第二タームの期末試験は色々な意味で終わった。回収された答案用紙が僕に授けるものは単位か、それとも「再履修」という残酷な現実か。現物が手元にない僕に、その結末を正確に知る術はない。しかし成績発表の日が来れば、必ずその二択は学務情報システム上の電子的な文字の羅列として淡々と伝わるのである。成績に関連する資料の修正がもう利かないという点で、実質的には既に決まった結論が未来で僕を待ち受けていると行ってしまっても過言ではなかろう。さながらシュレディンガーの猫(この言葉の正確な用法は分かりません。違ったらこっそり教えてください)。しかし過去は変わらないし、今日からは夢にまで見た夏休みだ。そんなわけで、この2週間で半分死に体と化した漕手兼マネージャー一年の谷村東哉(タニムラ トウヤ)が、滞納していたこのブログをリフレッシュがてらつらつら書いていこうと思う。夜分遅くに恐縮ではあるが、時間のある時にでもお付き合い願いたい。
まずは僕自身の身の上について。出身は新潟県の燕市である一方、紆余曲折を経て北の都こと北海道は札幌に移り住み、人生のほぼ3/4をそこで過ごした。これまで札幌から新潟に出る際には一度別の市町村にある新千歳空港に移動する行程を踏む必要があったが、つい最近札幌市内の丘珠空港から新潟空港への直通便が就航したため、新潟にとってもきっと馴染み深い市町村になっていくことだろう。個人的にも帰省が(依然費用と時間を移動に多くとられるとはいえ)以前より素早くできるのはちょっとした嬉しいポイントである。故郷である燕市には折に触れて帰省していたので語れるトピックは少なくないが、北海道で過ごした時間の方がシンプルに長いので絶対的な話題の数では残念なことに遠く及ばない。ただ所謂「外の世界」のお話は人間関係のつかみとしては有効であるのも事実であるわけで、出身地はどこかと聞かれた際には、「新潟県燕市」と「札幌市」のうち話のネタになりそうな方を名乗ることにしている。昼夜逆転になりがちな自身の生活リズムや上に記した習性を鑑みるに、もしかすると自分の前世は蝙蝠か何かなのかもしれない。
蝙蝠なのはボート部での立場もそうだ。小中高とサッカー一筋の部活人生を歩んできた経歴がありながら、これまでの人生で特に関わることのなかったボート部に、しかも漕手兼マネージャーというどっちつかずの立場としての入部。当面はマネージャーとしての業務をメインに活動することになるとはいえ、慣れないエルゴを漕いでみたり、ひょろがりの体を筋トレでいじめてみたり。傍目から見れば「マネージャー」の定義を疑われても致し方ない。そもそもボート部や艇庫での生活という日常自体が自分にとっては新鮮であるので、「自分にとっての正しい定義を探している」という表現の方がしっくりくるのが現状である。
北海道から新潟に飛行機で向かうとき晴天であれば眼下に見える五稜郭を、戊辰戦争最後の戦いである「箱館戦争」で防衛した榎本武揚は「学びてのち足らざるを知る」という言葉を残している。旧政府軍の幕臣として活躍しただけではなく、特赦ののちに新政府に取り立てられ、「明治最良の官僚」とも称されるほど多岐に渡る功績を残した彼のこの言葉は、漕手やマネージャーなど複数の立場から自分の在り方を模索する今の自分に深く突き刺さる。まだボートやボート部に対する前提知識が殆どない自分では、「部活に何が足りないか」を十分に論じることは難しい。まずは幾つもの立場からの知見を貪欲に学び、少しずつでも「足らざる」に気付けるようになることが、ボート初心者である自分に最初に課せられた試練なのだろう。そう考えるならば、入部後二か月のこの時期限定ではあるとはいえ、蝙蝠も案外意義がある姿なのかもしれない。
数ある部活の中から、なぜ縁もゆかりもなかったボート部を選んだのか。高校来の友人から強く勧誘されたことが直接のきっかけといえばそうなのだが、それでも入部を躊躇しなかった理由が生まれたきっかけとして思い当たる出来事がある。
希望の中に潜んでいた不安が新生活のスタートとともに膨らんでいくなか、エルゴの体験会に勧誘してくれた先輩がいた。一人で歩いていた自分に声をかけやすかったのもあるだろうが、初対面なのに熱意をもってボートを勧めてきてくれるその姿に、なぜだか好感を持てた。練習終わりにご飯に連れて行ってくれた別の先輩は、同じ学部ということもあってかとても親身に話を聞いてくれ、そのときは部活に入るかどうかすら決めていなかった自分の大学生活のアドバイスをしてくれた。自分はとても温かい「初対面の人」の厚意によって支えられているのだと、大学に来て強く実感した。だからこそ、「初対面の人に対してもそうした厚意を向けてくれる人たちが所属する部活なら安心して入部できる」という感覚が心に働いたのは間違いない。
そのとき案内された唐揚げがおいしい定食屋は、今でもたまに利用している。
後期試験を終えて新潟大学からの合格を受け取り、逡巡の末新潟空港行きの飛行機に乗ったとき、3か月後の自分がボート部のマネージャーとして活動していると、微塵でも想像できただろうか。否、想像できるはずもない。この日常は高校時代の自分にとってはあまりにも非日常的で、だからこそ毎日が新たな発見や気付きの連続だ。あの日、眼下の五芒星を眺めながら抱いていた新生活への希望は、決してすべてが理想通りに実現したわけではない。だが、その結果手にした現実は予想を上回る形の驚きや楽しさを自分に見せてくれている。それは、紛れもない事実である。
今後、自分がボート部でどのような活動をするのか、今は分からない。漕手をするかもしれないし、マネージャーを継続するかもしれない。ただ、いずれの道を選ぶにせよ、その道のことを深く学び自身の「足らざる」を常に探し続ける姿勢は、常に大切にしていきたい。きっと、そういう姿勢がどのような立場にあっても多岐にわたる成果を上げるための礎として、少しずつではあっても貢献していくのだろう。
いつか、榎本のような「最良のオールラウンダー」としてこの部活に貢献できるようになるために。新潟大学ボート部での「自分にとっての」日常の模索は、まだ始まったばかりである。