背中の伴侶
ぼろアパートと実家、仕事など往復する日が続いている。
必要に迫られて重量過多の機材を抱えて出かける度、肩や腰の不自由さに加えて今度は…背中が痛くなってきた。
ところで、先日の事だ。実家付近を散歩中に気が付いた事がある。
道すがらの草むらで殿様バッタをみかけるのだが、普通は草色と茶色の混色迷彩柄なのに、どうやら今年の殿様バッタモードは羽、体ともにカーキ色らしい。
『飛蝗』と呼ぶのか。
夥しいバッタが農作物を荒らす現象がある。その時はバッタは草色から茶色へと変化する…と言われている。
写メは、殿様バッタ(あるいはクルマバッタかも…)のツガイ。下の大きな方が雌、上に乗ってしがみついているのは雄である。
子供の頃はオンブバッタなど捕まえてはツガイの二匹を引き裂いて、虫ながらも大切な縁を壊していたのだな…と思うと可哀想な事をしたが(残酷な遊びも子供の修行ではある)
なるほど、今年は二匹とも見事なくらい茶色である。しかも、他種のバッタ達も今年は茶色が多いのだ。
気候の影響があるとも言われている。さらに今冬も異常気象となる予兆か…と危惧をしてみる。
私の記憶違いがなければ、旧約聖書ヨハネ黙示録に『鋼鉄のバッタ』が出てくるはずだ。バッタ特有の鎧めいた風貌や堅い顎など不気味な表現だったな…と、ふとツガイの二匹を見ながら思い浮かべた。
閑話休題。
しかし、雌にしがみついてオンブされる雄バッタ、そりゃあ生涯必死の毎日だ。これから、どこへ行くのだろう。
我々人間も含めて、生きることは健気でもあり、また哀れでもある。
重たそうに雄を背負って草むらに消えてゆく姿へ、『とにかく頑張れ…』と念じずにはいられなかった。
変わらぬ風景
先日、所用で渋谷宮益坂方面に出た。
普段は道玄坂方面はがりなので、ハチ公口を利用している。
私の渋谷駅付近の印象は、109横から東急文化村より松濤へ向かう以外、ほとんど歩いた事がない。
こうして地上を走る銀座線を宮益坂から眺めて見ると、地下鉄のアーチが戦前の昭和風なデザインである事を改めて知った。
雨の印象もあるだろうが、少しばかり日本ではない外国の街を歩いている気分になった。
とは言え、所用が済んだら足早に立ち去るしかない街であるのも確かだ。
渋谷にも、良い居酒屋もあるのだろうが、私は縁が薄い。
私にとって渋谷はただ一つ。
震災当日、渋谷で地震に遭遇した事だ。
あの夜。黙々と歩く人の列、店頭のテレビを食い入るように見つめる人々、誰もが自然の脅威を実感し噛みしめながらも、不安に駆られての騒動もなく、渋谷の街は静かだった。
大事を前にして静寂を守る事は、日本人が歴史から身につけてきた精神の一つだ。
明日から大変な日々が始まるだろう。
人々は、その予感に耐えていたのかも知れない。
子孫に残した言葉
写メは能面『増』江戸中期作成。
曾祖父池野伝吉が日本国内で本土決戦への覚悟を認めていた頃、ちょうど私の母は祖父の仕事で台湾にいた。
次は沖縄か台湾に米軍が来る噂が流れていた…ある日。
祖父は、当時小学生であった母を縁側に座らせて、庭に竹を数本立てて真剣の試し斬りを始めた。
見事な腕前で竹を次々に斬り割いてゆく祖父。そして母に言った言葉。
『台湾に米軍が来たら俺は戦う。しかし、その前に長女であるお前の首を最初に斬る。後に続くお母さんや妹弟が泣き出さないよう姉として自決の手本となるべく覚悟を決めておくように…』
祖父は斬った竹を片づけながら、平然と母に命じたそうな。
家族の死を覚悟する時代とは、まさに人としての規範が『狂気』を大前提として機能していた…父親が最初に娘を斬る覚悟とは、やはり異常な精神状態と言える。
そして終戦。
終戦となり、曾祖父池野伝吉が玉音放送の後、家族達に言った言葉がある。
『戦争に負けて良かったな』
この言葉に対しては、60年以上経過した現在でも親戚同士で話が出ると意見が真っ二つに分かれ激論となる。
しかし、一人の先達として池野伝吉を眺めると、この言葉の裏側には、戦いの塵灰にまみれても国の文化や人々の生命が生き残った喜びを実感している曾祖父を感じるのだ。
状況から判断された見解より、幾多の見識と方法論を重視した結果が導いた言葉であったと私は思う。


