能へのアプローチ…弐
能を楽しむ…見れば解る、と言い切るほど簡単ではない。
かっては、娯楽の一つであった能楽は時代の変遷において生き残った結果として、演劇の中では文藝性を色濃く有する道を歩んだ。
この文藝性とは、知識を高踏化した解釈をもって理解出来るという事だろう。
では、どうやって古語にも馴染みが薄い現代人が能を理解可能なのか。
そのアプローチとして、実技を知ってみる…身体理解を通じて能楽を学ぶ事が一つあるばずだ。
それは素人弟子として能楽師に習う旧来の方法ではなく、むしろ能楽師が自分の演じる能について、ワークショップなどを通じて技法を公開してゆく方法である。
たとえば、昨日上演された能『石橋』に関して一般向け、学生向けに講座を主催して、実際に参加者に少しだけ謡ってもらう、あるいは舞ってみて体感させる。
その実体験を知って観賞する能は、単に本を開いてパンフ案内の梗概で眺める能とは違う結果となるはずだ。
そこに、身体を通じた理解が生まれると思う。
そこから趣味として実技に興味を持ち素人弟子に入る人もいれば、あるいは若い学生の中から、能楽の世界へ飛躍的な向学心によって、この分野での人材育成も期待されるのだ。
能『石橋』打てや囃せや…弐。
言葉足らずで申し訳ないのだが、能『石橋』には以下の詞章がある。
…牡丹の英(はなぶさ)、匂い充ち満ち大筋力(だいきんりきん)乃獅子頭…。
この『大筋力』という言葉は謡曲集などは(甚だ強い力…)等に解されて、実は永らく意味不明の詞章であった。
ところが、臨済宗柴山全慶師著『越後獅子禅話』春秋社刊によれば…。
抜粋
…これは『体金離金』と書かなければならないと存じます。
…中略…華厳哲学に関する『十住玄義』という書物に出てくる『金獅子のたとえ』から来ているのであります…。
以下は、かなり哲学的な表現となる
柴山師の解説によれば、『いっさいの妄執を払って、この世を自由無碍に生きる見事な境地を、獅子王の威神力にたとえ、『体金離金の獅子頭、打てや囃せや牡丹芳』と形容したもの…と釈される。
平たく言えば、物事を形や現象にとらわれず『体金』を実質としてとらえ、さらに、そこから離れて本質を見る生き方『離金』という道理らしいのだ。
かなり示唆のある文言である。
以上。
この資料は私が学生時代に調査して、ゼミ内で公開したもので、この資料に関しては担当教授より『お前にしては良く調べた…』と評価を戴いたが、…残念ながら全体の論文に仕上げる事がないまま現在に至る。
私の人生にて自ら機会を閉じた…ただ忸怩たる気持ち一杯である。
しかし、これもまた『体金離金』の言葉に従い、失った自らの人生と青春を今は瞑すべきものとして、新たに踏み出してゆきたい。


