髪
これは、まったくの私事だが…。
髪の伸ばして二年近くになる。ついに肩は過ぎ、あとは下へ、下へと伸ばすままだ。
そんな風呂上がり。髪を洗いながら、ふと思うのだ。
髪を洗う楽しみ、快感めいた感覚が女性の風呂タイムには、密かにあるのではないか…と。
泡立つ髪が指をすり抜ける感触は、他にはない滑らかな手触りでもある。
長く伸びやかな髪とは、いわば言上げしない自己愛的な心象かも知れぬ。
また、一方で洗い髪の扱いにくさ(抜け落ちた髪を処理)という手間と面倒さも再認識した。
とにかく長い髪が浴槽やリビングに落ちているとは、何やら不気味で正直汚い。
だからこそ、女性にとって、こんな手間をかけてまで伸ばし続けた髪へ愛しさがない…とは、とうてい思えない。
しかし、我々男性の場合、通常は短髪である。
ゆえに、髪を洗う楽しみや手間は、あまり認識しない。男性が髪を認識するのは(薄くなる生え際)だけだ。
長く伸ばした髪は男女を問わず、その本人自身の一つのフェチの表現だと思う。
長い髪の女性が好きだ…という男性は世間的には多い。
しかし、思いも寄らぬ手間と費用が、その髪には必要である事も、また知識として持っていた方が理解しやすくなるに違いないのだ。
災いは試練とは違う
荒れ狂う台風が首都圏を、ひとまず通過した…と安心したら、今度は割に強めの地震がきて慌ててテレビを見た。
いつまでも、何故か…終わりのない災いが続く。
もし、今が平安時代ならば、おそらく帝…天皇と元号が変わり、藤原摂関家による巨大大仏が京都のいずれかに勧請建立されるはずだ。
もちろん都では、不穏な放火で門が焼け落ち、各地方豪族が乱を企てる。
野武士が徒党を組み、歌人やググツ芸人までが御所に出入りを始める。
意外と、今でもあまり大差はない
都や地方に集まる憂国の武士や貴族が、時の帝を擁立して政府転覆を図る。
彼らは『無能な側近政治を廃せ!』と、…おめきさけびて 都へ押し寄せる。
しかし、私のように埋もれ果てた民草においては、いずれの時代、いかような政治政権下にあっても大して恩恵などないのだ。(究極のポピュリズム政治とは、国民がシニカルに社会参加から離脱する事に違いない)
せいぜい、時の政権や首脳の批判して溜飲を下すのみか。
さりながら…である。
健全な社会とは、しょせんは『エゴイズム』という個人レベルの単位を、人々がどこまでの拡大を許容し発展してゆくのか…という事に過ぎない。
人は幾多の矛盾を抱えながら分かれてゆく。しかし、その幾多の自由と矛盾を尊重する事が、安らかな百年先の未来を保証する術であってほしい。
生きて行く事の答え『命題の真理』は、決して一つではないと思うのだ。
お詫び「摩利と新吾」訂正
一部訂正。「摩利と新吾」は「花とゆめ」ではなく「LaLa」に掲載されていた作品とある。
(後ほど訂正しておきます)
文庫で読んでいたので連載誌は未見であった。
せっかく訂正入れたのだから、この作品周辺に触れる。
『恋している相手に、その自分の気持ちを知られてしまう…』
果たして、それが「正しい恋愛の姿」と言えるのか。
このテーマをとらえるために、作者は男性同士の恋愛心理を描いた。そこに男女の恋愛も、究極には同一の視点に至るのだという道筋を説いている。
だが、本作品に描かれたように、恋は問わず語らず…今風に言えば「告る」事をせず、恋いゆえに『しのぶ』という結論とは、ふつうに実行可能なりや…?
しかし、『摩利と新吾』読後感として、私が多少は恋愛を自省的に眺める一助になったのは確かだ。
だが……この話を、もう少し補足して展開したいのだが、今夜はやめておく。
ちょいと肉体的疲労あり…。


