春一番
実は…先週末から酷い発熱で臥せっている。
貰ったのはバレンタインのチョコやプレゼントでもなく、見知らぬ誰かから感染した『大感冒』だった。こういう辛い時は、笑いのネタが欲しいね。
…そう言えば関東・都内は『春一番』が吹いたらしい。この時期、学生時代通っていた大学の最寄り駅近く。駅前地形の関係も手伝って風が強く吹き抜ける。
その風によって某名門女子高生(セーラー服が有名だ)のスカートが、吹き荒れる春一番で巻き上がるのだ。
『きやーーー』
それは毎年の恒例風景であり、言わば歳時記に近いものだ。彼女達の歓声が上がると、『ぁあ…春が近いなぁ… 』としみじみ思ったものだ。
通り掛かりのサラリーマン、交番の警官なども納得顔で春を感じる瞬間だった。
跳び安座…5
先週、撮影仕事先の宝生能楽堂で足袋を買った。能楽堂内に新しい店舗が入っていて、幾つかの商品の中で稽古用足袋が安いのだ。
結局、三足も買ってしまった。舞台の勝負用として使う足袋も含めて、足袋は消耗品である。
実は、学生時代から昨年まで何足も使い潰してきて、それを捨てないで紙袋に保管していた。およそ三十年分の足袋は破れ果てた汚い布の塊にしか過ぎない。
それを引っ越しを機会にして廃棄した。
自分の稽古や様々な思い出と決別する意味もあって、今後は足袋を溜め込む必要はないだろう…と思っていたのだが、また再び破れた古足袋を積み上げるのだろうか。
舞の基本である足の運びによって足袋は損耗する。破れてゆく箇所で、その人の舞癖や運び(運足)の傾向も何となく分かるものだ。踵から破れてゆく人、足の腹付近に大きな穴が開く人もいる。私の場合は一年くらい使うと親指の先が最初に小さく解れてくる。
舞台で使った後、必ずお風呂に持ち込んで古歯ブラシ等で洗う。一説では、足に履いてブラシで洗うと良いらしいのだが、私は手にはめて洗っている。
稽古や舞台が終わって汚れた足袋を洗うのは、どことなく一抹寂しさがある時間帯である。…何の確証もないのだけれど、また使うために備えておく作業だ。そこに、大袈裟に言えば『死装束』めいた気分もあるのだ。
街頭スナップ…2
このシーンは一度ブログに挙げた事がある。
雨上がり、初夏の中野駅前商店街。角の向こうからラテン系美女が歩いてくる。
私は迷わずカメラを向けた。やや遠目だがシャッターをレリーズした。脳裏にトラブルの可能性もかすめたが、撮らずに死ぬなら撮って死のう…そんな気分だった。
撮影する私を一瞥して彼女は横を通りすぎてゆく。互いにすれ違った時、通り雨の匂いと彼女の濃く甘ったるい香りが、街の空気に混じり合って流れ去る…。
このプリントを見る度に、記憶と記録が同時に時間軸に蘇る。このシーンに使ったカメラ機材など記す事は今更に冗長で陳腐ではあるが、ミノルタSRT101前期型改造機・55ミリf1.7、ともに1970年代前後に製造されたカメラとレンズだ。
街頭スナップにおいての撮影機材にデジタルカメラ、フィルムカメラの差はない。コンデジ・スマホからライカに至るまで使う本人の意識は違うだろうが、それだけの自意識幅にしかならない。
問題は町中で人を撮影するリスクであろう。特に私は必ず数枚は正面から撮るのでトラブルに巻き込まれる危険もある。
それでも撮りたいと渇望するシーンがある。これを撮れないと『お前に存在価値はない』と言われているような感覚が走る時がある。
最近、自分と写真の関係を再考察して思い当たった事がある。仕事的に撮影に臨むべきか、あるいは趣味的なのかも含めて考えてみた。
所詮、自分が撮影したい対象を追い、その写真を見せたい人に見せ、写真を持っていて欲しい人に渡したら、私の役目は終わりだ。あとはサヨウナラで良い。無責任な放言とは承知しているが、わたしには写真が趣味でも仕事でもない事に改めて気がついた。
同時に、この答えを出すには早計であることも自明なのだ。
焦る必要もないが、残された時間は少ない。


