天地の鏡
能『野守』作り物(塚)
鏡を使う、あるいは見るというのは人間だけで、神や鬼、霊体の類は鏡を見ることはない…人が鏡を見るのは、自分の姿ばかりではなく、その心を写しているのだと云う。
今日、撮影に伺った能『野守』には(じょうはりの鏡)という大切な主題を担う道具が出てくる。
この世の全て、天から地獄までの有様を、その万象に映し出す鏡と考えられている…そんな鏡だ。
では…その鏡って何か、もう一度考えてみた。
観世流謡本等を見ると、『それは鬼神の鏡なれば如何にして見すべき…』と、鬼神の扱う鏡と称してはいるが、詞章の全体の含みとしては、より宇宙的な広がりを感じさせたりする。
それは、鏡に天界から地獄まで映し出す無限大な空間を描く力…例えるならば鏡自体がブラックホールみたいに、向こう側ある数値や質量が最大値という重さを、野守の鏡は与えられた存在感ではないのかな…。
そういう意味では能『野守』は若々しさより、老体的な重厚さが似合う曲なのかも知れない。
面影を心に。
喜多六平太記念能楽堂
おはようごさいます。
昨日、観世流シテ方若松健史師が亡くなりました。
ほんの三日前、私が撮影に伺った日曜日、安藤貴康師主催の披露能『石橋』にて若松師が舞われた仕舞邯鄲は素晴らしい舞姿と気迫でした。
老いてもなお芯のある型の処理、無駄な演出を排した誠実な仕舞でした。
なにより、能を愛していた役者の面影が、舞台に月明かり似た世界を再現していました。
その瞬間に居合わせた事だけでも、私は撮影者として深く感謝しなければなりません。
どんな時も気を抜かず、命がけで能撮影に尽くしてゆこうと、少しでも忠実であろうと思います。
撮影した舞台報告は原則書かない私ですが、亡くなられた若松師への感謝を心から申し上げます。
本当にありがとうございました。



