<覇道の男→王道の男>天皇陵編(38)京都旅 in 2023初夏 オマケ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。


そんな「制覇の道」・・・天皇陵を中心に皇族の御陵墓をできるだけ回ってみる天皇陵も実施中です。

 

(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)

 

 

 

 

5月14日(日)~16日(火)、京都へ旅してきました。

二日目に嵯峨野を中心に観光してまいりまして・・・

その際に訪れた御陵墓については、ご紹介しました。

 

 
 
 
実は御陵墓以外にも、関連しそうなものを回っていました。
 
境内に三帝陵と呼ばれるところがあり、そこには石塔が建っていました。

看板によりますと、左から亀山天皇(90代)、御嵯峨天皇(88代)、土御門天皇(83代)の石塔のようです。
wikiによりますと、分骨が安置されているそうです。
 
 
土御門天皇・・・後鳥羽天皇の第一皇子です。
承久の乱には関わらなかったもの、父である後鳥羽院が遠流されたため、自ら申し出て土佐国に流され、後に阿波国に移されています。
 
 
後嵯峨天皇・・・土御門天皇の第三皇子です。
承久の乱の時には2歳であり、土御門天皇が流された後は母の叔父や祖母のもとで育ってます。
87代の四条天皇が皇子女のないまま崩御したため、鎌倉幕府の意向により即位。

 

 

亀山天皇・・・後嵯峨天皇の第七皇子です。

兄の後深草天皇の譲位を受けて即位。

即位には父の後嵯峨天皇の意向があったとされる。

後に、後深草上皇と亀山上皇の対立が、両統迭立ゆくゆくは南北朝の対立になっていくわけです。

 

 

 

二尊院の他に、清凉寺というお寺・・・

 

ここの多宝塔・・・

 

ここの裏に、嵯峨天皇壇林皇后(嵯峨天皇の皇后) のお墓(石塔)があったようで・・・

それを見たのですが、写真には撮ってなく・・・

後で調べなおして、知りました。

 

・・・失敗!

 

 

 

 

 

<参拝した歴代天皇陵>
神武(1)、綏靖(2)、安寧(3)、懿徳(4)、孝元(8)、開化(9)、垂仁(11)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)、仁徳(16)、履中(17)、反正(18)、允恭(19)、雄略(21)、清寧(22)、仁賢(24)、継体(26)、安閑(27)、宣化(28)、欽明(29)、天智(38)、天武(40)、持統(41)、文武(42)、孝謙(46)、称徳(48)、桓武(50)、嵯峨(52)、光孝(58)、宇多(59)、醍醐(60)、朱雀(61)、村上(62)、圓融(64)、一条(66)、後朱雀(69)、後冷泉(70)、後三条(71)、白河(72)、堀河(73)、鳥羽(74)、崇徳(75)、近衛(76)、後白河(77)、二条(78)、安徳(81)、仲恭(85)、後堀河(86)、四条(87)、後嵯峨(88)、後深草(89)、亀山(90)、後宇多(91)、伏見(92)、後伏見(93)、後二条(94)、長慶(98)、後亀山(99)、光明(北2)、崇光(北3)、後光厳(北4)、後圓融(北5)、後小松(北6/100)、称光(101)、後土御門(103)、後柏原(104)、後奈良(105)、正親町(106)、後陽成(107)、後水尾(108)、明正(109)、後光明(110)、後西(111)、霊元(112)、東山(113)、中御門(114)、桜町(115)、桃園(116)、後桜町(117)、後桃園(118)、光格(119)、仁孝(120)、孝明(121)、明治(122)、大正(123)、昭和(124)