能『蘆刈』の話…弐
大和物語を典拠の主軸として謡曲『蘆刈』は作劇されている。
単純に説話を辿るのではなく、夫婦愛や笠尽くしの歌、舞や謡の音楽的手法を取り入れて展開は、能でありながら『芝居』の要素が高い。
謡曲『蘆刈』より。
難波女の(なにわめの…)被く(かづく)袖笠肱笠の。
雨の蘆辺も、乱るるかたを、波彼方へ(あなた…)ざらり。
此方へ(こなた…)ざらり。
ざらりざらり、ざらざらざっと。
風の上げたる古簾。つれづれもなき心おもしろや。
表記だけでは、この章段の風情は伝わらない。言葉と音楽の遊び方が中世からある…ということだ。
サザンやコムロは、別に昭和平成ばかりの才能ぢゃなくて、中世の昔から同じ才能はいたわけだ…。
閑話休題…主人公の蘆売り男がシテであり、『直面』(ひためん、と読む)能楽師が素顔で舞う能の一つである。
能は必ず面を用いる作品構成とは限らない。
『盛久』『鉢木』など武士をあつかった作品や、曽我物と言われる一連の曲群にも直面の能はある。
しかし、能面の力を借りずに素顔で勝負するという事は、ある意味で役者を分ける作品でなのだ…そういう困難さがある。
しかし、顔の造作だけで『直面』が決定しない…それこそが、幾多の名人を輩出した『能』の凄さと言える。
作品世界を演じるリアリズム…言い換えれば『能』の演劇性とは徹底したリアリズムなのだと。
劇展開の中で観客と演者のリアリズムが
同一な世界に変換されてゆく。
我々が能の『直面』に違和感を覚えないのは、そこに理由があると思う。
能『蘆刈』の話…壱
昔々、とある村にあった二軒の家で子供が生まれた。
運定めの神が、『男…笠、鎌一本、女…塩、米倉』と言い残して消える。
この話を聞いた男子の親は、女子の家に話を持ちかけ縁組みをする。やがで、二人は夫婦となり、お告げのとおり家は富を増した。だが、男は妻の運とは思わずに女を家から追い出してしまう。
追い出された妻は、行き着いた先で再び富を得て裕福になったが、元夫は零落して笠売りに身を落としていた。
ある日、その元夫と再会した妻は言葉をかけるが、元夫は驚愕のあまり泡を吹いて死んでしまった。
幾つかに分派した『運定め…蘆刈』説話は以上の話に要約できる。
別れた女は富貴の身となり、男は運を失い貧してゆく。
特に寓話性を感じる展開ではないが『運定め』という主題が、男より女を上位にしているところが興味深い。
大和物語
『君なくてあしかりと思ふにも、いとど難波の住みうき』
大和物語では、この和歌を縁にして、再度結ばれて別離した夫婦は連れだってゆく。
『運定め』の説話は、変遷や修正を加味して、終章は幸福譚となる。
『大和物語』では、和歌を起点とした周辺に当時の時代性や文学感覚が発揮されている…地方の説話が収録され、『都文化』で編集読み物化した結果だと言えよう。
裂け目
だいぶ以前。
とある野球解説者が、『守備は練習を重ねれば上達するし、課題も克服できる。
しかし、打撃は天分の才が占める範囲が大きい…』
結構、選手には残酷な評価だなぁ…と、当時は感じたものだ。
私の周辺ならば、写真の話に関連付けて『仕事』として考えてみる。
デジタル時代の写真は、映像と写真の境界が曖昧になりモニターの中で眺める対象に変わった。
携帯も含めて、サイズ相応に綺麗に写る。綺麗に写す…その
労苦から開放された撮影は、素人でも遜色なく結果を手に出来る。
画像処理のスキルさえ上達すれば、さらにイメージに近い作品になるのだ。
そうして、多くの機材とパソコンに投資して一人の写真家が生まれる…はず、であろうか。
何より、写真及び映像に求められるのは『記号化されぬ対象』…つまり、唯一つの一枚のリアリズムなのだ。
撮影者と被撮影対象が濃密に関連した作品…それが写真映像の完成域である、と思う。
その被撮影対象を見いだして世に送り…問う事が、可能な作品を打ち出せる人が『才能』と呼ぶのだろう。
何を撮影しようと、作品性を問われるのは間違いない。視感のない鮮烈な写真映像を平凡な風景から切り出す事…
それは、ごく少数の才能に与えられた特権なのだ。
軽い痛みに似た挫折も、時には甘美な記憶となる。だが、多くの場合は…その挫折が記憶を断絶する程に激痛となるのだ。


