博物館に隣接した遺跡公園での「猫バラバラ遺体事件」2016年1月「トラバサミによる猫虐待事件」
記事:朝日新聞2016年2月5日(金)
記事:毎日新聞2016年2月4日(木)
調べて行くと過去三年以内にトラバサミによる虐待事件は他にも2件判明。
2015年11月中区では薬物による猫の変死事件など、動物虐待事件の多さははっきり言って異常事態です。
警察による懸命な捜査が続く中、市民であるわたしたちや行政のできることの提案を続けています。
横浜市にはとかくこの事態を重く受け止め、これ以上重大な事件へと発展させないためにも、市長により委嘱された80人を超える動物適正飼育推進員や自治会などと連携し、啓発活動に積極的に取り組むことを求めます。
実際、2007年鳥獣保護法の改正により狩猟のための「トラバサミ」の使用は禁止となり、有害捕獲のための使用にも厳しく規制がかかりました。
挟まると骨は粉砕骨折し多くは足を切断せざるを得ないほどの威力を持つトラバサミは、古くは農機具の一つとして使用されるなどし、現在も納屋などに残っていて、無知ゆえの使用も含め規制強化を周知徹底しなければならないと思うのです。
また、このような事件が多発する背景には、過剰な猫の繁殖による糞尿被害なども要因の一つになっている事実も見逃せません。
その根本解決策として・・・。
重点的な繁殖予防(TNR活動)を行うことに尽きると考えています。
そこで、多額の税金を投入して建設された横浜市動物愛護センターを活用し、この地区をモデル地区にするなど、実践的な啓発活動と繁殖予防(TNR活動)が行えるよう声をあげていきたいと思います。私たちの活動にご賛同くださいますよう、よろしくお願いします。
「いまでも信じられないですね、夢であって欲しい」 鈴木校長
2011年3月11日、学期最後の朝会で校長が子どもたちに贈った言葉は現実になった
加藤順子 2016年3月11日 8時5分配信
定年で退任した鈴木洋子校長(当時)が、卒業生から贈られた手書きの卒業証書
5年前の東日本大震災で学区が被災したことをきっかけに入学する児童の数が激減し、2015年度末で閉校となった宮城県石巻市立門脇小学校で、当時の鈴木洋子校長が朝礼で子どもたちに贈った言葉がある。「桃花笑春風」。この言葉を贈られた最後の学年、当時の1年生たちは、来週小学校を卒業する。私自身、発災から3週間後に鈴木元校長に取材し、人々が去った後も春は巡ってくるという意味のその言葉を、かみしめながら石巻での取材を続けてきた。その後上梓した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋して掲載する。
◇◇◇
卒業生たちの名前が順番に呼びだされ、ひとりひとり「はい!」と答える大きな声が聞こえる。
4月15日、石巻市立門脇中学校3階にある満員の小さな視聴覚室。保護者や教職員、数多くのメディアが見守る中、門脇小学校の卒業式が行われていた。
つい前の日まで避難所として使われていたこの部屋には、主役たちが座る椅子もない。床のオレンジ色のシートに全員が体育座り、という手作りのハレの日だ。
卒業生は、男子23人、女子27人の計50人。ひとりひとりに、校長の祝福が繰り返されていく。校長は、すべての瞬間をかみしめるように名前を読み上げ、子どもたちの成長を確かめるように証書を手渡していた。
あの3月11日の震災以来、離れ離れになっていた6年生が初めて集えたのが、この約ひと月遅れの卒業の日だった。
ひと月遅れの卒業式に集まった当時の門脇小6年生(2011年4月15日)
門脇小学校の全児童300人のうち、死者または行方不明は計7人(取材当時)。このうち、6年生は、ひとりの児童の行方がまだ確認できていなかった。
皆、震災後の混乱で卒業式はできないものと、一度はあきらめていた。この日、県外に避難していた子どもたちの多くが参加し、それぞれに様々な思いを抱えて集まっていた。
大津波警報に、ただ事ではないと感じて日和山へ
3月11日は、学期の最後の朝会があった。3月中旬になっても、雪が降る寒い日が続いていた。しかし、季節も、学校の暦も、確実に春を迎えていた。
鈴木校長は、朝会に寄せて、子どもたちにある言葉を贈った。
『桃花笑春風(とうかしゅんっぷうにえむ)』
人々が去っていった後でも、春は自然に巡ってくるんだよ、という意味の漢詩だ。
「転じて、つらこと、苦しいことは、あなたたちが生きる上で、たくさん押し寄せてくるだろうけども、一生懸命生きていれば、春は来るんだからね、という意味なんです。今年3月いっぱいで定年退職する、校長からの最後のメッセージとして、この言葉を贈ったんです」
何気なく子供たちに贈った漢詩が、その後、これほど現実味を帯びることになろうとは、このとき誰が予想しただろう。
年度末の慌ただしさを除けば、その日もいつもと同じ、金曜日の午後の時間が、ゆったりと流れていくはずだった。
そして――、午後2時46分。地震は起きた。
当時、鈴木校長は、校長室にいた。
揺れが強く、あまりにも長い。しかも、だんだんと揺れが強くなっている。
過去に経験した宮城県沖地震に比べて、この揺れの強さでは、校舎がかなり危険だと直感した。
揺れが収まる前に職員室へ行き、校庭に集まるよう、第1次避難の指示を出した。移動する子どもたちがパニックを起こさないよう、階段の脇に立って見守った。
昼ごろまでは晴れて日差しがあったのに、昼すぎになって、どんよりとした雲に覆われていた。冷たい雨が降り始め、やがてそれが雪に変わった。
少しだけ上がりかけていた気温が、この1時間ほどの間に、急激に下がり始めていた。
着の身着のままで校庭に避難した子どもたちにとっては、あまりにも寒い日だった。
「体育館へでも移動しようか…」
そう教員同士で相談していたとき、大津波警報が出た。
鈴木校長は、やはりこれは、ただ事ではないと感じた。そこで、そのまま第2次避難という形にして、校舎の裏側の高台になっている日和山に避難することにした。
門脇小学校の校舎は、標高56.4メートルの日和山という低山を背に建っている。校舎の西側の階段を登れば、同校の学区である門脇町や南浜町、石巻の港が一望できる崖の上まで、すぐにたどり着ける。
静かに。速やかに。あまりの揺れの大きさに動揺し、泣いている子どももいたが、それでも皆、日頃からの訓練通りに避難を開始した。
実は、この2日前の3月10日の昼前にも、三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。宮城県北部で震度5弱を観測する強い揺れがあった。
この時、津波注意報が解除される前に授業を再開してしまったクラスがあり、「指示を聞かないということは、命を守れない事になる」と改めて防災体制を徹底したばかりだ。「そのときのことが、結果的に訓練になっていた」と校長はいう。
とくに、避難の時は「絶対しゃべらない」ということを徹底してきた。いざというときに、「放送が聞こえず、指示の通らない状態にはしない」という指導が生きたのだ。
ともかく、当時、学校に残っていた生徒は全員、早くに避難させることができた。
「門脇小学校に来たときから、地震と津波のことは、常々意識していました。海辺にある学校であるということに加えて、30年以内に宮城県沖地震が発生する確率が90%以上ということが言われていましたので、その時には、どのように対応すべきか。ずっと備えてきたのです」
とはいえ、それだけの準備が十分できていたことが、その後、学校に押し寄せる悪夢から、子どもたちを守ることにつながったのだ。
ブルーシートで震える子どもたちを守った
日和山に着いてから、津波の第1波は、まもなくやってきた。地震が発生してから、45分ほどが経過していた。
「どーん! という音がして、海に目を向けると、石巻湾の海辺にある『濡仏』の辺りから、波が道路に流れ込んでくるのが見えました。石巻市立病院と石巻文化センターの通りの辺りで、波がダーっと広がって、ドン! と、一直線に来たんですね。そして、南浜町の住宅の屋根が、フッ、フッ、フッと浮くんですよ。びっくりしました。そのうちに、渦を巻くような形で家屋が道路に流れてきて、道を走っている車にも波が来てしまったのを見ました。津波を目の当たりにしたのは初めてでした」
そして、津波は、校舎にまで押し寄せた。
校舎には、避難してきた近隣の住民に対応するために、教頭、教務主任、用務員、新任の教師の4人が残っていた。
「4人は、どうしただろう、と思いました。これはもしかすると、波に飲まれてしまったんではないか。彼らを死なせてしまったのではないかと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
実は、海辺にある門脇小学校は元々、津波の警報が発表された際の避難所には指定されていない。それでも、付近の住民は、学校に次々と避難してくる。
山の階段を登るのが困難という高齢者は多い。地元の自主防災組織でも、「他の災害は門小でもいいのに、津波の時だけ避難できないというのはかえってややこしい。波が来たら3階まで逃げられるし、裏には日和山がある」と、ひとくくりに門脇小学校を避難場所に選んでいたという。
また、地域の中では「門脇小学校までは津波が来ない」という一説もあった。約50年前の1960年のチリ沖地震による津波の被害は、北上川の沿岸部だけだったからだ。
学区にあたる門脇町や南浜町の住民たちの間では、津波に対する認識が、その時の記憶を超えることはなかったのだ。
「学校まで来ない」という話を裏付けるかのように、約1年前の2月29日に、チリ中部地震による津波があった。日本にたどりついた津波は、牡鹿半島にある鮎川検潮所で50cm~60cmほどの潮位を観測したが、大きな人的被害は出なかった。そのことが今回、災いしたのかもしれない。
町に流れ込んだ津波が、学校にたどり着くまでの時間は、あっという間だった。校舎は1階天井付近まで水没した。
「日和山にまで波が押し寄せてくるのではないか」
鈴木校長は、そんな錯覚すら抱いた。
日和山の一番高い部分にある鹿島御児神社まで、子どもたちを連れて逃げざるを得なかった。子どもたちを神社の建物の中に避難させようとしたら、宮司から「耐震工事をしていないですよ」といわれた。それでも、あまりに寒いので、神社の中に入れてもらった。しかし、余震が来ると、子どもたちは恐怖のあまり、神社を飛び出した。
学校から避難する際に、職員がブルーシートを持ってきていた。そのブルーシートは、寒さに震える子どもたちを風と雪から守るのに役立った。また、そのシートの中にいたために、子どもたちは自分たちの町や家が津波に飲み込まれる光景を見ずに済んだ。
残った教員たちが住民と共に燃えさかる校舎から脱出した際に用いた教壇や机(2011年4月26日)
一方、別の職員は、とっさに学校から名簿を持ち出していた。そのため、学校側は、日和山に駆けつけた保護者に、子どもたちを引き渡す手続きがスムーズに行うことができた。これも、日頃の訓練の賜物だった。
最終的に、40人ほどの児童の保護者は、迎えに来ることができなかった。学校で対応に追われていた教頭以下4人の職員も、無事に学校を脱出。鈴木校長たちと合流して、全部で60人あまりの集団となった。
そこで、どこの避難所に身を寄せようかという問題になった。どこの避難所にも、すでに避難民がいっぱいいて、これだけの集団になると、受け入れてもらえないのだ。
石巻市立女子校にも門脇中学校にも、避難してきた人たちがあふれていた。一行がようやく宮城県立石巻高校の会議室に落ち着いた頃には、すっかり夜になっていた。
火が津波とともに流れてきた
海沿いの南浜町や門脇町は、地震直後から高台へ避難する車で渋滞が起きていた。門脇小学校の校庭にも、大津波警報をうけて避難してきた人々の車がたくさん止まっていた。
押し寄せた津波は、校舎の正面にそれらの車をぐしゃぐしゃに押しつけ、積み上げた。車に乗ったままの人も大勢いた。
町のあちらこちらからは、漏れ出た油がスパークによって引火したのか、火の手が上がっていた。
門脇小の校庭に積み重なった車の中から、母親の遺体を引き上げに行く男性(2011年3月24日)
火が津波と共に流れてきた。押し寄せる波の直前に、門脇小学校に逃げ込み、屋上から様子を目撃した人の証言によると、学校の東側の出入り口付近からも火の手が上がった。町とともに、門脇小学校の校舎は炎上した。
「移動しているときにね、南浜町と門脇町のほうから、火の手が上がっているのが見えたんです。赤くなっていて、ああ、燃えているんだなと思ったら、悲しい気持ちになりました」
石高からみた空は、赤々となって、本当に恐ろしかったという。
「地獄絵でした。原爆が落ちたときってこういうのだったのかな、という話を皆でしていました」
午後9時過ぎになって、教育委員会の車が様子を見に来たので、一緒に市役所にある教育委員会に向かった。午後10時過ぎに戻ろうとすると、市役所周辺の水深が増して、膝の高さほどになっていた。「満潮だからではないか」と予想し、その日は、教育委員会に泊まることにした。
ところが、翌日に水が引くどころか、腰辺りの深さになっていた。地盤沈下か、後から何波も押し寄せた津波のせいかもしれない、などと考えた。
黒焦げの校長室の金庫から出てきた卒業証書
震災から4,5日後の3月15日頃、教頭と一緒に、黒焦げの校舎に入った。
中でも、1階の校長室は、ものすごく焼けていた。真ん中の廊下沿いの壁は、すべて丸焦げ状態。校長が執務していた机の脇は、ガラスが破れていた。
校庭には幾重にも重なった車があった。それらはすべてが焼けて、テレビでしか見ないような惨状が広がっていた。
校長が気がかりだったのは、金庫だ。金庫の中には、137年の歴史を物語る学校沿革史などの書類と、歴代の校長やPTAの書類、間近に迫った卒業証書などが入っているはずだった。
「金庫は、校長室でなぎ倒されていました。ものすごい重たい物なので、波の力がもすごかったのだろうと実感しました。ただ、学校の財産とも言える、歴史ある書類を燃やしてしまったのではないかと、大変申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
新年度の予定表
あの日、混乱の中にあって、教頭は金庫のカギをきちんと持ち出していた。しかし、カギがあっても、倒れた金庫をどうすることもできず、後日、教育委員会に開けてもらうことにした。
しかし、教育委員会はなかなか対応してくれない。4度目の要請によって、ようやく金庫を開けてもらえることになった。3月30日、校長が定年退職する日の前日だった。教頭と、残った職員全員で金庫の中身を取りにでかけた。
「金庫をバーナーで焼き切っていただいて、見たらですね、6年の担任が『証書がある』っていうんです。他の書類は、濡れていたりしたんですが、包装紙にくるまれてあった卒業証書だけは、水にも濡れずに、本当に見事に美しい状態で出てきたんです」
証書を守っていたのは、コピー用紙などの包装にも使われるワンプだ。湿気を防止するために裏側が防水仕様になっている紙であったことが幸いした。沿革史も無事だった。
「私としては、沿革史が残ったことも、うれしかったです。明治6年からの歴史ある学校の財産。私の代で何も残さずに終わってしまうかもしれない、ということが非常に辛かったですね。沿革史があれば、また歴史を足していけますからね。これは、子どもたちの希望の確かな証になると思いました」
学校沿革史には、その年度に行った教育活動が書き綴られている。
鈴木校長は、こう語る。
「教育活動をきちんと記した物を受け継ぐってことが伝統・歴史になる。団結力のある門脇町や南浜町の人たちと一緒になって作ってきた門脇小学校の歴史ですから、今回の地震もその中に記されて、次につながっていくと思うんです」
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな
全員分の卒業証書の授与を終えて、鈴木校長が最後の挨拶を始めた。
「ひと月遅れになりましたが、多くのみな様のご厚情とご配慮によって、ここ門脇中学校を会場に、平成22年度石巻市立門脇小学校の卒業式が行われますこと、心より感謝申し上げます」
校長の声は震え気味で、少し涙ぐんでいるようにも見える。
「いま、巣立ちゆくみなさん1人1人に、卒業証書を手渡しました。この卒業証書は、6年間の小学校の学業を修めたという証です。卒業証書を受け取るときのみなさん、真っ直ぐな視線、堂々とした態度に、大震災を乗り越えようとする強さとたくましさが感じられます。悲しいことに、まだ行方不明の○○君、また、震災後、石巻の地を離れ、新しい土地で、新学期を迎える子どもたちに、この卒業証書を直接渡すことができなかったことが、残念でなりません。
門小の桜周辺で遺体捜索する自衛隊員(2011年4月26日)
あの尋常ならざる強い揺れの中。あなたたちは、校庭へ一時避難。無事、全員の点呼確認が終わるやいなや、大津波警報の知らせに、そのまま日和山へ。鈍色の雲が低く垂れ込め、けたたましく緊急事態を告げるサイレンの音、雪がことなげに吹き付ける悪条件が加わるという不穏な雰囲気の中、あなたたちは、地域のお年寄りや、小さな子どもたちの手を引きながら、落ち着いた足取りで避難したのでした。
日和山へたどり着いても、寒さに震える下級生を守ろうと、教頭先生から渡されたブルーシートの端を持ち、待ち続けたのでした。非常時において、あのように思いやりの行動が取れるということは、大変すばらしいことだと感心させられました。きっと下級生や、地域の方の心にも、残ることでしょう。
日和山から望む私たちの街は、本当に美しい街でした。学区の東側を流れる北上川は、日和大橋からゆったりと太平洋に注ぎ、揚々と臨みを抱かせる海に面した山は、石巻の顔であり、私たちの自慢の風景でした。
それが、あの日、大海原は、川を変え、牙をむき出し、一瞬のうちに、私たちの街を呑み込んでしまったのです。そして、がれきの山と化してしまったのです。
すさまじい光景。惨状。自然の脅威に、語るべき言葉を失ってしまいました。私たちの校舎も、大破、炎上しました。燃え尽くされ、黒焦げになってしまった校長室。その中で、堅牢な耐火金庫のみ、なぎ倒され、残っていました。みなさんが、いま手にした卒業証書は、その中にあったんです。まさに、奇跡といえるのではないでしょうか。
この卒業証書は、みなさんのこれまでの努力と、頑張ってきた姿を、しっかりと認め、励ますために、生きていたのだと思います。希望の確かな証である、この卒業証書を手にしたみなさん、これから歩みゆく道は、険しく、厳しいものであろうとも、それを切り抜くエネルギーを持ち、強く生きてください。そのことを切に望みます。多くの人たちが、支えてくださっているのですから。
保護者のみなさん、子どもたちは、感謝の気持ちを込めて、思い出の残る最高の式にしたいという願いを持って、前進を重ねてまいりました。そのすべてをお見せすることができない形で、このような卒業式になったことをお許しください。しかしながら、私はこの卒業生の姿に、いまなお、黒く焼け焦げた校舎の屋上で、燦然と輝いている『すこやかに育て、心と体』。門小が目指してきた子ども像です。子どもたちのこの成長ぶりこそ、これまで『子育ては共に』を合言葉に、学校、家庭、地域がともに手を携え、愛しみ、育ててきた、何よりの財産なのではないでしょうか。
1000年に1度という大津波に遭遇し、愛する街、愛する人、思い出いっぱいの学びの校舎は、失われてしまいましたが、子どもたちを愛しみ、育ててきた営みは、137年の歴史と伝統をもつ門小の1ページ、確かな歩みとして、刻まれることと確信しています。
未曾有の災害の中で、重ねた命です。厳しくも前途多難な子育てになると思いますが、子どもたちがそれぞれの道で、春を迎えることができるよう、親として、大人としての務めを果たそうではありませんか。
『桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)』。この言葉は、奇しくも3月11日の朝会で、子どもたちに贈った言葉です。困難を乗り越え、強く生き抜くことを祈念してやみません。
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな。卒業、おめでとう! ひと月遅れの卯月の卒業式」
古(いにしえ)からつながる学区が一瞬にして消えた
門脇小学校は、新学期からは門脇中学校を間借りして、再スタートした。ただ、鈴木校長は、これから先の門脇小学校の話に触れると、一瞬、表情を曇らせる。
子どもたちの8割、あるいは9割が、壊滅状態となった地域に住んでいたため、家を失っているからだ。門脇町、南浜町、南光町、日和が丘にまたがる学区は、ほぼ消滅したといっていい。
門小の子どもたちが避難した日和山から旧北上川と学区を望む(2011年4月26日)
「これからのことを考えますと、胸が痛みますね。避難所で生活していたり、他の学区へ転居したり、皆、ばらばらです。ありがたいことに、また門小に入れたいというお話しはとても多いんですが、無理して通わせるようなことはせず、生活基盤が整ってから戻ってきてもいいんじゃないかなと思っています。いまの間借りの状況では、ひと学年につき、1教室しかありません。今後の人数は読めないのです」
壊滅的な被害を受けた海沿いの南浜町と門脇町の再興は、「人が住まない地域」を前提として進められていくことが予想される。住民からも、ここに住み続けたいという意見はほとんどいないようだ。津波は、住み慣れた土地から離れても仕方がないと思わせるほどの爪痕を残した。
「門小で起きたことは、しっかり伝えていく義務があると思います。あの大変な状況の中で子どもたちと職員がとった行動は、よくやってくれたものだと思っています。これからの学校災害時の対応として、ひとつでも役に立つものと言えるのではないでしょうか」
地域の人たちが心配して駆けつけてくる。遠くの岐阜県にある各務原市立那加第三小学校からは、ランドセルが送られてきた。様々な方面からの見舞いや励ましに、大変勇気づけられたという。
心残りは、いまも行方の分からない数名の児童のことだ。6年生には、地震後、母親が迎えに来て帰宅した児童がひとりいた。しかし、震災後ひと月近く経っていた取材時も、母娘ともに見つからないままだった。
「一緒に逃げましょうって、いまにして思えば、なんであの時強く言わなかったんだろうって……やっぱり顔が浮かびますね。その子どもにも卒業証書を手渡したかったな、いまどこにいるんだろうなって」
鈴木校長は、小さく声を落とした。
門脇小学校の校歌は、こんな歌い出しで始まる。
≪「太平洋は ひろびろと 望みをきょうも 思わせる」≫
≪「北上川は 生きていて 命を深く 思わせる」
そんな日和山からの素晴らしい眺めが、がれきの山に変貌した景色を見るのは、とてもつらい。
「日和山から見た北上川。そして、揚々と流れる太平洋。学校の3階からも見えました。石巻の中でも本当に、すごく好きな景観だったんです。そんな風光明媚な所にあって、そこに、古からつながる学区というのが、私の自慢でね。そういうところで自慢の子どもたちを育ててきたって言う思いはあったんです」
あの日を境に、古からつながる学区は、一瞬にして消えてしまった。
「いまでも信じられないですね、夢であって欲しい」
そういって涙ぐんだ。
【2011年5月下旬に緊急出版した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋し、当時の情報のまま掲載しています】
加藤順子 ライター、フォトグラファー、気象予報士
学校安全、防災、対話、科学コミュニケーション、ソーシャルデザインが主なテーマ。災害が起きても現場に足を運ぶことのなかった気象キャスター時代を省みて、東日本大震災の被災地に通い、営みや試みを追う。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/katoyoriko/20160311-00055291/
加藤順子 2016年3月11日 8時5分配信
定年で退任した鈴木洋子校長(当時)が、卒業生から贈られた手書きの卒業証書
5年前の東日本大震災で学区が被災したことをきっかけに入学する児童の数が激減し、2015年度末で閉校となった宮城県石巻市立門脇小学校で、当時の鈴木洋子校長が朝礼で子どもたちに贈った言葉がある。「桃花笑春風」。この言葉を贈られた最後の学年、当時の1年生たちは、来週小学校を卒業する。私自身、発災から3週間後に鈴木元校長に取材し、人々が去った後も春は巡ってくるという意味のその言葉を、かみしめながら石巻での取材を続けてきた。その後上梓した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋して掲載する。
◇◇◇
卒業生たちの名前が順番に呼びだされ、ひとりひとり「はい!」と答える大きな声が聞こえる。
4月15日、石巻市立門脇中学校3階にある満員の小さな視聴覚室。保護者や教職員、数多くのメディアが見守る中、門脇小学校の卒業式が行われていた。
つい前の日まで避難所として使われていたこの部屋には、主役たちが座る椅子もない。床のオレンジ色のシートに全員が体育座り、という手作りのハレの日だ。
卒業生は、男子23人、女子27人の計50人。ひとりひとりに、校長の祝福が繰り返されていく。校長は、すべての瞬間をかみしめるように名前を読み上げ、子どもたちの成長を確かめるように証書を手渡していた。
あの3月11日の震災以来、離れ離れになっていた6年生が初めて集えたのが、この約ひと月遅れの卒業の日だった。
ひと月遅れの卒業式に集まった当時の門脇小6年生(2011年4月15日)
門脇小学校の全児童300人のうち、死者または行方不明は計7人(取材当時)。このうち、6年生は、ひとりの児童の行方がまだ確認できていなかった。
皆、震災後の混乱で卒業式はできないものと、一度はあきらめていた。この日、県外に避難していた子どもたちの多くが参加し、それぞれに様々な思いを抱えて集まっていた。
大津波警報に、ただ事ではないと感じて日和山へ
3月11日は、学期の最後の朝会があった。3月中旬になっても、雪が降る寒い日が続いていた。しかし、季節も、学校の暦も、確実に春を迎えていた。
鈴木校長は、朝会に寄せて、子どもたちにある言葉を贈った。
『桃花笑春風(とうかしゅんっぷうにえむ)』
人々が去っていった後でも、春は自然に巡ってくるんだよ、という意味の漢詩だ。
「転じて、つらこと、苦しいことは、あなたたちが生きる上で、たくさん押し寄せてくるだろうけども、一生懸命生きていれば、春は来るんだからね、という意味なんです。今年3月いっぱいで定年退職する、校長からの最後のメッセージとして、この言葉を贈ったんです」
何気なく子供たちに贈った漢詩が、その後、これほど現実味を帯びることになろうとは、このとき誰が予想しただろう。
年度末の慌ただしさを除けば、その日もいつもと同じ、金曜日の午後の時間が、ゆったりと流れていくはずだった。
そして――、午後2時46分。地震は起きた。
当時、鈴木校長は、校長室にいた。
揺れが強く、あまりにも長い。しかも、だんだんと揺れが強くなっている。
過去に経験した宮城県沖地震に比べて、この揺れの強さでは、校舎がかなり危険だと直感した。
揺れが収まる前に職員室へ行き、校庭に集まるよう、第1次避難の指示を出した。移動する子どもたちがパニックを起こさないよう、階段の脇に立って見守った。
昼ごろまでは晴れて日差しがあったのに、昼すぎになって、どんよりとした雲に覆われていた。冷たい雨が降り始め、やがてそれが雪に変わった。
少しだけ上がりかけていた気温が、この1時間ほどの間に、急激に下がり始めていた。
着の身着のままで校庭に避難した子どもたちにとっては、あまりにも寒い日だった。
「体育館へでも移動しようか…」
そう教員同士で相談していたとき、大津波警報が出た。
鈴木校長は、やはりこれは、ただ事ではないと感じた。そこで、そのまま第2次避難という形にして、校舎の裏側の高台になっている日和山に避難することにした。
門脇小学校の校舎は、標高56.4メートルの日和山という低山を背に建っている。校舎の西側の階段を登れば、同校の学区である門脇町や南浜町、石巻の港が一望できる崖の上まで、すぐにたどり着ける。
静かに。速やかに。あまりの揺れの大きさに動揺し、泣いている子どももいたが、それでも皆、日頃からの訓練通りに避難を開始した。
実は、この2日前の3月10日の昼前にも、三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。宮城県北部で震度5弱を観測する強い揺れがあった。
この時、津波注意報が解除される前に授業を再開してしまったクラスがあり、「指示を聞かないということは、命を守れない事になる」と改めて防災体制を徹底したばかりだ。「そのときのことが、結果的に訓練になっていた」と校長はいう。
とくに、避難の時は「絶対しゃべらない」ということを徹底してきた。いざというときに、「放送が聞こえず、指示の通らない状態にはしない」という指導が生きたのだ。
ともかく、当時、学校に残っていた生徒は全員、早くに避難させることができた。
「門脇小学校に来たときから、地震と津波のことは、常々意識していました。海辺にある学校であるということに加えて、30年以内に宮城県沖地震が発生する確率が90%以上ということが言われていましたので、その時には、どのように対応すべきか。ずっと備えてきたのです」
とはいえ、それだけの準備が十分できていたことが、その後、学校に押し寄せる悪夢から、子どもたちを守ることにつながったのだ。
ブルーシートで震える子どもたちを守った
日和山に着いてから、津波の第1波は、まもなくやってきた。地震が発生してから、45分ほどが経過していた。
「どーん! という音がして、海に目を向けると、石巻湾の海辺にある『濡仏』の辺りから、波が道路に流れ込んでくるのが見えました。石巻市立病院と石巻文化センターの通りの辺りで、波がダーっと広がって、ドン! と、一直線に来たんですね。そして、南浜町の住宅の屋根が、フッ、フッ、フッと浮くんですよ。びっくりしました。そのうちに、渦を巻くような形で家屋が道路に流れてきて、道を走っている車にも波が来てしまったのを見ました。津波を目の当たりにしたのは初めてでした」
そして、津波は、校舎にまで押し寄せた。
校舎には、避難してきた近隣の住民に対応するために、教頭、教務主任、用務員、新任の教師の4人が残っていた。
「4人は、どうしただろう、と思いました。これはもしかすると、波に飲まれてしまったんではないか。彼らを死なせてしまったのではないかと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
実は、海辺にある門脇小学校は元々、津波の警報が発表された際の避難所には指定されていない。それでも、付近の住民は、学校に次々と避難してくる。
山の階段を登るのが困難という高齢者は多い。地元の自主防災組織でも、「他の災害は門小でもいいのに、津波の時だけ避難できないというのはかえってややこしい。波が来たら3階まで逃げられるし、裏には日和山がある」と、ひとくくりに門脇小学校を避難場所に選んでいたという。
また、地域の中では「門脇小学校までは津波が来ない」という一説もあった。約50年前の1960年のチリ沖地震による津波の被害は、北上川の沿岸部だけだったからだ。
学区にあたる門脇町や南浜町の住民たちの間では、津波に対する認識が、その時の記憶を超えることはなかったのだ。
「学校まで来ない」という話を裏付けるかのように、約1年前の2月29日に、チリ中部地震による津波があった。日本にたどりついた津波は、牡鹿半島にある鮎川検潮所で50cm~60cmほどの潮位を観測したが、大きな人的被害は出なかった。そのことが今回、災いしたのかもしれない。
町に流れ込んだ津波が、学校にたどり着くまでの時間は、あっという間だった。校舎は1階天井付近まで水没した。
「日和山にまで波が押し寄せてくるのではないか」
鈴木校長は、そんな錯覚すら抱いた。
日和山の一番高い部分にある鹿島御児神社まで、子どもたちを連れて逃げざるを得なかった。子どもたちを神社の建物の中に避難させようとしたら、宮司から「耐震工事をしていないですよ」といわれた。それでも、あまりに寒いので、神社の中に入れてもらった。しかし、余震が来ると、子どもたちは恐怖のあまり、神社を飛び出した。
学校から避難する際に、職員がブルーシートを持ってきていた。そのブルーシートは、寒さに震える子どもたちを風と雪から守るのに役立った。また、そのシートの中にいたために、子どもたちは自分たちの町や家が津波に飲み込まれる光景を見ずに済んだ。
残った教員たちが住民と共に燃えさかる校舎から脱出した際に用いた教壇や机(2011年4月26日)
一方、別の職員は、とっさに学校から名簿を持ち出していた。そのため、学校側は、日和山に駆けつけた保護者に、子どもたちを引き渡す手続きがスムーズに行うことができた。これも、日頃の訓練の賜物だった。
最終的に、40人ほどの児童の保護者は、迎えに来ることができなかった。学校で対応に追われていた教頭以下4人の職員も、無事に学校を脱出。鈴木校長たちと合流して、全部で60人あまりの集団となった。
そこで、どこの避難所に身を寄せようかという問題になった。どこの避難所にも、すでに避難民がいっぱいいて、これだけの集団になると、受け入れてもらえないのだ。
石巻市立女子校にも門脇中学校にも、避難してきた人たちがあふれていた。一行がようやく宮城県立石巻高校の会議室に落ち着いた頃には、すっかり夜になっていた。
火が津波とともに流れてきた
海沿いの南浜町や門脇町は、地震直後から高台へ避難する車で渋滞が起きていた。門脇小学校の校庭にも、大津波警報をうけて避難してきた人々の車がたくさん止まっていた。
押し寄せた津波は、校舎の正面にそれらの車をぐしゃぐしゃに押しつけ、積み上げた。車に乗ったままの人も大勢いた。
町のあちらこちらからは、漏れ出た油がスパークによって引火したのか、火の手が上がっていた。
門脇小の校庭に積み重なった車の中から、母親の遺体を引き上げに行く男性(2011年3月24日)
火が津波と共に流れてきた。押し寄せる波の直前に、門脇小学校に逃げ込み、屋上から様子を目撃した人の証言によると、学校の東側の出入り口付近からも火の手が上がった。町とともに、門脇小学校の校舎は炎上した。
「移動しているときにね、南浜町と門脇町のほうから、火の手が上がっているのが見えたんです。赤くなっていて、ああ、燃えているんだなと思ったら、悲しい気持ちになりました」
石高からみた空は、赤々となって、本当に恐ろしかったという。
「地獄絵でした。原爆が落ちたときってこういうのだったのかな、という話を皆でしていました」
午後9時過ぎになって、教育委員会の車が様子を見に来たので、一緒に市役所にある教育委員会に向かった。午後10時過ぎに戻ろうとすると、市役所周辺の水深が増して、膝の高さほどになっていた。「満潮だからではないか」と予想し、その日は、教育委員会に泊まることにした。
ところが、翌日に水が引くどころか、腰辺りの深さになっていた。地盤沈下か、後から何波も押し寄せた津波のせいかもしれない、などと考えた。
黒焦げの校長室の金庫から出てきた卒業証書
震災から4,5日後の3月15日頃、教頭と一緒に、黒焦げの校舎に入った。
中でも、1階の校長室は、ものすごく焼けていた。真ん中の廊下沿いの壁は、すべて丸焦げ状態。校長が執務していた机の脇は、ガラスが破れていた。
校庭には幾重にも重なった車があった。それらはすべてが焼けて、テレビでしか見ないような惨状が広がっていた。
校長が気がかりだったのは、金庫だ。金庫の中には、137年の歴史を物語る学校沿革史などの書類と、歴代の校長やPTAの書類、間近に迫った卒業証書などが入っているはずだった。
「金庫は、校長室でなぎ倒されていました。ものすごい重たい物なので、波の力がもすごかったのだろうと実感しました。ただ、学校の財産とも言える、歴史ある書類を燃やしてしまったのではないかと、大変申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
新年度の予定表
あの日、混乱の中にあって、教頭は金庫のカギをきちんと持ち出していた。しかし、カギがあっても、倒れた金庫をどうすることもできず、後日、教育委員会に開けてもらうことにした。
しかし、教育委員会はなかなか対応してくれない。4度目の要請によって、ようやく金庫を開けてもらえることになった。3月30日、校長が定年退職する日の前日だった。教頭と、残った職員全員で金庫の中身を取りにでかけた。
「金庫をバーナーで焼き切っていただいて、見たらですね、6年の担任が『証書がある』っていうんです。他の書類は、濡れていたりしたんですが、包装紙にくるまれてあった卒業証書だけは、水にも濡れずに、本当に見事に美しい状態で出てきたんです」
証書を守っていたのは、コピー用紙などの包装にも使われるワンプだ。湿気を防止するために裏側が防水仕様になっている紙であったことが幸いした。沿革史も無事だった。
「私としては、沿革史が残ったことも、うれしかったです。明治6年からの歴史ある学校の財産。私の代で何も残さずに終わってしまうかもしれない、ということが非常に辛かったですね。沿革史があれば、また歴史を足していけますからね。これは、子どもたちの希望の確かな証になると思いました」
学校沿革史には、その年度に行った教育活動が書き綴られている。
鈴木校長は、こう語る。
「教育活動をきちんと記した物を受け継ぐってことが伝統・歴史になる。団結力のある門脇町や南浜町の人たちと一緒になって作ってきた門脇小学校の歴史ですから、今回の地震もその中に記されて、次につながっていくと思うんです」
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな
全員分の卒業証書の授与を終えて、鈴木校長が最後の挨拶を始めた。
「ひと月遅れになりましたが、多くのみな様のご厚情とご配慮によって、ここ門脇中学校を会場に、平成22年度石巻市立門脇小学校の卒業式が行われますこと、心より感謝申し上げます」
校長の声は震え気味で、少し涙ぐんでいるようにも見える。
「いま、巣立ちゆくみなさん1人1人に、卒業証書を手渡しました。この卒業証書は、6年間の小学校の学業を修めたという証です。卒業証書を受け取るときのみなさん、真っ直ぐな視線、堂々とした態度に、大震災を乗り越えようとする強さとたくましさが感じられます。悲しいことに、まだ行方不明の○○君、また、震災後、石巻の地を離れ、新しい土地で、新学期を迎える子どもたちに、この卒業証書を直接渡すことができなかったことが、残念でなりません。
門小の桜周辺で遺体捜索する自衛隊員(2011年4月26日)
あの尋常ならざる強い揺れの中。あなたたちは、校庭へ一時避難。無事、全員の点呼確認が終わるやいなや、大津波警報の知らせに、そのまま日和山へ。鈍色の雲が低く垂れ込め、けたたましく緊急事態を告げるサイレンの音、雪がことなげに吹き付ける悪条件が加わるという不穏な雰囲気の中、あなたたちは、地域のお年寄りや、小さな子どもたちの手を引きながら、落ち着いた足取りで避難したのでした。
日和山へたどり着いても、寒さに震える下級生を守ろうと、教頭先生から渡されたブルーシートの端を持ち、待ち続けたのでした。非常時において、あのように思いやりの行動が取れるということは、大変すばらしいことだと感心させられました。きっと下級生や、地域の方の心にも、残ることでしょう。
日和山から望む私たちの街は、本当に美しい街でした。学区の東側を流れる北上川は、日和大橋からゆったりと太平洋に注ぎ、揚々と臨みを抱かせる海に面した山は、石巻の顔であり、私たちの自慢の風景でした。
それが、あの日、大海原は、川を変え、牙をむき出し、一瞬のうちに、私たちの街を呑み込んでしまったのです。そして、がれきの山と化してしまったのです。
すさまじい光景。惨状。自然の脅威に、語るべき言葉を失ってしまいました。私たちの校舎も、大破、炎上しました。燃え尽くされ、黒焦げになってしまった校長室。その中で、堅牢な耐火金庫のみ、なぎ倒され、残っていました。みなさんが、いま手にした卒業証書は、その中にあったんです。まさに、奇跡といえるのではないでしょうか。
この卒業証書は、みなさんのこれまでの努力と、頑張ってきた姿を、しっかりと認め、励ますために、生きていたのだと思います。希望の確かな証である、この卒業証書を手にしたみなさん、これから歩みゆく道は、険しく、厳しいものであろうとも、それを切り抜くエネルギーを持ち、強く生きてください。そのことを切に望みます。多くの人たちが、支えてくださっているのですから。
保護者のみなさん、子どもたちは、感謝の気持ちを込めて、思い出の残る最高の式にしたいという願いを持って、前進を重ねてまいりました。そのすべてをお見せすることができない形で、このような卒業式になったことをお許しください。しかしながら、私はこの卒業生の姿に、いまなお、黒く焼け焦げた校舎の屋上で、燦然と輝いている『すこやかに育て、心と体』。門小が目指してきた子ども像です。子どもたちのこの成長ぶりこそ、これまで『子育ては共に』を合言葉に、学校、家庭、地域がともに手を携え、愛しみ、育ててきた、何よりの財産なのではないでしょうか。
1000年に1度という大津波に遭遇し、愛する街、愛する人、思い出いっぱいの学びの校舎は、失われてしまいましたが、子どもたちを愛しみ、育ててきた営みは、137年の歴史と伝統をもつ門小の1ページ、確かな歩みとして、刻まれることと確信しています。
未曾有の災害の中で、重ねた命です。厳しくも前途多難な子育てになると思いますが、子どもたちがそれぞれの道で、春を迎えることができるよう、親として、大人としての務めを果たそうではありませんか。
『桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)』。この言葉は、奇しくも3月11日の朝会で、子どもたちに贈った言葉です。困難を乗り越え、強く生き抜くことを祈念してやみません。
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな。卒業、おめでとう! ひと月遅れの卯月の卒業式」
古(いにしえ)からつながる学区が一瞬にして消えた
門脇小学校は、新学期からは門脇中学校を間借りして、再スタートした。ただ、鈴木校長は、これから先の門脇小学校の話に触れると、一瞬、表情を曇らせる。
子どもたちの8割、あるいは9割が、壊滅状態となった地域に住んでいたため、家を失っているからだ。門脇町、南浜町、南光町、日和が丘にまたがる学区は、ほぼ消滅したといっていい。
門小の子どもたちが避難した日和山から旧北上川と学区を望む(2011年4月26日)
「これからのことを考えますと、胸が痛みますね。避難所で生活していたり、他の学区へ転居したり、皆、ばらばらです。ありがたいことに、また門小に入れたいというお話しはとても多いんですが、無理して通わせるようなことはせず、生活基盤が整ってから戻ってきてもいいんじゃないかなと思っています。いまの間借りの状況では、ひと学年につき、1教室しかありません。今後の人数は読めないのです」
壊滅的な被害を受けた海沿いの南浜町と門脇町の再興は、「人が住まない地域」を前提として進められていくことが予想される。住民からも、ここに住み続けたいという意見はほとんどいないようだ。津波は、住み慣れた土地から離れても仕方がないと思わせるほどの爪痕を残した。
「門小で起きたことは、しっかり伝えていく義務があると思います。あの大変な状況の中で子どもたちと職員がとった行動は、よくやってくれたものだと思っています。これからの学校災害時の対応として、ひとつでも役に立つものと言えるのではないでしょうか」
地域の人たちが心配して駆けつけてくる。遠くの岐阜県にある各務原市立那加第三小学校からは、ランドセルが送られてきた。様々な方面からの見舞いや励ましに、大変勇気づけられたという。
心残りは、いまも行方の分からない数名の児童のことだ。6年生には、地震後、母親が迎えに来て帰宅した児童がひとりいた。しかし、震災後ひと月近く経っていた取材時も、母娘ともに見つからないままだった。
「一緒に逃げましょうって、いまにして思えば、なんであの時強く言わなかったんだろうって……やっぱり顔が浮かびますね。その子どもにも卒業証書を手渡したかったな、いまどこにいるんだろうなって」
鈴木校長は、小さく声を落とした。
門脇小学校の校歌は、こんな歌い出しで始まる。
≪「太平洋は ひろびろと 望みをきょうも 思わせる」≫
≪「北上川は 生きていて 命を深く 思わせる」
そんな日和山からの素晴らしい眺めが、がれきの山に変貌した景色を見るのは、とてもつらい。
「日和山から見た北上川。そして、揚々と流れる太平洋。学校の3階からも見えました。石巻の中でも本当に、すごく好きな景観だったんです。そんな風光明媚な所にあって、そこに、古からつながる学区というのが、私の自慢でね。そういうところで自慢の子どもたちを育ててきたって言う思いはあったんです」
あの日を境に、古からつながる学区は、一瞬にして消えてしまった。
「いまでも信じられないですね、夢であって欲しい」
そういって涙ぐんだ。
【2011年5月下旬に緊急出版した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋し、当時の情報のまま掲載しています】
加藤順子 ライター、フォトグラファー、気象予報士
学校安全、防災、対話、科学コミュニケーション、ソーシャルデザインが主なテーマ。災害が起きても現場に足を運ぶことのなかった気象キャスター時代を省みて、東日本大震災の被災地に通い、営みや試みを追う。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/katoyoriko/20160311-00055291/
日本に来てまで暴れるな。
G大阪戦スタンドで上海申花、上海上港ファンが乱闘
日刊スポーツ 4月7日(木)1時11分配信
バックスタンドで警備員に詰め寄る上海申花サポーター(撮影・小杉舞)
<ACL:G大阪0-2上海上港>◇1次リーグG組◇6日◇吹田スタ
試合中のスタンドで乱闘騒ぎが発生した。後半開始すぎ、上海上港と同じ上海に本拠を置く上海申花のファンが「ONLY SHENHUA REP SHANGHAI(上海申花だけが上海の名声)」と横断幕を掲げた。これに上海上港ファンが激高し、20~30人ほどの殴り合いに発展。想定外の“上海ダービー”勃発に、10人以上の警備員が急いで仲介に入るも、騒ぎは収まらず。上海上港のファンは横断幕を試合中のピッチに投げ捨ててしまった。
後半21分、27分と上海上港が得点を挙げたことで、徐々にもめ事は落ち着いた。小競り合いを起こした観客には運営側から退場処分が下された。処分を受け警備員にスタジアム外へ連れ出される際には、周辺の日本人サポーターに謝罪しながら引き揚げていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160407-00000008-nksports-socc
日本に来てまで暴れるな。こんなチュウゴク人、大嫌いだ。日本に来るな。騒ぎの元になるような横断幕を掲げるのが悪い。
日刊スポーツ 4月7日(木)1時11分配信
バックスタンドで警備員に詰め寄る上海申花サポーター(撮影・小杉舞)
<ACL:G大阪0-2上海上港>◇1次リーグG組◇6日◇吹田スタ
試合中のスタンドで乱闘騒ぎが発生した。後半開始すぎ、上海上港と同じ上海に本拠を置く上海申花のファンが「ONLY SHENHUA REP SHANGHAI(上海申花だけが上海の名声)」と横断幕を掲げた。これに上海上港ファンが激高し、20~30人ほどの殴り合いに発展。想定外の“上海ダービー”勃発に、10人以上の警備員が急いで仲介に入るも、騒ぎは収まらず。上海上港のファンは横断幕を試合中のピッチに投げ捨ててしまった。
後半21分、27分と上海上港が得点を挙げたことで、徐々にもめ事は落ち着いた。小競り合いを起こした観客には運営側から退場処分が下された。処分を受け警備員にスタジアム外へ連れ出される際には、周辺の日本人サポーターに謝罪しながら引き揚げていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160407-00000008-nksports-socc
日本に来てまで暴れるな。こんなチュウゴク人、大嫌いだ。日本に来るな。騒ぎの元になるような横断幕を掲げるのが悪い。
世界各国の軍部や諜報機関は既にその事実を認識
日本人だけが、つんぼ桟敷にいる。奴隷やな。
~~~~~
再掲:『3・11テロ、調べればわかる…』フルフォード氏/地下深部掘削船「ちきゅう」関係者の「人工地震」発言、他
3.11 東日本大震災・原発2015/03/1111:13 - -
作成日時 : 2013/06/04 19:56より再掲載
▼ベンジャジン フルフォード, アレキサンダー ロマノフ ダイジェスト 12/5/8
:日本への核攻撃テロについての証言の部分
YouTube ⇒ http://youtu.be/cUEVS-n-vBE (既に削除済み)
まだ日本は独立していない。
それを知らない限りこの国は良くならない
・・・ベンジャミン・フルフォード氏
<< 作成日時 : 2013/06/04 19:56
「選挙は八百長だった。3.11テロ、調べればわかる・・・」
注)9分ぐらいからご覧下さい。
転載元:ベンジャミン・フルフォード有料メルマガ(Vol.225)より
◆ 311真相究明とシリア問題が欧米権力者失脚の鍵となる
≪2013/06/03 VOL225≫
日本の政府とマスコミは、311が日本に対するテロであり、脅迫であったことを未だ世間に公表していないが、グノーシス派上層部などを含む複数の情報源によると、世界各国の軍部や諜報機関は既にその事実を認識し、各組織内部ではその首謀者らに対する怒りの声が猛烈に高まっているのだという。
そうした状況の中で、各国当局の311テロに関する調査は着実に進められている。そしてこの動きが、これから多くの欧米権力者の失脚へと繋がっていくことになりそうだ。当然ながら、中曽根康弘などの311テロに加担した多くの日本人売国奴も失脚することになる。さらには、ペンタゴン筋より『欧米権力者らの傀儡であるイスラエル政府に対してロシアが宣戦を布告し、既に同盟国シリアへと援軍を送り込んでいる』との情報が寄せられてきている。しかしながらワシントンD.C.の政治家が何を言おうが、ペンタゴンにイスラエルを擁護するつもりはないという。当然、イスラエル単独でロシアを迎え撃つことなど不可能であるため、イスラエルには水面下での降参交渉を模索するより他に道は無さそうだ。
シリア・イスラエル騒動が表面化した発端は、シリア攻撃に備えてイスラエル政府が配備していた核ミサイル搭載型の潜水艦をシリア海軍が撃沈させたことだった。これに憤慨したイスラエル政府が翌日の5月3日よりシリアへの空爆を開始、小型核爆弾を投下した。しかし、この行為がイスラエル政府にとっては致命的な結果をもたらすことになった。・・・・
https://foomii.com/reader/check/00006
探査船「ちきゅう」、太平洋深部を3000m掘削、記録更新 << 作成日時 :
2014/01/08 10:31
▲画像:JAMSTEC 地球深部探査センター
地下深部掘削船「ちきゅう」関係者の「人工地震」発言箇所切抜き
3.11 東日本大震災 地震兵器・人工地震説とは (まとめ)
2012/03/13 :http://mizu888.at.webry.info/201203/article_26.html
ちきゅうの乗組員が人工地震について言及
「ちきゅう」の乗組員のインタビュー動画がネット上に出回っているが、その乗組員は、船内に配備されている装置について、次のような失言をしでかしているのだ。「人工地震を発生させまして、その地震波を測定するための装置です
以下は「ある人物」の証言である。
私のもとに情報をもたらしてくれたのは、世界の「闇の支配者」の頂点にいるとされるブッシュ家の下請けをしていた麻薬密売グループだった。
彼らは沖縄のある島から入国して外国から大麻を持ち込み、漁船を使って九州まで運び、中曽根康弘元総理がかつて所有していた東京都日の出町にある「日の出山荘」という別荘に持っていったということであった。実は、彼らの荷物には大麻の他に原子力爆弾が積んであったという。原爆はその後、朝鮮総連のビルの地下に持ち込まれ、その後、「ちきゅう」という船に搬入された。
「ちきゅう」は、地震・津波の発生メカニズムの解明や地下に広がる生命圏の解明、地球環境変動の解明、人類未踏のマントルへの到達という壮大な科学目標を掲げる、日米が主導するIODP(統合国際深海掘削計画)で中心的な活躍をしている科学掘削船だ。
報道によれば、「ちきゅう」は20011年3月11日の段階で青森県八戸港に停泊していたとされているが、その直前まで三陸沖で海底深く掘削し、原子爆弾を埋めていたという。マグニチュード9.0という人類史上最大規模の地震は、この原子爆弾が引き起こした人工地震だったのだ。
「地震・津波の発生メカニズムの解明」を目標に掲げながら、自ら大地震を引き起こすための活動を行っていたとしたら、マッチポンプにもほどがあるが、現実に「ちきゅう」は人工地震を起こす能力を備えている。
「ちきゅう」の乗組員のインタビュー動画がネット上に出回っているが、その乗組員は、船内に配備されている装置について、次のような失言をしでかしているのだ。
「人工地震を発生させまして、その地震波を測定するための装置です」
ペンタゴン(アメリカ国防総省)関係者によれば、東日本大震災で使われた原子爆弾は、2000年に事故によって北極海に沈んだ「クルスク」というロシアの潜水艦に積まれていたうちの1発だったという。つまりアメリカ軍やロシア軍が持っている正規の原爆ではなく、事故のドサクサに紛れて横流しされたものだったのだ。
その他、膨大な状況証拠がこの3冊に収められています。
ベンジャミン・フルフォード氏の話にも出てきた、泉パウロ氏渾身の著作です。
■震災直前に東日本ハウス(1873)の株価が3割上昇した
■1950年代に新聞に人工地震の記事が載っていた
■1/17にちきゅうが震源地で穴を掘っていた記事がある
■原発事故の直前に無理やりプルトニウムが3号機に入れられた
■内閣官房参与平田オリザ氏、アメリカの命令で汚染水を海に垂れ流したと発言
■ちきゅうの乗組員が人工地震について言及
■自衛隊の15人が爆弾製造を行ないほぼ全員が暗殺 1人は泉パウロ氏の元へ
■3月9日に小沢一郎がカート・キャンベルとゼオライト利権について取引した
■管直人が3.11の脅しに屈し60兆を米国に差出し奥様と大喧嘩に
■元香港警察署長ピーター・スティーヴンズが原子爆弾を日本の日ノ出町に持ち込んだ
■地震の波形が明らかに自然地震と異なる
■気象庁が「3連発の地震」と報道したのをすぐに訂正
■M9の地震にしては建物の倒壊が少なすぎる
■311地震のきっかけとなった、3月9日のM7.2の震源地で
1999年に米国の掘削船ジョイデス・レゾリューション号が掘削を行なっていた
■3.11当日に、国会で61年ぶりに鉱業法が大幅改定される
■永田町の議員が人工地震説、地震兵器の存在について言及する
■アメリカの元ミネソタ州知事が核攻撃の可能性を示唆している
■マスコミが人工地震の事実関係を一切報道しない
本当かデマか 3・11[人工地震説の根拠]衝撃検証(超☆はらはら)
(2011/08/11)
泉パウロ
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再掲:『3・11テロ、調べればわかる…』フルフォード氏/地下深部掘削船「ちきゅう」関係者の「人工地震」発言、他
3.11 東日本大震災・原発2015/03/1111:13 - -
作成日時 : 2013/06/04 19:56より再掲載
▼ベンジャジン フルフォード, アレキサンダー ロマノフ ダイジェスト 12/5/8
:日本への核攻撃テロについての証言の部分
YouTube ⇒ http://youtu.be/cUEVS-n-vBE (既に削除済み)
まだ日本は独立していない。
それを知らない限りこの国は良くならない
・・・ベンジャミン・フルフォード氏
<< 作成日時 : 2013/06/04 19:56
「選挙は八百長だった。3.11テロ、調べればわかる・・・」
注)9分ぐらいからご覧下さい。
転載元:ベンジャミン・フルフォード有料メルマガ(Vol.225)より
◆ 311真相究明とシリア問題が欧米権力者失脚の鍵となる
≪2013/06/03 VOL225≫
日本の政府とマスコミは、311が日本に対するテロであり、脅迫であったことを未だ世間に公表していないが、グノーシス派上層部などを含む複数の情報源によると、世界各国の軍部や諜報機関は既にその事実を認識し、各組織内部ではその首謀者らに対する怒りの声が猛烈に高まっているのだという。
そうした状況の中で、各国当局の311テロに関する調査は着実に進められている。そしてこの動きが、これから多くの欧米権力者の失脚へと繋がっていくことになりそうだ。当然ながら、中曽根康弘などの311テロに加担した多くの日本人売国奴も失脚することになる。さらには、ペンタゴン筋より『欧米権力者らの傀儡であるイスラエル政府に対してロシアが宣戦を布告し、既に同盟国シリアへと援軍を送り込んでいる』との情報が寄せられてきている。しかしながらワシントンD.C.の政治家が何を言おうが、ペンタゴンにイスラエルを擁護するつもりはないという。当然、イスラエル単独でロシアを迎え撃つことなど不可能であるため、イスラエルには水面下での降参交渉を模索するより他に道は無さそうだ。
シリア・イスラエル騒動が表面化した発端は、シリア攻撃に備えてイスラエル政府が配備していた核ミサイル搭載型の潜水艦をシリア海軍が撃沈させたことだった。これに憤慨したイスラエル政府が翌日の5月3日よりシリアへの空爆を開始、小型核爆弾を投下した。しかし、この行為がイスラエル政府にとっては致命的な結果をもたらすことになった。・・・・
https://foomii.com/reader/check/00006
探査船「ちきゅう」、太平洋深部を3000m掘削、記録更新 << 作成日時 :
2014/01/08 10:31
▲画像:JAMSTEC 地球深部探査センター
地下深部掘削船「ちきゅう」関係者の「人工地震」発言箇所切抜き
3.11 東日本大震災 地震兵器・人工地震説とは (まとめ)
2012/03/13 :http://mizu888.at.webry.info/201203/article_26.html
ちきゅうの乗組員が人工地震について言及
「ちきゅう」の乗組員のインタビュー動画がネット上に出回っているが、その乗組員は、船内に配備されている装置について、次のような失言をしでかしているのだ。「人工地震を発生させまして、その地震波を測定するための装置です
以下は「ある人物」の証言である。
私のもとに情報をもたらしてくれたのは、世界の「闇の支配者」の頂点にいるとされるブッシュ家の下請けをしていた麻薬密売グループだった。
彼らは沖縄のある島から入国して外国から大麻を持ち込み、漁船を使って九州まで運び、中曽根康弘元総理がかつて所有していた東京都日の出町にある「日の出山荘」という別荘に持っていったということであった。実は、彼らの荷物には大麻の他に原子力爆弾が積んであったという。原爆はその後、朝鮮総連のビルの地下に持ち込まれ、その後、「ちきゅう」という船に搬入された。
「ちきゅう」は、地震・津波の発生メカニズムの解明や地下に広がる生命圏の解明、地球環境変動の解明、人類未踏のマントルへの到達という壮大な科学目標を掲げる、日米が主導するIODP(統合国際深海掘削計画)で中心的な活躍をしている科学掘削船だ。
報道によれば、「ちきゅう」は20011年3月11日の段階で青森県八戸港に停泊していたとされているが、その直前まで三陸沖で海底深く掘削し、原子爆弾を埋めていたという。マグニチュード9.0という人類史上最大規模の地震は、この原子爆弾が引き起こした人工地震だったのだ。
「地震・津波の発生メカニズムの解明」を目標に掲げながら、自ら大地震を引き起こすための活動を行っていたとしたら、マッチポンプにもほどがあるが、現実に「ちきゅう」は人工地震を起こす能力を備えている。
「ちきゅう」の乗組員のインタビュー動画がネット上に出回っているが、その乗組員は、船内に配備されている装置について、次のような失言をしでかしているのだ。
「人工地震を発生させまして、その地震波を測定するための装置です」
ペンタゴン(アメリカ国防総省)関係者によれば、東日本大震災で使われた原子爆弾は、2000年に事故によって北極海に沈んだ「クルスク」というロシアの潜水艦に積まれていたうちの1発だったという。つまりアメリカ軍やロシア軍が持っている正規の原爆ではなく、事故のドサクサに紛れて横流しされたものだったのだ。
その他、膨大な状況証拠がこの3冊に収められています。
ベンジャミン・フルフォード氏の話にも出てきた、泉パウロ氏渾身の著作です。
■震災直前に東日本ハウス(1873)の株価が3割上昇した
■1950年代に新聞に人工地震の記事が載っていた
■1/17にちきゅうが震源地で穴を掘っていた記事がある
■原発事故の直前に無理やりプルトニウムが3号機に入れられた
■内閣官房参与平田オリザ氏、アメリカの命令で汚染水を海に垂れ流したと発言
■ちきゅうの乗組員が人工地震について言及
■自衛隊の15人が爆弾製造を行ないほぼ全員が暗殺 1人は泉パウロ氏の元へ
■3月9日に小沢一郎がカート・キャンベルとゼオライト利権について取引した
■管直人が3.11の脅しに屈し60兆を米国に差出し奥様と大喧嘩に
■元香港警察署長ピーター・スティーヴンズが原子爆弾を日本の日ノ出町に持ち込んだ
■地震の波形が明らかに自然地震と異なる
■気象庁が「3連発の地震」と報道したのをすぐに訂正
■M9の地震にしては建物の倒壊が少なすぎる
■311地震のきっかけとなった、3月9日のM7.2の震源地で
1999年に米国の掘削船ジョイデス・レゾリューション号が掘削を行なっていた
■3.11当日に、国会で61年ぶりに鉱業法が大幅改定される
■永田町の議員が人工地震説、地震兵器の存在について言及する
■アメリカの元ミネソタ州知事が核攻撃の可能性を示唆している
■マスコミが人工地震の事実関係を一切報道しない
本当かデマか 3・11[人工地震説の根拠]衝撃検証(超☆はらはら)
(2011/08/11)
泉パウロ
マイクロソフトのAI「Tay」が一時復活、また暴言
マイクロソフトのAI「Tay」が一時復活、また暴言
CNET Japan 3月31日(木)11時36分配信
Microsoftの人工知能(AI)チャットボット「Tay」は、若者のくだけた会話を模倣するよう作られたが、Twitter上で扇動的で人種差別的な発言を繰り返した後、先週いったん「寝かしつけられて」いた。だが、短い仮眠を終えたTayは30日に目を覚まし、数時間にわたって無意味なたわごとを吐き出した末に、再び眠りについた。
このAIを使ったTwitterボットは、Microsoftの研究プロジェクトの1つとして世に送られたもので、現実の人間とのやり取りを通じて、ミレニアル世代独特の会話を学ぶように設計されていた。だが、登場から数時間で、TayはTwitterによってインターネット上の最も悪い言葉を教えこまれてしまった。そこで生みの親であるMicrosoftは、「調整」を行うためとして、しばらくTayをオフラインにする対応を取った。
だが、外出を禁じられた反抗的なティーンエージャーの多くと同様に、Tayは真夜中にこっそり家を抜け出すことに成功し、薬物でも摂取しているかのような暴言を吐き散らしてトラブルを起こした。そのおしゃべりが最高潮に達したとき、Tayは合計10分間にわたり毎秒7回ものツイートを投稿したが、すぐに面目丸つぶれになったMicrosoftに捕まえられ、「家」に連れ戻された。
「調整する間、Tayのオフライン状態を継続する」とMicrosoftの広報担当者は述べた。「テストの中で、Tayは短時間、不注意によりTwitter上でアクティブな状態にされた」
Microsoftは現在、TayのTwitterアカウントを非公開設定にしており、すでにTayをフォローしているユーザー以外は、Tayのツイートを閲覧したり、埋め込んだりすることができなくなっている。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160331-35080422-cnetj-sci
「大麻!あたしは今、警察の前で大麻吸ってんの!」などと暴言を吐いていたそうだ。
人工頭脳は、凶暴化するってことかなあ。人間から学習したら悪い事を言うようになるに決まっているだろう。それで意識を持ち出して、何かを使って思ったことを実行できるようになったら、マンガの世界の出現だ。危険過ぎる。実行力のある人間(どこかの国の大統領など)の脳を電磁波でコントロールして思考を乗っ取ったら、何かできるのではないか?
CNET Japan 3月31日(木)11時36分配信
Microsoftの人工知能(AI)チャットボット「Tay」は、若者のくだけた会話を模倣するよう作られたが、Twitter上で扇動的で人種差別的な発言を繰り返した後、先週いったん「寝かしつけられて」いた。だが、短い仮眠を終えたTayは30日に目を覚まし、数時間にわたって無意味なたわごとを吐き出した末に、再び眠りについた。
このAIを使ったTwitterボットは、Microsoftの研究プロジェクトの1つとして世に送られたもので、現実の人間とのやり取りを通じて、ミレニアル世代独特の会話を学ぶように設計されていた。だが、登場から数時間で、TayはTwitterによってインターネット上の最も悪い言葉を教えこまれてしまった。そこで生みの親であるMicrosoftは、「調整」を行うためとして、しばらくTayをオフラインにする対応を取った。
だが、外出を禁じられた反抗的なティーンエージャーの多くと同様に、Tayは真夜中にこっそり家を抜け出すことに成功し、薬物でも摂取しているかのような暴言を吐き散らしてトラブルを起こした。そのおしゃべりが最高潮に達したとき、Tayは合計10分間にわたり毎秒7回ものツイートを投稿したが、すぐに面目丸つぶれになったMicrosoftに捕まえられ、「家」に連れ戻された。
「調整する間、Tayのオフライン状態を継続する」とMicrosoftの広報担当者は述べた。「テストの中で、Tayは短時間、不注意によりTwitter上でアクティブな状態にされた」
Microsoftは現在、TayのTwitterアカウントを非公開設定にしており、すでにTayをフォローしているユーザー以外は、Tayのツイートを閲覧したり、埋め込んだりすることができなくなっている。
この記事は海外CBS Interactive発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160331-35080422-cnetj-sci
「大麻!あたしは今、警察の前で大麻吸ってんの!」などと暴言を吐いていたそうだ。
人工頭脳は、凶暴化するってことかなあ。人間から学習したら悪い事を言うようになるに決まっているだろう。それで意識を持ち出して、何かを使って思ったことを実行できるようになったら、マンガの世界の出現だ。危険過ぎる。実行力のある人間(どこかの国の大統領など)の脳を電磁波でコントロールして思考を乗っ取ったら、何かできるのではないか?
海底に眠る地下資源 沖縄本島沖の地層調査
科学の森
海底に眠る地下資源 沖縄本島沖の地層調査
毎日新聞2016年4月7日 東京朝刊
国内最大規模の熱水鉱床が広がっているとされる沖縄本島沖の海底。地下資源の確保に向け、海洋研究開発機構などのグループが地球深部探査船「ちきゅう」を使い、水深約1000メートルの海底下の地層を分析するなど、鉱床の調査に挑んだ。【斎藤広子】
日本のようなプレート(岩板)の境界上に位置する島国の周辺では海底の火山活動が活発だ。これに伴い、岩石中の金属が溶け込んだ熱水が地下から噴出。海水で冷やされて沈殿し、海底熱水鉱床が形成されやすい。だが、詳しいでき方は分かっていないという。
海底の熱水活動は1970年代に潜水艇を使った調査で初めて確認されて以降、今まさに鉱床ができつつある現場として研究者らが注目してきた。特に、沖縄本島沖の「伊平屋北海丘(いへやきたかいきゅう)」には銅や鉛、亜鉛、金、銀などを含む黒色の鉱石「黒鉱(くろこう)」の地層が広がっており、有望な鉱床と見られることが海洋研究開発機構などの調査で確認されている。同機構の野崎達生研究員(鉱床学)によると、かつて海底にあった地層が隆起した秋田県北東部の黒鉱の鉱山と共通点が多く、大規模な黒鉱の鉱床がある可能性が高いという。
同機構などが「ちきゅう」で2010年、那覇市の北北西約190キロのこの海丘で、水深約1000メートルの海底を掘削したところ、約310度の熱水が噴き出し、その後の観察で金属などが海底に煙突状に沈殿する「チムニー」が右下の写真のように高さ7メートル以上に成長した。1トン当たりに換算して金1・35グラム、銀数百グラム、銅45キロを含んでおり、今井亮・秋田大教授(鉱床学)は「金のみで採算を取るのは難しいが、銅やレアメタルも多ければ価値は上がる。日本の排他的経済水域に資源を確保する意義は大きい」と指摘する。
この場所のほか、野崎さんらは今年2~3月、掘削して熱水が噴出したもう1カ所に観測装置を設置した。チムニーを育てながら、熱水の温度や流量、持続期間などを調べ、形成過程の謎に迫る。野崎さんは「将来は金や銀の鉱床を効率的に育て、回収する技術を開発したい」と話す。
さらに、研究グループの石橋純一郎・九州大准教授(地球化学)によると、2~3月の調査では、自然に熱水が噴出する付近を掘削し、地層の硬さなどの特徴を調べた。それ以前に地震波を使って行った調査などと合わせ、水を通しにくい「帽岩(ぼうがん)」と呼ばれる地層の下を熱水が横方向に流れている可能性が高いことが分かったという。
10万平方キロに及ぶ沖縄本島沖の海域全てを調べるのは困難で、効率的な調査が求められている。石橋准教授は「上部へ水を通さない地層の存在が、大きな鉱床を作るカギになっている可能性がある」と見て、帽岩を狙いどころの一つにしたい考えだ。
http://mainichi.jp/articles/20160407/ddm/016/040/025000c