シェイクスピア
シェイクスピアは1600年代の英国の劇作家である。
日本は慶長年間で、戦国時代が終わりを告げて本格的な近世へと様変わりする世相であった。
その頃、能楽は江戸幕府により武家式楽として、編纂を整えてゆく時代に入っていた。装束や面、演出なども含めて、現代の我々が見る能は、江戸時代に統一された舞台を明治以降の近現代文学の解釈…その眼鏡で眺めているにすぎない。
同時期に、英国と我が国の演劇シーンに共通の因子や交流があったとは考えにくい。だが、人々の意識の波動は見事に一致していると思える。
なにより商業演劇として舞台を固定化して演ずる…という視点のみで眺めても、近世の波は東西に寄せた証しである。
能楽が屋敷や城内に能舞台を建て、歌舞伎が小屋を構える。
シェイクスピアのグローブ座がロンドンで公演を始める。
江戸幕府の崩壊で、能楽は壊滅の危機に瀕し、また歌舞伎は幕府の取り締まりを受け座が役者が罪人として処罰される… シェイクスピアのグローブ座は清教徒革命で姿を消した…。
時代の政治権力は全て歴史の波に消えた が、能や歌舞伎、シェイクスピア作品は演劇史に輝き、現在も上演されているのだ。
『時代の流れには逆らえない…』と安易に使われる言葉だが、文藝作品の凄みとして『時代の流れ』を乗り越えてゆく能力がある、という事だ。
時の世相や大衆風俗を作品へ映しながら、実は遠い先の将来に生きる人々へ、問いかける言葉がある…それが古典文学の叡智なのだと思ふ。
盲亀の浮木
能『鵺』前場。
前シテ鵺亡霊の言葉に(能ではサシ謡と称する)…。
…悲しきかなや身は籠鳥(ろうちょう)、心を知れば盲亀の浮木、ただ闇中に埋木の、さらば埋れも果てずして、亡心何に残るらん……。
サシ謡、一文を紹介した。
この鵺が独白する迷い、人に知られず消え去る命の境涯を『盲亀や埋もれ木』に例えながら、さらに『さらば埋もれも果てずして…』と首枷を二重に回すような表現で描写される。
古典芸能である能が、現代においても人間や生命への問いかける力を失わないのは、『鵺』などの曲群を有するからだ、と私は思う。
『鵺』は曲構造としては、修羅能を応用した編成と修辞によって作成されているが、内容は修羅能を越えて人の心…深奥に迫る能なのだ。
暗い話が良い…という事ではない。人の心には、問うて答えられない懊悩が潜むものだ。その吐露不可能な心象を『籠鳥、盲亀の浮木、埋れ木』などに仮託し、さらに『埋もれ果てずして』…なのである。
私見ながら、私は学生時代から能『鵺』が大好きで、仕舞で習った時には『この曲が舞えなくなったら…もう稽古を止めよう』と思った程。
能の曲は、華やかに幽玄という花に満ちた世界ばかりではない…いや、むしろ…『鵺』も含めて能の花、幽玄なのだ…と言いたい。
中世時代にあって、すでに日本人の文藝は人間回帰を果たしていた証明であると思う。
機会があれば、是非能『鵺』をご覧下さい。


