災いは試練とは違う | HOODのブログ

災いは試練とは違う

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荒れ狂う台風が首都圏を、ひとまず通過した…と安心したら、今度は割に強めの地震がきて慌ててテレビを見た。

いつまでも、何故か…終わりのない災いが続く。

もし、今が平安時代ならば、おそらく帝…天皇と元号が変わり、藤原摂関家による巨大大仏が京都のいずれかに勧請建立されるはずだ。

もちろん都では、不穏な放火で門が焼け落ち、各地方豪族が乱を企てる。

野武士が徒党を組み、歌人やググツ芸人までが御所に出入りを始める。


意外と、今でもあまり大差はない


都や地方に集まる憂国の武士や貴族が、時の帝を擁立して政府転覆を図る。
彼らは『無能な側近政治を廃せ!』と、…おめきさけびて 都へ押し寄せる。


しかし、私のように埋もれ果てた民草においては、いずれの時代、いかような政治政権下にあっても大して恩恵などないのだ。(究極のポピュリズム政治とは、国民がシニカルに社会参加から離脱する事に違いない)
せいぜい、時の政権や首脳の批判して溜飲を下すのみか。

さりながら…である。

健全な社会とは、しょせんは『エゴイズム』という個人レベルの単位を、人々がどこまでの拡大を許容し発展してゆくのか…という事に過ぎない。
人は幾多の矛盾を抱えながら分かれてゆく。しかし、その幾多の自由と矛盾を尊重する事が、安らかな百年先の未来を保証する術であってほしい。
生きて行く事の答え『命題の真理』は、決して一つではないと思うのだ。