自然居士と鵺
観阿彌作と伝わる能『自然居士』(自然居士)、その主人公は、人買いから幼い少女を救う若き宗教者であり、例えるならアポロン的使命観に基づく躍動する英雄である。かたや、その観阿彌の子である世阿彌が作者と伝わる能『鵺』は、アポロンとは非対称にして、ディオニュソスに似た運命観を漂わせる異端な存在を描いた名作の一つである。
『鵺』は遺伝子学や生物学的にはキメイラであり、被るものは『永遠に承認されぬ命』であった…平家物語原作では、単なる『頼政の鵺退治』談が典拠として選択されたが、能として作品化された過程において先行する古典作品群…私見では『古事記』に描かれた最初の子(ヒルコ)の悲劇を連想せずにはおれない。
女性が誘いをかけて生まれた…それだけで奇形となり捨てられる(ヒルコ)は、けっして人とは認識されず人にはなれない命である。キメイラとして世に見放された『鵺』とは、いわば相似をなすと思う。
中世の同時期に成立したと考えられる二つの作品を眺めると、古来から日本人の文藝指向には多様な意匠が存在して、両立してきたのが理解できる。
ゆえに、能作品が単純な娯楽として成立しない理由の一つに、古典芸能としては今なおも、鋭い前衛思想の位置にあるからだ…と思ったりするのだ。
元師匠
明日は興福寺勧進能
1部『自然居士』(じねんこじ)
2部『鵺』
1、2部ともにシテ浅見真州
国立能楽堂
浅見真州師は、私が学生時代に一年間だけ、お世話頂いた元師匠でした。
能を撮影する道を選んだ契機も、ここから始まっていたと思います。
真州師曰く『能は美しく見せるものだ…力が入っているように構えたり、動いたりしては駄目だ…体の奥に力を込めて、お囃子と謡いに乗るんだ。そう、美しく舞うものだ…』
元師匠から、能という世界を根拠にした明確な理屈と実践で、たいていは叱られながら稽古を重ねたのが、私の人生で財産でした。
それから数十年経過した現在…ところが、私は心の中で快哉を叫ぶほどには、元師匠を撮影で捉えきれていません。
舞台の動きに、微妙に私が遅れてしまうようです。
『間合い』…舞い手の身体意識に飛び込んでゆく撮影が、私の目指す能楽写真であり目標とすれば、私は元師匠に、明らかな遅れをとっている…そういう事なのかな。
能の型や舞姿などの『間合い』は、剣術の一瞬の打ち込みに似て、明らかな差を有するので、逃してしまうと取り戻せない。
今日から明日は精進して頑張らないと…。



