HOODのブログ -8ページ目

終活しなきゃだめなのか。

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感冒熱に浮かされて不吉な妄想が脳裏を巡る日が過ぎた。
風邪薬の作用で夢見は最悪に悪く、無惨な有り様だ。

あまり深く考えない方が良い…いや、どうかな。人生、そんに甘くないだろ。かかりつけ医者に行くと、主治医に『精密検査を考えてくれませんかね…?』と言われて、昨年から一年以上先伸ばしてきた。

今さら、高価なドックや検査に支払う金も面倒だし、もしヤバイ病ならば間に合わない方が面倒がない。

そうだな。不要な書籍や衣服は処分して、まだ体力が残っているうちに友人・知人への形見分けとか済ませておくべきか…使ってきたカメラなどの撮影機材、使い古した舞台用紋付き袴など欲しい人いるかな。

そして、希望としては『散骨』なのだ。どうせ、一族の墓に入ったところで、私には誰も墓参に来ないのは分かりきっている。墓碑を見た親戚の子供達に『このオッサン、誰?』と言われるのがオチだ。

ミスチルの楽曲に『空風の帰り道』という小作品がある。

♪…今日の日が終わる。また必ず会える。『さよなら』は悲しい言葉だけど、僕が言えば愛の言葉……『空風の帰り道』作詞・桜井和寿


『さよなら、また会おう…』こういう別れ、終わり方が良いな。

っか、たかが風邪だからね!

跳び安座…6・羽生結弦

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素人・玄人に関わらず構えというものは共有のものだ。

我々素人は、まず自分の師匠から学ぶ。
師匠との稽古を通じて、身に付けた構えや型を演じてゆくわけだ。稽古で習った姿をいかにトレース出来るかが、まずは出発点でもある。

だが、一方で同じ流派・会派でも構えには様々な考え方があって、『これが答えだ!』という一元論ではない。


舞台写真を撮影していると役者の解釈は、例えば手の表情にも現れる事が解る。

写真一枚目のように表面的には柔らかく握り構え、一見すると力を込めていないように見える型、あるいは小指・薬指に力を配して握り込み(竹刀や刀を持つ構えに似る…)で、いかにも意識も強めであり指の筋も浮く型、どちらも並立した考え方であり、前述と同じく正解はない。


私自身は能には武術の構えと同じ見地がある、と考えているので後者の構えが好きだ。僭越・非礼を覚悟で言えば『美しく見えれば、それが正解』…。

演技・舞台での『美しさ』の一例で考えると、今しがたテレビ番組で羽生結弦のエキシビジョンが流れていた。彼の身体や指先使いまで、全身を通じて神経が行き届いており、実に繊細な表現である。このリリシズムが最大の身上だと見る。『耽美な美意識』の視点では氷上の勝利者であり、答えの表出と言えるかも知れない。一方でリリシズムで修飾された感情が、肉体に必要な瞬発的剛感を奪ってしまう傾向も散見され、ジャンプの際に回転軸が傾くのも気になった。

さて…この『美しさ』という曖昧な答えが肉体表現に必ず包括されるものならば、間違いなく『解答』が用意されて然るべきとも思う。

先は長い…続く。

龍の歯医者…生死の境界性

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久しぶりにテレビアニメを見た。『龍の歯医者』…どうやら話題の作品らしい。

冒頭から数分後、ファンタジー作品の描く叙事詩なのかと思ったのだが、物語が進行するにつれ『…?』 なのだ。

主人公達が経験する様々な死において、そこに伴うリアルな痛みや苦しみがもたらす生死の境界性を物語的に切断する事でよって喪失させて、より単純な仮想空間で体験化させている。人間を描きながらも、生命活動とは隔離した世界での魂が先行した世界観が主題に選ばれているようだ。もし、それが作者の物語として基軸ならば、あまりに平凡な問いではあるが『人間の生命誕生とは如何なるものか?』と思えた。

『生死の境界性』を一つの視点とするならば、似たような印象はアニメ作品『スカイクロラ』にも感じた。しかし、『スカイクロラ』が描く主題は運命の選択を模索する渇望が底辺にあって、生死を選べぬ苦悩もテーマであったように思う。

来週の後編も見たい所ではあるが…さて。
蛇足だが、艦船マニアとしては今一つ。1930年代の水上艦船がモチーフのようであったが、各艦船の様式年代が不統一だったね。簡単に轟沈するシーンも『妄想ゲーム』的なのが残念。
しかし、アメリカ海軍の艦船って、この手のアニメには向かないデザインなのだろうね。あまりに現代的工業製品であってSFには向くけど、シルエットも含めて童話や説話的じゃないんだ。だからさ、アメリカ艦船は『龍の歯医者』には一隻も見当たらないんだね。

やはり現存するドライさも手伝って、戦艦ミズーリなどは謎の宇宙物体に砲撃したり、極悪なロシアスパイに怒りの砲弾を打ち込むのが似合う。