HOODのブログ -49ページ目

浮遊


実家に戻り、田舎暮らしである。介護をしながら、たまに能楽の事を思い出す。

もはや、以前のように舞台撮影は不可能であり、また気持ちも諸事事情から稽古への熱意も果たしようがない。

心身ともに能から離れてしまったように思う。その意味では精神的には『痩男』である。

それも人生の区切りではある。いつかは人は去って行く。私から去る場合もある。
執心がないと言えば嘘だが、生きようとすれば執心を捨てるのが一番だろう。

舞えと言われたら舞ってしまうだろうし、謡えと言われたら素直に謡ってしまうだろう。

撮影をすれば舞台を追うだろうが、今は生きる上で執着に他ならず辛いのだ。
生きて行くという選択を取るならば仕方がない。

しかし、生きて行くのが面倒な私に執着を捨てられるのか。


痩男…二


痩男の項、崇徳上皇を主人公に扱った能楽作品があれば…と書いたら、さっそくブログ友より知らせがあって、金剛流に『松山天狗』がある事を思い出した。

しかも、この曲は金剛流定番曲ばかりでなく観世流でも試演されていて、学生時代に私は両方とも見ていたはず…であったが、忘却に任せて失念の態である。


『松山天狗』讃岐松山の崇徳陵墓を西行が訪ねる。夜、西行が陵墓にて通夜をしていると、怨霊と化した崇徳上皇が現れ、邪悪な天狗達を集め復讐を命じ、その有り様のうちに夜が開ける。

この物語は、西行・山家集の一句『よしや君、昔の玉の床とても、かからんのちは、何かはせん』を上皇に手向ける事で展開してゆく。

後には上田秋成『雨月物語・白峰』の巻にも描かれて能楽作品的な構成の一巻となっている。


しかし…舞台作品として仕上げると、怨霊と化して国家と民衆を呪う魔王崇徳の裏側が、単純に物語として結末を迎えてしまい、稀代の癒されぬ怨霊と化した崇徳上皇の存在に迫っては来ない。

そこで、この痩男の面である(ようやく、主題に入る)…生命への執着、腐臭すら漂わせながら生きようとする抵抗感覚。このリアルに過ぎる面には、そういう主人公が似合う…私の脳裏に『崇徳上皇』が浮かんだわけだが、もちろん『松山天狗』に沿った面ではあるまい。

単に古典としてではなく現代劇の能面として、この面が生きて行く道があればな…と想像してみた次第。

痩男


日曜、小仕事で上京。半月ぶりの都内。違和感なく歩いていたが、帰路に着くなり疲労が襲ってきた。

やはり年には勝てないな。

写真は『痩男』系の能面、かなりリアルな表情の作品。憔悴した中に生への執念が感じられる。亡霊より生霊に思える。

男性の生霊が現れる能って、そんな作品があったかな。『通小町』や『善知鳥』も死霊。あえて『船弁慶』の後シテあたりに使ったら凄みがあるかも知れないけど、趣としては『船橋』か。


崇徳上皇を主人公にした能があれば、一番似合う…いや、戦前ならば、この発言だけで不敬であった。